「伯爵と平凡な娘」

ガラ・コンサートとある愛のかたち

第八話
「それから」

アンナマリアは大切に大切に親友への預かりものを抱えて、車の後部座席に座っていた。
あのあと、レストランで続いたのは他愛もない楽しい話で、アルフレートとミサキの個人的な関係がテーブルに上ることは二度となかった。
それから二組の男女は、笑顔で手を振りながら別れた。アンナマリアは窓越しにアルフレートがミサキをそっと抱いてホテルに戻っていくのを無意識のうちにずっと眺めてしまった。
アンナマリアは胸にミリアムへの預かり物を抱えながら、車窓を流れていく街の景色を眺めていた。それから車が郊外への道を曲がるとふと、隣に座って窓のところに肘をかけてアンナマリアとは反対側の景色を眺めている伯爵を見た。
「伯爵、なんとかならないんでしょうか?」
すると、二千余歳の老人はわずか二桁の年月しか知らない少女をかえりみた。
「なにがだい?」
その声は、あえて何を聞かれているのか知っていて聞き返している声だった。
「ベルゲングリューンさんと、ミサキさんです。とってもお似合いで、別れる理由がないのに別れるなんて、悲しいです」
「別れる理由がない。ふむ」
伯爵は優しくアンナマリアを見やった。それからどこか意地悪に、言う。
「君は彼の話を聞いていなかったのかな?理由は言っていたぞ。
端的にいえば、仕事の都合、というやつだ」
「そうじゃなくって!」
アンナマリアは伯爵の意地悪さに思わず声を上げた。
「嫌いになったわけじゃなくて、あんなに好きなのに、どうして別れなければならないんでしょうか。もっと、もっと何か方法が……」
「では君、戻ってベルゲングリューン氏に歌を捨てよ、と言いたまえよ。
それから、サンジョウ女史に学問を捨ててこの国にとどまれ、と命令したまえ。
……できるかい、ウラニア」
厳しい言葉とは裏腹に、伯爵の声は優しさと悲しさを含んでいた。
「……できません」
「君はとても若いな、ウラニア。そしてとても恵まれた、現代的な考え方をする。
……アンナマリア、あれでも彼らは、私の昔の知り合いたちに比べればずっとずっと幸せなのだよ」
アンナマリアは首をかしげて、伯爵を見返した。伯爵は悲しげに、窓の外に目をやった。
「おのれの道、つまり人生を――選べる自由がある。何かを捨ててまで終える夢がある。
それがどんなに幸せなことか、君にはわかるかい?」
「……?」
伯爵は苦笑した。
「人間が自由でなかった時代は、あまりにも長い。ここでわたしの言う“自由”とは様々な意味だよ。――職業の選択の自由、恋愛の自由、生死の自由。何もかもが新しいものだ。
もちろん、今でも様々な理由により思うままにならないことの方が多いだろう。だが、それでも幸せなのだ。ひとつではなくふたつ道があり、己で歩み出していける。なんと魂は自由を得たことだろうか」
「でも……」
「アンナマリア、彼らは選んだのだ。ただ無為に寄り添うよりも、思い出秘めて独りで己の道を究めることを」
伯爵は、まるで言うことを聞かない子どもに納得させるかのようにアンナマリアの目を覗きこんだ。
「彼らは選んだのだ、自らで。我々が口を出していいことではない」
「……」
アンナマリアはうつむいて、そっと預かりものを抱きしめた。伯爵はひとつ、ため息をつくと誰にでもなく語り始めた。
「本当に幸せなことなのだよ。
自らの愛する人やモノと、添い遂げることができる――そんなことはできない時代の方が長かった。幼いころから互いに伴侶と定められて、仲睦まじく育った男女が引き裂かれた時の慟哭を君は知っているかね。腹に愛の結晶を抱えさせたまま、家を出て行かせねばならん男の気持ちを。心のどこかで前の夫を思いながら、新しい夫の子を育てる女の気持ちを。
押しつけられた義務に耐えきれず、だが死ぬこともできず、狂うこともできず、ただ生きていくしかない人生を。
……アンナマリア、あの二人はとても幸せなのだよ」
「……幸せ」
伯爵は自嘲気味に笑って見せた。
「恋愛を成就させるだけが幸せじゃない。成功を収めることだけが幸せではない。
ひとりひとりの感覚が異なるように、幸せもひとりひとり違うものなのだ。
――そしてあの二人の幸せとは、添い遂げることではなかったのだよ」
「……」
「納得しかねる、という顔をしているな」
伯爵はそっとアンナマリアの髪に手を伸ばした。そしてくしゃりとそこをなでる。
「いつかわかるさ」
アンナマリアはその手の下で、やっぱりちょっと、納得のいかない顔をしていた。



