「伯爵と平凡な娘」

ガラ・コンサートとある愛のかたち

前日譚
「コーリング・ユー」

伯爵は時に気まぐれを起こす。
その日は街のバーに飲みに行き、迎えも頼まず、街をふらふらとさ迷っていた。
久しぶりの散歩である。
季節は夏だったか秋だったか。
ともかく、夜だというのに街の通りにはそれなりに人がいて、彼は“人とすれ違う”という久々の状況を心の底から楽しんでいた。すれ違うカップルに意味もなく挨拶をし、タクシーを止められない女性がいたら代わりに止めてやる。そんなことをやりながら、彼がたどり着いたのは、普段なら彼が最も行く必要のない場所であった。
それは教会である。
伯爵は神に仇名す者ども(アンチ・キリスト)の象徴の一つともいえる吸血鬼という存在である。だから彼にとって世界中に点在する神の家こと十字架を掲げる教会こそ、世界で最も行く必要のない場所なのだ。
しかし一方で彼は教会に入ったからといってどこぞの映画のように突然灰になって死んでしまうとか、ひきつけを起して倒れてしまうということはない。なぜなら彼は、教会の奉ずる唯一なる神の管轄外に生きる存在だからだ。神の管轄外に生きるものが、どうしてその威光に打ちのめされるというのだろう。
そしてさらに、ついでに言えば、彼は自ら進んで「私はアンチ・キリストです」と言ったこともなければ看板も出したことはない。彼の教会に対するスタンスを一言でいえば、
――君子危うきに近寄らず。
と言ったところである。
なぜなら彼に教会に害を与える気がなくとも、“教会に属する人々”にとって彼は“神に従わぬ仇敵”だからである。かつのて教会の人々は、人畜無害に静かに暮らしていた彼を闇から引きずり出し、消滅させようと試みたものだ。そんな時代では伯爵も否応なしに反撃せざるををえなかったが、グローバル化が進み宗教も思想も種々雑多に入り乱れる現代では彼が――やむなく必要に迫られて――教会に属する人々を害したり、攻撃することはもはやない。しかし自身がかつてほど力を持たぬ存在になったとはいえ教会にとって、彼は未だに“神に反抗する者”であった。
だからこその未だに「危うきに近寄らず」なのである。無益な戦いは努力を惜しまず避けるべきだし、実際ここ数百年は避けることができていた。
だからそれまで足が向くままに歩いていた伯爵は、視界に小さいが異様に存在感のあるその建物が入ってきたとき、思わず足を止めて、もう少しで踵を返すところだった。
しかし――
「妙だなぁ」
彼は一言そう言って、踵を返すのをやめた。
そして、彼は顎に手をやりながらもう一度教会を見た。
礼拝堂の扉から灯りがもれている。
彼は腕時計を見やった。時計の針は10時過ぎを示していた。24時間表記にすれば、今は22時過ぎということになる。早寝早起きの規律正しい生活をモットーとする教会に、この時間まで灯りがついているのは珍しい。もちろんこの時間に礼拝などあり得ない。
伯爵は、好奇心に駆られて――それでも十分に用心深い足取りで――教会へと近づいていった。



扉は拍子抜けするほど簡単に開いた。
伯爵は背中側で腕を組み、一歩教会へと踏み込んだ。
通路の左右の備え付けのベンチに、やはり人の姿はない。
だが、通路のまっすぐ先――祭壇の前に一つだけ姿があった。
それは大人と呼ぶには頼りなく、子どもとするにはいささか大き過ぎる背中だった。
少年と青年のはざま――そう称するのがふさわしい人物がこちらに背を向け、祭壇の前に膝をつき、一心に祈っている。
伯爵はしばし、その姿を黙って眺めていた。時折腕の時計に目を落としながら。
5分。10分。時計の針は無心に動き続けた。
祈る彼は一向にそれを辞める気配がない。
伯爵は一つため息をついて、彼に近づいていった。
そして、気配を殺して屈みこむ。
「先ほどから熱心に祈っているが、君、勝手に入ったのかね」
自分のことは棚にあげて、伯爵はひどく低い声で彼の肩あたりから声をかけた。
するとどうだろう、まだ少年の部類に入れられるであろう彼は飛びあがらんばかりに驚いて、素っ頓狂な声を上げた。それからまたぎょっとしたように、声を出した喉を押さえる。
混乱が収まった後――伯爵はその間、また腕を背中側で組んで待っていた――、“大きな少年”は口を開いた。
「あの、牧師さまには許可をいただきました」
そう言った後、少年は顔をしかめて喉を撫で、ぎゅっと唇を引き結んだ。
伯爵は片手を背中から顎に移動させる。
――ふむ。
伯爵は少年の異様に喉を気にしている様子と喉につかえた様な声とその声に不満そうな表情から、彼が思春期まっさかりであろうことに気づいた。それらは変声期を迎えた少年の声と仕草なのだ。
「それならいいが」
またしても自分のことは棚にあげてそう言った伯爵は、手近なベンチに腰かけた。
少年の方は、祭壇の前に突っ立っているままだ。
――はて、このほろ酔い気味の紳士、どこから現れた?
