「伯爵と平凡な娘」
メアリー・マグダレン
第二話

女のたまたま開け放っていた窓から、男が“転がり込んで”きたのはしばらく前のことである。――二階の窓から室内へ転がり込んで来れるとしたら、の表現ではあるが、そうとしか言い表しようがない。
男は、「喉が渇いている」と言った。今日の気だるい仕事を終えたばかりの女は動転したが、なんとか彼女付きの見習いの少女に申し付けて水を持ってこさせることが出来た。
だがそれをいざ男に差し出すと、男は「それではない」と言った。
「それではない?」
「わたしが欲しいのは“生命の水”。人の体をめぐる河を行く、赤い水だ」
女は思わず胸に手をあて、神を想った。そして女は自分の鏡台に走り、一本のナイフを取り上げた。磨き上げたその錫色の輝きを見た男は、弱った意識の中で「ここまでか」と思ったという。
だが女は男の胸にナイフを突き立てる代わりに、静かに自分の掌を差し出した。その掌の親指付け根の、柔らかな肉からは赤い血が滴っていた。男は自分が所望したとはいえ、少々驚きながらそこへ唇を寄せた。
荒れた唇の感覚の次に、女を襲ったのは彼女が感じたこともないような官能だった。それは背筋を撫でたかのように、彼女をぞくりとさせた。
なんと甘美な――優しく、だが荒々しく、恐ろしく、そして心地良い――感覚。彼女はその感覚に溺れかけた。
そしてその感覚が去り、男がそこから唇を離したときには――痛みもなく、傷は完全に塞がっていた。
それから女が驚いている間に、すっかり回復したらしい男はすぐに立ち上がった。それは、女がみたこともないほど美しい男だった――



それから二人の関係がはじまった。
娼館の女たちは、この奇妙な客人を“夜の騎士さま”、と呼んだ。男がまるで夜を切り取ったかのような服を着て、いつも日が完全に沈んでから現れたからだ。そして、初日に彼の行動を見た見習い娘は彼が吸血鬼であると娼館中に知らせた。だが誰も教会に助けを求めなかった――この娼館は、半ば教会に見捨てられた存在であったからだ。助けなど来ない、と考えた女もいる。逆に教会に娼館を潰す好機を与えてしまうと考えたものもいる。ともかく、女たちは教会に異端の存在を教えなかった。
しかし“夜の騎士”は決して“か弱い女”たちを襲ったりしなかった。
あくまでも紳士に、騎士よりも騎士らしい態度で、教会にも愛されぬ女たちに接した。




