日が傾き始めると、二人は館長の家に向かうために宿を出た。
すると宿の前に馬車が一台止まっていた。御者台から御者が降りてきてぺこりと頭を下げる。
「エレオノーラさんとお連れの方でしょうか」
「ええ」
「お迎えにあがりました」
エンキは驚いてエレオノーラを見下ろした。
「お断りしたんだけど、どうしてもっておっしゃるから……」
「そうか……」
「ライアン様がお待ちです。さ、お乗りください」
御者に促されて、二人は馬車に乗った。

ガタガタと揺れる馬車の中で二人は向かい合っていた。
「馬車は初めて?」
エレオノーラの問いに、エンキは頷く。
「だけど、記憶があるころのことはわからない」
「……それもそうね」
エレオノーラは苦笑した。エンキは問いを返す。
「エレオノーラは?」
「ずっとむかし、卿が馬車でいらしたときにふもとの村まで乗せてもらったことがあるわ」
「卿?」
「“真言主”よ。父の友人だったの」
「どんな人なんだ?」
「会えばわかるわ。素敵な方よ。……そろそろ出発の日を決めた方が良いわね」
流れ行くプフェアート・シュタートの風景を見ながら、エレオノーラは少しだけ寂しそうに言った。

食事会はライアンの自宅で行われることになっていた。
ライアンの家は、居住区の高級住宅地にあった。単に家、というより屋敷といったほうがふさわしい建物であった。
馬車を降りて屋敷を見上げ、二人は顔を見合わせた。
そうしているうちに、玄関の扉が開いた。
出てきたのは、蜂蜜色の髪の人でエンキは一瞬ぎょっとしたがすぐにそれが男だとわかりほっとした。
「エンキ?」
「いや……」
「エレオノーラさん!」
それはもちろんライアンであった。彼の髪の色はアーニャと同じで、午前中彼女と一緒にいたエンキは身構えてしまったのだ。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
エレオノーラはやわらかな声でそういい、綺麗に腰を折る。エンキもつられて会釈する。
その会釈したエンキにライアンは気づく。
「こちら、連れのエンキです」
「あ、はい、ライアンです」
「エレオノーラが世話になっているそうで……」
――いや、エレオノーラに世話になっている俺が言ってもいい台詞なのか?
エンキは社交辞令でライアンに言った言葉がどうも自分にはちぐはぐな気がしてならなかったが、エレオノーラは気にしていないようだった。
ライアンはエンキに手を差し出してくる。エンキも手を差し出した。
手を握ると、ライアンは妙に力をこめて握り返してきた。エンキが不思議に思っていると彼がなにやらぼそぼそ言っているのが聞こえてきた。
「……そうですよね、このご時勢で女二人旅っていうのはありえない……」
「……」
エンキは手を離すと、やや白い目でライアンを見下ろしながら一歩下がった。
「エンキ?」
エレオノーラが覗き込んでくる。
「……なんでもない」
ため息をつきながらエンキは思った。
――コイツ、エレオノーラが目当てだったな?
そして彼は少々警戒しなければならないと思い、背を伸ばした。
ライアンを見れば、最初こそは――ひそかに――がっくりしていたようだったが、すでに気を取り直していた。
「父と妹も同席させていただきますが、よろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん」
ライアンに招かれて、二人は屋敷の中に入った。
「父にあの本を見せたらすごいことだと言いまして、エレオノーラさんの話もぜひ伺いたいそうです」
「光栄です」
しばらく廊下を進むと、明かりがこぼれている部屋が見えてきた。食堂らしい。ライアンはドアを開け、中へと二人を促す。
中には少々恰幅いい紳士と、フリルのついたドレスを着て兄と同じ蜂蜜色の髪をした少女がいた。
二人の人物を見とめた途端、エンキはくるりと背を向けた。
「エンキ?」
「?」
「いや待ってくれ少々もう勘弁してほしい……」
「……?」
エレオノーラはエンキの様子がおかしいことに気づき、彼を覗き込んだ。
「どこか具合が……?」
だがエンキはエレオノーラと目を合わせるとなんでもないと言って笑って見せた。
それから向き直る。
「エンキさん!」
明るい少女の声。少女は蜂蜜色の髪をもっている。エンキはエレオノーラに恥をかかせるわけにはいかないという気持ちだけで、この時間を乗り切ることとなる。
少女は、アーニャだった。

「これはこれは、どうも息子のわがままに応えていただく形となって申し訳ございません」
食堂に入ると、まず紳士がそう言って感謝の念を表した。エレオノーラはそれにやはり笑みで応える。
「こちらこそ、ご家族の団欒にお邪魔してしまいまして申し訳ありません」
「いやいや、とんでもない。さ、お座りくださいな」
二人は促されてテーブルに近づきかけたが、その前に突然ずぃっとアーニャが現れた。
「エンキさん!昼間、マントを買ったのはこの人のため?」
突然の少女の言葉にその場にいた大人はみんなきょとんとした。エンキは軽くため息をつくと、答える。
「……そうだよ」
それからエンキは思いついて、ライアンとアーニャの父だという紳士の方へ体を向けた。
「実は、お嬢様と縁がありまして牧場にて働かせていただいています。
今日の午前中も偶然にお会いしまして」
すると紳士はああ、と声を上げた。
「いやいや、貴方が噂の!
