花、ふたつ


 その時彼が愛していたのは静かに咲く白い花だった。
 彼はシュウと言う名前で、十でその才を見出され竪琴師のギルドに連れてこられた歌うたいだった。
 その時から彼は竪琴師の長の娘、フルーレに密かな想いを寄せていた。
 二つ年下の彼女は、ギルドにやってきたばかりで緊張し無口になっていた彼に優しく接した初めての人であった。
 ――お兄ちゃん、私と一緒に行く?
 ギルドに来たばかりの少年たちの中でも浮いていた彼にそう声をかけてくれた。
 それから彼女は幼いなりに、年下なりに、ギルドでの生き方や師との接し方、果ては市での値切り方まで様々なことを教えてくれた。そして彼女は上手に彼を仲間たちの輪の中へと入れていった。やがてシュウには仲間ができ、彼はギルドの中で浮くことはなくなった。
 大人びた子だったが、彼はフルーレのそこを愛した。


 シュウの声は変声期を経てもなお美しく伸びやかで、人びとの心を満たした。
 フルーレは歳を重ねるごとに美しくなり、静かに咲く白い花のような女性となった。彼女の歌声もまた美しく、シュウと同じように人々を魅了していった。
 やがて二人は一組として様々な場所に呼ばれることが多くなった。
 様々な祝いの場に、そして時には死者を送り出す儀式の場にも呼ばれもした。
 シュウのテノールとフルーレのソプラノは、中空で絡まり、溶け合い、人びとの心に染みていった。
 歌が終わるといつも、フルーレに憧れる男たちがどっと彼女の元に押し寄せたものだった。シュウはいつもその酒や煙草のにおいを放つ波から彼女をを器用に守ってやった。
 そのときフルーレはシュウに耳打ちをしたものだった。
「ありがとう」
 その言葉にシュウは満足し、密かな喜びも感じていた。
 だがその思いとは裏腹に、それに対して彼はいつもそっけなく、たいしたことじゃないと答えるだけだった。
 この想いは、知られずともよい……青く幼かった彼はそう考え、兄のように振舞うだけだった。

 だが変化は唐突に、そしてシュウには残酷に訪れた。
 ある時フルーレは、竜騎士たちの祝宴に一人きりで赴いた。
 空を護る騎士と獣の長の祝宴に花として招かれることは、竪琴師たちにとってこの上ない名誉である。シュウも招かれていたが、その日彼は領主の誕生日の祝宴に出なければならなかったのでそちらに行くことはかなわなかった。
 祝宴から帰ったフルーレはどこか上の空だった。誰が何を聞いても、うん、としか答えず要領を得ない。それは彼女にしてはめずらしいことだった。
 シュウの胸に、嫌なものがはしった。そして、予感は的中するのである。
 ある時彼は、修練の帰りにふと奇妙な雲が一瞬だけ太陽をさえぎったのに気づいた。一緒にいた友人は気づかなかった。
 彼に不思議そうな視線を向ける友と共に見上げれば、空には雲など一つもなかった。ざわり、とシュウの胸に嫌なものがはしった。
 シュウは友人に一言断ると、雲が風に逆らって行った方に駆けて行った。


 辿り着いたのは、街の外れにある人気のない野原だった。
 一頭の大きな黒い竜と背の高い竜騎士がいた。竜はのんびりと寝そべっていたが、竜騎士は誰かを待っているようであった。
 胸騒ぎが強くなる。だがシュウは物陰に隠れたまま、出て行くことが出来なかった。
 そこに、息を弾ませてやってきた女性がいた。
 ――フルーレだった。
 フルーレは竜の鼻先の少し手前で一旦足を止めた。すると竜が首を持ち上げ、自分の騎士を振り返る。騎士は気づいてフルーレへと体を向けた。
 無言の対峙。
 だが一瞬後、竜騎士がやわらかな笑みを目元にたたえるとフルーレはそっと彼に歩み寄った。二人が何か、言葉を交わす。
 シュウのいる所からは、フルーレの表情を見ることはできなかった。
 次にシュウが竜騎士に視線を移したとき、彼は大地にひざまづいていた。そして、フルーレの右手をとるとそこに口付けた。
 それは男が愛をささげる女にする、“誓いのくちづけ”だった。
 シュウは思わず後ずさった。その時、はじめてフルーレの表情がわずかに見えた。
 フルーレは誰も見たことがないような笑みを騎士へと向けていた。そして竜騎士が彼女を見上げると、花がほころんだように笑みを広げた。
 シュウにはそれで十分だった。彼は、彼女たちに背を向けると逃げ出した。
 ――白く静かな花は、黒い竜騎士に摘み取られてしまったのである。


