「伯爵と平凡な娘」

ガラ・コンサートとある愛のかたち

第六話
「第二幕」

人の波が引いていく気配が一階から聞こえてくる。
アンナマリアはその音を遠くに聞いていた。ただただ伯爵と黙って空になった舞台を見つめている。
「君のご友人は、幼いころにアルフレート・ベルゲンクグリューンを発見したのだったかな。かなり見る目があると思わないかね」
「はい――ええと、9歳って言ってたかなぁ」
「例の“死神”の役を得る少し前かな――あの舞台の初演は12年前のことだ
――さて」
伯爵はわずかに手すりの向こうを覗く仕草をした。見れば、向いの桟敷席からも人が消え、一階のざわめきもかなり収まっていた。
「ダドリーに連絡せねば。君の荷物のために」
そう言って、彼はジャケットの内側に手を入れた。そして、次の瞬間彼が手にしていたのは――
「は、伯爵携帯電話持ってたんですか?!」
手のひらに収まる、長方形型のガジェット――まごうことなく、ここ数年で爆発的に世界中に普及した携帯電話それであった。
「おや、言っていなかったかなぁ」
伯爵は空いた手で顎を撫でた。その口調は事もなげである。
「おお、そういえば君も持っているんだったな。後で番号とアドレスを教えてくれたまえよ。
何かあった時には連絡を寄こしなさい、迎えに行くから」
何やら画面を見つめ操作しながら軽い口調でアンナマリアにそう告げる伯爵に、アンナマリアのなかでまた何かが音を立てて崩れていくような感覚がした。どうもこの吸血鬼、一般的に知られる存在から考えれば相当な“規格外”のようだ。恐らくアンナマリアの中でガラガラと音を立てて崩れかけているのは、“夜に生きる孤高の存在”であろう。
だが、伯爵はそんなアンナマリアの夢の崩壊などお構いなし耳に携帯電話を当てて、口を開いた。
「ダドリー?ああ、わたしだ。――そう、今終わったところだよ。まだ桟敷席にいるがね。
ホワイエに椅子があるはずだから、そこいらに居ておくれ。わたしたちもそこにいく。
――ああ、よろしく頼む」
そこで伯爵は電話を切り、またそれをジャケットの内ポケットにしまった。
そして、アンナマリアの様子に気づく。
「どうしたのだ、ウラニア。なんだかしょんぼりしているぞ?
さっきまであんなに元気だったのに――ベルゲングリューン氏の歌の魔法が解けてしまったのか?」
本当に心配そうに言う伯爵に、
――いえ、アナタのおかげでまた私の中の吸血鬼像がぶち壊されたせいです。
とは言えないアンナマリアだった。とりあえず、携帯電話が恨めしい。



桟敷席を出て、エレベーターで下り、ホワイエへ出る。隅の談笑用のテーブル席の近くに、ダドリーはすでに控えていた。
「ご主人さま」
その呼びかけに、伯爵は片手をあげてこたえた。
「ガラはいかがでした」
「素晴らしかったよ!まったく、こんな満ち足りた気分なったのは久しぶりだ。やはり音楽というのはいい」
それから彼はアンナマリアに手まねきした。ダドリーはにっこりと彼女に荷物を差し出した。
「CDとパンフレットになります」
「ありがとうございます!」
アンナマリアはほっとしてそれを受け取った。
「御武運をお祈りしておりますね」
「は、はい」
にこやかながらも真剣な口調で言ったダドリーに、アンナマリアはそんなに大げさなことでもないんだけどな、と考えまた、サインを貰えなかったらどうしよう、とちょっと不安になりもした。
その間に、伯爵とダドリーは打ち合わせのような話をしていた。
「この後、ベルゲングリューン氏と落ち合うことになっている。が、少し時間がかかるだろうな」
「レストランのあるホテルまでお送りいたしましょうか」
「いや、いい。歩いて数分のところだ。夜の街を歩くのもわるくないだろう。
それから、迎えだが、あとで連絡する。ホテルのロビーが開いているだろうからそこで待っているよ」
「かしこまりました」
ダドリーは慇懃に礼をして、さっと踵を返した。