娘が本当にご迷惑をかけまして……」
紳士はエンキに近づくと、彼の手をとってぎゅっと握った。
「本当に申し訳ない」
心のそこから搾り出すような言葉だった。どうもアーニャのおてんばぶりには、あの世話係だけではなく父親も手を焼いているらしい。
エンキの方もなんだか申し訳なくなって、
「あ、いえ」
とつい言ってしまった。
その間にライアンはすっとエレオノーラに歩み寄り、彼女に耳打ちした。
「妹は手のかかる子でして……エンキさんにご迷惑をかけてなければいいのですが……」
「はぁ……」
エレオノーラは思わずエンキをじっと見た。
――ここのとこ疲れていたのはあの子のせいなのかしら……。
そしてエレオノーラはちらりと少女の方に視線を移す。少女はなにやらエンキに熱い視線を注いでいる。その頬はほんのりと染まっており、眺めているだけならばかわいらしい少女であった。
――……。これは、早くお暇させていただいた方がよさそうね……。
そんなことを考えていると、ふいに少女がエレオノーラの方へと視線を移してきた。
エレオノーラはちょっとびっくりした。アーニャの視線はなんだかきついものだったからである。だがエレオノーラはめげずににっこりと少女に笑いかける。
すると少女はふんっと視線を逸らした。
エレオノーラはふぅと息をついた。そして同時にすこし、少女らしい意地の張り方をほほえましいとも思ったのだった。

テーブルにつくと、給仕たちが食器を並べ始めた。エレオノーラはナイフやフォークが整然と並んでいく様を見て思わずエンキに小声で話しかけた。
「エンキ、この使い方……」
「端から使うんだろう?知ってる」
答える声には迷いがない。エレオノーラは納得しかけて首をかしげる。エンキはこのような食事をしたことがないはずだ。――彼女と出会ってからは。
そんなことを考えていたエレオノーラにエンキは付け加える。
「……なぜかね。」
どうやら、このような食事作法は彼の失われなかった知識のひとつに入っていたらしい。
そんな風に考えるしかなかったが、エレオノーラの中にはまだ疑問が残る。
――……東ノ国には、端からナイフやフォークを使う習慣はないはずよ。
そしてその想いはさらに、東ノ国にはどんな食器があったかということにつながる。だがその疑問を“検索”しようとした時に、各人の前にスープが揃ったのでエレオノーラは“検索”を中止した。
スープ用のスプーンを取り上げ、彼女はまた気づいた。
――そういえばエンキは最初からスプーンやフォークを使えたわ……。彼がリュオン軍に入れられた東ノ国の人間だとすると、軍の宿舎で使い方を覚えたのかしら……。
ともかく今はそう推察するしかなかった。

「それで、エレオノーラさんはルシアス一世にお詳しいと息子から伺いましたが……」
「それほど詳しいというわけではありませんが、少しなら」
ライアンの父の質問にエレオノーラは控えめに答えた。
「ワタシは大学でルシアス一世のことを教えているのですが、そのワタシもルシアス一世がメセナスのことをへぼ詩人と呼んでいたというのは初めて聞きました。
どこでお知りになったんです?」
「うーん……」
“検索”のことをどう説明したものか。エレオノーラは少し困った。
エンキはその間にルシアス一世とは何者であるか、をライアンから説明されていた。
「へぼ詩人、というのはいつもそう呼んでいたわけではないのです。
よくある愛称、というか。」
「ははぁ、二人は公私共に仲がよかったのですね?」
「はい、メセナスは内乱期からルシアス一世を支えていましたし……」
紳士はほうほうと頷いた。
「……それで、それをどこでお知りになったんでしょう?」
学者は根拠を求める。紳士は根っからの学者であり、エレオノーラにそれをしつこく聞いても仕方のないことだった。
エレオノーラは困ったように辺りを見回した後、静かに言った。