後日、サインと手紙を渡したときのミリアムの喜びようと言ったら表現のしようがなかった。
まるで宝物となるプレゼントをもらった小さな少女のようにくるくると回った見せたり、飛び上ってみたりして彼女は全身で喜びを表していた。そして、手紙を開く段になると、彼女はまず十年来の親友に
「アンナマリア!ありがとう!!」
と言い、その後手紙を――ごく短いものだったが――読み終わると、ミリアムは今度はアンナマリアにがっちりと抱きついて喜びを示した。
アンナマリアは親友に抱きしめられながら、その手紙を書いた男の傍らにいた女性を想った。



――その年の、あるミュージカルの初演の千秋楽。
新作のそのミュージカルは大好評のうちに幕を閉じ、次の上演シーズンを待つことになった。
しかしもし“そのこと”がなければ、このミュージカルの初演千秋楽も特別なこととして記録されなかっただろう。
アルフレート・ベルゲングリューンが、舞台の上で人目もはばからず泣いたのだ。
それはダブル・アンコールのときの出来事だった。いつ何時、どんな役柄であろうと最後は笑顔で締めくくると評判の彼が、突然涙を流したのだ。
もちろん、彼は突然こぼれた涙を拭うと笑顔になろうとした。だがそれが上手くいかない。
彼は最終的に、観客に手を振りつつも共演者の背に隠れた。観客たちは、アルフレート・ベルゲングリューンという完璧主義の役者がついに満足のいく舞台と役柄を得たのだと考えた。だが共演者とスタッフたちはそれとは違うことに気づいた――アルフレート・ベルゲングリューンはいつもどおり振舞おうとして、失敗したのだということに。
そして鋭い共演者の幾人かは、この日満員のはずの客席のうち一つだけが空いていることにも気づいた――そこは、関係者席であり、だからこそよりその空席は目立ったのだ。
その関係者席は、他ならぬアルフレート・ベルゲングリューンが押さえた席であった。




その千秋楽と同じ日、一人の女性がこの国を離れたことを知る人など、ごく少数だった。
彼女は聡い目をした東洋からの客人だった。
客人というのは、いつか去らなければならない存在。
その日は、彼女にとって去るためにだけ用意された日だった。
だから彼女は、恋人だった男からもらった飛行機のものとは異なるチケットを――燃やしたのだ。
彼女は、男が賭けをしたことに気づいていた。
彼女が飛行機のチケットを選ばず、もしそのミュージカルのチケットを選んでくれていたら、すべてを変えようという賭けをしたことに。
そんな賭けの対象にするなんて失礼――そういう友人もいるだろうと彼女は口の端だけで笑った。彼女はそうは思わなかったからだ。
彼女は男がどれだけ“賭け”を嘲笑し、努力を好むか知っていたからである。
彼女は、彼が今の地位を築くまでどれほどの努力と犠牲を払ったかを知っていた。
もちろん初めからすべて見ていたわけではない。それでも、わかったのだ。
それで十分だった。
だからこそ、彼女は飛行機のチケットを選んだのだ。



