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「魔法使いと記憶のない騎士」
第三十一話
異常の原因
―旅立ちの日へ―

「昨日は可愛らしいところのあるお嬢さんだったけれど。
何かあったのかしらね……」
「……」
「可能性としては錬金術師ね。そうだったらなんとかしないと。
……エンキ、聞いてる?」
「聞いてる」
二人は乗合馬車を降りると、そのまま街の食堂へ夕食をとりにいった。
馬車の中でも食堂に着くまでもエンキは無言で、食堂で席についてからはメニューの名前しかしゃべっていない。
「……どうしたの?なんか怒っているみたいだけど」
エンキは腕を組んで、エレオノーラに対して体を斜めにして座っている。
「……あの物言い、気に食わない。たとえ錬金術師のせいだとしてもな」
「物言い?」
言われて、エレオノーラはしばらく考えた。
「ああ、あの『いやです』とかなんとか……。
別に気にしてないわよ。旅してるとね、いろんな目にあうの。あのくらい序の口」
「序の口って……」
「夜這いみたいなのが来たり、強盗されそうになったり」
「犯罪じゃないか!」
エンキは思わず素っ頓狂な声を上げた。エレオノーラは苦笑する。
「まぁ幸い撃退できるだけの力はありましたからね。慣れてはいないけど。
それと、流し目をよこした男の人の恋人とかの悪口ってあんなもんじゃないわよ?」
「……」
エンキは思わず姿勢を正し、エレオノーラに向き直った。
「……大変だったんだな、やっぱり」
「この十年間、大変じゃなかった方を数える方が早いわね。
……そうそう、エンキには感謝しなくちゃね」
「え?」
エレオノーラの言葉に戸惑った声をだしたエンキに、彼女はテーブルの上に肘をつき両手を組んでその上に顎を置いて目元にやわらかいものを宿した。
「あなたと旅を始めてからこれまでが、この十年間で一番気楽で楽しかったわ。
女一人だと宿を取るのも大変なのよ、あなたのおかげで色々助かっていたの。
――エンキ、ありがとう」
エレオノーラは手をほどき肘をテーブルから下ろすと、すっと綺麗に頭を下げた。
エンキはそれにさらに戸惑いを強めた。
「いやそんなあらたまれても……やめてくれよ」
「あら、ありがたいと感じたらちゃんとそれを伝えるのは大事だわ。
あなたはマントをくれたじゃない」
エレオノーラは顔を上げると笑って言った。そう言われて、エンキは頭をかくしかなかった。
しばらくして、エレオノーラは笑みを収めて言う。
「……それはそうと、彼女のことだけれど。
しばらく気を配っていた方が良いわね。錬金術師はこちらからは接触できないし」
「もし何かされていたとして、治したりできるのか?」
「……それについては何もいえないわね」
紫色の瞳が暗くなる。
「錬金術師はすべての行動が読めないから。
それに私の力では彼の正体を“検索”できないみたいなの」
「“検索”できない?“邪王の知識”のことか?