「私の先祖の一人に、サーガ、という男性がいます。その父親はルシアス=サーガ・ローラントで、母親はリューイと言います。
……ご記憶にないでしょうか」
その言葉に、学者は驚いたように固まっていた。
「ルシアス一世関係でサーガ、といえば本人のミドル・ネーム以外には……、二十代前半で皇宮から姿を消した第一皇子サーガしか記憶にありません。
……まさか」
「そりまさかです。……といっても信じていただけるかどうかは……」
「おお……!」
学者はナイフとフォークを置くと、エレオノーラの方に身を乗り出してきた。
「ルシアス一世が恋焦がれて皇宮に招いたリューイという女性は、黒い髪に紫の瞳を持つ妙なる一族だと聞いておりましたが……、貴方は同じ紫の瞳をもっていらっしゃる!」
それから恐る恐る、といった感じでエレオノーラのほうに手を差し出してきた。
「信じます、信じますとも!紫の瞳など、そう滅多にあるものではないですからな!
握手していただけますか。
人の瞳というものは、黒や茶色、それに青や緑ばかりだ!……時折琥珀、という方もおられますが、あれは北の島国の方たち特有のもので……いやはや!なんたる出会い!
息子よ感謝する!!」
学者はエレオノーラの手を握って心底感激したようにそう言った。
「いやはや、第一皇子はルシアス一世と不仲だったというのが定説になっておりまして……皇宮から姿を消したのはそれが理由だとされていますが……。
子孫の方に出会えるとは」
「サーガは決して父を嫌ってはおりませんでしたし、ルシアス一世も彼を大事にしておりました。ただ、彼らの関係は複雑だったのです。」
「第一皇子が皇宮から姿を消したときから、一部ではルシアス一世が息子を手にかけたという噂がありましたが……」
「いいえ、サーガは74歳まで生きました」
そこでエレオノーラはくすりと笑った。
「私を信じてくださるんですね」
「ええ。これはじっくりとお話を伺わなければ。新説がたてられるかもしれませんぞ!」
「けれどそれには、私が第一皇子の子孫だということを証明しなければなりませんよ。
それに私が子孫ではないと主張する方もたくさん出てきます」
「なんの!それしきの障害大したことはありません!」
学者は心底楽しそうであった。
さて学者とエレオノーラが談笑している間、エンキはちょっとした我慢大会を一人で開催しているような心境に追い込まれていた。
食事の席に問題があったのだ。
主人の席に学者が座り、学者の右手側にライアンとアーニャが座る。学者の左手側、つまりライアンの正面にエレオノーラ、そしてアーニャの前にエンキという配置であった。
つまるところ、エンキは苦手としている人物を目の前にしながら食事をしていたのだ。
アーニャはエレオノーラが父との会話に集中しているのに気づくと、すかさずエンキに話しかけ始めた。
「あのエンキさん」
「はい?」
「昼間はごめんなさい」
「……ああ」
エンキはため息をついて、しかたなく少女にまっすぐ視線を向けた。
「わかってくれたようでよかったよ」
「わたし、初めてでした」
エンキはなにやら会話が飛んだように感じた。恐る恐る、アーニャに聞く。
「……なにが?」
「あんなふうに他人に怒られたのって……わたし、なんだか感動しちゃいました」
――……わかってなかったようだ。
エンキはなんとも言い表しがたい気持ちになったが、口に出してはこう言った。
「…………そうか。」
エンキはそれだけ言うと、フォークとナイフを丁寧に置いた。それからおもむろにナプキンを取り上げると、そのまま肘を突き額を押さえた。目をつぶる。
その様子に、エレオノーラと学者の父の話に耳を傾けていたライアンが気づいた。
「エンキさん、大丈夫ですか……?」
エンキはそれに声で答えず、空いている方の手を挙げるだけで答えた。
その仕草に、ライアンは傍らの妹に恐る恐る視線を移した。そして彼は、瞳をきらきらと輝かせている妹を発見し、エンキに哀れの視線を向けた。

