「伯爵と平凡な娘」

ガラ・コンサートとある愛のかたち

第四話
「序幕」

伯爵の家の車の運転手は、ダドリーの息子だ。彼は昼間は庭師のまねごとをしているが、夜になると主のためにハンドルを握る。アンナマリアは知らないが、彼も父と同じ立派な人狼なのであった。“普通の人間の”使用人を雇いにくい伯爵家では、秘密を抱える者たちがいくつかの役職を兼任したり、仕事をいくつも抱えたりすることはざらである。
――が、アンナマリアはほとんど何も知らないし、知らされていない。
なので彼女は、“ダドリーさんの息子さん”が庭師と運転手を兼任しているのは伯爵が人件費をケチっているためと思っている節があった。まぁ、アンナマリアがどう思っていようが、伯爵は意にかえさないだろうが。
そんなダドリーの息子が運転する黒塗りの立派な車は、夕陽の名残が残る石畳の上を行く――厳重に紫外線対策を施してある黒い窓のおかげで、伯爵は悠然とまだ明るい街並みを眺めていた。
「音楽鑑賞などいつぶりだろうか」
言葉少なな伯爵ではあったが、明らかにわくわくしているであろうことがアンナマリアにも手にとるようにわかった。
ホールに近づくにつれ、着飾った人が車窓の外に増えてきた。
「わー、すごい!」
気取って歩く紳士淑女を窓越しに眺めて、アンナマリアが言うと伯爵は笑った。
「まぁ、街一番のホールだからね」
「こんなに人がいたんですね、この街」
「人にしてみれば古い部類に入る街だからなぁ」
伯爵はそう言うと、次にふと懐から招待状を取り出した。封筒を開け、取り出したのは同封されていた演目表だった。
「今日は第一部が管弦楽で、第二部が声楽だな」
「二部もやるんですか!」
スケジュールを確認していなかったアンナマリアが声を上げると、伯爵は片目をつぶって見せた。
「アンコールもあるだろうから、食事の時間は遅くなるかもしれんなぁ。君、小腹に何か入れてきたかい?」
「う……」
アンナマリアはドレスの上からお腹を押さえた。ドレスを着たときにお腹がぽっこりすると嫌なので、彼女は今日はおやつも控えめにしていた。
「あ、もしよかったら何か少し食べていかれますか?」
そこで、アンナマリアの状態を察したらしいダドリーの息子が運転席から声をかけてきた。
バックミラー越しの瞳は優しい。
「何かあるんですか?」
そう言うと、運転手はこっくりとうなづいた。
「小腹がすいたとき間を持たせるクッキー型の栄養補助食品ですけど、それでよろしければ」
「いただいていいですか?」
アンナマリアが申し訳なさそうに言うと、彼はにっこりと笑って片手でハンドルを握ったまま器用に助手席との間にある小物入れを開けてそこから食べ物を取り出した。
アンナマリアは礼を言ってそれを受取ると、かけらで辺りを汚さないように気をつけながらそれにがっついた。
その隣で伯爵が窓枠に肘を乗せて優雅に苦笑していたのは言うまでもない。