それといれ違いに、二人に近づいてくる人物があった。
アンナマリアは彼女を見てはっとした。
深い青のホルターネックのドレスに、ショートカットの黒髪。
先ほどまで、向いの桟敷席にいたあの東洋の女性だ。彼女はダドリーとすれ違う時にちらと彼を見――それからにこりとした顔で二人にお辞儀をした。
「失礼ですが、“伯爵さま”でいらっしゃいますか?」
柔らかい声音だが、切るようにはっきり発しどこか平坦さを感じさせる発音は、彼女がやはりこちらの人間ではないことを物語っていた。
しかしアジア人に特有の一語一語切るように発音するやり方は、不快ではなかった。むしろ、相手の耳に届きやすいようにという配慮が感じられ、心和らぐようであった。
「そうですが、貴女は?」
伯爵はやや警戒の色を見せつつも、紳士的な態度で尋ね返した。
すると、女性はほっとした顔をした。
「不躾で申し訳ありませんでした。私はアルフレート・ベルゲングリューンの連れの者で美咲・三条(ミサキ・サンジョウ)と申します。はじめまして」
彼女はそう言って、また丁寧にお辞儀した。
伯爵の方は、次は握手だと思っていたらしく――というかそれがこちらの流儀だった――いくらか面食らったようだった。顔をあげた美咲が、はっとした顔になる。
「申し訳ありません。いつまでも慣れなくて」
そう言って、彼女は右手を差し出した。伯爵はその手を優しくとる。
「いえいえ、お気になさらず」
「あの、アルフレートからは“伯爵”さまとしかお伺いしていないのですが、なんとお呼びしたら……」
手を放したあとに美咲が発したのは、疑問だった。伯爵はその質問に鷹揚に笑う。
「この街で“伯爵”といえばわたしなのです。どうぞお気になさらず、伯爵と呼んでください。私もその方が慣れております。
ああ、それからこちらは、姪のアンナマリアです」
伯爵は悠然とアンナマリアを示した。姪、というのはもちろん嘘だが、説明するのも面倒なのでそう言うことにしようと事前に取り決めてあった。
赤いドレスの乙女は身を固くする。東洋の人と話すのは、初めてだ。
「はじめまして、アンナマリアさん」
美咲はにっこりして、アンナマリアに手を差し出した。
華奢だが、優しい温もりのある、同時に力強さを感じさせる手だった。
「こ、こちらこそよろしくお願いします、サンジョーさん」
「ミサキで構いませんよ」
美咲はにっこりと笑って言ったが、アンナマリアよりは年上のようだった。
それから、アンナマリアはちらりと彼女の左手に目をやった。
薬指。そこにヒントがあるはずだった。だが――そこには何もない。
では、彼女はアルフレート・ベルゲングリューンの妻や婚約者ではないのだろうか。
アンナマリアは首をかしげた。
それにしては、あの、舞台上のアルフレート・ベルゲングリューンの表情と仕草は奇妙だ。
カラフの歌は――明らかに、彼女をトゥーランドットとして歌われていた。
そして歌を歌った後のあの仕草。彼は言葉によらずすべてを彼女にささげたことを一瞬だけ示していた。他の人が気づいたかどうかはわからないが、一瞬のあの動きが彼女にはそう見えた。
そして、死神の歌の後の和らいだ表情。
――伯爵に聞くべきだったかな。
目ざとい二千余歳の老人は、確実にその二つの出来事に気づいていたはずだ。数々の人生を見守り、また見送ってきた彼なら二人の関係を見抜けたかもしれない。
だがミサキは、アンナマリアの思案に気づかずに口を開いた。
「アルフレートは、まだ楽屋にいると思います。それに楽屋を出た後も、出待ちの人たち(ファン)を大切にする人なので――先にレストランにお連れするようにと言われてきたんです。
もし私でよければですが、ご一緒させていただいても構わないでしょうか?」
「なんと!いやいや、貴女のような素敵な女性と、ベルゲングリューン氏を差し置いてお話できる時間があるとは夢にも思いませんでした。光栄です、こちらこそ退屈でなければいいのでですが」