――後年、アルフレート・ベルゲングリューンは結婚した。
生涯で二度である。
しかしどちらも、あまりうまくいかなかったことが知られている。
一度目は、一般の女性とであった。だがこちらは一年半の共同生活の末、破綻した。
二度目はそれから五年後、相手はフルート奏者で、なんとかかんとか五年もったがやはり駄目だった。
どちらの間にも、子どもはなかった。
だが結婚生活の失敗とは裏腹に、彼は舞台の上では次々と成功を収めていった。
とくに“あの年”以降の彼の活躍は目を見張るものがあり、批評家たちも「“あの年”以降のアルフレート・ベルゲングリューンの演技と声はより深みを増した」と評し舌を巻くほどであった。
そして五十代の手前あたりから、彼は後進の指導にもあたった。
はじめこそおぼつかなかったものの、次第に要領を得た彼は指導者としての才能もいかんなく発揮した。彼は、後輩たちに自分の持てるものすべてを伝えた。中には受け取りきれずにいる者もいたが、彼のすべてを吸収しさらに大きなものを得て飛び立った弟子たちも幾人かいる。
そしてその弟子たちのおかげで彼は、指導者としての名声も獲得していった。そして彼は他にも芸術のすそ野を広げる努力を惜しまなかった。小さな子どもたちのための楽しいコンサート、歌うことが好きな大人のためのワークショップ。彼は場所や人を問わず、己の持てるものすべてをもって、音楽を広めていった。
しかし――彼がちょうど60歳になる年のこと。


『往年の名優アルフレート・ベルゲングリューン、失踪――』


そんな見出しの記事が、新聞や雑誌に踊った。
その年の新学期の初め、彼は契約していた大学講師の職を更新しなかった。そして忽然と、この国から消えたのである。
私生活のことはさておき、彼は職業上の地位も名声も揺るぎないものとしていたはずだった。
その彼が、忽然と消えた。
ミュージカル界や演劇界だけでなく、国中が騒ぎになった。
アルフレート・ベルゲングリューンはどこへ行った、と。
中には老齢による体力の衰えに耐えられず自ら――人知れず――命を絶ったのだと囃し立てるゴシップ誌もあった。
しかし、そうではなかった。
そしてその本当の答えをすぐに知ることができたものは少ない。



齢二千余歳の吸血鬼は、光栄にもその数少ない「答えを知れた者」のうちの一人だった。
そしてもし、その吸血鬼がアルフレート・ベルゲングリューンの伝記を手掛けることになったら、彼の晩年を描く章の前にこう前書きするだろう。
『読者諸氏へ
 あなたがもし、あの公的生活においてあらゆる成功を収めたアルフレート・ベルゲングリューンが、私生活、とくに女性関係において不幸であったとしておきたいのならば、ここでこの本を閉じていただいて構わない。
 もし、アルフレート・ベルゲングリューンという稀代の歌い手にして役者の原動力が、青年期に今生の別れをした美しい東洋人女性との悲恋にあるとお考えであるなら、やはりあなたもここから先の章には進まないほうが賢明であろう。
 なぜなら、あの失踪事件から晩年における彼の私生活は幸福そのものであったし、悲恋は長い時をかけた美しい愛の物語へと昇華したからである。』
と――
アルフレート・ベルゲングリューンの失踪事件から、一カ月ほどして、伯爵の元に一通の航空郵便(エアメール)が届いた。
その中には、ブルーの万年筆の流麗な筆記体が喜びを伝える便せんと、一葉の写真が入っていた。
写真に、人物がふたり。
代替わりした忠実な執事が見守る中、伯爵は優しく笑った。
「良い時代になったものだ」
写真の中ではすっかり髪がロマンス・グレーになってしまった西洋人の男と、髪の短い眼鏡を掛けた知的な東洋の女性が仲睦まじく寄り添っていたのだ。
二人の背景には、美しい湖面と美しく赤と黄色に色づいた伯爵にとっては物珍しい景色が広がっていた。
「男が女を追っていける時代になった――結構結構」
エアメールは遠い東洋の国からのもので、写真にある山が色づく景色もその国のものだった。
そして差出人の所には

Alfred Bergengruen
Misaki Sanzyou

という二人の連名があった。
後年、三条美咲は美術史界、中でも建築における分野で大きな足跡を残したという。
そして彼女の生涯ただ一人のパートナー――彼らは最後まで結婚という形をとることを拒んだ――であるアルフレート・ベルゲングリューンは、もう一つの国においても偉大な指導者としてその名を轟かせたという。




だがそれは、アンナマリアがこの世の不条理のひとつを知ったあの素晴らしくも哀しい夜の、ずっとずっと先のことである。
そう、アンナマリアが人の愛の奥深さと辛抱強さを知るのも、ずっとずっと先のことなのである。

Back  目次へ  Home  あとがき