「伯爵と平凡な娘」
海の見える角部屋

はてさて、齢二千歳以上を重ねる吸血鬼を後見人とする女子大生アンナマリア。
彼女の吸血鬼の屋敷での暮らしは数ヶ月を数えることとなった。
しかし彼女は、二階建てだが十分に広すぎる屋敷のすべてを知り尽くすまでにいたっていない。




「じゃあお先にお風呂入らせていただきますね」
アンナマリアは夕食後の勉強にひと段落つけ、着替えとローブを持って部屋を出ると使用人控え室にいたマーサにそう声をかけた。マーサはにっこりして「はいはい、どうぞごゆっくり」と言った。
風呂は住み込みの使用人・主人・居候共同である。と、いってもけち臭くユニットバスを共有しているのではない。
屋敷の端の海が見える位地にある風呂は浴場といえるほどに広いものだった。
更衣室、温熱室(サウナ)、冷浴室、温浴室が揃っており、いわゆる通常の「風呂」である温浴室には、熱い湯と温め湯を湛える大きな湯船が用意されてあった。
アンナマリアははじめ、二つの温度の湯があるその豪華さに驚いたが、伯爵は当たり前のように「熱めが“カルダリウム”、温めが“テピダリウム”だ」と彼女にさらり言った。
だが彼女は突然伯爵が使用したラテン語に、この浴場が古代ローマ式であることを悟り、伯爵の齢を思い出してちょっと納得した。
しかしこの浴場は古代ローマ式だけで終わる浴場ではなかった。
海に面する壁がガラスになっているのだ――つまり、お湯につかりながら外の景色を楽しむことができるのだ。アンナマリアはもちろん、仰天した。
だが伯爵はまたさらりと言った。
「日本式だ。本当は露天風呂も作りたかったがさすがに止められた」
と。そして後にアンナマリアは極東の地に独特の入浴方法があることを知った。
余談だが、伯爵は19世紀にヨーロッパを席巻した「ジャポニスム」の影響をきちんと受けていたらしい。“日本式”のガラス張り風呂を思いついたのはそのせいもあるだろう。
その他に、美しい白磁の茶碗や一輪挿しをアンナマリアは見かけたことがある。ついでに言えば、うっかり書庫で「浮世絵」の「春画」を見つけたときには彼女はひっくり返った。そして彼女は「男っていつの時代もどこの国でもおんなじなのね」とちょっと絶望した。そしてそれを堂々と書庫に置く伯爵にもちょっと呆れた。


――さらに余談だが、伯爵は今では世界遺産であるバースの温泉にも入ったことがあるらしく、温泉の素晴らしさを一時間ほど彼女に語ったことがある。だから「ジャポニスム」以前から彼は「温泉」というものの存在を知っていたらしい。




