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「魔法使いと記憶のない騎士」
第一話
邂逅
―魔術師エレオノーラ―

エレオノーラは魔術師で、片刃で柄に赤い宝石がはまった細身の剣を帯刀している。
彼女は旅の身で、一つの背嚢を背負っていた。
彼女はある時、ここローランド皇国が隣のリュオン王国と先ごろ一戦交えた地域に近い場所にやってきていた。
少々古い地図によると、ここには村があったはずだった。
しかしそこには、何もなかったし誰もいなかった。
なぜならそこは焼き払われていたからだ。
エレオノーラはため息をついた。
――今夜は野宿ね。
エレオノーラはふと、ロング・スカートのように広がっているローブの裾に目をやった。すこし泥で汚れている。ローブの裾を振っても泥は落ちない。
エレオノーラはまたため息をついて、辺りを見回した。
まだ煤の匂いがする。焼き払われて、人が逃げて、そんなに時は経っていないのかもしれない。だとしたら、ここいらはまだ危険だろう。
――すこし、離れましょう。
その村は、谷川沿いの村だった。


エレオノーラは谷の奥へ入っていった。本当の野宿よりは、雨風を凌げる洞窟――洞穴でもいい――を探そうと思ったのだ。日は翳り始めていた。
川原には石がゴロゴロしていた。所々、流木らしきものもある。
が、転がっていたのは何もそんなものばかりではなかった。
人が転がっていた。
エレオノーラはさすがに目を見開いた。先程の村の住人だろうか。ここで力尽きたのだろうか。人は川のすぐ近くに倒れていた。水が欲しかったのかもしれない。
彼女はソレを迂回して、川とは対置にある崖に雨風を凌げるところがないか探した。
ひとつ、適度な洞穴を見つけたので彼女はそこに入り込んだ。そして、火を熾す魔法を唱えて、平たい石の上に火を置いた。背嚢を下ろし、剣をベルトからはずした。
火の前に手をかざす。
「ふぅ……」
今日三度目のため息だった。背嚢を見やる。それなりの大きさもあって頑丈なものだが、妙に平たい。エレオノーラはそれを開けた。
方位磁針と地図、携帯食料といくつかの食器と鏡に櫛。それに換えのローブとマントに服が二着。エレオノーラは髪が長いので、バレッタや髪留めも数個。それと、大分心許ない財布。
携帯食料も、じつは心許ない。
ふと、先程の人を思い出した。
――何か持っているかもしれない。
不謹慎だ、という思いが一瞬心をよぎる。しかし、死人が金や食料を持っていても仕方ないのもまた事実である。
――せめて埋葬してあげよう。
エレオノーラは手ぶらで洞穴を出た。

それは男だった。
うつ伏せに倒れている。よく見ると鎧を着けない簡易武装をしており、左手にはしっかりと剣が握ってあった。
背中に大きな太刀傷がある。右の肩から左の腰に達するもので、恐らくこれが致命傷だろう。じっとりと血に濡れ、肉がぬらぬらと光っている。――もしかしたらそんなに時間が経っていないのかもしれない。
エレオノーラはそっと男の顔をのぞき見た。顔を完全に横に向けているので、夕日になり始めた日の光の下でもよく見える。
美男とはいえないが、造りのいい端正な顔立ちをしていた。目はしっかりと閉じられている。髪は黒だが、ひどく汚れている。
エレオノーラに哀れの情が湧いてきて、そっとその汚らしい髪に思わず指を入れた。
――そのとき、男の背中が息を深く吸って上下した。
まるでエレオノーラの指先に魂を入れられたかのようだった。エレオノーラは驚いて、手を引っ込めた。そして、思う。
――何かを戴くのは遠慮しましょう。それよりも……。
「あなた、しっかりなさい」
男はあえぐように息を吸っていた。
「――すこし、待っていなさい」
そういうと、エレオノーラはやおら立ち上がった。そして、洞穴に駆け戻り、背嚢の中を探った。髪留めを入れた小袋をさぐる。
彼女が取り出したのは大きな指輪だった。金の台座に青い石がはまった美しい細工物だった。彼女はそれを左手の中指にはめた。指輪は第二関節から指の付け根を覆った。
彼女は、戻ったときと同じように男の元に駆けた。
男は目を細く開けていた。苦痛をたたえた黒瞳が見て取れる。
「大丈夫よ」
エレオノーラは彼の髪をひとつ撫でると、太刀傷にそっと指輪の青い石を添わせた。石が淡く発光する。傷に沿って、少しずつ石を動かしていく。石が通り過ぎたところはなんと傷が塞がっていた。
男の息がだんだんと落ち着いていく。
「――、ず」
「え?」
「み、ず……」
やはり、この男は水を求めてここまで来たのだ。エレオノーラは再び背嚢のところへ戻った。そして木製のコップを持ってきて、川の水を汲むと男に話しかけた。
「水よ。さあ、体を起こせる?」
エレオノーラは左手にコップを持ち、右手で男を手助けした。そして、男の背中に回りこんで、胸を貸す。傷を刺激しないようにそっと寄りかからせる。
男はうつろな目でコップを見止めると剣を握っていないほうの手でそれをがっちりと掴んだ。
「待って。急いではだめよ」
エレオノーラは急ぐ男を制するようにコップの傾きを調整した。それでも、男の口の端からは水が零れだしてしまった。
男のコップを掴む力が唐突に弱くなって、だらりと腕が垂れた。
気絶したのだ。
ずしりとした重みがエレオノーラを押し倒そうとする。エレオノーラは不安定な足を踏ん張った。
「――ま、てっ。あなたをはこば……ない、と!」
けれども男は起きない。仕方ないので、エレオノーラは物を運ぶ呪文を唱えた。



