「伯爵と平凡な娘」

ガラ・コンサートとある愛のかたち

第五話
「第一幕」

第一部ではあらゆる種類の有名な――そしてめでたい曲が演奏された。
それはどれもどこかで聞いたことがあるもので、音楽方面、特にクラシックには疎いアンナマリアも安心して聞けるものばかりだった。それと伯爵がぽつぽつと、曲についての解説を適度に入れてくれるのが嬉しかった。時折、作曲者に関するもはや誰も知らない知識を披露してアンナマリアを驚かせたり、笑わせたりもした。曲と名前だけが現在にただ残されているが、彼らもかつてこの世に生きた人だったのだ。
さて――このホールにいる、オーケストラ団員も一般客もお歴々も皆盛装をしている。
指揮者は燕尾のジャケット、ほかの男性団員のたちはもう少し動きやすいようにタキシードだ。女性団員も、揃いの黒いロングスカートを着用している。
客人たちの格好はもっとバラエティーに富んでいた。アンナマリアが赤い露出度の高いドレスを着ていることが示すように、女性たちの格好は色とりどりで形も様々だった。
赤、紫、黒、白、グレー、エメラルドのような緑、可愛らしいオレンジのシフォンスカートのドレスの少女もいた。それから、あの深い青のホルターネックドレスの女性。
それは目も眩むような色の競演だった。
男性はと言うと、ちょっと気取ったスーツからタキシードまで色々いたが、それでも型どおり感はぬぐえない。だが燕尾服をきっちりと着こんでいるものは少なく――いても「着られている」人がほとんどだった――伯爵はその中でもやはり、着こなしが上手く目を引く存在になっていた。
だから、第二部の声楽――つまりは歌――の出演者たちが燕尾服を着ていたり、シンプルだが鮮やかなドレスを着ていたとしてもだれも驚かないし、むしろそれが正常で通常の式典での衣装であった。
最初のソプラノ歌手は淡い若草色のドレスで『蝶々夫人』の「ある晴れた日に」を歌い、素晴らしい高音で観衆の一部を立ち上がらせた。
次のバスはタキシード姿で陽気な恋の歌を歌った。厚い胸板をつき出すようにして歌うその姿はどこか滑稽でもあり、場を和ませるものだった。
その次の『カルメン』の「ハバネラ」はちょっとこの場には挑戦的すぎたが、黒いドレスに赤いショールをまとい、力強く歌う姿はまさしくカルメンだった。
アンナマリアはその歌一つ一つに心から拍手を送った。それからふと伯爵を振り返ると、彼はあくまでも控えめに拍手をしているだけだった。
そんな伯爵が、アンナマリアにそっと耳打ちをした。
「耳によく馴染んでいる、有名な曲ばかりだね。ちょっとわたしには物足りないよ」
アンナマリアは苦笑で返すしかなかった。
そして、次がトリのアルフレート・ベルゲングリューンになったというとき――ふっと辺りの照明が消えた。
一瞬後、ざわめきが広がり出す。
「て、停電?」
アンナマリアが暗闇に不安になって言うと、伯爵が冷静な声を出した。
「いや、良く見てごらん。オーケストラのあたりはわずかに灯りがあるぞ」
言われて舞台を見てみれば、たしかに、オーケストラの団員と指揮者のところには譜面を見るのに支障ないほどの光があった。


そして、暗闇の中やわらかな音が響く――観衆が静かになった。
その音に続き、声。


Nessun dorma!


Nessun dorma!


“誰も寝てはならぬ”――歌劇『トゥーランドットの』カラフのアリア。それは聞きなれた、世界的な著名なテノール歌手ものとは音域の異なる声だった。
暗闇より響く、甘く少し高い声――人々のざわめきは収まらない。
だが声は臆することなく、冷たき姫君に語りかける。この夜の冷たさと、来る朝の暖かさを。
そして音楽と声が駆け上がり始める。
まるで夜が明けるかのように、世界も明るさを取り戻していく。
観衆がまたしてもざわめいた――
暗闇から現れたのは、テノール歌手、みなが待ち焦がれたアルフレート・ベルゲングリューンだった。だが、ざわめきは彼が現れた喜びを表すものと、そうでないものが混じり合ったものであった。
金の髪に自信に満ちた顔――だが彼がまとうのは、王子カラフが潜む闇色のジャケットではなかった。
白いジャケットに、胸元の開いたシャツ――およそこの場に似つかわしくない、タキシードとは対極にあるラフな格好だった。中でも最もお歴々が眉をしかめ、マナーに反して隣の人と何やら囁きあうことになったのは彼のズボンだった。
ロックミュージシャンばりの黒い革のパンツ――白いジャケットと対をなすその格好が、お歴々の不興を駆っていることは火を見るよりも明らかだった。
だが金の髪の王子は臆することはない――ただ来るべき愛を歌う。片手をあげ、それを中空に――まだ得ていない姫君に捧げる。そして優しく愛を誘う。
怯えたコーラスが、まるで観衆の戸惑いを示すかのように、王子に囁く。
朝に訪れるのは、“死”であると。
金の髪の王子はわずか、小首をかしげるようにしてコーラスを振り返る。
一瞬彼が目をつぶり、大きく息を吸い込むのがわかった。そして――観衆に腕を広げて


いいや、違う!
私に来るのは――そして怯えたる民衆が目撃するのは――、愛の勝利だ!


