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「魔法使いと記憶のない騎士」
―こぼれ話―
「犬」

生臭い。
なにやら動物臭い。エンキはその臭いに気づき目をゆっくりと開けた。
外はいやに静かで、時折聞こえてくるホーホーという鳥の鳴き声でまだ夜中だということがわかる。
「……?」
エンキはそろりと起き上がり、テントの中を見回した。
隣にはエレオノーラがいるはず、だった。
「……」
まぁ確かに、エレオノーラは毛布に包まってたしかにそこにいた。すやすやと寝息を立てている。
だが彼女が眠っているのはエンキの隣ではなかった。彼の隣の隣であった。
「――……」
エンキとエレオノーラ間には、第三の物体が横たわって――いや丸まっていた。
茶色の、毛の生えた、生臭さの原因。

「犬。」

犬だった。まごうことなき犬だった。
だがエンキには犬を飼った覚えがない。第一テントの周りにはエレオノーラの結界があるはずである。
それをどのようにして超えてきたというのか?
というか、なぜここで犬が寝ているのか。
エンキがあっけにとられて犬を見下ろしていると、犬がのっそりと動いた。そしてなんとも眠たそうな目でエンキを見上げる。
鼻の長い、両方の耳が半ばで垂れた痩せた情けない茶色の犬だった。
尻尾は振らない。
「なんだお前?」
エンキがそう言うと犬はのっそり立ち上がり、テントを出て行った。



「ああ、結界は悪意のないものなら通れることがあるのよ」
「……そうなのか」
翌日の朝食時、エレオノーラに昨夜の犬の話をすると彼女はあっさりとそう言ってのけた。
エレオノーラは彼にパンとスープを渡すとひとつ頷く。
「最近冷えるようになったからね。暖かいと思って入ってきたんじゃないかしら。
ちょっと見たかったわ。起こしてくれればよかったのに」
「だいぶ貧相なヤツだったけどな……」
エンキはパンをかじりスープをすする。エレオノーラは彼の向かいに腰掛ける。だが腰掛けたところで動きが止まった。
「エンキ」
「ん?」
「もしかしてあの子かしら」
エレオノーラは楽しそうにエンキの後ろを指差した。エンキは少々面倒くさそうに振り返る。
そこには貧相な茶色の犬がいた。
耳は半ばでへにょりといった感じで前におれている。鼻は長い。間違いない。
「ああそうだな……」
二人が見つめていると、犬はとことこと歩き出した。そしてエンキの脇を通り過ぎる。やはり生臭い。
エンキは少々顔をしかめた。
犬はエレオノーラのところにたどり着くと、彼女の膝にちょこんと顔を乗せた。そしてクゥーンと鳴く。
「まぁ、おなかがすいたの?」
エレオノーラはそう言うと、自分のパンをちぎって犬に差し出した。犬は尻尾を振ってそれを食べた。
「おい、餌付けするなよ」
エンキに警戒心が芽生え、彼は彼女に注意した。
「野良だぞ。懐かれたら面倒だ」
するとエレオノーラは悲しそうな顔をした。
「野良かはわからないけれど……そうね、これ以上食い扶持も増やせないし」
エレオノーラはそう言うと、ごめんねと言って犬の頭をなでた。



「ついてきてるな」
「ついてきてるわね」
とことこと二人が歩く後を、茶色の犬はずっとついてきていた。仕方なく立ち止まって振り返ると、犬は嬉しそうに走りよってきた――エレオノーラの方に。
「餌付けしてしまったのかしら」
「どうだろうな……」
エレオノーラはかがんで犬の頭をなでる。すると犬は嬉しそうに尻尾を振った。エンキもため息をつきながらかがむ。
そして犬に手を伸ばそうとすると、犬はウーッとうなった。
「……差別だ」
「餌付けするなって言ったからよ」
エレオノーラはたのしそうに笑った。



だがどうも犬の差別の原因はそれだけではなさそうだった。
二人と並んで歩くようになると、犬はエレオノーラの横にぴったりついて離れない。
エンキがエレオノーラに近づこうとすれば、うなる。
「なんなんだ」
エンキがいらいらしながらそう言うと、エレオノーラもさすがに困ったのか犬に言って聞かせた。
「ごめんなさい、連れてはいけないのよ」
すると犬はしょんぼりと耳と尻尾を垂れさせた。


犬は人の言葉はわかったようだったが、まだついてきた。
二人に、というよりエレオノーラに。
尻尾をふりふり、エレオノーラの周りをくるくると回る。そしてじゃれ付く。
時には彼女を押し倒して顔中を嘗め回すことも合った。
歩みは当然遅くなった。エンキのイライラは募る。
エレオノーラは困りながらも、犬をあしらいきれないでいた。
出会いから二日たっても犬はついてきた。その日の夜――
エレオノーラが薪を拾いにいき、エンキが火の番をしていることになった。その日はなぜか犬もそこにとどまった。
エンキと犬の間になんともいえない緊張感が漂う。
――動物と目を合わせたら、目をそらしてはいけない!
エンキはそう思い、犬とにらみ合いを続ける。
犬は低く、ウ〜〜〜っとうなりだした。エンキも負けない。
だがさすがに三分もそんなことをやっていたら疲れる。
痺れを切らしたエンキは、ついに叫んだ。


「わん!!」


あらん限りの声でエンキがそう吠えると、犬はキャンッと声を上げて一目散に逃げて言った。
後姿を見れば、足の間に尻尾を巻き込んでいる。

「勝った……」
エンキは満足してぽつりとそう言った。
からん、と背後で何かが落ちる音がした。振り返ってみると、薪を拾い終えたらしいエレオノーラがぽんと口を開けてこちらを見ていた。先ほどの音は、薪が落ちた音らしい。

しばしの沈黙。

エレオノーラはついに噴き出した。
そして笑いながら言う。
「『わん』って……『勝った』って……、……!」

エンキは耳まで真っ赤になって、入る穴を探した。



それから犬は二度と戻ってこなかった。
だが、二人は道で例の茶色の犬が行商の綺麗な女性にまとわりついているのを見た。
後日聞いたところによると、貧相な耳の垂れた茶色の犬は、女たらしの農夫が飼っている犬だったらしい。


―旅路へと続く―

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初出:web拍手用番外編ショートショート。再録に伴い若干改定。