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「魔法使いと記憶のない騎士」
第三十話
変化と罵倒
―我慢の限界―

翌日のエンキの仕事はあいも変わらず藁積みと飼葉桶の掃除だった。
ただ、一昨日あたりからやはり他の厩務員はエンキに対して態度を軟化させており、素性を問う質問やからかいの他に普通の話題も彼に振るようになっていた。そのおかげでエンキはなんとなく気持ちを軽くさせていた。
昼食時になり、エンキはエレオノーラに持たされた弁当を開く。彼女も慣れてきているのか、サンドイッチだけではなくランチボックスには青菜と魚のフレーク、そして腸詰にした肉が入っていた。
しかしまず最初に彼が取り上げたのはやはりサンドイッチだった。
一口かじる。そのときだった。
「エンキさん……ですかな」
ふいに手元が陰る。エンキが見上げると、初老の男性が彼の傍らに立っていた。エンキはかじったものを飲み込むと答える。
「そうですが、何か……」
「わたしはサライの調教を任されているものです」
そして、その調教師はエンキの隣に腰掛ける。
「なんでも、サライが逃げ出したあの日暴れるあの子をしずめたとか……」
「ああ、鞍がちょっと後ろについてまして、嫌がっていたんです。それを取ってやっただけですよ」
「いやいや、暴れるサライに近づいただけでも素晴らしい功績です。
……それでそのとき、お嬢様にもアドバイスなさったとかなんとか」
調教師は不安と期待を混ぜた顔でエンキをまっすぐに見つめてくる。エンキははて、と考えた。
「……たしか、サライがアーニャに慣れるまで乗らない方がいいとかは言ったような気がしますが……」
「ああ、それです。もしご面倒でなければそれをもう一度お嬢様に言っていただけませんでしょうか?」
「は?」



エレオノーラの仕事も相変わらず本の返却だ。
左手に本を抱え、右手で本棚に入れる。その繰り返しだった。
ただ時折、人にものを尋ねられることもある。わかる範囲で彼女は答えたが、手に負えないと判断するとその人をカウンターまで案内した。そこから先は本職の司書の仕事である。
「すみません、ルシアス一世の伝記はどこにありますか?」
だから人気のない本棚の間で背中にそう声をかけられた時もいつもの事だと思って振り返った。
だが振り返って、エレオノーラは思わず後ずさりをした。
「おや、お客様にその態度はいけませんね」
質問者はくすくすと笑いながらそう言った。金の髪に銀の仮面の男。
「錬金術師……!」
「エレオノーラさんには、お久し振りです」
エレオノーラは一歩引いた足に力をこめ、その場に踏ん張る。腕は本を胸に引き寄せていた。
「何の用?」
「冷たいですねぇ。私はお客様だというのに」
「……」
エレオノーラは顎を引く。今彼女は丸腰だ。そしてエンキもいない。彼が危害を加えようとすれば赤子の手を捻るほど簡単だろう。
だが錬金術師は動かない。
「エンキさんから何か聞きました?先日のことについて」
「……先日?そういえばあなたと会ったと言ってたわね」
「……。ははぁ、それしか聞いてませんか」
「……?」
エレオノーラが眉根を寄せたことに錬金術師はまたくすくすと笑う。
「やれやれ、せっかくお膳立てしてさしあげたのに。何もなかったんですねぇ。
サキュバスとまで言われたリューイとは大違いだ。時とは恐ろしい。血を腐らせる」
その言葉に、エレオノーラは眉を開きついでふたたび顔をしかめた。
「あの覗き、あなたね?」
「正確には私の作った泥人形です」
エレオノーラの言葉に錬金術師はあっけらかんと答える。彼女は一瞬それに驚き、その後ため息をついた。
「……みたの?」
「見たともいえますし、何も見なかったともいえる。私の目は見ての通り」
そう言って錬金術師は仮面の穴を指差した。そこには空虚な闇しか見えない。
この話題で問い詰めても無駄だと判断したエレオノーラは話題を変える。
「リューイはサキュバスなんかじゃなかったわ。あの時しかルシアス一世から子どもをもらえる機会がなかったと思ったの。
私の先祖を貶めないで頂戴」
「貶めてなんかいませんよ。私は思ったことを言っただけだ」
しばしの沈黙の上での対峙。先に口を開いたのはやはりエレオノーラだ。
「それで何の用かしら」
「用は先ほど申し上げたじゃありませんか。ルシアス一世の伝記が読みたいのです。
ここを訪れた二人目の男がどんな評価を得ているのか知りたいのです」
「それなら、向こうよ」
エレオノーラはぞんざいに指で方向を示した。錬金術師はいやにゆっくり彼女の肩、二の腕、腕、手首、指先と視線を動かして方向を確認した。そしてすぐに彼女に向き直る。
向き合うのは高貴なる紫と、空虚な闇だ。
だが空虚な闇から、エレオノーラは錬金術師の考えを読み取った。
「……用があるのは私でもルシアス一世の伝記でもないわね」
錬金術師は顔を傾け、にこりと笑う。
「エンキね」
エレオノーラは片腕に本を抱いたまま、くるりと踵を返した。
本棚の向こうに消えたエレオノーラを見つめながら、錬金術師は嗤った。
「今度の“邪王の一族”は、本当によくひっかかる……」
そして彼は、ルシアス一世の本を一冊盗んでいった。