彼はそう宣言する!
観衆が黙りこみ、彼を凝視する。空気が変わった。
美しく、来るべき勝利の時を震えながら待つテノールが、余すことなく会場に満ちる。
それは世界的に著名なあのテノールと比べれば、若々しすぎるカラフだった。
だが、だからこそ希望に満ちたこの暗き夜を歌えるのだ。
自信と愛に満ちたカラフが、猜疑心と死の恐怖に満ちた民衆を圧倒する。
歌が圧力を孕んで、客席へと打ちつけた。
誰もその自信と愛を打ち砕き、破ることはできない……。
そして彼は、ホール中を己が声で満たすと、ただ中空を見上げてオーケストラの音に身を任せた。楽団は、彼の愛と自信を裏付けるように素晴らしい音をとどろかせた。
音が消える直前、彼は片腕を――アンナマリアたちとは逆側の――桟敷席に捧げるように動かした。そこには、青いドレスの女性がいた。
そして、音は来るべき勝利を予言して終わる。
アルフレート・ベルゲングリューンはカラフの霊から解き放たれた。
そして彼はゆっくりと腕を下ろし、客席を見回した。
沈黙がこの大きな場を支配する。
アンナマリアも圧倒されて、声も出なければ身動きもできなかった。
先ほどまでは、ありえなかった沈黙だ。誰にも作れなかった沈黙だ。
その沈黙を最初に破ったのは、なんとアンナマリアのごく近くにいる人物だった。
指揮者が完全に手を下ろすと、彼は動いた。
「Bravo!」
伯爵は彼に賛辞を投げかけるだけに飽き足らず、なんと立ち上がった!
伯爵はこれまでの演奏で拍手はしていたが、立ち上がる気配を見せなかった。どんなに他の客人たちが立ち上がっても、である。その伯爵が、スタンディング・オベーションをするとは!
アンナマリアは驚いて伯爵を見上げていたが、しばらくして「よぉし」と自分も立ち上がった。不慣れなアンナマリアは、これまでも立ち上がりたい場面に幾度か遭遇したが伯爵が立ち上がらずに拍手だけで収めていたのでそれに倣っていたのだ。
だが、これまで立ち上がらずによかったとも思う。彼の歌が、一番素晴らしかった。
見れば、伯爵とアンナマリアの席を発端として、スタンディング・オベーションの波は客席中に広がりつつあった。
アルフレート・ベルゲングリューンは肩で息をしながら誇らしげにそれを見回し――そして最初に立ちあがってくれた伯爵とアンナマリアに軽く礼をしてから、客席全体にさっと礼をした。そして舞台からの去り際、伯爵とアンナマリアの桟敷席の向かいに視線を投げる。
思わずアンナマリアがそちらを見ると、あの青いドレスの東洋の女性とアルフレート・ベルゲングリューンの視線が親しげに絡まるのが見えた。だがそれも一瞬のことで、彼は大きく手を振って舞台袖へと消えた。
それでも拍手は鳴りやまない。
はじめは彼の場にそぐわない格好に眉をよせていたお歴々も、今では夢中で拍手を送っていた。
彼の歌声にはそれだけの魅力と力があったのだ。
「すごい……」
「わたしが支援した人物だからな」
アンナマリアが呟くように言うと、伯爵は嬉しそうにそう言った。
やがて、拍手は鳴り止み二人は再び椅子に腰かけた。
それでもしばらく、名残惜しげな拍手がぱらぱらと辺りから聞こえていた。
そして、一度指揮者も袖へと消えた。
しばらく後。次々と左右の袖から盛装した人々が現れた。白いブラウスに黒いロングスカートの女性たちに、タキシードの男性たち。彼らは一様に小脇に黒いファイルを抱えていた――その中身は譜面である。彼らは、先ほどまであくまでわき役としてステージに上がっていた、街の合唱団の人たちだった。
合唱団の人々がオーケストラの後ろにつき、位置を定めると、今度はアルフレート・ベルゲングリューンを含むソリストたちが登場した。彼らも最後の合唱に加わるのだ。
しかしなんと言うことか!
アルフレート・ベルゲングリューンは白いジャケットを羽織っていなかったし、革のパンツも着けていなかった。
至極まっとうな、タキシードをきちんと着てすました顔で譜面を抱えていたのである。金の髪に黒いジャケットというのはなんと美しい取り合わせなのだろう。
彼の次を行くバスのソリストはどうもユーモアの才能があるらしく、一番前の客に目配せして
――どうだい、彼を見てみろよ!なんという変わり身の早さか!
というおどけた顔をしてみせた。アルフレート・ベルゲングリューンもそれに気づいて肩越しに客と彼に笑いかける。それは同時にアルフレート・ベルゲングリューンとバスの中の良さを示すようでもあった。
そしてソリストたちは合唱団に混じり、コーラスの一角となる。
最後に指揮者が現れた。
わっと拍手が上がる――それは、ガラコンサートの“終わりの始まり”の合図だった。
拍手が収まり、指揮者が手を挙げる。
このよき日に相応しい、神をたたえる荘厳な歌曲が始まった。
あまりに美しい旋律。
声と声が溶けあい、音と音が手を結ぶ。ただこの日を讃えるためだけに。
それはアンナマリアの、いつだかのアマチュア合唱団で大丈夫なのかという不安を吹き飛ばし、押し流し、彼女をただ茫然と舞台を見つめるだけにしてしまうほどの力のある美しい音だった。
