「伯爵と平凡な娘」

ガラ・コンサートとある愛のかたち

第七話
「終幕」

メインディッシュが終わり、一同の前から一度食器類が片付けられた。
酒のグラスも取り換えられる。ボーイが辞そうとする直前、伯爵がアンナマリアを指して
「この子にはジュースを」
と言った。
しばしテーブルに沈黙が落ちる。
すると、店の奥からポロン、というピアノの音が聞こえてきた。
そちらを見やると、店の奥まった場所に小さなステージがあった。
どうやら店の食事の時間が終わり、酒を楽しむ時間になったらしい。姿勢のいいピアニストが、店に生演奏のBGMを流し始めたのだ。
「ピアノかぁ」
一番に反応したのはアルフレートだった。落ち着いた、雰囲気のある曲が店に満ち始める。
「しばらく人の伴奏で歌ってないな」
「自分で弾けるから、いいじゃない」
ミサキが言うと、アルフレートは肩をすくめた。
「そりゃあ、音を覚えるために自分のパートくらいわねぇ」
それからアルフレートは辺りを見回した。
「デザートまではまだ間があるかな」
アルフレートはそう言うと、ふらりと立ちあがった。その様子になにやら悟ったらしいミサキが、彼のジャケットの裾を捉えた。
アルフレートは引き戻されて振り返り、眉をよせている恋人に笑って見せた。
「悪さはしないよ」
彼はそう言って器用に彼女の手から逃れると、そこへキスをしてからピアノの方へ向かっていった。ミサキはキスを受けた手を、今度は困ったように額に当てていた。
それから、彼女はアンナマリアと伯爵に向きなおった。
「どうも彼、酔っぱらっちゃったみたいです。酔うと、歌いたがるんですよ。まったく、喉が焼けるから酒を飲んだら控えなきゃって自分で言ってるのに」
それから彼女は再び彼を見た。
「……大丈夫かしら」
ボーイたちは彼の正体を知っているのか、それとも単に自分の仕事が忙しいのか、陽気な足取りの酔漢を止めなかった。アンナマリアも心配になって、思わず伯爵を仰ぎ見たが彼は楽しそうな笑みを彼女に返しただけだった。
ピアニストは自分の方へ向かってくる人間の気配に気づいたのだろうか。ふと手を止め、振り返った。こちらに背を向ける酔漢の顔はわからないが、ピアニストの表情はアンナマリアたちによく見えた。
一瞬、近寄ってくる人物に不審げな目を向けた彼は――一瞬後、ぱっと顔を明るくした。
それから立ち上がって、アルフレートに手を差し出す。アルフレートがその手を握った直後、二人は抱き合った。
その頃、ほかの客たちも突然切れて一向に再開しないBGMを不審に感じ始めたらしい。
皆、振り返ってピアニストと酔漢の抱擁を目の当たりにし一様に驚いていた。
ピアニストとアルフレートがなにやら話しているのが見える――その様子から、二人が旧知の仲であったことが察せられる。
そして、ピアニストは再びピアノの前に戻った。アルフレートはピアノのすぐそばに立つ。
二人は目を合わせて、頷きあった。そして、ピアノがポロン、と音を奏でた。
和音。一瞬後、アルフレートが背筋を伸ばして息を吸った。
彼の口から、優しげな歌がこぼれ出た。
それは優しいピアノの音と交わり、レストラン中に広まる。
一音一音愛おしげに、そして軽やかに。
オペラとは異なる、浅めに肺を使う技法。
語りかけるように、辺りを見ながら歌う。時にピアニストと呼吸を確認し合い、彼は自らの楽器を奏でる――
「すごい……違う人が歌ってるみたい」