「早く!早くしなさい!」
調教師に連れられて馬場に出ると、騎乗服を来たアーニャが声高に厩務員たちに命じているところだった。
「この愚図!はやくその馬をここに連れてきなさい!」
「……?」
そのアーニャの様子にエンキはわずかに首をかしげる。すると、そこへロイがやってきた。
「エンキさん、なんか変なんすよ」
「変って?」
ちらり、とロイはアーニャの方を見る。
「お嬢様はたしかにわがままだったけど、人に対して愚図とか馬鹿とか言ったりしないし、馬も“その”とか“あれ”なんて絶対に呼ばなかったっす。名前全部覚えてたし」
ロイの視線につられて、エンキもアーニャを見つめる。
アーニャはいま確実にいらついていた。せわしなく片足で地面を叩いている。
「わたしがやれといったらすぐにやるのよ!」
アーニャはそう言うと、手に持っていた乗馬用の鞭をピシリと動かした。
「それに、鞭だって嫌いだったス」
「……俺はここ最近のアーニャしか知らないしなぁ」
だから、判断しかねる。エンキは言外にロイにそう答えていた。ロイは困ったようにエンキに視線を移してきた。エンキは肩をすくめるしかない。
そしてアーニャの前にサライが連れて来られた。大人の男二人がかり手綱をつかんでだ。そうでないと、サライの後ずさる力に負けてしまう。
サライは明らかにおびえていた。耳はあちこちの音を拾おうと休むことなく動き、目は逃げる隙をうかがっている。
「鞍を付けなさい!私の手を煩わせないで!!」
アーニャは声高に命じた。するとロイはやはり戸惑った声で言う。
「鞍と手綱を付けるのは、乗り手の仕事だって言って楽しそうにやっていたのに……」
「この愚図!のろま!あんたたちがそんなんだから、いつまでも私は馬に乗れないのよ!
その馬だってあんたたちのこと馬鹿にしてんだから!」
エンキはそこでやっと首を大いにかしげた。
――馬車を降りて街を歩いた子が、そんなことで煩わしいなんて思うだろうか……?
エンキは昨日のことを思い出す。アーニャは馬車から降りた後、愚痴ひとつ言わずしかも遅れずエンキについてきた。疲れていた様子もない。好いている相手と一緒だったから、ということを考慮してもアーニャは明らかに歩きなれていた。体力はあるのだ。
それからふと、出会った日のことも思い出す。
アーニャはサライを逃がしてしまった厩務員たちを決して責めなかった。そこには上に立つもの独特の気配りがあった。
だが今のアーニャにはそれが全くない。
「確かに、変だ」
「ね?」
サライがアーニャの前に立たされ、騎乗するための踏み台が運ばれてくる。アーニャがその上に立つと、サライは首を大きく振って嫌がった。アーニャはそれを見て踏み台を降りる。そしてサライの顔の方に回り込んだ。エンキはなだめるのかと思ってそれを見ていた。
しかしアーニャの右手は高い位置に振り上げられ、次にひらめいて大きな音が馬場に響き渡った。
「!」
馬場全体が驚いていた。アーニャがサライに対して鞭を振るったのだ。
――サライ!!!
エンキの脳裏に初日にはじめて聞いたアーニャの声が響いた。
その声の悲痛さは馬を失う悔しさからきているのではなく、ただ馬がいつまでもなれてくれないという悲しさと馬への心配から発せられたものであった。
エンキは顎を引く。
――何かおかしい。
その間にサライは鞭で打たれた衝撃から立ち直っていた。後足で立ち上がり最大限に身をふるった。とたんサライを押さえていた二人の厩務員はふっとび、アーニャは尻餅をついた。
サライは駆け出した。それはそのまま真っ直ぐエンキたちのほうに向かってきた。なぜならそこは馬場の出口だったからだ。
ロイと調教師はぎょっとして一目散に逃げた。だがエンキは逃げない。
「エ、エンキさん!」
ロイが悲痛な声を上げる。サライは真っ直ぐに突進してくる。そして前足を伸ばしてエンキを弾き飛ばそうとした。だがエンキはすんでで身を捻る。空を切った前足は馬場の砂地にめり込み、サライは勢いをそがれた。
エンキは目の前になびいてきた手綱を両手でつかむと、思いっきり大地のほうへと力をこめて引く。途端、サライの顔はぐんとそちらに引っ張られる。サライはまた驚いて反射的にぐいと体を戻そうとした。
手綱が引っ張られる。
「くっ」
エンキは軸足を抜いて斜めに後退する。サライはまた驚いて暴れる。エンキはその力を利用して地を蹴った。次の瞬間、彼の体はサライの背の上にあった。
しっかりと足に力を入れ、股でサライの体を押さえつける。それから手綱を思い切り引いた。
サライが後足で再び立ち上がり、嘶いた。
エンキは手綱を緩める。
するとサライはがむしゃらに走り出した。その勢いで馬場を出て牧場の囲いを飛び越える。
外に出てしまったサライはそのまま一直線に走り出した。その速さはまるで地平線が目的地だといわんばかりのものだった。
後には、驚くばかりの厩務員たちが残された。