……どういうことだ?」
「“邪王の知識”は確かに一族の誰にでも与えられたものであるけれど、皆が平等に使えるものではないの。
その個人の力量によるところが多いわ。力不足なら、必要な知識は探し出せないの。
……錬金術師のことは、どうやら力がないと知ることが出来ないみたいなの。
私にはその力はないわ」
「……」
「だから、目を配り気にかけるしかないの。
エンキ、お願いできるかしら?」
「……善処する」
エンキが答えるのと同時に、テーブルに小エビのサラダが届き二人は食事に集中することにした。
腹が膨れてくると、他の物事にも目が配れるようになる。エンキは気づいて言った。
「そういえばそろそろ出発の日を決めるんだろう?」
「ああ、そういえばそうね」
エレオノーラはフォークで残った青菜をつつきながら言った。
「一週間後なんてどうかしら。それからまた、そうね三、四日は歩くかもしれないけれど」
「わかった」
「そういえば、首都に繋がる大街道は初めて歩くわ。少し楽しみ」



エンキとエレオノーラは翌日も変わらず仕事に出た。
エンキが乗合馬車に乗り込むと、厩務員たちはエレオノーラのことを知りたがった。中にはエレオノーラが作った弁当を食わせろという者までいた――エンキはいつもどおり答えられることには答え、弁当はやらんと断った。
仕事もいつもどおりだ。
藁を入れ替え、飼葉桶を洗う――ただ、サライのところにいくといつもと少し違った。
飼葉桶を取り替えてその場を去ろうとするエンキの服の袖を青毛の馬は咥えたのだ。
エンキはそのせいでぐいと引き戻され、振り返った。
「おいおい、放してくれよ。仕事をしなきゃ」
だがサライは放さない。つぶらな瞳をキラキラさせてエンキを見上げている。
「……困ったな。どうしたんだ?」
サライはくいくいと二度エンキの袖を引いた。エンキは視線を馬の顔の隅々に走らせる。
「……走りたいのか?」
すると、サライは袖を離した。エンキは飼葉桶を地面に置くと辺りを見回した。
「……、誰もいないな」
エンキは馬に触るなといわれている。だから人を探したのだが、あいにく他の厩務員はいなかった。仕方ないので、エンキは自分で馬止めのための棒を上げ、サライに手綱をつけそっと外に連れ出した。
「馬場に連れて行ってやるからな。そこで思いっきり走れ。
外には出せないからそれで我慢してくれ」
馬場に着くと、エンキは手綱を放した。馬場は広いが、やはり広大な草原とは比べ物にならない。
サライはちょっと足早にくるくるとエンキの周りを三度回った。それからまた立ち止まり、尾を振るう。
「……走らないのか」
エンキは馬を見た。馬もエンキを見ている。
「乗せて走りたいんだ、乗ってやんな」
ふとそんな一人と一頭に馬場の柵の向こうから声がかかった。みれば、それは厩務員頭だった。
そして、彼の背中側ではロイと数人のほかの厩務員たちが作業の手を止めてこちらを見ていた。固唾を呑んでエンキと頭のやり取りを見守っている、そんな感じだった。
「乗ってやんな、といわれましても……」
「アンタ、たしか最初の日にお嬢さんに言ってたじゃないか。
ソイツは自分が認めたヤツしか乗せないって」
「はあ……」
エンキはしばし、サライと厩務員頭を見比べた。サライは目を輝かせて、エンキの腕を鼻でつついた。
「それじゃあお言葉に甘えて」
そう言うと、サライ自らが動いてエンキの横に立った。エンキがサライの体に手をかけると、厩務員頭が言った。
「待った。アンタ鞍と鐙はいらないのかい?」
「え。あ、そういえば」
「そういえば昨日もサライは裸だったな……。それでいいなら、そのまま乗ってくれ。
裸馬に乗れるやつなんて滅多にいないからな。見てみたい。」
エンキは頷いて、ひらりとサライの背に飛び乗った。重心を移動させながら均衡を保ち、足でしっかりとサライのわき腹をはさむ。それから手綱をにぎった。
サライが歩き出し、やがて走った。
馬場の狭い柵の中をぐるぐると回る――いつのまにか厩務員たちが集まってきて、その様子を眺め始めていた。彼らは口々にサライが人を乗せた、ちゃんと走ってるぞと言った。
だがやがて彼らの言葉とは裏腹な行動をサライはとり始めた。
サライは速度を上げると、めちゃくちゃに走り始めたのだ。体を右へ左へ捻り、狭い馬場を縦横無尽に走る。
それはあきらかに、背に乗っているエンキに負担をかける走り方であった。
右へ走った直後左へ動かれるので、エンキは慣性の力で落馬しそうになる。その度彼は足でサライの腹を挟み込み、重心を移動させることで落馬を免れる。
そんなことを三度繰り返すうちに、エンキはサライの意図に気づいた。
――俺と勝負しようっていうのか……面白い!