先ほどのオペラの、深い息遣いでホール中を震わせた歌声とは全く違う歌にアンナマリアは思わずそう言った。オペラの豪奢な音づかいとは異なる、どこか耳慣れた――そう彼女がいつも聞いているような流行歌に近い――音。
突然現れた歌い手に驚いていた客たちも、感嘆したようだった。女性などはほぅ、と甘いため息をついている。中には彼が誰だがわかったらしく、その名を口走る者もいる。
だが、騒ぎ出すものは一人もしなかった。
そして、長く伸ばした音が溶けるように消え、曲が終わる。
すると自然と拍手がわきあがった。
アルフレートはそれに笑顔で答え、美しい仕草で腰を折った。そして彼は再びピアニストと目を合わせる。そして、歌い出す。今度は懐かしく優しい、誰もが知っている映画の主題歌がレストラン中に満ちていく。
「まったく……」
ミサキが呆れた様な、だが愛情こもったため息をついた。
アンナマリアはその様子に思わず笑って、伯爵を見た。伯爵も片目をつぶってみせる。
そして彼はおや、と言った。
「どうもあのピアニスト見たことがあると思ったら、ベルゲングリューン氏と一緒の合唱団にいた人物だな」
「なるほど。それで親しそうだったんですね」
あたたかで陽気で、飛びまわるような楽しげな声。
まるで人を幸せにするための歌のようだった。
アンナマリアは再びミサキを見た。青の似合う東洋の女性は、愛情こもった優しい瞳で金の髪の男を見ている。――だがふと、目に陰のようなものが見えた気もした。
「本当に楽しそう。――彼はこの街が大好きなんですよ」
アルフレートに目を当てたまま、ミサキは呟くように言った。伯爵はテーブルに肘を乗せ、組んだ手の上に顔を預けたまま目をミサキへと投げた。
「オーケストラとのリハーサルの関係もあって、一週間と少し前からこの街に居たんです。
合間合間にいろんな所に連れて行ってくれました。昔通っていた学校とか、教会とか。色々なものを見せてくれました」
「それであなたの彼への愛情は深まったわけですね」
伯爵が組んだ手の向こうから低めの声でそう言うと、ミサキははじめてこちらを見た。
それから少し、テーブルに目を落とし、肩をすくめて見せる。
「失礼ながら、先ほど向かいの桟敷席にいたのは私たちでね。ご両親とも仲がよろしかったようですが」
ミサキはそこで、アルフレートへと視線を戻した。
「……不躾な質問でしたね。お許しください」
伯爵がそう言うと、ミサキは苦笑した。
「――いいえ。本当に素晴らしいご両親です。」
彼女が答えたのは、それだけだった。
また拍手が沸き起こった。アルフレートは再び一礼すると、旧友のピアニストと堅い握手をして一段高くなっている場所から下りた。そしてこちらへ戻ってくる。
「すっきりした?」
「したとも!」
まるで悪戯好きな少年をからかうかのような問いと、心から満足した返答。
しかしながらアルフレートは今度は鼻歌を歌っている。ミサキは笑いながらやれやれというように首を振った。
それからまたしばらく談笑をしていると、ボーイがデザートを運んできた。
「本日は本当にありがとうございます。お客様だけでなく、私たちも楽しめました」
ボーイのなかでもチーフらしい人物が、アルフレートへとあいさつする。
そしてテーブルに並べられたのは、周りの客より少しだけ豪華な、きらきらしたデザートだった。
白い皿の上に脚をもつグラスが乗り、ひんやりと冷えたグラスの上には砂糖で作った格子がかぶせてあった。小さなスプーンでそのキャラメル色の格子を崩すと、グラスの丸い器の中にベリーのソースがかかったアイスクリームがちょこんと控えていた。アイスの傍らには、イチゴや桃などの果物たちがきらきらと輝いてこちらを見上げている。