伯爵の歯の浮くような台詞に美咲はくすくすと笑った。アンナマリアは、私だったらきっと赤くなってしまう、と思って彼女を眺めていた。
「いやはや、両手に花と言うべきかな――さあ出発しましょう」
伯爵は、三人の中で唯一の男性として二人の女性を促した。



ホテルのレストランへの道々、三人はそれとなく会話を交わした。
美咲は最年少のアンナマリアを気遣ってくれる。
「アンナマリアさんは、大学生?」
「はい、三年になります」
「三年!一番楽しい時期ね。何を学んでいるんですか?」
「いちおう、その、星のこととか、宇宙とか」
「星?すごい、優秀なんですね」
「いえ、あの、そんな……」
「あ、もしかしたらこの前の彗星のこととかも何かされたんですか?私はそちらはうといので、もし珍しい話があったら聞かせていただけますか?」
「はい、えっと……」
――たぶん、この人は私より正しい発音で、正しい言葉遣いをしている。
アンナマリアはなんだか恥ずかしくて、小さくなっていた。彼女が気を使ってくれるのも申し訳ない気がした。
「あのう、ミサキさんは、こちらの言葉がお上手ですね」
すると、美咲は一瞬あっけにとられた顔をした。それから嬉しそうに笑う。
「そんなこと言われたの、初めてですよ!みんな言うんです、お前の言葉はいつまでも上手くならないんだなって」
「そんなこと、ぜんぜん!」
アンナマリアはあわてて手を振った。
「ベルゲングリューン氏もそう言っているとしたら、かなり意地が悪いですよ」
伯爵は悪戯っぽくそう言った。すると美咲は首を振る。
「アルフレートは何も言いません。
でも、あの人のRとVの発音は真似できません。私が舌を回せないのもありますけど、あの人のは特別なんです」
「特別?」
伯爵が聞くと、美咲はにやりとしてみせた。
「いろっぽいんですよ。アレはあの人にしかできません」
アンナマリアはその返答に「ああ!」、と声を出し伯爵は「ふむ?」と首をかしげた。
美咲はくすくすとまた笑った。
「ミサキさんはどのくらいこちらに居られるんですか? えっと、あとご出身は……」
故郷(くに)は日本です。こちらに来てもう三年になりますね」
「お仕事でいらしたんですか?」
「いいえ、こちらの大学院で少し勉強を」
すると、その言葉に興味を示したのは伯爵だった。
「ほう、学問ですか。実に素晴らしい。何を専攻しておられるのですかな」
「美術史を。主にゴシック建築について学ばせていただいています」
「ゴシック!」
その言葉に伯爵は楽しげにミサキにいくつかの単語を投げかけはじめた。
「サン・ドニ修道院」「ステンドグラス、薔薇窓」「尖塔」「ケルンの大聖堂」「ノートルダム」「ウェストミンスター」「シャルトルにランス」などなど。
アンナマリアは伯爵の知識と知識欲が刺激されたのを感じて、内心冷汗をかいた。
矢継ぎ早に出される単語に、女性が引きはしないかと心配したのだ。
だがミサキ・サンジョウにはそんな心配は無用だったようだ。彼女は丁寧に伯爵の言葉を拾い、質問に答え、そして笑っていた。
アンナマリアには話の内容はさっぱりだったが、彼女の人当たりの良い感じにホッとしていた。



レストランにつくと手際よく席に案内され、3人は窓際のテーブルについた。
薄暗い店内にテーブルの白いクロスがよく目立つ。
このレストランは街でも高層ビルと呼べる部類のホテルの最上階にある。とはいっても、古い街並みを保つための条例があるこの街では「高層ビル」と言ってもたかが知れているのではあるが。せいぜい周りの建物より頭一つ出ている程度である。
それでも一応、最上階であるから、天井から床まである大きな窓からの景色は一見の価値あり、と言ったところだった。
ガス灯を模した街灯の光は、まるで蝋燭の火ように暗い石畳の道路を彩り、石造りの建物を幻想的に――時に不気味に――浮かび上がらせる。建物の小さな窓から漏れる現代的な白い光の向こうには、一家の団らんや友人たちの楽しい談話が聞こえてくるようでもある。