――目覚めると、暖かな炎がまず目に入った。そして、体の下にひかれている毛布の柔らかな感触。
うつ伏せの姿勢だった。反射的に体の下に手をついて起きようとすると背中に鈍い痛みが走った。情けなくうめき声を上げて再び突っ伏せると、やわらかな声が降ってきた。
「無理しないほうがいいわ」
見ると、炎の向こうに女がいた。黒ずくめの格好をしている。髪は波打っていて、少し茶色がかった黒をしている。炎に照らされる顔立ちは、十分に美しいといえるものだった。
女は立ち上がって、男の傍らに膝をついた。
「気分はどう?」
「……」
明らかに状況を把握できていない男に、女は優しく声をかけた。
「あなたは怪我をして、倒れていたの。怪我の治療をさせてもらったけど、よかったかしら」
男が答えずにいると、女は再び口を開いた。
「水は?ほしくはない?」
「すこし、もらえますか」
男は低い声で言った。傷ついているにしてはよく通る声だった。女は一つうなずくと、木でできたコップに水を入れて持ってきてくれた。背中が痛まないように気をつけて身を起こそうとすると、女は手伝ってくれた。
コップをもらい、一気に飲むとむせた。女は呆れた顔もせず、背中をそっと撫でてくれた。なぜか痛くはなかった。
「あなたが眠っている間に――」
背中を摩りながら女は言った。
「あなたの荷物をあらためさせてもらったわ。あなたの持っていた剣は一級品ね。詳しくないからよくはわからないけど。――それと、リュオン王国の腕章」
男は女をかえりみた。女は口元に安心させるような笑みを浮かべている。
「あなた、リュオン王国の騎士隊の人じゃない?」
男は、ぎこちなく顔を元に戻した。炎を見つめる。
「ここら辺で最近皇国軍と王国軍がぶつかったそうだけど、あなたはそれで負傷したんじゃないかしら。はやく戻ったほうが――」
「あなたは」
男は炎を見つめたまま唐突に口を開いた。
「あなたは、誰です?」
「エレオノーラ。旅のものよ」
女は短くそれだけ答えた。
「それで、あなたは?」
エレオノーラは優しく聞いてきた。男は、戸惑う。
「――わかりません」
「え?」
「わからないんです。俺は、誰です?」
エレオノーラが息を呑むのが聞こえた。