 次の日には、ギルドの人々にフルーレが竜騎士のためだけの歌うたいになったことが知らされた。
 皆一様に驚き、祝福し、音楽を奏でた。竜騎士専属の歌うたいや楽師になるのは、竪琴師たちにとって素晴らしいことなのだ。
 だがその中に一人暗く沈み、祝福の輪に加わらない若者がいたのに誰か気づいただろうか。
 そしてフルーレが本当は竜騎士の妻として招かれたことを誰が知っていただろうか。
 シュウが人知れずギルドを去ったことに人々が気づいたのはそれから三日たってのことだった。


 シュウは各地をさ迷いながら、まだ歌っていた。“荒ぶる吟遊詩人”とあだ名されながら。
 彼は即興で歌を作り、歌い、稼ぎ、遠くへ遠くへとさ迷っていた。
 彼の歌は悲しみと絶望ばかりで、他の吟遊詩人のように喜ばしい恋の歌も勇ましい英雄の歌も決して歌わなかった。
 また、他の吟遊詩人と鉢合わせると必ず勝負を挑みその圧倒的な歌唱力で完膚なきまでに叩きのめした。そのやりかたはやり場のない怒りを叩きつけるようで、いくら彼の歌が素晴らしくても皆恐れて拍手しないようなものであった。
 そして彼は金が余ると、女を買った。
 選ぶのはいつもたおやかで細やかな気遣いを売り物にする女であった。
 だがしばらくその女と一緒にいると、違う、と彼は言った。そして彼はいつもすがりつく女を乱暴に引き剥がすと街を出て行く。
 そんな生活が、何年か続いた。


 とある町に彼は流れ着いていた。
 いつものように酒場の一角に陣取ると、見るともなしに店に視線をめぐらせる。
 他に吟遊詩人はなく、また金も多少あるので歌う必要はなさそうだった。
 彼は真っ先に酒を注文した。つまみは、と続けて問う店主に、いらん、とだけ答える。
 そうして、酒を半分ほど胃に流し込んだときだった。
 コツ、とヒールで床を打つ音がしてシュウはそちらを見た。音のあるじは案外すぐ傍にいた。
 それは女で、黒いドレスを着ていた。
「こんばんは、“荒ぶる吟遊詩人”さんね」
「……誰だ」
「踊り子よ」
 女は艶然と微笑んだ。シュウは鼻で笑うと、また酒の入ったコップを傾けた。
「お酒が入っていらっしゃるようだけど、まだ歌えるかしら?」
 女は少し首を傾けて聞いてくる。シュウはコップをガン、とテーブルに戻すと女に体を向けた。
 そして腕を広げておどけてみせる。
「歌えるとも。何がいい? 暗い悲しみ、熱い絶望。明るいのはお断りだ」
「即興をお願い」
女はおどけるシュウにそう強く言い放つと、さらに付け加えた。
「私と勝負して」
「勝負?」
 シュウは腕を下ろすと、面白そうに嗤った。女は真面目にこたえる。
「ええ。先に途切れさせてしまった方の負け。あなたは歌を、私は踊りを」
「いいだろう、俺の声がかすれるか、あんたの足が上がらなくなるまでだ」
 そしてシュウは立ち上がり、女は一歩下がる。
 すると他の酒場の客たちも何か起こることに気づいたのか、テーブルとイスをどけ輪を作った。
 タン、と女が床をヒールで叩いた。シュウは深く息を吸う。続けて吐いたのは低く恐ろしい音だった。
 酔っているはずのシュウが紡ぎだす音は、絶望の音楽だった。
 この世を呪う低音、この世を恨む旋律。シュウは腹の底から絶望を歌った。
 音は人びとの腹の辺りでとどまり、じわりと広がり、やがて次の音に押し出されて夜の闇へといやいやながら消えていく。時に強く押し出された音は、圧力を伴って人々の耳に届いた。
 女はその音についてきた。
 スカートを振るい、腕をくねらせ、床を鳴らす。その場でステップを踏み、進んでは戻り、戻っては進み……くるりと踵を返す。手が中空で何かを掴み、また離す。暗い、大きな動きのない踊りだった。
 シュウは女に向けて音を叩き付けた。女はするりと身を捻ってそれを避け、時に投げて返す。
 そんなやり取りの末に、シュウは音を小さくしていった。やがて絶望の歌は消えうせ、彼の内に再び封じ込められた。
 女は、それに合わせて最後のステップを踏んだ。
 踊りと歌が終わった。どちらもまだ歌えたし踊れたので勝負はついていなかった。
 周りからパラパラと拍手があがる。シュウはそれを気に留めず、どさりとイスに腰を下ろした。女はそんな彼に歩み寄る。
「どうしてやめたの」
「不毛だ。そもそも歌と踊りじゃ勝負がつかん」
「疲れて途切れてしまうまででしょう?」
「ともかくやめだ。気が向かん」
 シュウは残っていた酒をあおった。女はため息をつくと、何も言わずに踵を返した。背中が少し寂しげだった。
 その後姿に、ぼんやりと白い花が重なった。だがシュウは首を振ってその幻影を追い払った。
 ――おれの白い花は、黒いドレスを着たりしない。