「何か怒っているらしいな」
「べつに?お客様に肩入れするのはいいことじゃないもの」
うつ伏せになった女はベッドの上で伸ばした足をパタパタと動かした。
男は眉を上げて、おや、という顔で女を見た。女は観念して両手を挙げた。
「アマーリアが最初の相手は貴方がいいって」
「アマーリア?」
「私の世話係。……見習いよ」
「ああ」
“夜の騎士”と呼ばれていた彼はひょい身を起こすと、女のすべらかな背中に意外ににたくましい胸を合わせた。
「あまり気が進まんな」
「どうして?生娘よ。――男はスキでしょう?」
「生娘を好むのは年寄りだ――歳をとると自信を喪失するからな」
「あら、自分が年寄りじゃないといいたげね?」
女は肩越しに振り返り、睫毛を半ば伏せた。今度は男が降参する番だった。女は笑って軽く男の頬に唇を当てた。
「こんな商売だもの、そりゃあいろんな相手がいるわ。でも初めては別なのよ。
臭いじいさまよりもいい男の方がいいに決まってるでしょう」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてあげたんだから、ちゃんと考えておいてね――信頼できる人に任せたいの」
女はひょいと男の下で体を器用に捻って彼と向き合った。そして彼の首に腕を絡ませ――そこで、コンコン、とノックの音がした。
「噂をすれば、アマーリア嬢のようだ」
「そのようね」
女は少々むっとしてするりと男の下から抜けると、手近にあったローブを取り上げて羽織り、大股にドアに近づいた。
「なぁに」
「姉さん」
ドアを開けると、件のアマーリアが困り顔で立っていた。
「あの、玄関にエルネスト様がいらしているんですけど」
「取り込み中と言ってちょうだい。それに彼は身を清めなければ成らないはずよ?」
「それが、言ったんですけど……」
「……しょうがないわね」
女はくるりと踵を返した。そして服を着込みながら言う。
「ちょっと待っててちょうだい、ややこしいのが来たのよ」
「ややこしい?」
男は尋ねたが、女は答えずに足早に出て行った。ドアは開け放たれたままだ。
そこから、遠慮がちにアマーリアが入ってきた。
「あの、騎士さま、考えていただけました?」
「……何のことかな」
「姉さんからお聞きになりませんでしたか、その……」
アマーリアは俯いて顔を赤らめた。男は散らばっていた衣服を集めると、咳払いをひとつ。
「さて、ちょっと気になるので様子を見てこよう……」
服を適当に着て部屋から出ようとすると、アマーリアの「考えておいてくださいね!」という声が背中にぶつかった。
廊下に出て、吹き抜けから――女の部屋は二階だった――一階の入り口を見下ろす。そこへ数人、娼館の女たちが集まってきた。
見れば、女に男がみたことがない男が詰め寄っていた。
「あれは誰だ?」
男の声に誰かが答えた。
「どっかの貴族の次男坊だそうよ。エルネスト、っていうらしいわ。姉さんにご執心なの――姉さんはあんまり好きじゃなかったらしいんだけど。なんでも継ぐ土地がないとかで、修道院に入れられるらしいわ」
「ほう、それで身を清めなければならんのか」
男はそう言って下を見下ろした。いつの間にか、二人の会話は吹き抜けに響くようになっていた。
「待って、私はそんなこと頼んでないわ――」
「どうして?!だって、こんなところ、君だって居たくないだろう?!」
「そんなことも言ってないわ――大体あなた、修道院に行くんじゃなかったの?
こんなところに来てはいけないでしょう」
「だって、だって、僕は嫌なんだよ、修道院なんて。君だってこんなところに居たくないだろう?!駆け落ちしようじゃないか、素晴らしい未来が、きっと僕らを待っているよ!」
ぷ、と娼館の女たちが密かに笑う声が“夜の騎士”の耳にも届いた。
女は顔をしかめていた。
「世の中そんなに甘いものではないわ――エルネスト坊ちゃま、さぁお屋敷にお戻りなさい。修道院だって、住めば都かもしれないわよ。ここだって私にとってはそれなりに居心地のいい場所だもの」
男が地団駄を踏んだように“夜の騎士”には見えた。彼はため息をついて、ゆるい螺旋になっている階段を下りていった。そして、女の名を呼ぶ。
振り返った女を背中に庇いながら、男はエルネストに言った。
「彼女はわたしの接客中だったんだがね――そんなに火急の用だったのかな」
すると、エルネストの顔が真っ赤になった。
「なんなんだこの男は!」
「あなたと同じ、お客様よ」
だが、エルネストは女の話を聞いていないようだった。顔が赤くなったのは、怒りのためだった。
「そうか、僕を捨ててこの男に乗り換えたんだな!」
「え?」
エルネストの言葉に女は面くらい、男は不穏なものを感じ取った。
「わかったぞ!わかったぞ……!裏切りものめ!」
「裏切り者って……」
「君は何か勘違いしているようだが……彼女は商売をしているんだ」
男が言うとエルネストは強く首を振った。
「僕にだけは違った……僕にだけは違った!なのに、裏切りものめ!」
エルネストは最後にそう言うと、踵を返して出て行った。玄関のドアが乱暴に閉まると、女はため息をついた。
「彼、私のおかげで“男”になったのよ――だから。たまにいるのよ、ああいうのが」
まるで何でもなさそうに言う女を、男は不安げに見下ろした。
「そうかね……少し、気をつけたほうがいいかもしれん」
「大丈夫よ、いつものことだし」
「……」
不安げにしている男を、女は見上げて笑った。
「大丈夫よ」
と言って。




