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「魔法使いと記憶のない騎士」
―こぼれ話―
「朝の風景」

宿の洗面所は大概狭い。
部屋についている洗面所というのは風呂場に申し訳程度に付属しているだけで、本当に狭い。それでも共同洗面所じゃないことはありがたがらなければならない。


いつも最初に洗面所に行くのはエンキだ。男の朝の儀式とは簡単なもので、エレオノーラのように背嚢から丁寧に櫛を取り出したり――最近特に彼女が使う櫛はエンキが贈ったあの宝妖の細工の見事な一品だった――、タオルをえり好みしたり髪を水でぬらさない様に結わえたりはしないのだ。
エレオノーラが洗面の準備を終え、洗面所に行くとエンキはなにやら顎を撫でていた。
「歯磨きとかは終わったの?」
「一応ね」
エンキは顎と頬を撫でながら答える。
「どうしたの?」
「いやこれくらいだったらいけるんじゃないかと思って、今日」
「いける?」
見れば、エンキがしきりに撫でているところには無精ひげが生えかけている。
エレオノーラはそれを見てぐっと背筋を伸ばした。
「やだ、それって今日一日そのままにしておこうってこと?
確かにあなたは薄い方だけど」
エレオノーラはゆるゆると首を振った。結わえた髪が背中で揺れる。
「いやか?結構面倒なんだよなぁ毎朝毎朝」
「……これは私の思い出に基づくものなんだけど」
「?」
エレオノーラは洗面道具一式を胸に抱えたまま訥々と話し始めた。
「休日になるとね、父は無精ひげをそのままにしておく癖があったの。面倒だったんだろうけど……。
それでね、少し遅くまで私が寝ていると母に頼まれて父が私を起こしにくるの。
その時父はどうしたと思う?」
「……さあ、わかんないな」
「奇襲を仕掛けてきたのよ」
エレオノーラは少し眉を寄せて深刻な口調で言った。エンキは思わず
「き、きしゅう?」
と問い返してしまう。
「そう、奇襲。
心地よいベッドの中でまどろんでる私に奇襲を仕掛けてきたの。
どうやったと思う?無精ひげの生えたジョリジョリした頬で頬ずりしてきたのよ」
「…………。」
やはり大真面目な顔で言うエレオノーラにエンキは無言で顎を撫でた。
「男の人やそういう頬ずりが好きな人にはわからないでしょうけど、私には恐怖だったわ!
いきなりジョリジョリした感覚で現世に引きずり戻されるのよ。わかる?」
――いやわからん。
とはエンキは言わなかった。その間にエレオノーラは「無精ひげの頬ずり」の恐怖を熱を込めて語っている。父が悲鳴を上げても放してくれなかった、とか、母が笑ってみていた、とか。
そんなエレオノーラの顔を少し高い位置から見ていたエンキはふと――温かいような、切ないような気持ちになった。そしてまた、ひげの生えかけた頬を撫でる。
「――剃るよ」
「――え?」
「いやなんだろ、無精ひげ」
エレオノーラは一瞬きょとんとした顔をした後、
「そ、そう?」
と言った。
エンキは苦笑のような優しい笑みを浮かべながら部屋に剃刀を取りに戻った。
実はこの剃刀もエレオノーラに貰ったものだ。折りたたむと柄に刃が収納される、床屋が使う本格的なものだった。エンキは刃物の手入れが好きなので、刃は錆もくすみも宿していない。
確か洗面所に備え付きのひげそり用の泡になる粉があったはずだ。
洗面所に戻るとエレオノーラは洗顔を終え、髪を解いていた。
「歯は磨いたのか?」
「鏡、先に使うでしょう?」
彼女はそう言って一歩引き場所をエンキに譲った。
「髪を梳かすのだったら、そんなに鏡と近くなくても大丈夫だから」
そう言って、エレオノーラはあの櫛で柔らかな髪を梳きはじめる。エンキはふむ、とひとつ頷いて粉をあわ立てはじめた。そしてそれを顎と頬に塗りながらいう。
「肘とかでつつかないでくれよ」
するとエレオノーラはわからないわよ、と笑った。エンキは用心しながら、丁寧に粗い肌に剃刀の刃を当てていく。



エレオノーラはそんなエンキの姿をやや後ろに下がって眺めながら、嫌がる娘に急かされてひげをそり落としていた父の姿を思い出していた。宝妖の美しい櫛が、するりと彼女の髪を撫でた。


――やがて出発の時間を迎え、旅路へと続く――

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初出:web拍手用番外編ショートショート。再録に伴い若干改定。