アンナマリアと伯爵の席の向かいで、ミサキは愛おしそうな視線を街に落としている。
その視線にアンナマリアはなんだか嬉しくなった。
「いい街ですね」
「はい。地味だとか、古いとか言う友達もいますけど、私はこの街大好きです」
ミサキは満面の笑顔をアンナマリアに向けた。
「えっと、美術史……でしたっけ」
「ええ。特に建築が専門なので、こういう街並みを見るのが好きなんです。
アンナマリアさんは、この街の大学に?」
「はい」
「昨日、アルフレートに案内されて見てきたんですけど、貫禄があって素敵な建物ばかりでしたね!こんな街に住めて、素敵な大学にも通っているなんて羨ましいです」
ミサキは心の底からそう言っているようだった。アンナマリアはなんだかこそばゆくなった。自分のことのように照れていると、隣で大学を作り上げた「三校祖」の一人であり同時に一部から「街の守護聖人」と称される吸血伯爵が密かに胸をそらしたのが感じられた。
アンナマリアは伯爵のその様子に吹き出しそうになるのをこらえながら、
「でも、エレベータがない建物もあって大変なんです」
と冗談めかして見せた。
しばらく三人で雑談をしていると、ボーイがテーブルへと近づいてきた。そして、一同に
「お連れ様がいらっしゃいました」
と告げる。
伯爵はにやりと笑って
「今夜の主役の登場だ」
と言った。
そう、もちろんボーイが連れてきたのは、アルフレート・ベルゲングリューンその人だった。
彼はボーイの後ろからさっとテーブルに近づくと、伯爵に手を差し出した。
「伯爵、お目にかかれて光栄です!
今日もわざわざご足労いただき、本当にありがとうございます」
伯爵は立ち上がって握手を受けた。
アンナマリアはその彼の声に少しびっくりした。彼の声は、先ほどの高めのテノールとは少し違う、低めの声でしゃべったのだ。
それに、服装にも。
彼は舞台では奇をてらったかのように正装をせず、白いジャケットに革のパンツを身につけていたり黒いコートを着たりしていたが、ここでは――ネクタイはしないものの――グレーのスーツをきちんと着こなしていた。
伯爵と握手を終えたアルフレートは今度はアンナマリアに目を向けた。
「姪のアンナマリアだ」
短く紹介されて、アンナマリアはあわてて立ち上がった。それから、握手。
大きくて温かい手だった。
「可愛らしい方だなぁ!僕があと10歳若ければ、伯爵、許可を頂いて後日食事に誘っていますよ」
リップ・サービスだとはわかってはいたが、こういう扱いに慣れていないアンナマリアは顔を赤くした。伯爵は苦笑して見せる。
それから彼はミサキに「ありがとう」と耳元でささやいてから席に着いた。ミサキは笑顔で答えて見せる。愛情の発露のような、二人の交わした何気ないその仕草にアンナマリアは少しどきりとした。
ボーイがそれぞれのメイン料理についての希望を聞きいた後に下がると、伯爵は早速口を開いた。
「今日の舞台は素晴らしかったよ。まぁ、もちろん君の格好には驚いたが、若く情熱あふれるカラフを見事に表現していたな」
「ありがとうございます」
アルフレートは嬉しそうに言った後、少し眉を寄せた。
「衣装の方は、少し迷ったんです。でも僕はオペラ歌手じゃなくてミュージカル俳優なので、“少し”違ってもいいかなと。まぁ、やっぱりお歴々は眉をひそめていましたがね」
「“死神”の歌のときはなおのことひどかったな。しかしあれは不死なる神をも黙らせる“死”だったから、死に行く彼らは太刀打ちできなかったようだがね」
伯爵はくつくつと笑った。食前酒が運ばれてきて、四人はグラスをあげた。
アンナマリアはちょっとだけ口をつけ、そっとグラスをテーブルに置く。酒はまだ苦手だった。
