「伯爵と平凡な娘」

ガラ・コンサートとある愛のかたち

第二話
「予約完了」

その翌日。
ミリアムの顔を見るたびに罪悪感を募らせていた彼女は、友人との別れ際、ついに再来週末の予定を聞かれてもいないのに白状してしまった。
最初は事態が飲み込めず、ぽかんと口を開けていたミリアムであったがきっちり一分と三十秒後、肩を振るわせ始めた。
――ああ、長年の友情もここで終わりか。
そう思って身を縮めたアンナマリアであったが、ミリアムは彼女に怒鳴ったりせずただ親友の手を引っつかむと一目散に彼女を引きずって歩きだした。
「ちょ、ちょっとミリアム?!」
ミリアムはアンナマリアを引きずってずんずんと進んでいく。そして二人が辿り着いたのは、大学に程近いミリアムの家だった。
「ただいまっ!」
ミリアムはそう言いながら、乱暴に玄関に入る――アンナマリアの手はそこでやっと開放された。
「ど、どうしたの?」
「来てっ!」
ミリアムは家の中もどんどん進む。
着いていくと、最終的にはアンナマリアにも馴染みの、ミリアムの部屋にたどり着いた。
ミリアムは部屋に入ると何よりも先に、ひとつの棚へと向かった。それはCDやら何やらが入っている棚だった。彼女はそこから一つ一つCDを出しては確認し、戻し、出しては――という出し入れを三度ほど繰り返した後、面倒になったのかごっそりとCDを取り出して床へそれを広げた。
「な、なにしてるの?」
部屋の入り口で突っ立っているアンナマリアが戸惑って聞くと、ミリアムは答えた。
「あった!コレを探してたの!」
ミリアムは予想外にもにっこりと笑っていた。その手には、一枚のCDアルバムがあった。
「……なに、それ?」
アンナマリアは二人の友情が予想外にもろいものでなかったことに内心安心しつつ、彼女に聞いた。するとミリアムは満面の笑みで答える。
「アルフレート・ベルゲングリューンが初出演したミュージカルのCDなの」
「初……出演?主演じゃなくて?」
アンナマリアはそこでやっと部屋に入り、ミリアムの前に座り込んだ。ミリアムはアンナマリアにそのCDを手渡すと、散らかしたCDを片付け始める。
「うん、そう。九つくらいの時だったかな〜たまたま旅行した先で、それを見たの。
で、聞いてるときから主役じゃなくて彼に惹かれてたんだけど、帰り際、端役の人たちがホールでお見送りしてくれたの。たぶん、千秋楽だったからね。
そこで私、彼に握手してもらったの」
アンナマリアはへぇ、と声を上げた後あっと気づいた。
「なるほど、それからファンなんだ?」
「うん、こう見えて結構筋金はいってるんだ。このCDはその公演終了後しばらくしてから出たものだったんだけど……、最近まで手に入らなくて。ま、彼がこの街出身だって知ったのもだいぶ後になってからだけどね」
「思い出のCDなわけだ」
「当然私のことなんて覚えてないでしょうけどね」
二人はそこでくすりと笑った。
だが、アンナマリアはそこではたと気づいた。
「……で、そのCDを私に渡してどうしろと?」
「そりゃ、決まってるでしょう!」
ミリアムは突然大声を出した。アンナマリアがぎょっとして思わず身をひくと、彼女は恥ずかしげに「こほん」と咳払いをした。
「あんた、ガラだけじゃなくてその後食事にも呼ばれてるんでしょう?」
「どっちかっていうと伯爵のおまけだけど」
「後見人してもらってる身だから、無碍にも断れなかったんでしょう。
だから、そのチケット寄越せなんて言わないわ――わかってるもの」
未練たらしいミリアムの口調にアンナマリアは心の中で「一応の努力はしたんだけど」と答えておいた。
「もちろん――もちろん招待された伯爵がいいって言ってくれたらでいいんだけど――、ねぇ、アンナマリア、その食事会の時にアルフレートにサイン貰ってきてくれない?」
「サイン?」
「そう、サイン!」
言いながら、ミリアムはアンナマリアの手からCDを取り返し、ケースを開けてブックレットを取り出した。そしてとあるページを開く。
「できれば、ここに」
指差したページには、端役たちが出揃う場面を写した写真があった。
「えっと……」
「ここ。前から二番目」
――よく見えない。
アンナマリアは思わず眉を寄せた。さすがにその表情の意味を読み取ったのか、ミリアムは慌てて今度は本棚に飛びついた。
しばらくして、彼女は本棚から一冊の古びたパンフレットを取り出した。
「本当はこっちにサイン欲しいなって思ったんだけど、こんな大きいの、ハンドバックに入らないだろうからCDの方がいいとおもったんだ」
そう言いながら、彼女はまたページを捲った。
そして彼女の指がたどり着いたのは、端役の役者紹介のページだった。わずかながらソロもしくは台詞のある役者が、まとめて載せられるページである。
ミリアムは一ページにまとめて載っている三人の男性のうち、金の髪で斜に向かって視線を投げる役者を指差した。
そこには「アルフレート・ベルゲングリューン」と言う名とごく簡単なプロフィールだけが印字してあった。主演俳優や女優のように仰々しい学歴や賞の羅列はない。
――例によって、CDもろくろく聞かず返したアンナマリアにとってそれはアルフレート・ベルゲングリューンと言う人物を正視する初めての機会だった。
「あ、かっこいいかも」
「でしょ?!いやでもこれ、12年くらい前のなんだけどね」
その事実には気づかず、ミリアムは嬉々として言った。アンナマリアはそんな友を見て言った。
「わかったわ、サイン、努力してみる。確かにハンドバックには入らないでしょうけど――こっちのパンフにサインしてもらった方がいいでしょ?」
すると、ぱっとミリアムが顔を輝かせた。しかしアンナマリアはその笑顔にちょっぴり不安をあおられた。
「あ、でももしものときのためにCDも借りていい?」
「アンナマリア!私きっとこの恩忘れないわ!!」
ミリアムはそう言って彼女に抱きついてきた。アンナマリアは右手にCD、左手にパンフレットを持ちながら
――いやまだサイン貰ってないんだけど。
と思ったという。