サライの上でエンキは身を低くしていた。
振り落とされないように足に力を込め、手綱を握る。
馬の匂い。速い風。なぜか懐かしかった。
サライはひたすら真っ直ぐに走った。草原は緑だ。地平線は遠い。
もうどこにも、牧場の柵は見当たらない。



どのくらいサライの背の上で耐えていただろう?
いつの間にかエンキは全身にぐっしょりと汗をかいていた。過ぎ行く風が寒く感じられる。
気づけばサライは疲れたのか、速度を落としていた。エンキは全身の力を緩め、背を真っ直ぐに伸ばした。
「……」
周りは相変わらず青々とした草原だったが、建物も柵ももう見えなくなっていた。
「やれやれ、これは帰るのは一苦労だぞ」
風に負けないように大声でそういうと、ひょいとサライの耳がこちらを向いた。
エンキは笑ってサライの首を叩く。
「乱暴して悪かった。鞭でぶたれたところは痛くないか?」
するとサライの歩みが徐々にゆっくりになり、ついには立ち止まった。それから、黒い馬はゆっくりとエンキを振り返った。怯えたような、様子を伺う目をしていた。
エンキは無言でサライの首を撫でてやった。サライは首を振った。
エンキはそれにまた笑う。
「喉が渇いたな。お前、水場を知らないか?野生だったんだろう?
ボクジョウに帰ってこないときはどこで寝てたんだ?」
するとサライはまるで言っていることがわかったかのように前に向き直り、トコトコと歩き出した。エンキは手綱を緩めて馬が歩くのに任せた。