食事が終わっても、学者はエレオノーラを放さなかった。彼女も彼女で真面目に答えているので、残された者が入り込む隙がない。
すると、ライアンが給仕に命じて食堂にボード・ゲームを用意させた。
「エンキさん、やりませんか?」
エンキはボードを見下ろした後、肩をすくめた。
「やり方がわかりません」
すると、アーニャがかたんと立ち上がり、口を開く。だが先手を打ったのは、兄だった。
「お教えしますよ。」
すっとライアンはマス目状になっているボードを指差した。アーニャは少々むっとしたように自分の席に戻る。
「マスの上を移動するゲームなんです」
それから、ボードの傍らに用意されていた二つの箱を一つずつ丁寧に開ける。そこには様々な形をした手のひら大の駒が入っていた。一箱で一セットらしく、色は二色にわかれている。ライアンは几帳面にそれを並べていく。
「それぞれの駒は、決められた動きしかできません。それを覚えるのは大変ですが、覚えた後は相手の先を読んで適切な駒を動かすだけなんです。
どうです、やってみませんか」
エンキはその誘いについてしばし考えたが、エレオノーラをぼうっと待っているわけにはいかないのでその誘いを受けることにした。
すると、ライアンはにっこり笑う。そして妹を振り返った。
「アーニャ、お茶を淹れてきてくれませんか」
兄のその言葉に、仏頂面の妹は不機嫌に答えた。
「どうして?」
「君の淹れたお茶は美味しいですから、ね」
エンキはその間に自分の前のボードに並べられた駒をひとつ取り上げた。それは馬をかたどった物だった。
「美味しい?」
「ええ、是非」
すると、アーニャの顔が見る見るうちにほころぶ。
「がんばるわ!」
彼女は席から立ち上がると、いそいそと台所に消えていった。ライアンはそれを笑顔で見送り、妹の姿が完全に見えなくなるとため息をついた。
「?」
「……妹が迷惑をおかけしたみたいで、もうしわけありません」
ライアンはまっすぐにエンキを見て頭を下げた。
その真摯な態度に、エンキはライアンを一時警戒したことを後悔した。
「母が亡くなってから僕も父も親戚も使用人も彼女に対して甘くなってしまいまして……。
今、甘やかした全員がその反動を受けている状態なんですよ……」
「そうでしたか……」
「……さて、気を取り直してゲームをしましょう!」
ライアンは明るくそう言うと、駒の動きをエンキに説明しだした。

「……手詰まりです。参りました」
ライアンは妹の淹れてくれたお茶を一口飲むと、エンキにそう言った。
傍らで二人の勝負を見ていたアーニャが目を丸くしている。
「兄さまは街でも強い方なのに……たった5ゲームで駒の動きを覚えて勝つなんて」
その言葉を言ううち、アーニャの瞳はうっとりとしたものになった。
「エンキさんってすごいのね!」
「いや……偶然かもしれない」
エンキは困ったように言った。何もアーニャだけに困っているのではない。ライアンを負かしたことにも少々困っているのだ。もちろん、3ゲーム目まではエンキはあっという間にあっさり負けていた。4ゲーム目で駒の動きとコツを覚えゲームの時間が長くなり、5ゲーム目では勝ってしまった。
しかし、初心者相手にライアンが手加減してくれていた可能性もある。だがライアンを見れば、不思議そうに首を捻ってばかりいる。
「うーん……もう一番お願いできますか?」
「ええ、もちろん」
エンキはちらりとエレオノーラの方を確認してそういった。彼女は学者とまだ話しこんでいる。
「……」
それからさらに2ゲームが終わった。
ライアンは頭を抱えている。
「……完全に僕の負けです」
「エンキさんすごーいっ!」
「……」
ライアンはかなり腕に覚えがあったらしく、たった7ゲームしかやったことのないエンキに立て続けに3回負けたのがショックだったようだ。頭を抱えている。
「エンキ、本当にやったことがないの?」