少年は全身からそんな疑問を発していた。伯爵は苦笑する。
そして伯爵は、少年の背後の少し上に目をやった。
十字架。
奇蹟を描いたステンドグラス。
淡い色の人工の明かりに照らされて、少し不気味にも、美しくも感じられる。
それらを存分に眺めると、伯爵は少年に視線を戻した。
「失礼かもしれんが、こんな時間に祈っているということは、ご家族に何かあったのかな?」
伯爵が労わるような声で聞くと、少年は顔を真っ赤に染めた。
それから、彼は一つ唾を飲み込んで、喉をさすりながら答えた。
「い、いえ。そんなに大したことじゃ……ないんです」
彼は最後に咳払いをした。
「喉の調子が良くないのだね」
伯爵がそう言うと、少年は唇を引き結んだ。
伯爵はふむ、と言う。それからまじまじと少年の顔を見つめ、今度は「ああ!」と声を上げた。
「君の顔、どうも見たことがあるぞと思っていたら……少年合唱団の子ではないか」
すると、少年はぎょっとしたような顔をした後、
「はい……そうです」
と言った。伯爵はにっこりとして言葉を続ける。
「そうだそうだ、思いだしたぞ。たしかいつだかの発表会でソロをやっていたのは君だね」
「はい……そうです」
「あれは素晴らしかったぞ!いやいや久々に天上の声を聞いたかと思った」
伯爵がそう言って、5秒後。少年の瞳から突然大粒の涙がぼろぼろとこぼれ出した。
その様子に、さすがの伯爵も咄嗟に動けなかった。ぽかん、と口を開けて少年を眺めた後、ズボンのポケットをさぐってハンカチを出す。そして少年をそれに渡しながら、
「……、ちょっと座りたまえよ」
と言って自分の傍らを示した。少年はひとしきりハンカチで顔を拭い、しゃくりあげる自分の声をなんとか抑え込んだ後、へたり込むように伯爵の隣に腰を下ろした。
「……」
「……」
伯爵は少年が落ち着くまで様子を見ることにしたらしく、床にしっかり足を置くと、足の間で手を組んだ。
数分後。
「あの……すみませんでした」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながらも、涙をおさめた少年はそう言った。
伯爵はやや戸惑いながら、会話の糸口を探した。
「……君、いくつだね」
「14です」
「そうか」
――その歳にしてはなかなか純情……、いやいや。
伯爵は少年に対していいかけた“失礼な言葉”――その年ごろの男の子は大概は可愛いとか純情という表現を嫌うものなのだ――を飲み込むと、また会話の糸口を探した。
「14か。しかしもう夜も10時を過ぎたぞ。男とはいえ、家に帰った方がいいんじゃないか」
「……なんだか眠れなくて」
「……それで祈りに?」
「……はい」
伯爵はふむ、と顎を撫でた。
「恋の悩みか?それで眠れない?」
その年ごろの少年にはよくあることだ。片恋の相手を思い浮かべて眠れない――もしくは別のだれか。
伯爵はそれらを思い浮かべながら訪ねた。だが少年は首を横に振った。
「僕……声変わりになったんです」
「ほう」
少年は喉に引っ掛かってるような、風邪が治った直後のような声でそう言った。
「そうか。14だものな。昔より子どもの声変わりが早くなっているが、良かったではないか。大人への道を一歩踏み出したんだから」
伯爵が何気ない口調でそう言うと、少年はハンカチを握りしめてやおら立ち上がった。
「良くないです!!!」
そして、大きな声を出した。やや枯れたようにも聞こえるそのどなり声に、一番ぎょっとしたのは伯爵ではなく少年自身だった。彼は労わるように喉に手をやって、へなへなと再びベンチに座りこんだ。