サライがたどり着いたのは、草原を流れる小さな小川だった。
川というより気まぐれな水の流れといった方がよさそうな気もしたが、エンキはかまわずサライの背を降りると小さな岸に片ひざをつき水の流れを両手ですくった。濁りがないことを確かめて、口元に運ぶ。水は冷たく、美味だった。
そしてもう一度水を掬い上げる。今度はそれで顔を洗った。
その隣でサライも流れに口をつけ、水を飲んでいた。エンキはその様子をまじまじと見る。
「手綱放したのに、逃げないんだな」
サライは耳だけでそれを聞いたらしい。顔は上げたりせず、一心に水を飲んでいる。
「叩かれたところは大丈夫か?」
サライはやはり顔を上げない。
エンキは苦笑して、ぽんぽんと青毛の馬の首を叩くとごろりと横になった。荒馬に乗ったせいで、彼の体は疲れきっていた。
青い空を雲が流れていく。
その風景をエンキはどこかで見た気がした。だがこれではない、となぜか思う。
空は彼の知っている空とは似て非なるものだった。



夕暮れが近づき、エンキは再びサライにまたがった。驚いたことにサライはエンキから逃げたりせず彼が休んでいる間も草を食んだりして時間を潰していた。そしてエンキが立ち上がると、サライは自分から彼に近づき彼を乗せたのだ。
「さぁ帰ろう」
エンキが言うと、サライは道もない草原を真っ直ぐに歩き出した。牧場に向かっているのだとエンキにはわかる。
「そういえば、今までどうして逃げたり、戻ってきたりしていたんだ?」
あまりにサライが従順なので、エンキは思わず訊いてみた。もちろんサライは答えない。
エンキは自らを笑った。
「まぁ逃げたり戻ったりしたくなるときはあるか……」
サライはぴくりと耳だけ彼に向けていた。



牧場に着いたのは、日が半ば以上沈み目を凝らさなければ遠くのものが見えにくくなるころであった。サライはことさらゆっくりと歩く。やがて牧場の輪郭がはっきりとしてきた。
入り口のところの柵に、黒い人影がある。エンキは目を凝らした。
厩務員ではない。その影はほっそりとしていて、エンキほどではないが背が高い。
その人は柵にもたれかかり、目を瞑り俯いていた。
エンキはその人影に、馬上から声をかけた。
「エレオノーラ」
その声にエレオノーラは目を開け、こちらに体ごと向き直る。エンキはサライの腹を少し、優しく蹴った。サライは小走りになる。そしてエンキはエレオノーラの前で手綱を引いた。
「どうしたんだ、何かあったのか」
エレオノーラは馬上のエンキに笑いかけ、その後サライに視線を移した。
「あなたがエンキに盗まれた馬なのね?」
「は?!」
エレオノーラは再びエンキに視線を移した。そして笑いながら言う。
「厩務員の一番上の人がそう言ったの。
一番いい馬に飛び乗って逃げていった、だからあなたは馬泥棒だ、って。
びっくりしたわ、私」
エンキはひょいとサライの背から飛び降りた。
「そんなことになってるなんて」
「大丈夫、あなたの身分の保証は私がしておいたわ」
エレオノーラはくすくす笑う。エンキは参ったというしかない。
それから笑いを収めてエレオノーラはサライを見回した。
「裸馬に乗れるなんて、意外だわ――あら」
エレオノーラはサライに歩み寄る。サライは少し驚いたのか二、三歩後ずさったがエンキが手綱を引くと逆らわなかった。
エレオノーラはそっとサライの鼻面に触れた。サライは驚いたように首を上げ、いやいやと首を振った。そこはアーニャの振るった鞭が当たった場所だった。
「ごめんなさい――すこし腫れているんじゃない?」
サライはその言葉に驚いたように顔を元の位置に戻した。耳を前後に動かしながら、じっとエレオノーラを見つめる。
そのサライにそっとエレオノーラは手を伸ばした。それは“青癒の指輪”をはめた方の手であった。腫れの上にちょうど指輪が来ると、青い宝石が光った。
みるみるうちに腫れがひいていく。
「はい、おしまいよ」
エレオノーラがそう言うと、サライは首を振った。それから、痛みがなくなったことに気づいたらしい。数瞬不思議そうな瞳をしていたが、治してくれたのがエレオノーラだと悟ったのかサライはそぅっと彼女の方に首を伸ばした。
「そう、よかったわね」
エレオノーラも手を伸ばしてサライを撫でてやった。
エンキは少々驚いて、馬と連れを見比べた。サライは、えり好みの激しい馬だと思っていたからエレオノーラにすぐ懐くとは思っていなかったのだ。
「あ!サライ!エンキさん!!」
と、厩務員の休憩所のほうから若い男の声が聞こえた。ロイだった。
そちらを見ると、ロイはしきりに建物の中へ何か叫んでいる。
「ほら、親方!エンキさんちゃんと帰ってきたっすよ!馬泥棒なんかじゃないっすよ!!」



