「伯爵と平凡な娘」

ガラ・コンサートとある愛のかたち

第三話
「赤いドレスと燕尾服」

そして、来るべき日が来た。
夕方が近づくころ、マーサが例の盛装一式を抱えて部屋にやってきた。ノックと共に入ってきたメイドにアンナマリアはちょっと驚き、そして嘆息した。
マーサは楽しげにあの露出過多ともいえる赤いイヴニングドレスを掲げている。
アンナマリアは結局、マーサに手伝ってもらいながらそのドレスを着るしかなかった。幸いなのは、気を利かせたマーサがドレスと揃いの赤いショールを用意していてくれていたことだ。これで幾分か、露な背中が隠せるだろう。
ドレスを着終わると、今度は鏡台の前に座らされる。
マーサは櫛を取り上げて、なにやらブツブツ言い始めた。どうやら、ドレスに合わせて髪を結いあげようということらしい。
アンナマリアは自分で後ろ髪を両手で一つにして頭の後ろに引き上げてみた。するとマーサはにっこりして、てきぱきと彼女の髪の形を決め、次々ピンで留めていく。
アンナマリアはふと、彼女にどんな髪型にされるのか不安になった。なにしろマーサはいかんせん――歳を食っているからだ。が、出来上がったのは彼女が少し大人びて見える、十分に顔が引き立つ髪型だった。アンナマリアが思わずにっこりすると、マーサは胸をそらして
「さっ、次はお化粧ですよ!」
と言った。アンナマリアはそんなマーサにふと、彼女の高校の卒業パーティーの日に張り切っていた母のことを思い出した。マーサはどちらかといえば年齢的に「おばあちゃん」かもしれないが、この「飾り付け」の時間はアンナマリアには嬉しく、懐かしく、また少し哀しい時間となった。
ドレスの色に似た口紅を引き終わると、マーサは彼女に立ち上がるように言った。
「これで終わりですね」
仰々しい時間が過ぎたことにほっとしてアンナマリアが言うと、マーサは少し悪戯っぽい顔をした。
「お忘れですか?アクセサリーがありますよ!」
アンナマリアはすっかり忘れていた(というか忘れたかっただけかもしれないが)。
だがここにはあの立派なビロードの箱はない。はて、着けるものが変わったのだろうか。
彼女がそう思って首をかしげると、マーサは「さあ、下に降りましょう!」と楽しそうに言った。