エンキは手綱を握りなおす。
その直後ぐぃっとまたサライは方向を変えた。エンキは力を込めて手綱を引いた。
その力に負け、サライは方向を戻して真っ直ぐに歩き出す。だがそれもつかの間のことで、青毛の馬は今度は真っ直ぐに走る代わりに全力を出した。
エンキは風の抵抗をさけるためにぐっと姿勢を低くした。だがそれからすぐ、サライは速度を緩め始める。それにあわせてエンキは姿勢を戻す。立ち止まるか、そう思われた――そのときだった。
青毛の馬は、後足で立ち上がり高く高く嘶いた。
「くっ!」
馬は一瞬だけではなく、明らかに意思を持って長い間立ち上がっている。
エンキの体は地面に対して水平になる。足がサライの体から離れそうになり、気味の悪い浮遊感が体を包む。
だが堪えた。手綱を強く引き、足にありったけの力を込める。
やがて、サライの前足は柔らかな砂地と草の上に再び降り立った。
そしてサライは観念したようにゆっさと一度尻尾を振るった。
その背にはまだエンキがまたがっていた。息は荒く、全身にはびっしょりと汗をかいている。
馬場は静かだった。風も吹かず、厩務員たちは動かない。
エンキの顎を汗が伝わった。
「――俺の勝ちだぞ」
エンキがそう言うと、サライは嬉しそうに一つ声を上げた。
それにつづけて、ぽかんと事態を見守っていた厩務員たちがわっと歓声を上げた。
エンキは歓声の中で深い満足感を味わっていた。それからポン、とサライの首筋を優しく叩く。
それから、エンキは厩務員頭のほうを何気なく見た。彼は腕を組んでなんだか満足そうに微笑んでいた。
エンキはサライを歩かせ、馬場を出た。柵が途切れたところでサライの背を降り厩務員頭に深々と頭を下げた。そこへ厩務員たちが何人か駆け寄ってくる。その中で一番にエンキに声をかけたのはロイだった。
「エンキさん、すごいっすよ!はは、お嬢様がいたら大騒ぎしただろうなぁ!」
ロイの言葉に、エンキははっと気づいた。
今日はアーニャが来ていなかったのである。



目を配り気にかけるべきなのはエレオノーラだったのかもしれない。
エンキより早く仕事を終えた彼女は寄り道をしつつ宿に戻っていた。買ったのは夜に口寂しくなったときにかじる干し肉や飴などの菓子であった。旅のために金を溜めているとはいえ、そのような楽しみを買う余裕が出てきていた。
部屋には宿からもらったお茶がある。二人でお茶を淹れて菓子を楽しむのも悪くない――そんなことを考えながら、エレオノーラは3階分の階段を上っていく。
そしてノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。
エレオノーラはエンキが帰っていたのだ、とそこで判断した。
だがそれは間違いだった。
エレオノーラはドアを開けた姿勢のまま、しばし固まった。
「こんにちは」
部屋には何故かアーニャがいた。部屋に他の気配はなく、エンキがつれてきたというわけではなさそうだとエレオノーラは判断した。
「……こんにちは」
エレオノーラはゆっくりと部屋に足を踏み入れ、後ろ手でドアを閉めた。
菓子類の入った紙袋を抱えなおす。
「館長の妹さんね。たしか、アーニャさん」
「そうよ」
「何か御用かしら。
ところで、部屋(ここ)にはどうやって?」
エレオノーラは表情を消し、少女に尋ねる。少女は背の高いエレオノーラを見上げてにっこりと笑った。
「宿の人に言ったら、通してくれたわ」
「そう、なんて言ったの?」
「婚約者が、悪い女に騙されてるって」
エレオノーラは、思わず片手を額に当てた。
「……嘘をつくのは感心しないわ。もちろん、人の部屋に勝手に入るのも」
言いながら、エレオノーラは気配を探る。
少女の背後には、何か人ならぬ気味の悪い気配がある――エレオノーラはそれに気づいた。
だが知らない気配ではない。この人ならぬ気配。前に幾度か遭遇した。
――同じだわ。錬金術師ね、きっと……。
