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「魔法使いと記憶のない騎士」
―過去の断片―
「家路」

「ノーラ!気をつけて行ってらっしゃい!」
家を出たかけたところで、小さなノーラは背中に母の優しい大きな声を受けた。
「うん!」
小さなノーラは元気よく肩越しに答える。それから、思いついて玄関をちょっとだけ駆け戻る。
そして小さなノーラは母に思いっきり抱きついた。
母はびっくりしたようだったが、すぐに笑顔になって娘をぎゅっと抱きしめた。
小さなノーラは嬉しそうに母を見上げる。
「いってきます!お土産買って来るね!」
「お父さんを頼んだわよ」
母は少し心配そうに、だが娘に全幅の信頼をよせてそう言った。



――そう、今日は母さんはお留守番。父さんと一緒に麓まで野菜を売りに行くの。
父さんは“からだがよわい”から私がしっかりしなきゃ!



小さなノーラは家を出た。
表にはすでにのんびりやの馬に繋がれた荷馬車があった。御者台では父が娘の登場を今か今かと待っていた。
小さなノーラは、急いで荷馬車に駆け寄る。荷台には野菜がいっぱい。
「父さん、マント持った?」
「ああ持ったよ」
「いちばんあったかいの?」
「そう一番あったかいのだ」
父は娘に手を貸して御者台に彼女を上がらせた。小さなノーラは父の隣に座ると、家の玄関の方を向いた。
母は娘に手を振った。娘も母に手を振った。
父がのんびりやの馬の手綱を引いた。
荷馬車はことことと動き出す。



「今日と明日は村に泊まるんだよね?」
「そうだよ。母さんにお土産はなにがいいかなぁ」
御者台の二人は、帰りのことを行きの道でたくさん話した。



母さんが遠ざかる。



家が遠ざかる。



荷馬車は遠ざかる。



風景も遠ざかる。



父さんとの間に霧がたちこめる。



懐かしいラボレムスの家は、とても遠い……



「……ノーラ?エレオノーラ!」
懐かしい名前を呼ばれた気がして、エレオノーラは目を覚ました。
エンキが覗き込んでいる。
彼は頭の後ろに星空を乗せていた。
どこかきつい光を放つ月も。
ああそうだ、今日は野宿をするんだった。
「テント張れたぞ。スープは大丈夫か?
なんかうたた寝してたみたいだけれど……」
エレオノーラはゆっくり頭を振り、あたりを見回した。
ああそうだ、今日は野宿をするんだった。
「ごめんなさい、疲れていたのかしら」
ぱちぱちと音を立てる炎の上で、スープは出番を待っていた。
「夢を見たわ」
「夢を?」
「そう、ずっと見ていなかった懐かしい夢」
エレオノーラがそう言うと、悲しくないのに彼女の瞳から一筋涙がこぼれおちた。
「……」
エンキは何も言わず、不器用に彼女の隣に腰掛けると不器用な指で涙の(あと)をぬぐってやった。
それから彼は背嚢からカップをふたつ取り出すと、スープを取り分けて彼女に渡した。
湯気のなかで、エレオノーラはすこしぎこちなく彼に笑いかけた。
エンキは口元を優しくゆがめると、カップを口元に運んだ。
エレオノーラも、それを真似る。
二つのカップからあがった白い湯気は、瞬く星に届く前に闇夜に消えていった。



小さなノーラはもうどこにもいない。
「帰りの道の話」はもう何年もしていない。
これからもすることはないだろう。



――旅路へと続く――

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初出:web拍手用番外編ショートショート。再録に伴い若干改定。