「……察するに」
伯爵はうなだれる少年を優しく眺めながら言った。
「その声変わりが君を悩ませているようだな。一体何が悩みなんだ?大人になるのがいやなのか?」
――昔は、早く大人になりたい人間が多かったものだが。
伯爵がそう思いながら聞くと、少年はようやっとという感じでしゃべりだした。
「大人になるのは、いやじゃありません。ただ、声が変わるのが嫌なんです。
――今日、合唱団の先生にそろそろ退団の時期だと言われたんです」
少年の声は、さながら蛹が羽化する直前の蠢きのような不安定さを帯びた、ざらりとしたものだった。
彼が属する少年合唱団は、文字通り声変わり前の少年だけで構成される合唱団だ。
女性の者とは異なる、ソプラノとアルト。それは特別な時期の少年しか許されない、妙なる調べ。
だがその特別な時期はやがて必ず終わりを迎える。
終わりを迎え、調べを奏でることができなくなった少年たちには去ることしか許されない。
この少年も、その時期を迎えたのだ。
――それだけのことだ。
伯爵は冷徹に少年を見下ろしていた。
「声が変わるのことの、具体的に何が嫌なんだい?」
だが伯爵は優しい声で、少年にそう聞いた。少年は喉を気遣うかのようなひそめた声で答える。
「発声が変わって、うまく歌えなくなった先輩たちを何人も見ました。
僕はそうなるのが嫌です。変なガラガラ声になってしまうのも怖いです。
僕はずっと歌っていきたい――歌を仕事にしたいんです」
「成程。」
伯爵は脚を組み、腕を組んだ。
「それで祈っていたのか。喉と声が無事であるように?」
「――はい。こればかりは、練習でどうにもならないから……」
それと、あまり大声を出さないようにすること。
それが少年の心がけていることだ、と伯爵は思った。
「僕は、」
少年は静かに言葉を継いだ。
「僕はこの自分のソプラノが、誇りです。ソロでみんなが立ち上がって拍手をしてくれた時は本当にうれしかった。
そして自分の声変わりは、ないと思ってました。みんな僕より早くに声変わりの時期になったけど、僕は違った。声も高いまま。変わったとしても、そんなに劇的じゃなくて、自分でもわからないくらい穏やかに、少ししか低くならないんだと思ってました。
……でも違った。声は喉に突っかかるし、うまく歌えなくなった。この声のままで声変わりの時期が終わったらどうしよう、と……」
「思うと、夜も眠れなかったと」
伯爵が後を引き継ぐと、少年は「はい」と答えた。
そう、少年は声が必要以上に低くなり、歌えなくなることを恐れて神に祈っていたのだ。
――僕の声を奪わないでください、と。
伯爵は少年の素直な返事に微苦笑して、
「君は、ちょっとその歳にしては純粋というか、純情というか――いやいやすれてるよりもずっといいがね」
と言った。すると少年は真っ赤になった。
「歌が好きなのか」
「はい」
「他の音楽では、だめなのかな。すぐれたボーイ・ソプラノだった者が、後に偉大な作曲家になった例もあるぞ。君の前に、意外に道はたくさんあるかもしれんよ」
「いいえ、歌っていきたいんです。ずっと、ずっと。歌がいいんです」
少年の声は、強い意志に満ちていた。
伯爵はため息をついた。
「では声が落ち着くまで待つしかないな――そこからでも遅くない。
こう言っては失礼だが――歌以外の音楽の勉強はしているかい?」
「ピアノを、少し」
「ではそれも続けなさい。