「わからない、の?」
「はい」
「名前は?年齢も?出身は?」
「わかりません。――ここはどこです?」
男は困った顔のまま、洞穴の中を見回した。
「ローランド皇国とリュオン王国の国境近くの谷川よ」
「ローランド?リュオン?」
「獅子王大陸の、西の国が皇帝が治めるローランド皇国。東の国が王が治めるリュオン王国。この二つ以外にも国はあるけど……国、っていうのはわかる?」
「ええ、わかります。人が住んで統治される特定の地域」
「簡単に言うと、そうね。大陸はわかる?」
「大きな陸地……海に囲まれた……」
男が言うと、エレオノーラは形のいい顎をつまんだ。
「口の利き方も知ってるみたいだし、一般的な知識記憶はなくしてないみたいね」
「はぁ……」
「すると、あなたがなくしたのは個人的な記憶のほうね。――記憶には色々な種類があるから」
「はぁ」
男は困惑していた。
「これはあなたのしていた腕章からの推測だけれど……あなたは多分、リュオン王国の騎士か兵士で最近ここら辺で行われた戦闘に参加していたんだわ。そこで負傷した。そして頭を強く打つか何かの原因で記憶喪失になった――と、いうところじゃないかしら」
「――……」
困惑顔の男に、エレオノーラは苦笑した。苦笑したまま、自分の背嚢のところに戻ってマントを取り出した。そして、それを男の肩にかけてやる。
「もう日が暮れたし、明日夜が明けたらしばらく先に行ったところにある国境の関所に行ったらどうかしら。兵がまだ駐屯しているかもしれないし、腕章を見せれば迎えてくれるはずよ」
「――」
男はなんともいえない表情でエレオノーラを見た。疑おうにも、何も知らないのでどうもできない――そんな表情だった。
「――一緒に、そこに行ってくれますか?」
しばらくして意を決したように男は言った。
「俺はこの通りの状態ですし、道なんかさっぱりわかりません。それで……」
「行かないわ」
エレオノーラは切り捨てるようにきっぱりと言った。男は多少面食らって俯いた。
「地図の写しと、予備の方位磁針をあげるから一人でお行きなさい。
――そんな捨てられた子犬みたいな顔しないでちょうだい。いい大人でしょう?」
男は、肩幅も広ければ背中も大きく背も高かった。いかにも第一線を生き抜いてきたという騎士の雰囲気をもっている。それにとても男らしい顔立ちだ。そんな男が、捨てられた子犬のような表情をするのだ。エレオノーラは思わず笑ってしまった。
「地図の見方がわからないかもしれない」
「そうかしら。一般的な知識は残ってるようだから大丈夫よ」
「方位磁針の使い方に自信がない」
「だめよ、駄々こねたって。
――私はリュオンには近づかないことにしてるの。本当なら腕章にだって触りたくないくらいなのよ」
エレオノーラは優しく言った。男は不安そうにエレオノーラを見つめ返すだけだ。
「――わかりました。」
「わかってくれて、嬉しいわ」
ため息混じりに苦笑してエレオノーラは言った。
「さぁ、何か食べましょう」
エレオノーラは話を打ち切るようにそういうと、平たい石の上で燃える火に手をかざした。そして、何ごとかを呟く。すると、突然どこからともなく水が現れ火の上でまるでなべにでも入っているかのような形になった。そして、その中へ乾燥した食料を放り込む。
水の底は火の舌に時折なめられている。
「――魔術師でしたか」
男が驚いたように言った。
「簡単なことしかできないけれどね」
エレオノーラは指をくるりと回して水の鍋をかき回した。

出来上がったのは簡単なスープだった。それに干し肉と乾飯を付けて夕食となった。
受け取ったまま、男が躊躇しているとエレオノーラは言った。
「どうぞ、冷めないうちに」
「はい、いただきます」
スープが入れられているのは先程のコップだった。エレオノーラの方はもうひとつあったらしい金属のコップを持っている。フォークも貸してもらった。
「申し訳ないです。何から何まで……」
「いえいえ。人と一緒に食事なんて久しぶり」
エレオノーラは嬉しそうにスープを口に運ぶ。
男はそれを見ながら、ため息をついた。
それから、炎の明かりで気づく。
「変わった色をしてますね」
「はい?」
「瞳の色」
男はエレオノーラの瞳を示した。それは、深い紫色をしていた。暗がりでは気づきにくい色だ。
「よく気づいたわね」
「どうやら目はいいみたいです」
男はゆるゆると首を振った。
「それくらいしっかりしてれば、地図通りに歩けるわよ」
にこりと笑って言うエレオノーラに、男は曖昧に笑い返した。



結局会話はそれ以上続かず、男は食事を終えるとすぐに横になってしまった。
時折、エレオノーラが背中の傷を診ている気配がしたが体が言うことを聞かないので礼を言うこともできなかった。
時折、目を開けると炎の向こうでエレオノーラが膝を抱えるように丸くなっているのが見て取れた。毛布は一つしかないらしい。申し訳ないと、まどろむ意識の中で思う。
そして、翌朝。
洞穴に差し込む光で目を覚ました男は、すぐさま起き上がった。見ると、エレオノーラはいない。慌てて辺りを見回すと、入り口からの光が遮られた。見るとエレオノーラが入り口に立っていた。
「おはよう、よく眠れた?」
「はい」
「顔を洗いに行っていたの」
「顔を?魔法で水を出せば……」
昨日の水の魔法を思い出して男は言った。すると、エレオノーラは呆れた風もなく優しく言った。
「私は無い所から物を出すことはできないの。昨日の水は、あくまでも汲んできたものの位置と形を変えただけ」
男が目を見開くと、エレオノーラは笑った。
「簡単なものしかできないのよ。空気にまぎれている水を集めたりとかは無理なの。
――あなた、上級の魔法をたくさん見てきたんでしょうね。それがあなたの魔法の知識になってるのよ」
「――はあ」
エレオノーラは男の傍らに膝をついた。
「うん。――顔色は大分よくなっているわ。半日も歩けば関所に着くわ。食料と地図をあげるから用意するといいわ」
「――……」
「それとそのマント、あげるわ。少し小さいでしょうけど傷をさらして歩くよりはいいわ」
「――ありがとうございます……」
深々と頭を下げた男に、エレオノーラは朝ご飯にしましょう、と言った。


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