 その翌日も、シュウは同じ酒場で過ごした。日が暮れるとまた女がやってきた。
 女は青いドレスを着ていた。女は昨日と同じことを言った。シュウはすることがないので受けて立つことにした。
 酒場の人々が、再び輪を作る。その輪は昨日より少し大きかった。
 シュウは今度は、悲しみを歌った。深く、伸びやかで静かな声。だが時にそれは飛び上がり、言いようのない悲しみを音に託す。
 ――どうして、なぜ。
 音は、理由を求めて哀しむ。それとも理由がわからないから哀しいのか。
 酒場は美しいが陰鬱な旋律で満たされる。
 女はそれに合わせて踊る。ぐいと手足を伸ばし円を描く、哀しみに寄り添うような踊りだった。
 その女の顔に、別な女の顔が重なる。
 踊り子は髪を結い上げている。思い出の中の女はそんなことはしなかった。
 踊り子の目は切れ長だ。思い出の中の女の目は円らだった。
 違う、とシュウは思う。だが。
 ――なぜ。お前はなぜあの竜騎士に身を預けたのだ?
 シュウは答えを求めるように女の方に手を伸ばした。女は踊り続け、手は届かない。
 シュウの眼前に、青が広がる。彼は苛立ちを音に込めた。
 哀しみの音は高くなり、歌は津波のように女を襲う。女はひらりと波に乗り、そして波を見送った。
 音の波をやり過ごされて、シュウはそこでピタリと歌を止めた。女の動きもそこで止まる。
 シュウは腕を広げて、肩をすくめた。すると観客たちはぱらぱらと散っていく。そこには踊り子とシュウだけが残された。
「今日もやめるのね」
「今日乗ったのはただの気まぐれだ」
 コツ、とヒールの音をさせて踊り子が歩み寄ってくる。シュウはそれに背を向けて、イスに座ると酒に手を伸ばした。
「何を私に訊いていたの?」
「え?」
 女は真摯な瞳で彼を見下ろしていた。
 シュウは意味を成さない音の集まりを旋律にのせていただけのはずだった。
「訊いていたわ、おとが。でも私に答えられるものではなかった」
 シュウは酒の入ったコップを取り上げると、口には運ばずに女へそれをひっかけた。
「いなくなれ!」
 シュウは叫んだ。女は黙っていなくなった。
 ――なぜだ。
 哀しみの問いは怒りとなって、彼をいらだたせた。