明らかに実力の差がありすぎるソリストたちの声に、埋もれてしまうことはない。
ソリストたちも自分を決して主張せず――かと言って手も抜かず――オーケストラと共に、美しい音楽を一つ一つ大切に造り上げていく。
アンナマリアはその創造物の前にただただ立ち尽くすだけだった。
この世にこれほど美しいモノがあるとは知らなかった――このオーケストラと合唱。それに、アルフレート・ベルゲングリューンのあの歌も。
すごい、と言う言葉さえ喉を上らない。
彼女は、歌の向こうに彼女の大好きな星空を見る気持ちだった――この歌と、宇宙は繋がっている。直感的にそう思った。
それから、彼女はふと不安になった。何故かはわからない。
ただ隣にいる二千余歳を数える男が、このあまりに美しい歌曲が讃える神の管理下にいないことに無意識に気づいたからかもしれない。
彼はこの神をたたえる――美しい創造物をどう捉えているだろう?
彼女は不安になって、吸血鬼を振り返った。そして彼女は、この“吸血鬼”が変わり者であることを思い出した。
彼はただ静かに、音楽と言う偉大な河に耳を浸していたのだ。目をつぶり、せせらぎの音を聞くかのように。その表情は穏やかで、神の支配下にあるか否かは関係なく――ただ音楽と言うモノが、美しい普遍性を備えていることを証明するかのようだった。
後に彼は苦笑しながら彼女に言ったものだ。
「自分にとって異教であるからといって、そこにある全てが美しくないのだとしたら――この世はとてもつまらないものになるよ。なぜなら、今の世界ではそこいらじゅうにそんな美しく楽しいものがあふれているのだから。ミロのヴィーナスは君にとっては芸術品ではないのかね?ローマのコロッセウムはどうだね、アレを見て胸を掻き立てられないかい?」
と。
やがて荘厳な余韻を残して歌曲が終わった。
またわっと拍手が上がった。指揮者はふうーっと息をつきながら、充実した疲れを見せる顔で客席を振り返り、深く腰を折った。そして彼は身を起こすと、第一ヴァイオリンのコンサート・ミストレスをさっと示した。彼女は立ち上がり、礼をする。
拍手は鳴りやまない。伯爵とアンナマリアも立ち上がっていた。
コンサート・ミストレスが再び席に着くと、指揮者がまた退場した。そして、合唱に溶け込んでいたソリストたちも壇上を降りる。
やがて鳴りやまない拍手に指揮者が舞台に舞い戻り、アンコールの曲が始まった。
だが用意されていたアンコール曲が終わった後の拍手も、なかなか鳴りやまなかった。
困惑したような舞台の上――この楽団はこう言う雰囲気に慣れていなかった。
やがて、コンサート・ミストレスが意を決したように袖に目を向けて、何やら合図を送った。
袖でも何か動きがあったらしい。
しばらくして、指揮者が三度舞台に戻った。
彼が指揮台に昇るとともに――本日二度め、舞台が暗くなった。
――ああ、また『誰も寝てはならぬ』だ。
会場の誰もがそう思ったであろうことは間違いない。袖に引っ込んだソリストたちは、アンコールに参加しなかったのだ。
だが――指揮者の動きに応じてヴァイオリンが奏でたのは、暗く不穏な音だった。間延びした、暗く不気味な音楽。木管楽器がそこにさらなる不安定さを加え、不幸の始まりを吹き鳴らす。
あっ、という幾人かの女性の声が一階から上がった。
暗闇からどこからともなく聞こえてきたのは、アルフレート・ベルゲングリューンの声だった。しかし、カラフではない。
誘うような、妖しげで妖艶な声――それは愛を夢見る青年の声ではない。
破滅を歌う男の声だった。
やがて美しい歌と暗く不気味な音楽は速度を増し、陰気な強さをも増していった。
曲がサビに入ったとたん、カッと照明がともった。
声の主たるアルフレート・ベルゲングリューンがついに現れた。だが彼はまたもタキシード姿ではなかった。
今度は黒一色。黒いロングコートの華麗に捌き、まだ闇の残る舞台――ステージの端からさっと中央に駆けた。
それは破滅の後に来る先のない愛の成就を歌う、あまりに妖艶な歌だった。
だがガラ・コンサートというこの夜には、あまりに相応しくない内容の歌だ。
それは全くクラシック的な曲ではなく、かと言ってポップスでもない。ロックの要素も含む複雑な、激しい曲だった。
だがオーケストラはそれを弾きこなし、アルフレート・ベルゲングリューンは歌った。
舞台を縦横無尽に動き回り、コートの裾を誘うように翻しながら。
腹の底から出された声が、脳天まで登り、吐き出される。
唇から出た音は、ただ破滅への期待に震え、そこら中に飛び散った。
誰も身動きができない。ヴァイオリンの弓の動きは、まるで暗闇の手まねきのようだ。
コーラスが彼につき従う従僕のように彼の言葉を繰り返す。
突如、高笑いが響いた。
アルフレート・ベルゲングリューンという肉体に舞い降りた何者かが、いつか必ず来る勝利を宣言し、笑ったのだ――そして“ソレ”は身をひるがえす。
ロングコートの裾が妖艶に舞った。
音楽が途切れる。
そして“ソレ”は、カラフとは全く異なる、異常な勝利を天に向かって宣言した。