「きれい……」
アンナマリアが思わず言うと、ボーイはにっこりした。
「素晴らしい歌のお礼です」
ボーイが下がると、伯爵は楽しそうに笑っていった。
「いや本当に、君と今日食事ができてよかったよ。こんなに素晴らしいことは初めてだ。
もちろん、君の飛び込みの歌を含めてね」
アルフレートはその言葉に笑った後、傍らのミサキを見た。
ミサキはもうデザートに集中している。アンナマリアもアイスクリームをつつく手を休め、思わず彼女を見てしまった。
――たくさん食べる人だなぁ。
結局彼女はあの後、メインの間にボーイが来ると必ず新しいパンを貰い、ソースまで綺麗に皿から消し去ってしまった。だが、デザートに至ってもその食欲が衰える様子がない。
「よかったら僕のも食べるかい?」
だからその様子を楽しげに――そしてどこか愛おしげに見ていたアルフレートがふと何気ない口調でそう言ったのは、自然な流れだったかもしれない。
しかし、ミサキは意外にも首を横に振った。
「あなたのおかげで食べられるせっかくのデザートなのに、あなたが食べなかったら本末転倒だわ」
すると、アルフレートは優しく笑った。
「それもそうか。それじゃあ、“Itadakimasu(いただきます)”」
アルフレートは不思議な呪文を唱えるように、アンナマリアには理解できない異国の単語を舌に乗せて胸の前で手を合わせた。首をかしげる娘に、伯爵が耳打ちした。
「日本の言葉だよ――目の前にある食物に感謝をささげる言葉だ」
「ああ、お祈りですか?」
アンナマリアが合点のいった顔で言うと、伯爵はわずかに顎を引いた。
「少し違うかなぁ。あの言葉はね、“食物を与えてくれた唯一絶対なる神にだけ”捧げる言葉ではない。目の前の、命を差し出してくれた食物そのものへ、それからその生産者にも捧げる言葉だと私は聞いたよ」
「へぇ」
「東洋とこちらでは、世界の捉え方それ自体が異なるのだよ」
ふと見れば、ミサキがアンナマリアと伯爵のやりとりを微笑ましそうに眺めていた。
そして彼女は懐かしげな口調で言う。
「最初はとてもギャップを感じたものです。大変でした」
するとアルフレートが口をはさむ。
「そこへ来て君の場合は行き倒れだもんなぁ」
「倒れてない。未遂だってば」
むーっと頬を膨らませたミサキに、アルフレートは笑った。
そして一瞬の沈黙。その沈黙ののち、アンナマリアがあっと声を上げた。
「あの、ベルゲングリューンさん」
「うん?」
「実は、私の友達にあなたのものすごいファンの子がいるんです。今日はチケットが取れなくて、ガラのほうにも来れなかったんですけど、それで――」
アンナマリアは背もたれと背中の間に置いてあって袋を膝の上に持ってきた。
「もしよかったら、その子のためにサインを頂けませんか?」
するとアルフレートはぱっと顔を輝かせた。
「もちろんいいとも!何にすればいいかな」
アンナマリアはその明るい声と表情に、ホッとしながら預かったCDと古いパンフレットを取り出した。
「これなんですけど――彼女が九つくらいのときの舞台だそうです」
アルフレートはそれを不思議そうな顔をしながら受け取った。そして表紙をじっと眺め――パラパラとパンフレットをめくり、次第に懐かしそうな、優しい顔になる。
「ああ、懐かしいなぁ。これ、僕が初めて名前のある役をもらった舞台だよ」