ゲーム盤を取り囲む場所には三人しかいなかった。だが不意に外野から声がかかる。椅子の背もたれのてっぺんに腕を預けて面白そうにしているエレオノーラだった。
「本当だよ。とはいえ……」
――記憶をなくす前のことはわからないが。
エンキはその言葉を飲み込んだが、エレオノーラは理解したようだった。
「……ただの偶然だろう」
代わりにエンキはそう言うことで場をつないだ。
「いやいや、ご謙遜なさるな!」
そう言ったのはライアンの父である学者だった。
「息子はこの街で5本の指に入るほどの腕を持っております。
その息子に連続して勝ったのですから、偶然ではありませんよ」
そして負けた当人も言う。
「うーん……エンキさんの場合、先を読んで行動なさっている以外に、どうもなにか相手を誘導してしまう空気……みたいなものがあります。逆らいがたいというか。
ココに置いたらマズイぞ、というのがなんとなくわかるんですが、そこに置かなければいけないような気がするんです。……賭けてみたくなる、というか」
「はあ」
言われた当人はよくわからないらしく、首をかしげている。
「ともかく、エンキさんはすごいのね!」
と、まとめたのは明るいアーニャの声だったがライアンは苦笑し、エンキは口の端で苦いものを噛んでいるような顔になった。

泊まっていかないか、という学者の誘いを丁重に断り二人は屋敷を後にした。
もう月も天空の西側により始めるころで、街は寝静まっていた。馬の足音と馬車の車輪がしずかに路地に響き、闇へと消えていく。
馬車の中も街に似て静かであった。
「……エレオノーラ」
「うん?」
「なんかよくわからないが、すごい血をひいてたんだな?
この国の統治者の親戚なんだろう?」
「まぁ、血統的にはそうなるけど」
エレオノーラは苦笑して肩をすくめる。
「ルシアス一世の息子は、母親から“邪王の遺産”を受け継いですぐに姿をくらましたの。
そのときにルシアス一世は息子を廃嫡したわ。
だからもう何の関係もないの」
「……廃嫡‥…」
「皇位は彼の弟が受け継いだわ」
再び街の静けさが馬車の中に入り込んできた。
二人はそれから眠るまで無言でいた。

「兄さま!」
「なんだい妹君」
去っていく馬車を見送ってくるりと踵を返したライアンの背中に、妹の声がぶつかった。
「兄さま、あの女の人好きなんでしょ?」
ライアンはひとつため息をつくと、妹の質問に答える。
「……少し素敵だなとおもっていただけです。まぁ例によって素敵な人の隣には別な人がいらっしゃったわけですが」
「またあきらめるの?」
「あのねぇ、またってねぇ……。素敵だなと思っていただけで恋していたわけではないんですよ。ついでに僕は別に間男願望持ってません」
「だってあの女の人、父さまの研究の役に立つんでしょ?」
アーニャがそう言うと、ライアンの顔つきが変わった。呆れと疲れをにじませていたような顔が怒りに変わる。
「そんな言い方をしてはいけません、アーニャ。その言い方はとても失礼です」
兄の苦言に、妹はむっとする。だが口ごたえはしなかった。
「いいですか、君は今日、どうもエンキさんに迷惑をかけたらしいですね。
僕は感心しません。
それだけじゃないですよ、最近きちんと勉強してますか?
してないでしょう。家庭教師の先生がいらしても部屋はもぬけの殻だったと聞いています。
昼間、用もないのに牧場に行っているそうですね。厩務員の人に迷惑かけてるんじゃないですか?彼らには大事な仕事があるんですよ、邪魔してませんか。
それと今日父さんとの約束、すっぽかしたでしょう。父さん楽しみにしてたんですよ」
「兄さま、……うるさい!」
ライアンの細かな忠告と叱責に、アーニャはついに小児のように地団駄を踏んで口ごたえをした。
「うるさい?ええ、うるさくて結構ですよ。僕は兄なんですから。
だいたい君の生き方は快楽主義的で安直すぎる!
今だって僕がエレオノーラさんとくっつけば、自動的にエンキさんが振り向いてくれるとおもってませんか?