さらに数日後。


アンナマリアのイヴニングドレスなどその他諸々が出来上がった。
夕食後、マーサに手伝ってもらってそれを着たアンナマリアは、早速伯爵のところへそれを見せに行った。だがアンナマリアの足運びはは浮足立ったものではなく、少々の怒りを含んだ大股歩きだった。
「伯爵!なんですかコレ!!」
伯爵はにっこりとしてアンナマリアを満足そうに眺めた。
「なにって、いたって正常なイヴニングドレスのようだが?」
アンナマリアが纏っているのは確かに正当な、たっぷりの布を使った、真っ赤で、幾重にも重なる布地をふわりと仕上げたアシンメトリーのスカートのロングドレスだった。
「そうですけど、ちょっとこれ背中ですぎだと思いません?!」
そう言ってアンナマリアくるりと伯爵の前で回って見せた。腕はすでに肩から露出し、胸元はそれほどでもないが(美しい弧を描くドレープが胸元を飾っている)、その代わり、背中はばっくりと腰の付近まで空いている。
伯爵はそれまでいつものようにソファに座りオットマンに足を預けていたが、彼女が背を向けるとやおら立ち上がった。
そして彼女の背中に寄り添って、耳元に口を近づけた。
「わたしの見立てはお気に召さなかったかな――
今の流行では、肌を見せるのが流行りだろう?」
そして彼は美しい指ですっと彼女の背を一撫でした。くすぐったさにアンナマリアが身を震わせると、露出した二の腕に彼の手が触れた。
「若いうちは肌を出して損はないと思うが?」
伯爵はいにしえの名工が掘り出したような美しい手のうち片方を、そっとアンナマリアの腰に移した。ドレス越しにもわかる優しい冷たさにアンナマリアはぞくりとした。
伯爵は次に、二の腕に触れていたもう片方の手を持ち上げた。
そしてそっと、長く垂れる彼女のブルネットの髪を持ち上げる。
髪がはだかの背を艶かしく動き、アンナマリアはまたぞくりした。伯爵がまた彼女の耳元へ口を寄せ、何かを――呟こうとしたとき、ごほん、という咳払いが聞こえてきた。
はっとして二人が振り返ると、ガウンを腕に下げて控えるダドリーがそこにいた。
一瞬だけちらりと主人を見ると、さっとガウンを広げアンナマリアに言った。
「これを羽織ってください」
アンナマリアは慌ててガウンに袖を通し、露出した肌を伯爵から隠した。
伯爵は物言いたげな顔で忠実な執事を見下ろした後、ふーっと息をついてソファに戻った。
「――そう、イヴニングドレスは今は肌を露出するのが主流なのでな。
君は若いし、それくらいしても構わんと思うが」
まるで何事もなかったかのように言う伯爵に、ちょっとむっとしつつもアンナマリアは答えた。
「そういうものでしょうか」
「そういうものだ」
アンナマリアはため息をついた。そこへマーサがなにやら紙の箱とビロード張りの青い小箱を抱えてやってきて、控えていたダドリーが声をかける。
「揃いのハンドバックとアクセサリーもご用意してみました」
マーサが恭しく箱からだしたのは、黒い小さなハンドバックだった。それから、ダドリーがビロード張りの小箱を開ける。そこには、煌びやかなネックレスとブレスレット、それにイヤリングが一そろい。
「……、これ、伯爵がもっていたんですか?」
「いや新調したものだが。不満かね」
伯爵の応えにアンナマリアは声もなく仰天した。その様子に伯爵は笑う。
淑女(レディ)はこれくらいのものを持っているべきだよ――そのドレスもね」
「身分相応と言う言葉が世の中にはあります……」
アンナマリアはそう言って、ダドリーが抱えるアクセサリーのセットを見つめた。
イヤリングはともかく、ネックレスがすごい。
透明な石が、虹色の光をあちらこちらへ振りまいて、きらきらと煌く。
――このネックレスをを付けていくべき場所は、パリのオペラ座(ガルニエ)だ。
アンナマリアは写真でしかみたことがないシャガールの天井画をネックレスの煌きの向こうに見ていた。