彼はそういうと、自分が紹介されているページ――インタビューや紹介を含めてパンフレットの見開き数ページ使う今の彼の扱いからは考えられない、一ページに端役が三人納まっているというこじんまりとした例のページだった――をミサキへと見せた。ミサキはわずかに首をかしげて、そこを覗きこむ。
「わぁ、若い!」
「そりゃそうだ。十年くらい前の写真だもの」
まるで幼少期の写真を見せ合うかのような二人の様子に、アンナマリアはなんだか気恥しくなって、うつむいた。伯爵がくつくつと笑って、二人とアンナマリアに言った。
「たしかCDもあっただろう?それから、ペンを出さなくては、アンナマリア」
「あっ、はい――」
アルフレートはこれまたCDの方も懐かしそうに、じっくりと眺めていた。
「“死神”の役をもらったのは、この少しあとですよ。その間全然仕事がなくて――大衆に媚びるからだという大学時代の知人もいましたね」
「媚びる?」
誰かが口をきく前に、ミサキが怪訝そうな声を出した。アルフレートは苦笑する。
「オペラを専攻してたからね。ポップスの歌い方とか、ロックの要素とか、ダンスとかそういうものが入り混じったミュージカルは邪道だそうだよ。彼によるとね」
「なんて失礼!」
すると、ミサキは意外にも本気で腹を立てている声を出した――例によって、発音はどこか固く、たどたどしささえ含んでいたが。
「芸術に優劣を決めようというその姿勢、気に食わないわ!失礼な人!自分に理解できないのに、皆が楽しんでみてるから、僻んでるんだわ!失礼しちゃう!」
本気で腹を立てているミサキに、アンナマリアはきょとんとした。だが伯爵は感嘆の声を上げた。
「素晴らしいご意見ですな!確かに芸術には優劣はない。常々私も、要は己が理解できるかできないかの差にすぎない、のだと思っているのです」
「心強いご賛同ありがとうございます、伯爵!」
するとミサキはにっこりとした。そして彼女は熱っぽい口調で続ける。
「たとえば、ルネサンス以前の写実性を伴わない中世の絵画は全くの無駄だという人がいますが、本当にそうなのでしょうか。
これは哲学的な認識の問題になりますが、もし中世がなかったとしたら、ルネサンスの人々は己の芸術を過去の、ある時点のものとは異なるものだと判断できたのでしょうか。
“芸術復古”と言って、彼らはギリシア・ローマ美術を称揚しますが――」
ミサキの熱っぽい口調に、意外にも伯爵は身を乗り出してこちらも熱を帯びた相槌を打ち始めた。それはなんだかわけのわからない単語の応酬で、アンナマリアはまたぽかーんと口をあけるしかなかった。
見れば、アルフレートも苦笑している。
「ああ、彼女のスイッチが入ってしまったねぇ。いやいや、“芸術に卑賤なし”という彼女の意見に僕は全面的に賛成なんですが」
それから彼は、いやに真面目な顔になった。
「それで、ペンを貸してくれるかな?」
「あ、はい」
アンナマリアが手渡すと、アルフレートはいかにも手慣れた感じでパンフレットの昔の自分の写真のところにさっと名前を書いた。
「そういえば、お友達のお名前は?」
「ミリアム、です」
それからアンナマリアは親友のファミリー・ネームを続けた。すると、アルフレートが眉をあげた。
「ああ、その子!覚えてるよ、すごく小さなころに一生懸命感想を書いた手紙をくれたなぁ。それから、CDが出たり舞台があったりすると手紙をくれたよ。まだ名前が売れてないころに手紙をくれた初めてのお子さんだったし、だんだん字が上手になっていくのが楽しくてね!