さてどうしようか、と彼女は考える。しばし買い物袋に視線を落とし、やがて思いついたようにその中へ手を入れた。
取り出したのは、一粒の包み紙に包まれた飴だった。
「食べる?さっき一つ食べたのだけど、甘くて美味しいわ」
アーニャはそれににっこりと笑いかける。
「いりませんわ、そんな下賎な物。
ああ、でも私もあなたに差し上げなければならないものがあるんですよ――」



アーニャがいない、という事実が気になりつつもエンキは時間まで仕事をしていつも通り乗合馬車で帰った。
心なしか、宿に向かう足が速まる。
宿の階段に至っては、エンキは二段飛ばしで駆け上がっていた。
そして部屋の前にたどり着くと、乱暴にノブをひねった。
途端部屋の中からわずかに鉄のにおいがし、エンキの鼻をついた。
「!」
エンキは驚いて目を見開いた。
床には飴やら焼き菓子やら干し肉が散乱している。そしてその上では女が二人向き合っていた。
片方はもちろんエレオノーラで、彼女はもう一人の女であるアーニャの方を向いたままエンキに言った。
「お帰りなさい、エンキ。ごめんなさい手が放せなくて――」
エレオノーラは体の前に真っ直ぐに腕を伸ばし、両手で何かをつかんでいた。それはアーニャの手を握っているのかのようにも思えた。だが、彼女の白い手からぽたぽたと赤い液体がしたたり落ち、床に赤い水溜りを作っていた。
それは血だった。エレオノーラはアーニャの繰り出した刃物をがっちりと掴んでいるのである。
「なにをしてるんだ」
エンキはやっとそこで我に返り、二人に駆け寄った。
「アーニャ、放せ」
エンキは右手でエレオノーラの両手首を支えると、左手でアーニャの手首を引き剥がそうとした。だがアーニャの手は刃物の柄を放そうとしない。それどころか、刃物を自分の側に引こうとする。それではエレオノーラの手がさらに傷ついてしまう!
エンキは今度はエレオノーラに言った。
「エレオノーラ、放せ」
すると、エレオノーラは紫の瞳に憔悴の色を浮かべて刃物をぱっと放した。エンキは素早く彼女を背中にかばい、後ずさる。
アーニャの目はぎらぎらと油っぽく輝き、二人に刃物の切っ先を向けてくる。
それから彼女はにたぁと笑った。エンキは思わず身震いする。
「憑いてるわ」
「え?」
「あの子、魔物が憑いてるわ。たぶん錬金術師の」
「……」
エンキは肩越しにエレオノーラを振り返った。エレオノーラは手を肩の高さに挙げ手のひらを上へ向けている。そうしないと辛いのだ。だがそうしていても、血が滴り落ちる。傷は深いのだろうか。
「どうしたらいい?」
「彼女を捕まえて。たぶん体のどこかに錬金術師の使い魔が入ってるはずよ。
彼は何にでも溶け込んでいた――人の体に魔物を埋め込むのもできるのかもしれない」
「もしそうじゃなかったら?」
「……それはそのとき」
「何を話しているの?」
アーニャはにっこり笑って二人に問いかける。エンキはアーニャを睨みつける。
「秘密の話だ」
「まぁ、まぁ、まぁなんてこと!!」
アーニャはそう叫ぶと、刃物を持ったまま突進してきた。だがエンキは避けもしない。
アーニャは残念ながらただの令嬢であった。護身術もできない彼女がエンキに敵うはずもなく、あっというまに腕を捻り上げられる。刃物がからんと音を立てて床に落ちる。それをエレオノーラは部屋の端に蹴った。
「いたいいたいいたい!!!!」
エンキは容赦なく少女の細腕を捻り上げていた。エレオノーラはエンキに何の忠告もせず、つかつかとアーニャに歩み寄る。
そして、彼女の目の前に血まみれの左手の甲をかざした。
アーニャがひっと声を上げる。だがエレオノーラの意図は彼女を驚かすことにあるのではなかった。左手の中指には大きな青い石がはまった指輪――邪王のみっつの遺産の一つ“青癒の指輪(せいゆのゆびわ)”があった。
青い石が突然発光する。するとアーニャは腕の痛みとは別なもので悶えだした。