しばらくして黒塗りの車はホールの前に乗り付けた。
運転手はさっと車を降りて、後部座席側に回ると慇懃にドアを開けた。
まず下りたのは伯爵である。伯爵は運転手に頷いて見せると、車内のアンナマリアに手を差し出した。ショールがずり落ちないように、また履きなれない丈のスカートに気を使って車を下りるのはなかなかに至難の技だったので、アンナマリアはほっとしながらその手を頼った。
石畳の歩道に降りると――慣れない高くて細めのヒールが音を立てた――、彼女は思わず顔を上へと向けていた。
時間的に暗いはずの目の前が、妙に明るかったからだ。見れば、スポットライトのようなライトが天空を見上げるように配置されている。だがライトは無為に天空を照らしているのではない。
「うわぁ……」
スポットライトに照らし出される年代物の石壁は、少しくすんではいるが高貴な色をたたえてそこにそびえ立っていた。ここ数十年の間に化石燃料の煤に大分汚されていた石壁が、汚れを落とし貫禄を取り戻してそこにあったのだ。スポットライトが照らしていたのは生まれ変わったホールであった。
「化粧直しはしてみるものだな」
伯爵は、まるで長い間連れ添った妻の久しぶりにめかしこんだ姿を見た男のような声を出した。彼が珍しげにホールの外観を見上げている間に、ダドリーの息子たる運転手がそっとアンナマリアに言った。
「後でダドリーがバックをお持ちしますね」
「よろしくおねがいします」
彼はにっこりと笑って運転席に戻った。伯爵はアンナマリアに貸していない手に携えていたシルクハットをさっと頭の上へとやった。そしてまっすぐではなくやや前に傾けて被る、というこだわりを彼はここで披露した。すると自然、彼は帽子のつばからやや斜めに外界に視線を投げることになる。
そこで、アンナマリアはあたりの様子に気づいた。
周りの着飾った人たち、つまりは今夜空間と時間を共にするであろう人たちが、不躾だったり、好奇を含んだりする視線を伯爵へと向けている。アンナマリアはその視線の多さに思わず身を固くした。そんなアンナマリアの手を伯爵は優しくとって、自分の肘に添えさせた。
そして、堂々と着飾った――だが伯爵に比べれば貫禄にも優雅さにも欠ける――人々の間を進む。
人々の目は、こう語っていた。
はて、この紳士は誰だろう――19世紀の社交界から抜け出してきたような、それでいて洗練された雰囲気を身にまとう男は。
そんな視線が向けられる場所において、伯爵は場慣れしていない娘の完璧な庇護者だった。繊細に、だが大胆に彼女を導くその様は、エスコートの見本そのものであった。だがその完璧さは誰にも真似できまい。大胆だが同時に指先の爪まで行きとどくかのような気づかいは並の男が今日明日の訓練でできるものではない。
細いヒールに不安を抱いていたアンナマリアは、そのエスコートのおかげで安心してホールのドアへと続く階段を上った。
上り終えたところで、気まぐれを起こしたらしい伯爵がシルクハットのつばの下から群衆のうちの一人の女性にちらりと挑戦的で妖しげな視線を投げた。
するとどうだろう。世にも類まれなる――というか不世出と言ってもいいほどの――美貌の男の妖艶な視線をまともに受けてしまったその女性は、悲鳴も上げることもできずにくらりと倒れこみそうになった。彼女の連れがそれを慌てて受け止めたが、その腕の中で女性はぼうっとしている。
伯爵は自分の引き起こした事態をしっかりと見届けると、視線をやや床へと落とし意地悪げな笑みを口元に浮かべた。アンナマリアは呆れて、
「人で遊ばないでください」
と小声で注意した。すると伯爵は、さも反省していないかのように彼女に片目をつぶって見せた。アンナマリアは伯爵の腕にすがりつつも、ため息をついた。



今宵の客人のために開け放たれた重く頑丈な樫の扉をくぐる――するとそこに広がるのは、赤い絨毯の敷いてある、広々としたホワイエだった。
「賑やかだ」
伯爵は人の気配に目を細めていた。開場の時間は過ぎていたが、ホワイエには談笑する人たちが少なからずいた。一人一人の声は密やかだが、声はざわめきとなりホワイエはどこか浮足だったさざ波に満たされているかのようだ。
そんな場所に来るのは久々なのだろう。伯爵の顔には柔らかいものが浮かんでいた。
「失礼いたします」
そこへ、声がかかった。見ればホールの案内係が二人のごく近くにいた。
「チケットを拝見してもよろしいでしょうか」
アンナマリアが伯爵の肘から手を放すと、伯爵は帽子をとり招待状を取り出した。
案内係はそこへ目を落とし、一瞬だけ眉をあげた。
「桟敷席になりますね。ご案内いたします」
そう言われて、伯爵がまた肘をアンナマリアに差し出したので彼女は素直にそこへ手を添えた。
案内係は赤い絨毯が階上まで続く優美な階段のほうではなく、エレベーターのほうへと二人を案内した。チン、とどこか懐かしい音を立ててエレベーターのドアが開く。ドアが閉まると、ホワイエのさざ波はここへは打ち寄せなくなった。
再びエレベーターがチンと音を立てたのは――アンナマリアはレンジの中にいる気分になった――二階に到着した時だった。
ドアの向こうに広がるのは、淡い色の照明に照らされた大理石独特のマーブル模様の床。
静謐がその廊下の支配者だった。
案内係は迷わず進む。ホワイエの温かいさざ波のある光景とはあまりに違う静けさに戸惑うアンナマリアは心持ち出遅れてしまい、伯爵の腕にまた縋ってしまった。伯爵は優しく苦笑した。
しばらく、三つの靴音が廊下に響いた。
「こちらになります」
案内係が立ち止まったのは、時を経た美しさをもつ木製のドアに金の飾り文字で