それに、住所がこの街だったし。そうかぁ、君は彼女の友達なのか!」
アルフレートは優しい目でパンフレットとCDを再び眺めた後、ふと寂しげに言った。
「でも、何年か前からもらってないなぁ。彼女、元気かい?」
「はい、とっても!」
アンナマリアはアルフレートの優しさに、心底うれしくなって元気よく答えた。アルフレートも笑顔になる。それから彼は、傍らの女性に目をやった。
いつの間にか伯爵との熱っぽい議論を終えていたらしいミサキは、アルフレートの言いたいことがわかったらしい。彼女もまた、優しく笑う。
――ファンを大切にする人。
アンナマリアはミサキの先ほどの言葉を思い出していた。
「――そうだ」
ミサキは会話が途切れたところで不意に立ち上がった。
「どうしたの」
アルフレートが不安そうに見上げると、彼女はにっこりと笑って見せた。
「思いついたことがあるの。――ちょっと失礼しますね」
ミサキはアルフレートには悪戯っぽく、アンナマリアと伯爵には丁寧にそう言ってから颯爽とレストランから出て行った。その背中を見送った三人が首をかしげる。
「トイレかなぁ」
アルフレートの独り言に、二人は肩をすくめるしかない。
だが伯爵は微笑んで、金の髪の若者に言う。
「よい女性だ――それにとても仲がよろしいですな」
するとその言葉にアルフレートは笑顔を見せた――だがすぐに、顔が曇る。
「――しかし、どうやら事情がおありのようだな」
伯爵はその表情を受けて、背もたれに体を預けた。年長者が若者に見せる、余裕のある態度だった。
「初めて会ったとき」
アルフレートはまるで口から自然にこぼれたかのようにしゃべり始めた。
「――天使かと思いました。髪の黒い、珍しい天使。あの頃彼女の髪は長くてきれいだったんです。くっきりと髪に天使の輪っかがあって――」
そこで一度、アルフレートは苦笑する。
「彼女の故郷では、恋が一つ終わると女性が髪を切る習慣があるらしいんです」
アンナマリアはその言葉に驚いて、思わず言った。
「終わる――?」
はて、何のことだろうか。
彼ら二人は恋人同士ではないのだろうか。
アンナマリアの疑問に気付いたらしいアルフレートがまた、悲しく笑った。
「――あの頃、僕は新しい舞台の稽古の真っ最中でした。
ところが、役の解釈をめぐって演出家と対立しましてね。むしゃくしゃして稽古を途中で切り上げたんです」
それから、彼は懐かしむかのように伯爵を見た。
「伯爵もご存じのように、僕は少年合唱団として教会で歌っていました。
だからあの日――初心に帰ろうと思ったんです」
アルフレートはそこで伯爵から視線を外し、天を見上げた。
「たまたま立ち寄った小さな教会でした。なぜか無人なのに扉が開いていて――
思いきり歌いました!それこそ天に響けとばかりに!
あの歌は神と僕だけの秘密の会話でした。歌の解釈なんて小難しいことは忘れて、ただただ、昔のように歌うためだけに歌いました。
そうしたら――」
「天使が?」
アンナマリアが期待を込めて言うと、彼は彼女に眼を当てて――目もとには優しい皴がよっていた――頷いた。
「ええ、そう、ベンチのあいだからひょっこりと現われて。
ただただ無心に拍手してくれたんですよ。すごい、すごいって言って。彼女、僕のこと知らなかったんです。――ま、そりゃあ舞台に興味がない人は知らないでしょうけどね。
……そう、誰もいないと思ったのは間違いで、彼女が牧師さまに許可を得て見学していたんですよ。勉強のためにね。
僕はお腹を空かせて力尽きかけた彼女が、スケッチブックを抱えてベンチに寝そべっているのもしらないで、そりゃあ朗々と歌い上げたんですよ」
そこでアルフレートは思い出して照れたようだった。
「そう、彼女、臆面もなく僕のことを褒めるんですよ。
『大天使ミカエルが歌ったらきっとそんなふうなんでしょうね』って、大げさでしょう」
アンナマリアはなんだかあたたかい気持ちになって小さく首を振った。
――そんなことはない。あの歌は本当に素晴らしかった。
アルフレートは優しい笑顔をアンナマリアに向けて、無言の称賛に感謝の意を表した。
「行き倒れかけていた、というのは?」
少し面白がるような口調で、伯爵が続きを促した。アルフレートは肩をすくめて続けた。
「そうそう、その後ですよ。彼女が拍手を収めたら、一瞬あたりが静かになって――そして、その静寂を破ったのが彼女のお腹の虫の『グゥ〜』という声だったわけですよ!