厳しいようだが、将来声が落ち着いたからと言って歌一本で食べていける者はほんの一握りなのだ。それならばなるべく、好きなこと、得意なことをたくさん作っておくに限るよ。
歌以外にも、好きな音楽を作りなさい。“これ”と決めるのも大事だが、“それ”以外にも世界を広がっているのだと知るのは、職業上においても、人生においても、とてもいいことだよ」
「――」
――少し厳しいことを言っただろうか。いや、このくらいの歳ごろになれば、現実を知るべきだ。夢見る幼稚園児ではないのだから。
伯爵は黙りこくった少年を見て、ふと不安になったが結局そう自分の中でそう結論付けた。
どのくらい時間が経っただろう。少年はずっとずっと黙って、伯爵に言われたことを懸命に理解し、吸収しようとしているようだった。
そして、少年はついに口を利いた。どこかかすれた声で。
「――僕に今出来ることってなんでしょう」
「君の世界を広げたまえ」
伯爵は一言、そう答えた。それから笑って言い足す。
「それ以外の技術的なことは、わたしより君の方が知っているだろう?」
すると少年は、一度だけ目元をぬぐって伯爵に笑って見せた。
伯爵もその笑顔に笑みを返して、彼の頭をぽんぽんと優しくたたいた。
少年はここしばらくそんなことはされていなかったのだろう、驚いた顔で大人の男を見上げた。だが二千余歳の伯爵にとって、14歳は十分に子供なのだ。
「ひとつ、いいことを教えてやろう」
伯爵は少年の頭から手を下ろすと、自分の組んだ脚のうち、上になっている右足の膝を両手で包んでそこを支えに少し身を後ろにそらした。
「君に小さな妹か弟はいるかね」
「ええと……はい、上が弟で、下が妹です」
「そうか。その弟たちに、お父上が遠くから声をかけて返事がなかったことはないかな」
少年は少し考えた。
「そういえば、妹が小さいとき父は少し高い声を出していたように思います。いつもの声で話しかけても、気付かないことがあったような……」
伯爵はうなづいた。
「これはね、私の経験からなのだが……赤ん坊に近い子どもほど、高くてやわらかい声を好むのだ。ひどいときには、低い声を聞き逃すこともある。そう、母親が子供をあやすときは高くて優しい声を出すだろう?
女の人は、生まれつきそういう声を出せるのだ。だが男は、妻の様子を観察したり、教えてもらわないとそれができない」
「つまり、……高い声はみんなが安心する声?」
少年はまた喉を撫でながら言った。打ちひしがれているような声だった。伯爵は苦笑する。
「いや、高くてやわらかい声、だよ。キンキン喚くようなのじゃない。
ところがね、少年――」
伯爵は脚を揃えて床に下ろし、右手の人差し指を立てて見せた。
「逆に女性は、低い声の男の方を好むのだよ」
「え?」
伯爵は得意そうに指を振ってみせる。
「長いこと観察した結果なんだが、何故かは知らんがねぇ、女性は顔よりも声を無意識に重視しているんだ。科学的な根拠は挙げられんが、私の見てきた女性たちのほとんどはそうだった。
顔が良くても、声が高すぎるとあっという間に一目の恋は冷めてしまうよ。
逆に、多少顔が悪くても、声が低ければ見直されることが多い。
まぁ、もちろんその人自身の持つ性格の問題もあるだろうがねぇ。
ともかく女性は、低い声の男を好むよ」
「……なんで?」
「君、今声が低くなっている途中だろう?そしてそれは、大人になるための過程のひとつでもある。
と、いうことは高い声というのは子供の声なのだよ」
「……」
「子ども同士は甲高い声でしゃべるだろう?