「――そう、身分相応。この街のホールにはちょっと豪華すぎます」
「――そうかな?」
伯爵はソファの肘掛に肘をつき、拳を作ってそこへ頬を乗せた。
「今回はテノールの彼だけでなく、他の歌手たちも有名な人物が来るようだぞ。
まぁたしかに、楽団と合唱団は街の人たちだが」
「え、街の楽団と合唱団なんですか」
「表向きは、市民のためのホール改装だったからな、市民の構成する楽団と合唱団を使うのが当然だ、と言ったところだが――真相はどうもゲストだけで予算が尽きたらしい」
アンナマリアは伯爵の言葉にくらくらした。
まぁ、楽団の方は、確かにプロのオーケストラなのだが――合唱は確かアマチュアだ。それでも確か、何年か前、どこかのコンクールでは優勝したらしいが。
ウィーンやらで活躍する本物の歌手と、小さなプロオケそしてアマチュア合唱団が行うコンサート。
――カオスだわ。
そこへ、あの煌らめかしいネックレスをしていけというのか。どうも不安だ。
アンナマリアは頭を抱えたくなった。
だが彼女が何か言うよりも早く、ダドリーが彼女へハンドバックを差し出した。
「当日はこれをあわせていただきます」
「あ、はい」
反射的にハンドバックを受け取ったアンナマリアは、はた、とそこで気づいた。
「ちょっと失礼します」
と言って一度ハンドバックをテーブルの上に置き、素早く身をひるがえし小走りにリビングを出る――慣れないスカートがふわふわと彼女の進行を邪魔した。それでもなんとか彼女は部屋に入り、机の上においてあったミリアムのパンフレットとCDを取り上げて、リビングにとって帰す――
「あの、伯爵ご相談があるんですけど」
「うん?」
「ベルゲングリューンさんにサインっていただいてもいいですか?」
すると伯爵は眉を上げた。
「わたしに聞いても仕方ないだろう?彼がいいといえば、構わないんじゃないかな」
伯爵の鷹揚な言葉に、アンナマリアはほっとする。
「前に言ったファンの友達に、サイン貰ってきてって言われたんです」
「ほう」
そこでアンナマリアはCDとパンフレットを見せた。伯爵が興味深そうに片手を差し出してきたので、アンナマリアはとりあえず彼にCDを渡し、自分は空いた手でハンドバックを取り上げた。
「初めて出たミュージカルのCDなんだそうです――脇役で」
アンナマリアはジャケット上にどうやら目当ての人物を探しているらしい伯爵に苦笑しながら言った。そして、ハンドバックとパンフレットを比べる。
――明らかにハンドバックの方が小さかった。
「――できればパンフレットの方にサインいただきたいんですけど、ちょっと入らないなぁ……」
「だからと言ってトートバックなど言語道断ですよ!」
控えていたマーサが声を高くしてアンナマリアの考えていたことを言った。
叱られたアンナマリアの顔色を見て、伯爵が笑う。そしてダドリーに目配せした。
「では、コンサートが終わるまでこのダドリーがお預かりしておきましょう」
アンナマリアは優しい執事の言葉に首を傾げる。すると執事はにっこりと言った。
「サインをいただけるのはコンサートの後のお食事会ででしょうから、それまではわたくしめがお預かりいたします。ホールから食事会場のレストランがあるホテルまで移動しなければなりませんから、そのときに」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん」
「それじゃあ、お願いします」
アンナマリアが言うと、ダドリーはかしこまりました、と言った。
そして彼女がほっとしたところに「さっ、これも付けてください」といかにも楽しそうにマーサがあの煌びやかなネックレスを持ってきた。アンナマリアはやっぱりちょっと、くらくらした。

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