「首だ!首の後ろだ!」
エンキはアーニャの首の後ろの皮膚がごぼごぼと波打っているのに気づき叫ぶように言った。エレオノーラはアーニャの後ろに回りこむと、その部分に青い石を当てた。
じゅっと何かが焼けるような音がして、アーニャの首から何かが出、ぽろりと床に落ちた。
途端アーニャの体から力が失われる。エンキは崩れ折りそうになるアーニャを受け止め、落ちたモノを見た。
それは――蜘蛛だった。
仰向けに床に落ちた蜘蛛はじたばたと足を数度動かすとくるりと元に戻り、さっと走り始めた。エンキはそれに足を伸ばしダンッと音を立てて蜘蛛を踏み潰す。
その途端、足の下から煙が沸いてきた。
「?!」
意識ある二人は驚いて顔をかばった。だが、なにも起こらない。
そっと顔を上げると、そこには錬金術師がいた。
「案外ゲーム終了が早かったですねぇ」
くすくすと笑いながら金の髪に銀の仮面の男は言う。
「私の負けですねぇ。さすがに今回は露骨すぎましたか」
「あなたね、彼女がおかしくなった原因は」
エレオノーラが低く疲れた声でそういうと、錬金術師は肩をすくめた。
「さぁ、どうでしょう。私は彼女の願望の背中を押して差し上げただけですし」
そういって右手を挙げ、背中を押すような動きをする。
エレオノーラは答えない。ただ荒く息をしているだけだ。
動いたのはエンキだった。彼は床にアーニャを下ろすと、部屋の傍らに置いてあった青竜偃月刀を取り上げる。
そして無言のまま、それを振るった。
錬金術師は胴体から真っ二つになる。だが、真っ二つになった部分からは先ほどと同じ煙が出るだけだった。
「――エンキ、無駄よ。彼はここはいないわ。どこか別な場所にいて、煙に像を写しているだけ」
「ご明察、さすが“邪王の娘”」
錬金術師は満足したような笑みを口元に浮かべた。それから慇懃に頭を下げる。
「手当てしてさしあげたいところですが、貴女が見抜いた通りなのでできません。
申し訳ありません」
「結構。自分の面倒くらい自分でみれますから」
エレオノーラはことさら明るくそう応じた。錬金術師はまた肩をすくめた。
「――それでは、また」
錬金術師がそう言うと、彼の像は煙となり消えて行った。エンキはしばしその空間を睨みつけていたが、もう何も起こらないとわかるとエレオノーラの傍らに駆け寄った。
エレオノーラは崩れ落ちるように床に座る。エンキはその腰に片手を沿え倒れないようにし、もう片方の手でエレオノーラの手を取った。
「医者に――」
「だいじょうぶよ」
エレオノーラはエンキに笑いかける。それから付け足すように言った。
「ただ手が動かないので、指輪を抜いてくれる?」
エンキはしばしエレオノーラの顔を見つめた後、言われたとおりに彼女の左の中指から“青癒の指輪”を抜き取った。
「くわえさせて」
エンキは驚いた。エレオノーラは説明する。
「その指輪はあなたにはつかえないわ。かと言って手を動かすと辛いし。
くわえさせて頂戴」
エンキはしばし逡巡したあと、不器用な父親が赤ん坊におしゃぶりを差し出すかのように彼女の口元に指輪を持っていった。エレオノーラはかちりと音をさせてそれをくわえ込むと、口にくわえた煙草を風から守るかのようにして手にそれを近づけた。
青いやわらかな光が彼女の手の中に満ちる。次の瞬間には傷はふさがっていた。
「また開くかもしれないけど、これで当分は大丈夫よ」
治った手で口から指輪を受け取ると、彼女はそう言った。また左の中指に指輪を嵌め、両手をにぎったりひらいたりする。異常は無いようだった。
エンキはそれを呆然と見つめていた。
「エンキ?」
エンキはエレオノーラの手をとってその手のひらを見た。まだ血がこびりついている。
「――すまなかった」
「え?」
「……守れなかった」
エンキのしずかな声にエレオノーラは驚いた。それから手のひらを返し、彼の手を握った。
「助かったのは、あなたのおかげよ」