それからふと、彼女は目の前の男女を見比べた。そういえば、アルフレートから彼女は誰か、ということを言われなかった。まぁもしかしたら彼は自分がいない間に彼女が自分で自己紹介を済ませたと考えたのかもしれないが。
金の髪の歌い手と、東洋の女性。
接点はなんだろう。話を聞く限り、ミサキの専攻が音楽関連ではないことから、それが見いだせない。
「不躾なことを聞くようだが――」
伯爵はちらりとアンナマリアを見てから二人に向けて言葉を発した。どうも、アンナマリアがうずうずしているのを見てとったらしい。伯爵は一瞬言葉を選んで、こう言った。
「お二人は、ご夫婦だったかな」
すると、ミサキが一瞬表情を硬くして身構えた。だがそれも一瞬のことで、アルフレートは明るく答えた。
「彼女は僕にとって良き理解者で、霊感の源です。それから君にとって僕は、命の恩人ってところかな?」
冗談めかした声に、ミサキはほっとしたようだった。
「そうね、そうかも」
「命の恩人?」
アンナマリアが不思議そうに言うと、ミサキは苦笑した。
「こっちに来て数か月経ったころ、ちょっと貯金が底を尽きてしまいまして。
バイト先も見つからず、途方に暮れている所を助けてもらったんです――色々と」
「最初であった時は、行き倒れかけていたものでびっくりしましたよ。
その後ハンバーガーショップに連れて行ったら一番大きなヤツをぺろっと平らげるし」
その言葉を言い終えたアルフレートの脇をミサキが肘で小突いた。
「事実だろう?」
アルフレートが笑って言うと「そうだけど」とミサキはどこかかわいらしさを感じさせる不満そうな声を出した。
アルフレートはまた笑って彼女の黒い髪をくしゃくしゃと撫でた。
その仕草はまるで、彼女を引き寄せて額にキスをするのを辛うじて我慢しているようにも見えて、アンナマリアはなんだか恥ずかしくなった。
そして、次にパンが運ばれてきた。
一つ一つは小さめではあるが片手で足りないくらい何種類もあるパンの中から、アンナマリアと伯爵は二つ、アルフレートは三つパンを選んだ。だが選んだ後も、しばしアンナマリアはボーイが抱えるバスケットの中を見ていた。
――やっぱり、あれも美味しそうだったな。
そんなことを考えているうちに、ボーイが最後の客であるミサキの傍らに立った。
「どれにいたします?」
するとミサキは躊躇することなく、
「一通り」
と言いきった。
ボーイは一瞬あっけにとられたようだったが――ついでに言えばアンナマリアもだが――、一瞬の沈黙ののち、さわやかな笑顔になると、
「かしこまりました」
と言って彼女の皿へとパンを置きはじめた。最終的には一皿では足りず、パンは二つの皿に全種類並ぶこととなった。
「ご入用の時はお気軽にお申し付けください」
ボーイはまたさわやかに「お代わり自由」と言うことを丁寧に告げると、颯爽と去っていった。
すると、アルフレートがテーブルに肘をついて額を押えてくつくつと笑いだした。
「プロは偉大だなぁ」
アルフレートがミサキに言うと、ミサキは澄まして
「だってプロですから」
と言った。アンナマリアは二皿ものパンを見ながら、
――この人の細くて小さな体のどこにこれが入るんだろう。
と不思議に思った。そして伯爵も同じことを思ったのだろうか
「日本人は大食しても太らないというが……圧巻だなぁ。アンナマリア、どれが美味しかったか教えてもらうといい」
と耳打ちしてきた。



それからしばらく、雑談をしながらの食事となった。
“ベルゲングリューン”というのは本名ではなく、世話になった恩師のファースト・ネームであること、実は金髪が染めたものであることなど、アンナマリアは初めて聞くことばかりだった――もしかしたら、ミリアムの話に真面目に耳を傾けていたらすでに知っていることになっていたのかもしれないが。
「そういえば」
話が途切れたところでミサキがふと思ったかのように口を開いた。
「伯爵とアルフレートがお会いするのは、今日が初めてだとお聞きしたんですが」
「ええっ」