話を聞いたら、その日は朝にパンを一切れ食べただっけだって言うので、ハンバーガーショップにつれて行ったんです。そしたら、食べる食べる!唖然としましたよ。
そしてよくよく話を聞いたら、学費と家賃を払って資料を買ったらお金がなくなって職探しにも困っていると言うんですよ。
ちょうど僕の友人が日本人の女性と結婚して、日本の小物の輸入雑貨屋みたいなのをやってたんです。それでそこを紹介して――」
「深い関係になった、と」
「少しずつですけどね」
わざと遠まわしだが下世話な言葉を選んだ伯爵に、アルフレートは苦笑しながら答えた。
しかし、その顔はすぐに無表情になった。
「僕には彼女が必要でした――そして彼女も僕と過ごす日々を心地よいと感じてくれていた。そう、僕らは一般的に言われる恋人同士、というやつだったのです」
「だった?」
アンナマリアはアルフレートが使った過去形の表現に、眉を寄せた。見る限り、金の髪の歌い手と東洋の女性は、今も恋人同士だ。しかもとても仲がよく、見ていてしっくりくるような、ほっとするような組み合わせだ。
アルフレートは、随分と年下の少女に説明するかのようにそっと言った。
「その関係を発展的解消にすることにしたんですよ」
「発展的……解消?」
アルフレートはにっこりとした。だが彼が歌と同時に演じることを職とする人であるせいだろうか、その笑顔は今夜で一番演技じみたものだった。伯爵はただ黙って、テーブルに肘をつき椅子の背もたれに体を預け、金の髪の若者の話を聞いている。
「……僕はそちらに関しては門外漢なのですが、彼女は大変優秀な学者なのだそうです。
この国においても、彼女の故郷ででも、です。そして彼女の語学力も高いのは、お二人ともお分かりでしょう――発音はたどたどしいですが、この国の言葉はもう彼女のものです。ただ、彼女の望む職種というのは、ある意味僕らの職業なんかよりも大変競争率が高く、それ一本で食べていけるだけで本当に御の字なのだそうです。
……そして彼女は、故郷でそこへ続く道を見つけた」
アルフレートはとても詩的に、歌うように最後の言葉を口から吐き出すと、少し黙った。
そして彼は眼を伏せる。
「彼女は故郷で、未来へ続く希望ある立場を得る約束を取り付けたのです。本当に一握りの幸運、と彼女は言いました。素晴らしいことです。でも僕は、できるならこの国でその手の職を探すことをできないかと駄々をこねました――職につかなくても家事の傍らで研究を続けてくれても構わない、とも。でも、彼女の夢はただ、研究を続けて食べていくことだけではなかったのです。
彼女の国で、僕の国の美しさを伝えること。それが彼女の夢だったのです」
白いクロスをかけたテーブルの上に沈黙が落ちた。アルフレートはどこか悲しげで、伯爵は無表情だった。アンナマリアは困惑し、言葉が探せない。
「僕は、歌うことをやめることはできません。ここまで築きあげてきた、地位も名誉も、僕には捨てることはできない。そして彼女の国の言葉では、僕はうまく歌えない。
何もかも振り捨てて彼女を追っていくことができない僕が、どうして同じことをしてくれと彼女に無理強いすることはできるでしょうか?」
金の髪の歌い手が選んだ言葉は疑問形であったが――答えは誰の口からわざわざ伝えられずとも、明白なものだった。
「だから彼女は髪を切ったんです――彼女の国の、懐かしい伝統に従って」
おそらくそれは、ミサキの強い意思表示でもあったのだろう。
発展的解消――よく言えばそうとも言えるが、たがいに霊感を与えあったに違いない二人が選んだのは、端的にいえば“別離”のことだった。
しかもただの別離ではない。
時間も距離も、遠く隔てられた別離だ。いや、二人の国の間に横たわる時間と距離だからこその別離ともいえるのかもしれない。もしミサキがこの国の――あるいはアルフレートが遠い向こうの海に囲まれた小さな国の――人間であったなら、別離以外の選択肢もあったはずだ。
だがアルフレートも、ミサキもそれぞれの国に捨てられないものがあるのだ。地を離れて、人は生きられない。