『 5 』


と記してあるところだった。アンナマリアがその金文字を不思議そうに眺めている間に、案内係がドアを開けた。
「うわぁ」
そしてアンナマリアはドアの向こうの景色に声を上げた。
決して眩いばかりに明るくはない空間だが、それは彼女にとって声を上げるに値する初めて見る景色だったのだ。
年代を経ていぶしたようになった金の手すり、座り心地のよさそうな椅子が二脚――どちらにも立派な手すりが付いていた――それから、マホガニーの小さな背の高いテーブルがひとつ。
「個室みたい!」
暗く、小さな空間だが年代を経た威厳を湛えた桟敷席に彼女は思わず伯爵の腕を離して踏み込んでいた。
アンナマリアが物珍しげに狭い空間を見回っている間に、伯爵は案内係の手のひらにチップを落としていた。案内係は慇懃に頭を下げてドアを閉じる。伯爵はドアの陰に隠れていたコート掛けにひょいとシルクハットを引っかけた。それからさりげなく携えていた真っ白な手袋をマホガニーのテーブルに置く。
「そんなに珍しいかね」
伯爵が目を細めて赤いドレス姿の娘がちょろちょろと動き回る姿を眺めている様子は、彼がその外見と違って重い年月を過ごしてきたことを物語っていた。
「はい!」
アンナマリアは一言そう答えて、手すりからわずかに身を乗り出した。一階席の――アンナマリアは一階の普通席には何度か座ったことがあった――ざわめきが昇ってくる。登ってくる途中で言葉の意味を捨てた人の声は、やはりただのざわめきとしか言いようがなかったが、それは不快なものではなくこれから始まるガラへの期待が存分に含まれた、耳に心地よいものだった。
「こらこら、お嬢さん」
伯爵は苦笑しながら、優しくアンナマリアの体を桟敷席の中に戻した。
「はしたないぞ」
それから楽しそうに彼女の顔の前で指を振ってそう言う。アンナマリアはちょっぴり恥ずかしくなり、顔を赤くした。
伯爵はそんな彼女に椅子をすすめた。アンナマリアはショールがずり落ちないように、またスカートを必要以上に椅子と体の間に引き込まないよう用心しながらそっと腰かけた。
「……あれ」
居ずまいをただして、背を伸ばして、アンナマリアはふと気づいた。
「伯爵、舞台が見づらいです」
手すりが思いのほか高く、視界の下の方を遮っていたのだ。
すると伯爵は珍しくしまった、というような声を出した。
「椅子が遠すぎたのだな――すまない、少し立っておくれ」
アンナマリアは立ち上がり、椅子の前から退いた。すると伯爵は少しずつ、計るようにしながら椅子を手摺の方へと近づけた。
「さてここならどうかな」
言われて腰かけてみると、いい塩梅だった。だが、なんだか手すりが近すぎて窮屈すぎる気がする。物慣れないアンナマリアに、伯爵は優しく言った。
「手すりに片腕を乗せて、寄りかかるようにしてごらん」
するとどうだろう。舞台の端から端までが見渡せ、しかも下の客席がそれほど気にならない景色がアンナマリアの視界の中にができあがった。
「わぁ……舞台が全部見える!」
「そう、だから桟敷席は特別なのだ」
伯爵はそう言うと、自分も席に着いた。
「でも……ちょっと姿勢が辛いですね」
「落下するよりはマシだろう」
「ああ……それで少し高めに作ってあるんですね」
アンナマリアは手すりを撫でながら言った。それから今度は、下の階や舞台ではなく――同じ高さから上に視線を向けた。桟敷席の外には渋めの金とビロードの赤が作る世界が繰り広げられていた。
二階から上の、舞台と向き合うところは一階と同じように様々な人が隣り合う席になっている。残りの舞台左右の席はすべて桟敷席だ。桟敷席は個室なので、一般席よりも値段が高い。今回は街のお歴々や著名人、それにちょっと奮発した人々が桟敷席を占領していた。
ミリアムとチケットを争ったのは、おそらく一般席の人々だろう。
学生では桟敷席はとても手が出ない。社会人になったとしても、同じ舞台がみられるならば別に一般席でも構わないだろう。そんなことを考えたアンナマリアはこれから貴重な体験をするんだ、と心がわき立つ思いだった。