「馬泥棒と言って、申し訳なかった」
事務室のようなところにエンキとエレオノーラは通されて、厩務員頭から謝罪された。
エンキとエレオノーラは顔を見合わせた。エンキは複雑そうな顔をしたが、エレオノーラは苦笑していた。
「いえ、わかっていただけたら結構です」
エンキのかわりにエレオノーラはそう言った。それから、もう一言付け足す。
「少し連れと話をしたいので、このお部屋を貸していただけませんか?」
「え……ああ、構いませんが」
「ではそれでこの話は終わりということで。またしばらく連れをよろしくお願いします」
そう言ってエレオノーラは綺麗に腰を折った。エンキもそれにつられる。厩務員頭はそれに戸惑ったようだったが、すぐに部屋を出て行った。
「……話って?」
「うん、何も変わりはなかった?」
「……あったようななかったような……、俺が今日何をしたかは聞いたんだろう?」
「ええ。びっくりして逃げ出そうとした馬に飛び乗ってそのまま走り去った、ってね」
「そのままだ。……それでどうしたんだ?」
エレオノーラは形の良い顎をつまむと、しばしエンキの顔を眺めた。
「……錬金術師が来たのよ、図書館にね」
「……」
「用があるのは私ではなくてあなただったみたいだったから、ちょっと気になったの」
「それで来たと」
「ええ」
「歩いて?」
エレオノーラは笑う。
「途中少し走ったわ」
エンキは苦笑した。
「遠かったろ」
「少し、ね。それで、変わったことあった?」
「変わったことというか気になることなら」
「なに?」
「アーニャだ」
「館長の妹さんね。どうしたの」
「なんだか暴力的になった気がしてな……」
「……」
それを聞いて、エレオノーラは考え込んだ。エンキはその様子を見守っていたが、しばらくしてため息をついた。
「……ただいらついているだけかもしれない。なんとも言えないが。
それより疲れてないか?」
「大丈夫よ」
即座にそう答えたエレオノーラにエンキは少し屈んで視線を合わせた。
「本当か?」
「十年も旅してるもの。これくらいじゃ疲れないわ」
「それならいいが……」
エンキはそう言って姿勢を戻す。そのときだった。
突然ドアが開いて、厩務員が何人かなだれ込んできた。そして彼らは床の上へと重なるように倒れた。
「あたた!つーか重い!重い!!」
その重なりの下で声を上げているのはロイだった。
エレオノーラとエンキは唖然としてそれを眺めていたが、やがてエンキがぼそりと感想を述べた。
「なんかこれ、前にも見たことあるな……」
エレオノーラの方は屈んでロイたちと視線を合わせる。
「何か御用かしら?」
すると、厩務員たちはばたばたと立ち上がりその場に正座した。
「いえっなんでもありまセンっ」
それからしばらく、厩務員たちはエレオノーラに見とれていたがふと別な視線が注がれているのに気づいて顔を上げた。
それはもちろん、あきれた顔をしたエンキのものだった。
弁解したのは、代表してロイだった。
「いや、綺麗な人だなぁって……」
エンキは深く深くため息をつくと、手の動きだけで「出て行け」と示した。