少しの沈黙の後、アルフレートは自嘲した。
「こんなに感傷的になる必要などないはずなんですよ、本当は。僕だって失恋は幾度かしてるし、今回のこともそのうちのひとつにすぎなくなるはずなんですから」
「でも……」
アンナマリアはアルフレートの自嘲に、反射的に一言言葉を吐き出した。しかし「でも」何なのだろう?やはり彼女は言葉を見つけられなかった――というか、はじめからかけるべき言葉など彼女は持ち合わせていなかったのだ。彼女は助けを求めるように傍らの伯爵の顔をそっと見上げた。
だが彼女が見つけたのは、いつもの優しい助言者の顔ではなかった。斜に構え、背もたれに体を預ける彼の様子はあくまでも第三者のまとうものであり、顔はどこか冷たさを感じさせる無表情の仮面がつけられているようだった。
それは、アンナマリアが初めて見る伯爵のよそよそしい態度だった。彼は誰にとってもいつも善き助言者だった――たとえ相手がそれに耳を貸さず痛い目を見ても見守ることは怠らなかった――だが、今夜の二千余歳の吸血鬼は黙りこくって何も言わない。
伯爵は無表情で、アンナマリアは戸惑い、アルフレートは自嘲と苦悩がない混ぜになった表情を浮かべていたが、みな黙っていることは共通していた。重苦しい沈黙を破ったのは、やわらかな声音の、どこか固い発音のミサキの声だった。
「ごめんなさい、待たせてしまったわね」
すると、アルフレートは一度ぎゅっと目をつぶった後やわらかな笑みを浮かべて立ち上がり、彼女を抱きしめた。
ミサキは彼の腕の中でびっくりしている。
「どこへ行っていたんだい?」
アルフレートはミサキのこめかみと額にキスをして、彼女を大切そうに眺めた。ミサキは突然の熱烈歓迎に戸惑っているようだった。
「部屋に戻っていたの。これを取りにね」
ミサキは胸に守るようにして持っていたものを彼の目の前に差し出した。
それは、このホテルに常備されているレターセットだった。
「このホテルの印が入っているから、あなたがこの街に帰ってきていたという証拠になるでしょう?その女の子に、一枚でもいいから何かメッセージを書いたらどうかしら。きっと素敵なプレゼントになるわ」
ミリアムのことだ、とアンナマリアは瞬時に悟った。
アルフレートは眉をあげて恋人の顔を見下ろしている。
「サインだけでもそりゃあうれしいけれど、小さなころから応援してくれた子なんでしょう?手紙のお返事ってしたことあるのかしら」
「いや、ないな。サイン入りのクリスマスカードとかなら送ったかもしれないけど」
「それってファンレターをくれたり、ファンクラブの会員だったらみんなもらえるものでしょう?デザインもサインも印刷してみーんな一緒。
そうじゃなくて、直筆のメッセージよ」
「ううーん」
アルフレートは少し困ったようだった。
「何を書けばいいのかなあ」
「その子、初めてあなたに手紙をくれたお子さんだったんでしょう?
それを書けばいいの。うれしかったこと、そのことを覚えていること、それから、今も応援してくれていることへの感謝」
「そっか!」
アルフレートは合点が行ったと同時に提案した彼女を抱きしめた。
その腕の中でミサキは優しく微笑む。
「きっと喜ぶわよ。私だって、あこがれの人から葉書一枚でももらえたら嬉しいもの」
それから、ミサキはふとアンナマリアを振り返った。その表情は慈母のように優しい。アンナマリアはなんだか心が温かくなった。
「絶対喜びます!」
アンナマリアは思わずミサキに向かってそう宣言した。するとミサキは満面の、優しい笑みを顔いっぱいに広げた。
それからアルフレートは席に戻り、ミサキが持ってきたレターセットに真剣に向き合った。
そんなアルフレートの手元を少し遠慮がちに、だが優しく覗き込むミサキの姿は深いブルーのドレスと相まって輝くほどに美しかった。
その夜、金の髪の男の真剣な姿と、それを見守る黒髪の女の優しい表情は、あたかも一幅の絵のようにアンナマリアの目に焼き付いてはなれなかった。

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