さて、今夜の話に戻る。
長い廊下を風呂を目指して歩く――廊下の突き当たりに浴場があるのだ。
ところで、浴場の隣にはアンナマリアにはちょっと気になるものがあった。
浴場とは別なところに繋がっているらしいドアである。
浴場の隣に一部屋、なにやら部屋があるらしいのだ。
屋敷の中は好きに歩きまわっていい、と言われている彼女ではあったが施錠しているところにはもちろん入れない。そのドアはタイミングがわるいのかなんなのか、彼女が訪れる時には常に鍵がかけてあった。また、ある時彼女は外から回り込んでその部屋の正体を突き止めようとしたことがあったが――海に面した崖に阻まれてそれはかなわなかった。
だが今夜はその気になるドアがわずかに開き、中から明りがこぼれていた。
アンナマリアは好奇心を刺激されて、着替えを抱えたままそのドアにそっと近づいた。そして、別に禁じられてもいないのにそっとその隙間から中を覗き込んだ。
よく中が見えない。
だが音がした――何かの機械が動く、規則的な音だ。
一体何の音だろう?やはり伯爵は、吸血鬼らしくなにかそういった施設を持っているのだろうか――つまり、血液採集に関する施設だ。規則的な機械の音に、アンナマリアはぞっとする想像をした。
アンナマリアは意を決して、そっとドアを開けた――それは怖いもの見たさのなせる技であった。
だがアンナマリアはホラー映画のヒロインよろしく、叫び声をあげることはなかった。
人工的な光に満たされた部屋はやはり海に面して大きな窓をもっていた。凪いだ海は静かで美しい。
そして、その前には海の方を向いているがためにこちらに背を向けている伯爵がひとり。
アンナマリアはその光景に目が点になった。
伯爵はただ海を眺めていたのではない――走っていたのだ。
吸血鬼には似合わない――ただし着こなしていたので彼個人には似合っている――スポーツウエアを着て、ルームランナーの上で。
先ほどの機械の音はルームランナーの稼動音だったのだ。
部屋にあるのはルームランナーだけではない。ベンチプレス(もちろんプレートとバーベルが傍らにある)やエアロバイク、その他アンナマリアが名称もわからない、スポーツ選手が使うようなトレーニング機器が様々部屋には並んでいた。
その景観は高級スポーツジムにも劣らない。
謎の部屋は、伯爵個人のスポーツジムだった。
「……。」
アンナマリアが唖然としていると、伯爵は気配に気づいたらしい。ひょいとルームランナーの脇に両足を広げて乗せると振り返った。
「アンナマリア、どうしたのかね」
アンナマリアはゆっくりとそちらを見た。
目に入ったのは爽やかに汗を拭う伯爵である。アンナマリアには彼がきらきらと輝いているように見えた。
「いえ、伯爵と出会ってこのかた、私の中での吸血鬼というものがガラガラと音を立てて崩れていくなぁと思ってただけです」
「?」
伯爵はルームランナーを止めて、ひょいとその上から降りた。
「最近運動不足でね――わたしは昼に外に出て運動することができないから。少し前までは夜中に屋敷の周りを走ったりしていたのだが、最近は便利になってね――どうした?」
伯爵はがっくりと肩を落とすアンナマリアを不思議そうに見下ろしていた。
「伯爵って意外と健康志向なんですね……」
「私もそんなに若くないからな」
「いや、若くないじゃきかないですよ」
アンナマリアが思わず言うと、伯爵は笑った。そして伯爵はアンナマリアの抱えている着替えに気づいた。
「風呂に入りにきたのか」
「ええ。でも、この部屋には入ったことがなくて。明かりがついていたので気になったんです」
「そうか――古代では公共浴場は運動場とセットでね。――ジムの語源でギュムナシウムといったんだがね――よく汗を流したあとに風呂に入ったものだ」
「なるほど、その方が便利ですね」
あまり運動が好きではないアンナマリアはぽんと手を叩いた。
「そうか。風呂に入るのか」
だが伯爵は話題を変えるように顎に手を当てて、ふと考え込むかのように彼女を眺めだした。アンナマリアは首を傾げた。話の先が読めない。
「わたしも一緒に入るかな――汗もかいたことだし」
伯爵はまたしてもさらりと、なんでもないことのように言った。おかげでアンナマリアは事態を把握するのに時間がかかった。
「……一緒に、ですか?」
「そうとも」
「……私と?」
「他に誰がいる?」
「…………それは世に言う混浴をしようと?」
「男女別浴になったのは、キリスト教が普及してからだな――わたしは別に気にせん。二人で入ったほうが楽しいぞ?」
その伯爵の発言には、きっと言葉以上の他意はなかったに違いない。しかし、アンナマリアは即座に耳まで真っ赤になった。
「だめです、だめです!伯爵が気になさらなくても私が気にしますッ!」
「……君は父親と風呂に入ったことはないのかね?」
「あります。でも伯爵はお父さんじゃありませんからっ!」
アンナマリアは思わず後ずさりをしていた。その様子に、伯爵はにやにやしだしていた。
「ほほう、君も年頃なのか。しかし君くらいの年になると、恥ずかしいと思うことも少なくなってくるようだが?」
「だから伯爵は私のお父さんじゃないでしょう!」
すると伯爵はため息をついた。だが続いた言葉はどこか楽しげだった。
「では、三十分以内に入浴を済ませたまえ――でないと、わたしと混浴することになるぞ?」
アンナマリアはその言葉に身をすくめた。
「さ、三十分じゃ短すぎます」
「では一時間だ」
アンナマリアは脱兎のごとく踵を返した。伯爵はくつくつと笑ってその後姿を見ていた――と、彼は新たに視線を感じた。
振り返れば、彼の忠実な老執事が胡乱な目で主人を見ていた。
「……いたのか、ダドリー」
「ええ、ずっといました」
そして、ダドリーはため息をついた。
「あまりアンナマリアさまに意地悪をなさいませんように。
それと、セクシャルでハラスメントな発言もお控えなさるようにご進言いたします」
「……。」
それは珍しく、伯爵が執事にやりこめられた瞬間だった。



その晩、アンナマリアはあまり風呂でリラックスできなかったという。
ついでに言えば、長湯をしていないのに彼女は茹でた甲殻類のごとく真っ赤だったらしい。
まあ、老執事が主人に釘を刺していたので何も心配することはなかったのだが、それは彼女のあずかり知らぬことである。


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