出て行けとやったわりに、エンキたちもすぐに事務室を後にした。
なぜならもう宿直の厩務員を除いて帰る時間になっていたからだ。
「私も乗合馬車に乗せてもらってもいいのかしら……」
休憩所を出ると、エレオノーラは少し不安そうに言った。
「乗せてくれるよ。だめだったら俺も歩く」
「……それは申し訳ないわね」
エレオノーラがつぶやくように言うと、どこかからひょっこりとロイが出てきた。
「あ、大丈夫ですよ。こんな美人さん乗せなかったら大変だあ。
それじゃオレ、準備してくるっす」
「……準備?」
ロイが足早に立ち去った後、エレオノーラは不思議そうに言った。
「ああ、馬車に馬をつなぐんだ。主に彼の仕事だよ」
「そうなんだ」
「……そういえばアーニャはどうしたのかな」
エンキとエレオノーラはそこで初めて、今日いたはずの令嬢が見当たらないことに気づいた。
「帰ったのかしら?私も見かけなかったわ」
「サライが暴れた拍子に尻餅をついていたな……何もないと良いんだが」
「なにもありませんわ!」
突然あたりに響いた明るい少女の声に、エンキとエレオノーラは驚いて声がした方に向き直った。
そこにはにっこりと笑ったアーニャがいた。
エンキはそれに思わず身構えた。エレオノーラは少し眉を寄せると軽く首をかしげた。
アーニャはそんな二人に足早に歩み寄る。そしてエレオノーラを突き飛ばし、エンキの左腕に自分の両腕を絡ませて体を密着させた。
「心配してくださったなんて感激です!」
「いやそりゃ……人としてねぇ」
エンキはそう言うとアーニャの腕の中から左腕を引き抜き、素早くエレオノーラの背中側に移動した。エレオノーラは困ったようにエンキとアーニャを見比べている。
アーニャはむっとする、というより怒りの形相でエレオノーラを睨みつける。
その様子に不安なものを感じ、エンキは今度はエレオノーラを自分の背中に回した。
エレオノーラは押しやられてすこしよろけたが、しっかりと足場を固めるとくいいるようにアーニャの顔を見つめた。アーニャはエンキが近くなったからかまたにっこりと笑う。
「うちの馬車を呼んであるんです。厩務員のなんて窮屈ですし一緒に帰りませんか?」
エンキは背後のエレオノーラを振り返った。エレオノーラは顔を少し傾けただけだ。
「……エレオノーラが一緒なら」
すると、アーニャは高らかに笑い出した。その笑いはどちらかといえば妖艶な娼婦のような笑いであり、少女の容姿をした彼女にはにつかわしくなかった。
くく、と笑いを収めるとアーニャは肩をすくめて言った。
「そんなに乗れませんわぁ。それにソレと同じ空気を吸うのとぉっても嫌です」
その物言いにエレオノーラはびっくりした。エンキも一瞬眉を開いたが、すぐに顔をしかめて低い声を出した。
「断る。俺は君といるのが苦痛だ」
それは怒りに満ちた狼のうなり声のような声だった。
アーニャはその声がエンキのものだと理解するのに数瞬かかったようだった。そして言われたことを理解すると、さっと顔を青ざめさせた。
その間にロイは馬を連れてきて馬車につなぎ終わっていた。
「準備できたっす。乗ってくださーい。
……あれ、お嬢様どうしたっすか?」
「五月蝿いわねっ!!」
アーニャはロイに向かって言葉をたたきつけた。ロイはひっと声を上げて後ずさる。
「ロイ、行こう。エレオノーラもだ」
エンキはそんなロイに声をかけ、エレオノーラの腰に手を添えて乗合馬車のほうへと歩みだした。
「エンキさん」
アーニャの鼻にかかったような声に、エンキはきつい視線を肩越しに投げただけだった。
馬車に乗り込むと、厩務員たちの戸惑った視線が彼らを迎え入れた。エンキはエレオノーラを座らせる。
「エンキ、あの子なんだかおかしいわ。」
「……やっぱりか」
馬車の車輪は回りだし、動き出す。
牧場には乗合馬車と入れ違いに貴族の馬車が入っていった。

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