それから数週間。
エルネストという貴族の息子は修道院に入った――そういう話が聞かれた。女はほっとした顔でほら、大丈夫だったでしょう、と“夜の騎士”に言った。“夜の騎士”は何かが引っかかるのか、浮かない顔をしている。
そんな男の胸に頭を乗せて、女は訊いた。
「ねぇ――別にアイツに言われたから考えたわけでもないんだけど……もし私がここで生きていけなくなったら世話をしてくれる?」
「うん?」
「そろそろ色んなところがたるんできたし、かと言って引退しても娼館を経営するだけの才能も後ろ盾もないし――可能性として聞いてみたかったのよ」
「……やぶさかではないが、わたしは人間ではないぞ」
「それも面白いかな、と思って」
女の言葉に男がいささかむっとすると、女は笑って体を起こした。
「今すぐ、なんて言わないわ。そうね――気が向いたら。
いつか私を連れて行ってちょうだい。
残念ながら綺麗な身ではないけれど、吸血鬼の騎士様、貴方の長すぎる生に、楽しみをいくつかそえることもできるでしょうから。私が天国に行くその日まで」
「――わかった」
男が言うと、女は嬉しそうに笑って彼に覆いかぶさった。
「約束してくれるかしら?」
「信用できないなら、約束の品に何か贈ろうか?」
言うと、女は彼の胸に伏せて言った。
「薔薇がいいわ」
「薔薇?」
「そう、だって、私見たことないもの。人を惑わすとか言って教会は絶対に見せてくれないし、ちょっとコネがある貴婦人にとってはもう珍しくもなんともないでしょうけど。薔薇の、一番綺麗な花束をもって迎えに来てちょうだい」
男は笑った。
「――そんなものでいいのなら、君に一番似合いそうなものを探してこよう」
「本当に?」
「約束は違わん」
女は約束よ、と言った。
「娼婦との戯言じゃない?」
「戯言にしてほしいのか?」
「――いいえ」
女は、本当に嬉しそうだった。



数日後のやはり夜――だが夜はまだ訪れたばかりだった。
彼が訪れたとき、娼館は騒々しい嫌な静けさに包まれていた。
誰もが口を開かずに、青ざめながら忙しく立ち回っていた。動く林のような娼婦たちの間を抜け、男は馴染みの女を捜していた。
「“騎士”さま!」
異様な空気の中、叫ぶような声が上がった。アマーリアだ。
見習い娘は背の高い男に歩み寄ると、彼にすがるようにして訴えた。
「エルネストが来て、姉さんを刺していったの!血が止まらなくて、でも街のお医者は誰も助けてくれないの!」
男がその内容を理解する前に、見習い娘は黒い革の手袋に包まれたその手を掴んで彼を引きずって行った。
男が連れて行かれたのは、娼館にある小さな祈りのための部屋だった。さめざめと泣く女たちの中央に、馴染みの女が青ざめて横たわる。
その周りには、止血に使ったらしいシーツや布の切れ端が無造作に投げてある。致命傷になったらしい腹部の傷を押さえていた一人の娼婦が気配に気づいて振り返った。
ここは教会に見捨てられた場所だった。
「出来るだけのことはしました」
止血をしていた娼婦は涙を湛えた目で言った。“夜の騎士”は優しく彼女を押しのけて、馴染みの女を抱き上げた。男の温かみのある白い肌とは違い、女の肌は死に近い白をしていた。女は目を閉じて、身動きしない。だがわずか、息があった。男は女の頭を自分の胸に預けさせると、そっと彼女の手を持ち上げた。
恐らく狂った男が振り上げたナイフから己の身を庇おうとしたのだろう。たくさんの傷があった。
後に伯爵と呼ばれることになる吸血鬼は、掌の血が滴る傷ひとつひとつに唇を当てていった。彼が唇を離し、こびりついた血をふき取ると、そこには白く美しい、傷のない手があった。
「傷が塞がったわ!」
アマーリアたちはわっと喜びの声を上げた。しかし、“夜の騎士”と呼ばれた吸血鬼の顔は暗い。彼女たちに顔を向けず、ただ首をゆっくりと振る。
「これから流れ出ようとする血をとどめることはできても、すでに流れ出てしまった命を器に戻すことは、わたしにはできない」
吸血鬼は手以外の、傷にもひとつずつ口付けを落としていった。最後の大きな、腹部の傷に唇を落とすと、閉じられていた女の睫毛が震えた。
「姉さん!」
アマーリアが声を上げると、女は瞼を持ち上げた。そして、姿勢を戻して女を抱きかかえていた男を見つける。
「……薔薇を持ってきてくれたのかしら」
弱々しい声で、期待を込めずに女は訊いた。男は一瞬だけ目を閉じ歯を食いしばった後、優しく笑った。
「君に似合うものがなかなか見つからなくてね――」
「楽しみにしてるわね」
女が手を伸ばして、男の頬に触れた。それから、視線だけを動かして仲間の娼婦たちを見た。言葉はなく、彼女は微笑みかけただけだ。それからまた、女の視線は男に戻る。
男は黙って女の唇に自分の唇を落とした。女は応えるように――――――