 その次の日も、女が来た。
 酒場には不思議な試合があると聞きつけた人々が集まっていた。ここには娯楽があまりないらしい、とシュウは嗤う。
 女は赤いドレスを纏っていた。
「またやるのかい、いなくなれといったはずだ」
「あの場からはいなくなったわ。ずっといなくなれとは言われていないもの。
 今日は、あなたが歌えば私は踊るわ」
「ふん」
 シュウは一口酒を飲むと、立ち上がった。
「いいだろう」
 シュウは両腕を広げた。女は人々が作る輪の中心で手を高く挙げ、構える。
 シュウは出だしからいきなり強い怒りを吐き出した。女は答えるように、ダン、と床を踏む。
 叩きつけるような声、流れ狂う川のような旋律、シュウは怒りを歌った。
 音は上がったと思えば下がり、広がったと思えば狭まる。その怒りの旋律に合わせて踊り子はくるりと回り、赤いスカートはまるで花のように広がって、怒りを和らげるようにたゆたう。
 ――ちがう。
 シュウはまたそう思った。踊る女を見てそう思った。
 ――あれは、白い花じゃない。
 一昨日、昨日と踊り子に重なった白い花が今日は重ならない。
 怒りの歌に合わせて、舞う赤いドレス。それはまるで、太陽にも負けじと咲く赤い花だった。
 ――だから、お前ではない。
 シュウはまた、怒りの声を女に放った。踊り子はくいっとこちらに顔を向ける。
 シュウが見たこともないような、強い瞳と視線が絡む。
 彼は唐突に音を下げ、そしてまた駆け上がるように音を上げた。踊り子はそれに合わせて両手を広げてぐいと体を回した。
 赤いドレスがふわりと広がり、円を描く。シュウは歌う――
 ――だから、何だと言うのだろう。
 踊り子は太陽に顔を向けて咲く赤い花だった。それはそれで美しいものだ。
 シュウの高く上り、広がる音からは徐々に怒りが消えていくように思えた。
 赤い花は、くるくると彼の前で踊る。
 ――俺は何を求めていたんだろうか。
 フルーレが去ったのは、ごく当たり前のことだ。彼の気持ちを知らなかったのだから。
 ――俺は、馬鹿だ。
 シュウの胸に自嘲がこみ上げてきた。愚かしい自分に彼は気づいたのだ。
 その途端、彼の歌から怒りが完全に消えた。
 怒りは赤いドレスの裾に巻き取られたのだ。
 そして、彼はこの目の前の赤い花のために歌ってやろうと思った。
 怒りが巻き取られた歌は、純粋な音楽になった。
 踊り子と共に舞い踊るためだけに紡がれていく音。音が変わったのに最初に気づいたのは、やはり踊り子だった。それまで叩きつけられるだけだった音が、彼女の身に寄り添い遊び始めたからだ。
 女は歌うたいに視線を投げた。歌うたいは苦笑するような顔で音をつむいでいる。
 踊り子は不意に動きを緩慢にし、観客を誘った。人々は顔を見合わせ、それから歌の雰囲気が変わったことに気づいた。
 はじめは恐る恐る、それから遠慮がちに数人が手拍子を始める。それは段々と大きくなり、さらには食器を打ち鳴らす者、調子外れの踊りをはじめる者まで出てきた。しまいには誰が呼びにいったのか、楽器を抱えた新たな客までやってきた。
 踊り子は再び歌うたいを見る――シュウは笑っていた。心底、楽しそうに。
 それから酒場は、音楽と不思議なステップで満ちた。


 歌うたいは唐突に、だが劇的に音楽を終わらせた。
 踊り子は右手を高く掲げ、赤いスカートをつまんだところで綺麗に姿勢を決め音楽の最後を飾った。
 酒場の音もピタリと止まる。そして一瞬後、わっと歓声と拍手があがった。
 歌うたいと踊り子は、始めから二人で一組の興行師だったかのように人々に向かって礼をした。
 そして酒場の人びとは久々の余興に満足したのか、また自分たちの生活へと戻っていった。
 その場に残されたのは、歌うたいと踊り子だけだった。
 踊り子は息を弾ませている。シュウは、手近なイスに腰を下ろした。それから、踊り子を見上げる。
「ありがとう」
「え?」
「なんだかすっきりした。自分でもよくわからないが」
「それはよかったわ。……私もよくわからないけど」
 その踊り子の言葉に、シュウは苦笑を向けた。
「忘れてたよ。歌と音楽は楽しいものだったんだ。
 ……それを思い出したんだ。ありがとう」
「どういたしまして」
 踊り子は微笑んだ。それは、太陽に向かって胸を張る赤い花のようだった。
 ――白い、静かな花じゃないが……。
 ひとつの花の美しさだけが、この世で唯一のものではないのだ。
 彼はただ、そのことだけに気づいた。
「ありがとう」
 踊り子はまた、どういたしましてと言って笑った。
 シュウはテーブルの上に残っていた酒を一口飲んだ。そして呟くように言う。
「……俺の負けだな」
 それから、シュウは苦笑を混ぜた笑みを踊り子に向けてこう訊いた。
「あんたの名前は?」
 踊り子は誇らしげに答えた。
「イレーネ。流しの踊り子よ」


 後に伝わる話では、荒ぶる吟遊詩人は赤い花を伴って旅を続けたという。



2006年オンライン小説企画「覆面作家企画 わたしはだぁれ?」参加作品。
テーマ「花」
2006/02/06 改定
昴秀竜

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