――最期に勝つのは、私だけ!


宣言がホールに余さず響き渡り、全てが終わった。
茫然とした沈黙が場を支配した。圧倒的で不気味で妖艶な存在感。これは、希望に満ち満ちあのたカラフを歌いあげた人物と同じ人間なのか?
聴衆の中でまたも最初に動いたのは伯爵だった。だが今度はブラーヴォという言葉はない。
ただ立ち上がり、熱心に拍手を送る――アンナマリアは半ば口を開けて、ようやっとという感じで舞台から目を放し、伯爵を見上げた。
それから彼女はよろよろと――まるで何かにぶつかった後かのように――立ち上がって、拍手をした。
だが他の聴衆はまだ茫然としているようだった。お歴々はまさか祝典演奏会(ガラコンサート)で死と破滅の歌を聞かされるとは思っていなかったのだろう。だが、それだけで不機嫌になれるほど彼の歌声は弱々しくも、また魅力に欠けることもなかった。彼らも、どちらかといえば歌の威力に圧倒されてしまっていたのだ。
アルフレート・ベルゲングリューンの創り上げた世界に、引き込まれ打ちのめされているのだった。
「ブラーヴォ!」
そこへ軽やかな、だがどこか硬い発音の女性の声が響いた。
見れば、向いの桟敷席のあの青いドレスの東洋の女性が立ち上がって拍手を送っていた。
発音の固さとは裏腹に、顔には柔らかい笑みが浮かんでいる。
アルフレート・ベルゲングリューンがそれに気づいた。
途端、それまで役の余韻を引きずって硬い表情をしていた彼の顔がゆるむ。
そして、彼はそちらへと手を伸ばしてから、お辞儀をした。
それから――そのアルフレート・ベルゲングリューンの動きに誘われたように、ようやっとあちこちからブラーヴォ!という声が上がった。
やがて他のソリストたちが戻ってきて彼を祝福し――彼らはもう一曲だけ、ガラに花を添えた。
そうしてガラ・コンサートは幕を閉じた。
指揮者とソリストのみならずオーケストラ団員も合唱団も去った舞台を、まだ興奮冷めやらずという感じで見つめていたアンナマリアへ伯爵はそっと耳打ちした。
「あの“死神の歌”は、彼を一躍スターダムに押し上げた名曲で、もちろん彼の十八番(おはこ)だ。まさかこのおめでたい日に、あの曲を聞くとは思わなかったが――どうだい、彼は素晴らしい声の持ち主だろう?
まあ実は、わたしも生で聞いたのは今日が初めてだが」
どこか誇らしげな伯爵に、アンナマリアはただ頷くしかなかった。

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