「伯爵と平凡な娘」
メアリー・マグダレン
第一話

「ただいま戻りました」
明るいアンナマリアの声が居間に響き、伯爵は振り返った。
時間は日が沈んで間もない。
「おかえり。……おや」
伯爵は、トートバッグを肩に掛けジーンズ姿のアンナマリアが似つかわしくないものを抱えていることに気づいた。
それは幾重にも重なる美しい花弁を持つ、淡い色をした美しいバラの花束だ。
「これ、シビラさんにいただいたんです。居間に飾れば、って言ってました」
それを聞いて、控えていたダドリーが彼女に歩み寄った。
「では、花瓶を用意いたしましょう」
ダドリーは彼女からバラを受け取ると、花瓶を用意するために居間を後にした。
「そういえば、温室でいくつかバラを育てていたんだったな」
「“メアリー・マグダレン”って言うんですって」
「うん?」
「“メアリー・マグダレン”。マグダラのマリアのバラなんですね」
「……マグダラのマリア?」
伯爵はアンナマリアを見つめて、不思議そうな声を出した。
「そうそう。時折話題になりますよね、イエス・キリストの奥さんだったんじゃないかっていう聖女さま。でもこのバラ、別に聖女さまに奉げられたんじゃなくて改良した人の家の近くに“メアリー・マグダレン”っていう教会があったかららしいんですけど……伯爵?」
ふと考え込むように顔をそらした伯爵に、アンナマリアは首を傾げて歩み寄った。
伯爵の色白の顔がふと――さっとさらに白くなったような気がした。
「……伯爵、どうかなさったんですか」
「……いや、なんでもない」
そこへ、ダドリーが白磁の花瓶に入れた淡い色の、美しい――そしてどこか可愛らしくもあるメアリー・マグダレンを抱えて戻ってきた。
伯爵は腰掛けていたソファから立ち上がり、平凡な娘の前を通り過ぎると忠実な執事からそれを受け取った。
「そうか、“メアリー・マグダレン”と言うのか」
ひとしきり、深い色をした瞳でそれを眺めると伯爵は花瓶を丁寧にテーブルの上に置いた。
そして再びソファに腰を下ろすと、まるで埋もれるように背もたれに体を任せ、呆然としたようにそれを見つめる。
「――?」
アンナマリアは伯爵の奇妙な態度に首を傾げた。




夕食が終わって、居間に戻った後も伯爵はメアリー・マグダレンの花束を眺め続けていた。
アンナマリアもダドリーもマーサもそんな主人に首を傾げたが――ふと、数時間後、伯爵はダドリーに穏やかな声で命じた。
「どこかの衣装棚に――もしくは衣装掛けに、黒い、フード付きのマントがあるはずだ。
探しておくれ」
「かしこまりました」
「それと一緒に、やはり真っ黒な服が出てくるはずだ――マーサ、アイロンを掛けてくれないか」
「はい、かしこまりました」
「アンナマリア、申し訳ないが、シビラにこれと同じバラの花束を作ってくれるように言ってきてくれないか」
「ええ、いいですけど……」
伯爵は三人にそれだけ言うと、さっさと自分の部屋に引きこもってしまった。
アンナマリアは首を傾げながら、屋敷を出ると暗い庭を小走りに抜け、シビラの小屋にたどり着いた。
コンコン、とドアをノックする。しばらくして、ドアが開いた。
「あら、アンナマリア」
「こんばんは、シビラさん」
「どうしたの、夜に出歩くなんて」
「敷地の中ですから、出歩いたうちに入りませんよ。それより、伯爵からお願いがあるんですけど……」
「……?あの男が何か?」



「まったく、夜に花を摘めだなんて」
夜も暖かな温室で、シビラは怒り心頭ながらも丁寧に、淡い色のバラを集めていた。
「す、すみません」
「いえ、アナタに怒ってるんじゃなくて……。ッ!もうッ!」
シビラはトゲでも刺したのか、また顔をしかめた。アンナマリアはちょっと首を引っ込めた。
「……でも伯爵、いったいどうなさったんでしょうか」
シビラはトゲを刺した指を口に含んで止血すると、アンナマリアのその質問に答えた。
「おおかた、昔好きだった女でも思い出したんじゃないかしら」
「え?」
「二千年も生きている男ですもの。それこそ、愛した女は星の数ってやつじゃないかしら。
――それにしたって薄情な男ね」
シビラは摘んだバラをいとおしげに眺めながら言った。
「まるで、今まですっかり綺麗に忘れていたみたいな反応」
花束が出来るほど花が集まると、シビラはアンナマリアにトゲのとり方を教えた。
「古い服まで出して、まるで今から謝りに行くみたいね」
アンナマリアはシビラの横顔を見つめた。