それからふと――彼女は向かいの桟敷席に目を引く存在があることに気づいた。
そこには三人の人物がいた――目を引いたのは、そのうちの一人。
それは女性だった。
深い青のホルターネックのドレスに、真っ黒なショートカットの髪のコントラストが美しい。
露出した肩の色は少し――西洋の人間に比べればだが――濃い。
顔を少し傾けて同行者――残りの二人はともに白髪の男女だった――の話に耳を傾ける様は、彼女の思慮深さを示すかのようだった。
「やぁ、お向かいはベルゲングリューン氏のご両親だね」
伯爵がアンナマリアの視線に気づいて言った。
「ここからそんなにはっきりわかるんですか!」
「まあヒトより目はいいからねぇ」
アンナマリアが驚いて言うと、伯爵は何気なくそう答えた。
それからアンナマリアはもう一つの疑問を口にした。
「……ベルゲングリューンさんのご両親と会ったことがあるんですか?」
「いや、直接にはない。だが街の広報や、彼の手紙に写真があることがあってね。それで顔は知っているのだよ」
「なるほど」
それからアンナマリアはまた目を向かいに向けた。
三人のうち、初老の男女はアルフレート・ベルゲングリューンの両親だという。
ではもう一人、あの青いドレスに黒髪の女性は誰なのか?
歳は、アルフレート・ベルゲングリューンよりもずっと若く見えた。親戚だろうか。いや、違う。あの、真っ黒な混じりけのない黒い髪。それに、あの、肌の色――
「あの女性は、東洋の人だね」
伯爵がすばり言った。
そう、肌の色は所謂“白”ではない。“黄色”だ――西洋人ではない。彼女は東洋人だ。
つまり彼女は、アルフレート・ベルゲングリューンの血縁者ではない。
しかし、アルフレート・ベルゲングリューンの両親はにこにこにと嬉しそうにあの若い、青のよく似合う東洋の女性にしきりに話しかけている。女性は控えめな笑顔を浮かべながら、初老の夫婦の話を聞いている。
「この街にアジアの人なんて珍しいですね。あの女性、どなたでしょう?
アルフレートさんのご両親とご一緒だから、奥さんでしょうか」
「いや、彼が結婚したという話は聞かんな。東洋人なら噂にもなるだろうし」
伯爵は少し手すりの上に身を乗せた。
「中国人だろうか、日本人だろうか」
東洋人にドイツ人とイギリス人の区別がつきにくいように、イタリア人とスペイン人の区別がつきにくいように、――とてつもなく広い意味で――西洋圏に暮らす伯爵にも東アジア人の区別はできなかったらしい。
「わかりません……」
伯爵ですらわからなかったのだから、視力でさえも彼に劣るアンナマリアにそれがわかるはずはない。
しばし、彼らが向かいの桟敷席を観察していると――その観察されている当人が、ふとこちらに顔を向けた。ショートカットの髪が肩の上で揺れたのが見えた。
それから彼女は、――笑ったような柔らかい雰囲気を漂わせながら――軽く頭を下げた。
アンナマリアがきょとんとしてそれを見ていると、
「いやぁ、これは失礼したなぁ」
と伯爵が声を上げた。それから彼女にそっと耳打ちする。
「あれは会釈(エシャク)と言うよ――東洋の簡単な挨拶だ。さぁ我々も礼を返そう。不躾な視線を送ってしまったお詫びも兼ねて」
伯爵はすっと礼を返した。アンナマリアも慌てて伯爵の真似をした。するとどうだろう、青の似合う女性が、向こうでほほ笑んだのがわかった――苦笑だったのかもしれないが。
その直後、ブーッというブザーがホール中に鳴り響いた。
いよいよガラ・コンサートが始まるのだ。
第一部は管弦楽――つまりはオーケストラ。
団員が袖から現れ、指揮者には拍手が送られる。
そしてわずかの沈黙ののち、トランペットのファンファーレが鳴り響いた。
ホールの――そしてアルフレート・ベルゲングリューンの――凱旋公演が始まったのだ。

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