それから数時間、何もかもが寝静まった静かな夜、街に一番近い修道院の扉を叩くものがあった。
夜勤の修道士がそれに気づき、扉を開ける。
そこには黒尽くめの、背の高い、動かない女を抱えた男がいた。
「な、なんだ――?」
「洗礼名は知らんが、エルネストという名の男がいるはずだ。出してくれ」
底知れないほど低いバリトンに修道士は怖気を感じた。しかし、修道士はすぐに応じることが出来なかった。
「な、なんのご用かはわからないが――」
「出せといっている」
修道士はその語気に思わず後ずさった――そして、あえて話題を変えるために男の腕に抱かれている女に目をやった。
「それは、娼婦か」
「そうだ」
「穢れたものをここに入れるわけには行かない、治療か何かが必要なら他を――」
「もう死んでいる」
低い声に驚いて、修道士はまじまじと女を見た。男は女を視線から庇うように抱きなおすと、また言った。
「エルネストという男を出せ」
その、先ほどよりも低い声に修道士は縮み上がり、十字を切って神に祈った。そして、痺れを切らして男が一歩、修道院へ足を踏み入れようとしたとき――コツ、コツ、という石造りの床を来る穏やかな足音が聞こえてきた。
修道士が振り返り、すがるような声を上げた。
「院長!」
見れば、白髪のどこか厳しい顔つきをした男が歩み寄ってくる。男は女を抱えたまま、体ごとそちらに向き直った。女を抱えた男が何か言うより先に、白髪の男が口を開いた。
「ブラザー・アンドレならつい先ほど死にました」
「……何?」
「裏切り者のユダのように首をくくって。エルネストという名で呼ばれていた修道士ならその者しかおりません」
そして、院長と呼ばれた白髪の男は吸血鬼に抱えられている女を見た。
「……一人で首をくくったのだったらよかったのですが」
そして院長は女に歩み寄り、彼女のために十字を切った。
「……ブラザー・アンドレの俗世での悪評は聞き及んでおりました。
自ら命を絶ったものは神の御許へは行けません。ましてや人を道連れになど。
……そのことに免じて、怒りをお納めください、“アウグストゥスの恐怖”よ」
院長は、吸血鬼に古い名で呼びかけた。
「……わたしを知っているのか」
院長はひとつ頷いた。
「私は古代の帝国から続く一族の枝葉の家に属しておりました。あなたのことはよく聞き及んでおります。“アウグストゥスの恐怖”は未だに生きている、と」
もうすでに何百年という齢を持つ吸血鬼は静かに歳をとった人間を見下ろしていた。そして一度、目を閉じ――そして彼は尋ねた。
「……ここでは葬儀はできるのか?」
「残念ながら、娼婦の葬儀は執り行えません。彼女に後ろ盾がないのなら、街の教会もいい顔をしませんでしょう」
院長は感情のこもらない声で言った。吸血鬼が思わず意味を成さない声を上げかけると、院長は言葉を重ねた。
「しかし、ここから北へ少し行ったところにマグダラのマリアに奉げられた尼僧院があります――そこならば、何もかもがすべてとりそろうことでしょう」


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