その言葉に、アンナマリアは素っ頓狂な声を出した。
伯爵はからからと笑う。
「まともに対面するのは、確かに始めてだ」
「ず、ずいぶん親しいですね、それにしては」
アンナマリアが思わず言うと、アルフレートが説明した。
「定期的に勉学状況の報告も兼ねて手紙をやり取りしてんだよ。伯爵は僕の奨学金の出資者だったからね」
「季節のごとに手紙を送ってきた律儀者は君くらいだったなぁ。銀行に金が返ってくるのは心強いが、やはり手紙の方が嬉しいね」
アルフレートはその言葉に照れくさそうな笑みを浮かべた。それから伯爵は、ふと昔話をするような口調になった。
「しかし実は私は君が少年合唱団に居たときから知っているんだよ」
その言葉にアルフレートは驚いたようだった。
「ええっ本当ですか!」
「本当だとも」
伯爵はそこでミサキの方へ顔を向けた。それはまるで、これから結婚する甥の婚約者に、かつての甥の武勇伝を語るかのような表情をしていた。
「彼のボーイ・ソプラノはずば抜けて美しくてね。天使の歌声と本当に呼ばれていたんだ」
「まぁ。本当ですか?」
ミサキは想像できない、という顔をして首を振った。
「本当だとも。世が世なら、君はファリネッリを超えるカストラートにさせられていたかもしれんな」
「大げさですよ」
「でも実際、わたしはファリネッリより君の方が技術が優れていると思うんだがね。
彼は女性をよく失神させたが、それでは歌を聞かせているということにはならない。ただの声自慢の超音波攻撃だよ。それに気絶した貴婦人を運び出すのによく舞台が中断したのも気に食わん。まぁ、単にわたしの好みの問題かもしれんが。
それに知名度も君の方が上だろう。当時、下々の者たちは彼の歌声さえ聞けなかったし、国王のお気に入りの歌手など気にかけている暇はなかったからね」
その発言に、ミサキとアルフレートがきょとんとした顔になった。アンナマリアはそんな二人の反応を見たのち、首をかしげかけ――思わず、「あっ」と声を上げるところだった。
普段、天文と時事意外に疎いアンナマリアであったが、この時はたまたま「ファリネッリ」という人物について知っていたのである。それは、彼を題材にした映画を数日前に見ていたからだ。
ファリネッリ――本名をカルロ・ブロスキという去勢された歌手(カストラート)は、1700年代に活躍した人物なのである。
つまり、三百年も前の人物について伯爵はまるで昨日見てきたかのようにアルフレート・ベルゲングリューンと比べて見せたのだ。そして、文献と絵にしか残らない彼についていささか、しゃべりすぎた。
――マズイ。
アンナマリアはあわててフォローの言葉を探した。
「……っと、伯爵は思うわけですよね。本を読んで、想像を働かせて」
その言葉に、伯爵はようやっと自分が何を言ったか思い当ったらしい。ゴホンと咳払いをして
「……そうとも。素人の口ばし突っ込みたがり屋の私は、そう推測するのである。」
と言った。若干語尾が芝居がかっておかしかったことにアンナマリアは悲鳴を上げたい気持ちになった。
だがミサキとアルフレートは納得してくれたらしい。ミサキは少しさびしそうに笑って
「そこまで言われるこの人の声、聞いてみたかったです」
と言った。アルフレートはそんな彼女へ「実家へ行けば何か残ってるかも」と言った後、ふと思い出したように言った。
「……そんなんだから、声変わりの時期は苦労しましたよ。このまま世界が終るんじゃないかってくらいにも悩みましたし」
「声変わりをしてだめになってしまう者もいるからな」
「そんなに違うんですか?」
「女の人には分らないだろうなぁ」
アルフレートがそう言うと、伯爵はうなづいた。
――伯爵、変声期なんてあったのかしら。
と、アンナマリアは思ったが黙ってナイフとフォークで料理を切り分けて口に運ぶだけにした。

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