リビングに降りると、ちょうど伯爵が地下の私室から上がってきたところだった。
伯爵のその姿に、アンナマリアは目を見張る。
伯爵はホワイトタイ、つまり世に言う燕尾服姿だった。
アンナマリアは燕尾服姿の男性を生で見るのははじめてだった。
そのジャケットの「しっぽ」を見て、ポツリと言う。
「ほんとうにペンギンみたいですね」
するとその言葉を聞いた伯爵は明らかに苦笑した。
「今の時分、タキシードでも構わんのだろうが、一応ホールを建てた関係者の子孫という設定で行くのでね。このほうがいいだろう」
「……子孫、ですか」
アンナマリアが不思議そうに言うと、二千余年の御世を生きる吸血鬼はわらった。
「そう。この街の書類上の“伯爵”は代替わりしていることになっているからね。
一応、街からもお義理の招待状が来たのだが、恩義を感じてくれている人間からのもののほうが嬉しくてね。そちらは辞退したんだよ」
伯爵はそう言いながらアンナマリアを優しく眺めた。アンナマリアの方も、実はうわの空で伯爵を眺めていた。
なるほど、足が長くて、背が高くて、整った顔立ちの男の人がきちんと正装をするとかっこいいのだ――なんとも月並みな感想だが、彼女はそう思いながら伯爵を見ていた。
すらりと伸びた脚はアイロンの利いたスラックスに包まれ、エナメルの靴を履いた足は片方に重心がかけられていてもう一方は寛いでいる。白いシャツとウェストコート、それに黒い尾のあるジャケットはまるでそれ以外に彼に似合うものはないとばかりにその存在になじんでいる。後ろへ撫でつけた髪と憂いを帯びたかのような青い瞳は、同時に彼の強い自尊心をも示している。
アンナマリアがもう少し年長で、男性経験も豊富ならば、今の伯爵を「かっこいい」ではなく「美しい」とか、あるいはもっと下世話な表現で「男の色気がある」などと言い表したかもしれない。
だがいかんせんアンナマリアはただの女子大生なので、ぽけっと伯爵に見とれるのが精いっぱいだった。
見とれられる側の伯爵は、こちらはさすが二千余歳というか、彼は見るべきところを見て褒めるべきところを褒めることができた。
「やはりわたしの思った通りだな。赤がよく映える。
そうやって髪をあげていた方が、よりいいな――どうだい、たまには着飾るのも悪くないだろう?」
伯爵がちょうどそう言い終えると、ダドリーが姿見を持ってやってきた。伯爵はアンナマリアの後ろに回り込み、そっとそちらを向かせる。
すると姿見には、黒い服の美しい男と、少し背伸びしたような赤いドレスの女が映る。
――馬子にも衣装、だわ。だけど。
しかしアンナマリアは鏡に映った自分の姿に少々がっかりした。
伯爵の正装姿はいつにもまして彼を美しくしていた。だが、自分はどうだろう?
ただのめかしこんだ「アンナマリア」にすぎない。美しいとか、きれいだとか、そう言うレベルではない。伯爵の添え花にさえなりそうにもない。
そんなアンナマリアの落胆を鏡越しに読み取ったらしい伯爵は、やさしく笑って彼女の肩に手を置いた。
「だが、まだ未完成だな。さあ、仕上げをしよう」
マーサがしずしずと、あの煌びやかなアクセサリーの入ったビロードの小箱を持って伯爵に歩み寄った。伯爵はそこからあの、透明だけれど虹色の輝きを放つ石をつなげたネックレスを取り上げる。
そして彼はそっと腕をまわして鏡に向いたままのアンナマリアの胸元にそれを持っていった。
ひんやりとした石と金具に、アンナマリアは一瞬身を震わせた。鏡越しに目をやれば、伯爵が手ずから金具を止めているのが見えた。ふと彼女のうなじあたりに目を落とし、やや屈みこむようにして美しいが頼りがいのある手を器用に動かす様子は、まるで芸術作品の一部を見ているかのようだ。
アンナマリアは少しだけ顔を動かして、後ろを振り返った。
すると伯爵はそれに気づいたのか、一瞬目だけを彼女に向けた。青い瞳が彼女をとらえる。
――まつ毛が長い。
アンナマリアがそう思うのと同時に、海のような色をした瞳が笑った。それと同時に金具を止め終わったらしく、彼はそっと彼女のうなじを悪戯っぽくそっと撫でた。アンナマリアが思わず身を縮めると、彼はまた笑い、続いて彼女の背後にいるまま自らの左手で彼女の左手をとった。
それを彼女の胸元まで持ち上げると、彼はそのまま彼女を包み込むようにして右手をのばし、ネックレスと揃いのブレスレットをはめる。
すっぽりと伯爵の腕の中に収まってしまったアンナマリアは、すっかり身を小さくしていた。ついでに言えば、先ほどうなじを撫でられたときに思考も停止している。
伯爵は鏡を介してその様子を見ると、薄く笑い、ブレスレットの上から彼女の手首を押えて腕の檻を狭めた。
アンナマリアは硬直する。
――なんというかこれは――命奪われるほどではないが、ヤバイ気がする。
そう彼女の本能が告げていた。
その予想通りというか、伯爵は今度は彼女の髪に顔を寄せた。その気配たるや、思わず身を震わせてしまうほどだった。息遣いが耳にかかる――アンナマリアの思考はついに真っ白になった。
すっと伯爵が息をのみこむ音がした。
――くわれる。
ぞっとする予感を本能が告げた次の瞬間、喉の奥で静かに笑う音がした。
「――君はからかいがいがあるな」
伯爵はそう言うと、彼女を優しく解放した。アンナマリアは立ったまま脱力し、文句を言おうとしたが言葉が浮かばなかった。
伯爵は軽くつくった拳を口元に当て、くつくつと笑っている。
それから、目元だけに余韻を残して笑いをおさめるとしげしげと彼女を眺めて言った。
「うん、いいな――イヤリングはしなくても、もう十分だ。
さぁよく見てごらん、淑女(レディ)がいる」
そう言ってかれはわずかに振り返っていたアンナマリアに正面を向かせ、姿見と対峙させて自分は脇へと退いた。
そこには、宝石の輝きによって顔を引き立てられた女がひとり。
宝石の豪奢さに埋もれてしまうのではないかと予想していたアンナマリアは、自分の意外な姿に驚いた。そこには先ほどよりも服になじんだ、宝石たちに埋もれない一人の女がいた。
赤が映える――髪が黒いから。胸元の宝石が彼女の顔を引き立て、ブレスレットがアクセントを加える。
それでもやはり、姿見のなかに伯爵が入ってくるとかすんでしまう感があったが――アンナマリアはほっとしていた。
「伯爵、私大丈夫ですよね?」
不安感をにじませる曖昧な言葉で尋ねると、伯爵はにっこりとした。
「何か不安かね。堂々としていたまえ。君は綺麗だ」
伯爵のよどみない言葉にアンナマリアは少し赤くなった。
マーサが伯爵の向こうで「イヤリングをするとうるさくなってしまいますね」と言いながらビロードの小箱を閉じた。その「パコ」というどこか間抜けな音にアンナマリアははっと現実に戻ってきた。
「ハンドバックとパンフレット、部屋に置いてきてしまいました。とってきますね」
そう言って、彼女はドレスの裾を翻してリビングを出て行った。
アンナマリアが出ていくと、伯爵はダドリーからシルクハットと美しい装飾が施されたステッキを受け取った。そして、マーサは伯爵の肩にケープをかけ、白い手袋を手渡す。
そして恰幅のいいメイドは「あらま」と声を上げた。
それから彼女は意外に素早くさっと踵を返し、少し離れた所にある水差しを取り上げた。
その間に、マーサの行動の意味に気づいた執事はとあるチェストに近づいて、一つの引出しを開ける。そしてそこから、一つのピルケースを取り上げる。
伯爵は使用人二人の行動を見てため息をついた。そして姿見の中の自分の目がやや赤みを帯びていることに気づいて、またため息をついた。
そして、右手でマーサから水が入ったコップと、左手でダドリーから錠剤を受取る。
黒みを帯びたその赤い錠剤は、伯爵の吸血衝動を抑えるものであった。
「わたしも歳をとったか――それとも赤いドレスは刺激が強かったか」
そう一言ごちると、伯爵は血液製剤を水で喉へと流し込んだ。

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