そんなわけはない、そんな風に世の中上手くなんてできてないんですよ。できていてたまりますか!」
ライアンは搾り出すようにそう言って、腕を組み妹を見下ろす。
その目は完全に怒っていた。アーニャはそれまで兄が怒っているのを見たことがなかった。
ライアンという人間はいつもへらへらと笑っているものだと思っていた。
アーニャは兄に初めて恐れを感じた。そして気迫に押されて数歩後ずさる。
それから、だっと屋敷に向かって駆け出した。
ライアンはその背中をあえて見送り、彼女が屋敷に入ったのを見届けるとまたため息をついた。
「……ちょっと言い過ぎましたかね……」

「なによなによ!なんでわたしが怒られなきゃならないの!」
ライアンの心配は、取り越し苦労だったらしい。
アーニャは部屋に戻ると乱暴にドアを閉め、またみっともなく地団駄を踏んでいた。
ぺたりと床に腰を落とし、なんだか悔しくて泣いた。
それからしばらくして、泣き疲れで頭がぼんやりしてきたときだった。
「そうですね、どうして貴女が怒られなければならないんでしょう?」
聞き覚えのない声が耳に入ってきた。
「な……なに?」
アーニャは突然の声に驚き、そして怖くなって部屋を見回した。それは男の声だった。しかしその声は父のものでも兄のものでもなく、まして使用人の声でもなかった。
さまよったアーニャの視線は彼女の勉強のための机のほうへと向けられ、声の主を見つけた。
金の髪に顔の上半分を銀の仮面で覆った男が朗らかな雰囲気でそこに立っていた。
アーニャはひゅっと息を呑んだ。この男はどこから入ってきた?ドアはカギを閉めたし、部屋は二階だ。あきらかに不審者!
しかしアーニャは声を上げることが何故かできなかった。
「驚かしてしまって申し訳ありません」
見知らぬ男は優雅に腰をおる。それからゆっくりとした足取りでアーニャに歩み寄ってくる。
アーニャは立ち上がることもできなければ、もちろん逃げることもかなわなかった。兄か父を呼ぼうともしたが、やはり声が出なかった。
悲鳴を上げることさえかなわない。
「そう、どうして貴女が怒られなければならないのか。ほんとうに謎です。
あなたは自分の願望のために努力しているというのに」
銀の仮面の男は、嘆かわしそうにそう言ってアーニャの横を通り過ぎ彼女の背中側に回った。
アーニャは思わず身をすくめる。彼女は心の中で亡くなった母を呼び続けていた。
銀の仮面の男はすっと屈んで、アーニャに優しく耳打ちする。 「わたしがその望みを叶えるのに、協力してさしあげましょう」
耳に男の息がかかり、アーニャは目に涙がこみ上げて来るのを感じた。だがなぜか、涙はこぼれてくれない。
「きょう、りょく?」
アーニャはせめて肩越しに振り返り男の正体を見ようと思ったが、男の手がそれを制する。アーニャの首筋に手を添えて。
その手は、冷たかった。アーニャは思わず身震いする。
「そう、きょうりょく、です」
男の声は熱を帯びていて暖かい。耳に忍び込み、脳を麻痺させる。
「あの男を得るための、協力をしてさしあげます」
男は一言一言区切りながら、アーニャの脳に毒を注入する。
しだいにアーニャの脳はびりびりと麻痺していった。
アーニャはもう抵抗できず、疑問も持てず、ただ男の声に耳を傾けるだけになる。
「草原の王、鷲の目を持った男。千の傷を負う男。」
アーニャの脳裏にエンキが浮かぶ。アーニャはその姿にうっとりする。
「……貴女が欲しいのは、それですね?」
こくん、とアーニャは首の支えを失った人形のように深く頷く。
それに男はにこりと微笑む。だが男はアーニャの背後にいるので彼女はそれを見ることができなかった。もしできたとしても、毒によって霞がかけられた瞳では何も正しく見ることはできなかっただろう。
「……わたしは欲望の味方です」
男――錬金術師はそう言うと、アーニャの首の真ん中に左の人差し指を当てる。
ビリッという痛みがそこから全身に走り、アーニャはきゃっと声を上げて気絶した。そして彼女はどさりと倒れる。
錬金術師はそれを見下ろしながら立ち上がり、にっこりと笑った。
「それではおやすみなさい」
後には気絶したアーニャが冷たい床の上に残された。
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