高い声は子供の声。子どもは女性にとって守らなければならない存在。
だが、低い声は大人の声。――それは、女性にとって“自分を守ってくれる人”という目に――いや耳に聞こえる証みたいなものではないのかな、と私は思っている」
少年は少し首をかしげて、不思議そうに伯爵の話を聞いている。
伯爵はそんな少年に意地悪そうに笑って、そっと囁いた。
「君、好きな子はいるかい?」
すると、少年はあっという間に真っ赤になった。それはどんな言葉よりも雄弁な返答だった。伯爵は喉を鳴らすように笑った。
「素晴らしいことだよ、それは。照れんでいい。
その子かどうかはわからんがね、少年――」
伯爵は、教会中を見渡した。それから何気なく、東を指して、まるで演説家のように言った。
「君の声が落ち着いて、その声を聞く日を心待ちにしている女性が、世界のどこかに必ずいる」
それから伯爵は東を指していた腕を下ろし、少年に向きなおった。
「君は、自分の声が低くなることをひどく恐れているようだが、低くなるのは悪いことばかりではない。その声は君にしか出せない。そしてその声を――たった一人、心待ちにしている女性が必ずこの世界のどこかにいるよ。
君の声はその女性(ひと)を安心させ、寛がすことができる唯一の声だろう。いつかその声に足を止める女性に出会えるはずだ。
もちろん、君の声が美しいテノールになることは私も願おう。だがね、声が低くなることを悲観ばかりするものではないよ。君の声を、真の意味で聞けることができる女性のためにも」
少年は、ちょっと要領を得ない顔をしていた。伯爵はそれが当然だというように笑って、また少年の頭をポンポンと叩いた。
「つまり、もてたいなら声は低い方がいいという話だ。声変わりは悪いことばかりではないのだぞ」
「別に、もてたくないです……」
「そうか」
照れて意地を張ったように言う少年を伯爵はからからと笑った。
「でも」
だが少年は、人工の淡い光に照らされる十字架と――その隣のステンドグラスに描かれる聖母マリアと聖ヨセフ、そしてその間の幼子を見上げながら言った。
「僕の声を、ただ聞くだけでなくて――いつでも必要としてくれる人には会ってみたいです」
「会えるさ」
伯爵は遠くを見ていった。まるでステンドグラスの聖家族の向こう側に、何かがあるかのように。
それから、ふと気づいたように腕時計に目を落とす。
「おや、どうやら随分長いこと話し込んでしまったようだね。さあさあ、もう帰らないと。
明日は休みじゃないだろう?牧師さんを呼んできなさい。礼拝堂の戸締りをしてもらわなければ」
伯爵が言うと、少年は立ち上がって、おそらく牧師が眠気を堪えて待っているであろう控えの間に小走りに向かっていった。
伯爵は、扉の向こうに少年の姿が見えなくなるとおもむろに立ち上がった。それから再び聖家族のステンドグラスを――どこか羨ましげに――眺めて、彼は踵を返した。
その数分後。
牧師を連れて戻ってきた少年は
「――あれ?」
と言った。牧師は不思議そうに少年を覗き込む。
「どうかしましたか?」
「はい、あの――さっきまでいたはずなのに」
少年は、礼拝堂中を見回した。牧師はきょとんとした顔で尋ねた。
「どなたです?」
「はい、ええと――」
少年はいいかけて、口をつぐんだ。
「あの、名前はお聞きしていないんですが――僕の話を聞いてくれた人がいたんです」
言われて、牧師も辺りを見回した。
「……誰もいませんね」
「……」
――一言、お礼が言いたかったのに。なんだか声変わり後の自分が、少しだけ楽しみになったから。
声変わり中の少年は心の中でそう思い、それから本当に何気なく――何もないはずの伯爵が指示した東側の壁をじっと見つめた。




伯爵は気まぐれを起こす。今夜も気まぐれを起こしたのだ。
酒に心地よく酔い、綺麗なステンドグラスのある教会に入り、妙に純朴な少年と出会った。
――なんという素晴らしい日!
人生は単純な方が、心楽しい。
伯爵は、人のいなくなった通りをやや軽い足取りで歩いた。
そして、彼は気づく――月明かりの指す道の先に、ぽつりと影が落ちているのに。
「ダドリー」
呼ぶと、影の尻尾がちょろりと動いた。見れば、月光で白い毛が銀に染まった狼が静かに主を待っていた。
「迎えに来てくれたのか?」
「はい、差し出がましいかと思いましたが、わたしも少し歩きたくなりましたので」
伯爵は白い狼の傍らに立つと、月を見上げた。
「いい月だ。明るくていい夜だよ、ダドリー。さぁ帰ろう、今日はいい日だ」
二千余歳の吸血鬼はそう言うと、白い狼を従えて、鼻歌を歌いながら月の照らす道を自らの屋敷へと進んだ。



少年と吸血鬼が再会するのは、二十年と少し後のこと。

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