本編目次  Home  番外編目次 

「魔法使いと記憶のない騎士」
―こぼれ話―
「雨」

ぽつり、と水滴がなめらかなエレオノーラの頬に落ちて彼女は空を見上げた。
「……やだ、雨よ」
突如としてやってきた黒い雲に覆われたそこは、ローランド皇国の首都へと続く大街道の真ん中だった。
エンキとエレオノーラは先ほど旅人のために用意された休憩所を出たばかりで、雨宿りができそうな場所はどこにもなかった。
石畳の淡い灰色が、次第に水を含んで色を深くしていく。
「もう少し休めばよかったわね」
道連れになったばかりの黒馬を挟んだ向こう側のエンキに、エレオノーラは声をかけた。今はサライの背には荷物が乗っているだけで、エンキもエレオノーラも馬と並んで歩いていたのだ。
エレオノーラがのんびりとエンキに話しかけている間にも雨脚は強まり、肌に触れる水滴は増してゆく。
サライはゆるゆると首を振ってたてがみの水滴を払った。が、それも数瞬後には無意味になってしまう。
エンキはため息をついて、辺りを見回した。
「――あそこで休もう」
エンキが指差した先には、頼りなげな木が一本気まぐれに生えていた。



一頭と二人はそんなわけでその木の枝の下に駆け込んだが、枝の広がりはやはり頼りなげではっきりいって「雨をしのげる」ものではなかった。
幸い二人はマントを羽織っていたので、服が濡れて真から体が冷えてしまうという事態はそれなりに避けられそうだった。願わくばマントが役立たずになる前に雨がやんでくれるように、というところである。
エレオノーラはエンキに貰ったばかりのマントが濡れてしまうのはなんだか嫌だったが、こうなれば仕方がない。付属のフードをかぶって顔が濡れるのを防ぐしかない。
サライはわずかな枝の下に頭しか入れずにいらいらと体を揺らしていたが仕方がないとどこかで納得しているらしく、それ以外は大人しくしていた。
あたりは暗く、雨脚は速くなってやがて一定になる。エレオノーラは辺りを見回した。人はいない。
一瞬、サライを飛ばして休憩所に戻った方がいいかしら、と思ったが雨が降り始めてすぐに人で一杯になっただろうと思い直す。
そしてふぅ、とため息をついた。
その時、ふと雨脚が弱まった。
エレオノーラは驚いて思わず空を見上げた。だがその視界を覆ったのは雲でも晴れ間が見えた空でもなかった。
エンキの黒いマントがエレオノーラの頭上に広げられていたのである。
見れば、エンキが腕にマントを絡ませエレオノーラの頭上に即席の傘――というか雨避けをつくっていたのだ。
だがそんなエンキのマントにフードはない。
彼はすっかり濡れぼそり、前髪からは水が滴っていた。
エレオノーラは慌てて言った。
「私はフードがあるから大丈夫よ!それよりマントをかぶったほうがいいんじゃない?」
だがエンキは雨の街道を眺めるだけで答えない。
「エンキ、聞いてる?腕も疲れるでしょ?」
「大丈夫だ」
エンキは短く答えただけでその会話を終わらせてしまった。でもも、だっても言わせないといった雰囲気にエレオノーラは黙り込んでしまう。
ときどきエンキはこういう雰囲気を出す。近寄りがたいような、逆らいがたい雰囲気だ。
エレオノーラはせめてもの抵抗に腕が楽になるようにと彼に寄り添った。エンキはそれに気づいて苦笑する。
サライがフンッと鼻を鳴らした。



雨は、全く止まない。
どのくらいそうしていただろうか、明らかにエンキの腕に疲れが溜まってきていた。
エレオノーラはそれを見て取り、どうしたものかとしばし思案する。
「……あ」
「……どうした?」
エレオノーラはエンキを仰ぐ。
「テント、たてましょう。そうすれば雨はしのげるし、座れるわ」
それを言われてエンキはあっと声を上げた。
「その手があったなぁ……うっかりしてたよ」
そう言うと彼は自分が羽織っていたマントを脱ぐと、エレオノーラにかぶせた。
「今作るから、それまでしばらくこれで凌いでてくれ。できたらそれを枝にかけてサライの雨避けをつくってやってくれ」
エレオノーラは慌ててかぶせられたマントをエンキに掛けかえそうと思ったが、それよりも早くエンキは作業に入ってしまった。エレオノーラは観念して、サライの頭を彼のマントで守ってやった。



テントが出来上がる頃にはエンキはすっかり濡れてしまっていた。サライの方はないよりはまし、とエンキのマントとエレオノーラの古いマントを枝にかけてつくった避難所で雨宿りをしている。先ほどまで二人がいた場所が空いたのでなんとか広げた雨避けマントの下に収まっている。
サライの背に預けていた荷物に入っていた着替えが濡れていないことを確かめてエレオノーラはエンキに乾いた服を渡し、火をおこした。
エンキはその間にあらかたの水分を体からふき取り、着替えた。服を脱ぐのはもちろんエレオノーラに背を向けて、である――エレオノーラも背を向けていたが。
「寒くない?大丈夫?」
「――やっぱり少し寒いな」
着替えを終えたエンキに聞くと、彼は苦笑した。エレオノーラはやれやれと首を振る。
「ほら、やせ我慢するから……。待って今毛布を出すから」
エレオノーラは毛布を取り出し、彼の前から器用に肩にそれを回してやった。毛布を首の辺りで合わせようとして、ふと彼女は何かを思いついたようだった。
すいっと大きめの毛布の中に体を滑り込ませて、自分も毛布に納まってしまう。自然とエレオノーラの体はエンキの胸に寄せられる。
突然一緒になって毛布に包まり、体を寄せてきたエレオノーラにもちろんエンキは驚いた。
「エ、エレオノーラ?」
「火の熱に手をかざすより、こうしたほうが体温が伝わって早く温まるのよ」
そのまま彼女はこてんとエンキの胸に頭を預けた。
「お、おい……」
頭上からエンキの戸惑ったような声が降ってくる。エレオノーラはくすくす笑って言う。
「あなたやっぱり体大きいのね。安心するわ。あったかいし」
エンキが天を仰いで息を吐く気配がした。



雨の中で、時間は夜となったようだった。
――テントをはったのは正解だったな。
エンキは思う。今ではテントの中は火で十分な暖かさになっていた。ふと外のサライが心配になるが、元々野生馬だったのならばこれくらいの雨は平気だろう。もしくはどこか別なところで雨宿りをしているかもしれない。
しかし、とエンキは思う。
――参ったなあ。
エンキの腕と毛布に包まってエレオノーラは穏やかな寝息を立てていた。
体温は彼女のおかげですっかり元に戻っていた。だがこの状態、どうしたものか。
――眠れないじゃないか。
信頼しきって体を預けてくる赤子のような女に、エンキはまたため息をつく。
もしかしたら自分は男じゃないと思われているのかもしれない、とも思い、それならばすべて壊してしまおうかと邪な思いもわきあがってくる。
たぶんそれをするのは簡単だ。だがただそれだけのためにこれまでの恩と信頼を裏切ってしまうのは、割に合わない。
「参ったなぁ」
仕方なしにその言葉を口に出して、エンキはエレオノーラの髪を撫でた。



翌日の空は、何事もなかったように晴れ渡っていた。

――旅路へとつづく――

本編目次  Home  番外編目次

初出:web拍手用番外編ショートショート。再録に伴い若干改定。