――薔薇は人を惑わす禁忌の花――
そう定められていたのはいつの時代だったか。
その薔薇を彼に所望した女が一人。



――いつかわたしを連れて行ってちょうだい。
 ――残念ながら綺麗な身ではないけれど、吸血鬼の騎士様、貴方の長すぎる生に
  ――楽しみをいくつかそえることもできるでしょう。




「ご主人さま、これでしょうか」
ダドリーが屋敷の奥から引っ張り出して主人の書斎に持ってきたのは、それこそ何百年も経ていそうな古い生地のマントと揃いの服であった。
「腐れ果ててはいなかったか」
ほっとしたように伯爵は息をつく。ダドリーは慇懃に応じた。
「ご主人さまのものはすべて定期的にお手入れをさせていただいていましたから」
「ありがとう――マーサに渡してくれ。わたしはもう少し思い出さなければならない」
「かしこまりました。何かお手伝いできることがあれば――」
気遣わしげに言ったダドリーの言葉を、伯爵は断った。
「おそらく、さすがの君でも役にはたたんだろう。――思い出さなければならないのは、この街にたどり着くずっと以前のことだから」
「はい……」
忠実な執事は幾分がっかりしたようだった。そこへ、アンナマリアがシビラの小屋から戻ってきた。
「花束は、持って行く直前までシビラさんがお世話をしてくれるそうです。
――他に何かお役に立てそうなことはありますか?」
伯爵は、先ほどダドリーに言ったのと同じことを彼女に言おうとした。だが、アンナマリアはそれを先に制する。
「さっきのダドリーさんとのお話、少し聞いてしまったんですが、伯爵が思い出さなければならないものが何かの名前だったりしたら、私、きっとお手伝いできると思うんです」
「何?」
「パソコンをお借りできますか?」
アンナマリアはにっこりと笑う。
「構わんが……」
戸惑い気味の伯爵を置いて、彼女は彼の書斎の椅子に座ってパソコンを立ち上げた。
「今の時代、インターネットで色々なことが調べられるんです。全部とは言いませんけど。
もしかしたら伯爵がお探しのものの断片も引っかかるかもしれませんよ」
「そうか――なるほど」
伯爵は彼女の後ろに回りこんだ。アンナマリアは伯爵を見上げる。
「それで、何をお探しです?ヒントをたくさんいただけると助かります」
「教会だ――いや、修道院――尼僧院だ。墓のある、古い尼僧院だ」
アンナマリアは適当な検索サイトを呼び出した。




――いつのことだったか。教会にとっては黄金の、世俗にとっては暗黒の時代だったか。
それとも、その少し先の世俗の明るさが増した時代だったか。
ある夜、どこかの街の娼館で娼婦が一人、窓を開けて――だがそちらには背を向けて、何かを待っていた。客も取らずに。
姉さんは夜の騎士殿にご執心だから、と皆がからかう。
吸血鬼の騎士殿に噛まれてしまったんだよ、と言うものもいる。
たぶん、どちらも当たっているのだろう、と彼女は考えていた。
――正確には、噛まれてなんかいないけれど。自分で傷を作ったんだから。
彼女はそう考えながら、蝋燭を見つめた。と、炎が空気を焦がす音をさせて盛大に揺れた。
彼女は思わずすっと背筋を伸ばした。窓の閉まる音、錠の掛けられる音。
そして、歩み寄る重い足音。
彼女はそれが近づくぎりぎりまで堪え、十分な距離になると、振り返ると同時にそれに抱きついた。
「今夜のご所望は何かしら?一夜の寝床、人肌のぬくもり?」
苦笑の気配。彼女はそこへ、唇をそっと重ねた。
「どれも一度に。それと、少し“喉が渇いている”と言ったら?」
「特別よ」
苦笑しているバリトンに短く答え、二人はまた唇を重ねた。
――いつのことだったか。
教会にとっては黄金の、世俗にとっては暗黒の時代だったか。
それとも、その少し先の世俗の明るさが増した、文芸復興の時代だったか。
ともかく、古代の帝国が滅びてなお生きる自由を得た奴隷は、ここでは“夜の騎士殿”と呼ばれていた。
後に「生ける守護聖人」と崇められる吸血鬼の伯爵のことである。
そして時代は、薔薇を人を惑わす禁忌の花としていた。


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