気絶しているアーニャを屋敷に届け――ライアンと彼らの父の学者には彼女はただ倒れただけだと言った――、二人は部屋を掃除した。
それから、事件のことにはどちらからも触れず――旅立ちの日とした一週間後のその日がやってきた。
牧場の人たちはエンキとの別れを惜しんだ。もちろん厩務員頭もだ。ロイはちょっぴり涙ぐんでいた。エンキはそれからサライにも挨拶しようと思ったが、また逃げ出したのか寝床は空だった。エンキは少しがっかりした。
エレオノーラの方の図書館も同じく別れを惜しんでくれた。ただライアンの寂しがりがただけはちょっと異常とも言えた。地味にあきらめきれていなかったらしい。
二人は挨拶を終えると荷物をまとめ、街の西、大街道の出口へと向かった。
「そういえば、アーニャとは会えたの?」
「いや……」
この一週間、アーニャとは顔を合わせていなかった。
ライアンによれば、どうも部屋にこもって出てこないらしい。
エンキはそれを聞いたとき、彼女をすこし可哀想だと思ったが――会いには行かなかった。
「別にいいさ。結局錬金術師のせいだし」
「……」
アーニャは錬金術師に操られて――もしくはとりつかれて――いる間のことを都合よく忘れてはいなかった。むしろ鮮明に覚えていたようである。それから我に返り――落ち込むのもよくわかる。
やがて二人は街の西出口にたどり着いた。街の出口には煉瓦造りの立派な門があり、大街道は整った白い石畳の道で、それが首都まで続いているのだ。
まさしく首都への道にふさわしい出口であった。
「あら?」
その立派な門の手前に、エレオノーラは二つの影を見つけた。
彼女はエンキの服の袖をひっぱって、そちらに注意を向けさせる。
「――アーニャ」
影の一つはアーニャだった。
アーニャは二人に気づくと、深く深く頭を下げた。その傍らには、アーニャに手綱を引かれた青毛の馬。
「サライ」
二人が近くに来るまでアーニャは頭を下げ続けた。
「どうしたんだ?」
アーニャは顔をあげ、二人を見た。エンキはどことなく戸惑っていたがエレオノーラは彼女に笑顔を向けている。アーニャはうつむく。
「ごめんなさい……わたし、あんな……」
「……」
エンキは返事をしない。代わりに答えたのはエレオノーラだった。
「傷は治ったから、もう気にしないで」
「でも――」
「いいのよ」
エレオノーラがそう言うと、エンキはため息をついた。
「だけどな、君が気をしっかり持っていれば変なものにも取り付かれず――」
「エンキ」
「……」
エレオノーラに制されて、エンキは黙った。
沈黙が場を支配する。
それをやぶったのはサライのつまらなそうな鼻息だった。
見れば、青毛の馬は手綱だけではなく鞍も鐙も付けていた。
「……サライ、どうしたんだ?」
「ええ……あの、」
アーニャは顔をあげ、言葉を選びながら言った。
「お詫び……といったらサライにもお二人にも失礼なんですけど……サライを連れて行ってあげてくれませんか?」
「え?」
アーニャはさらに続ける。
「サライは元々野生ですし、道端の草くらいじゃお腹は壊しません。
サライはエンキさんにとても懐いたし、エレオノーラさんも嫌いじゃないみたいですし、それに馬がいれば旅は楽だし……私は嫌われてるし、牧場も嫌いみたいだし」
サライはいなないて、嬉しそうに首を振り旅の二人を見つめた。
「……、いいのか?」
ぶるる、とサライが答えた。
「ええ。父も旅に馬は便利でしょうから、と」
「……」
エンキはサライに歩み寄った。それから青毛の馬に手を伸ばしかけ――エレオノーラを振り返る。エレオノーラは肩をすくめた。
「アーニャさん、本当にいいの?」
アーニャはちょっと間を空けてから答えた。
「――ええ。」
「そう……。」
エレオノーラもサライに歩み寄る。サライは顔の位置を下げ、耳をぴくぴくと前後に動かした。エレオノーラは少しかがんでサライと視線を合わせる。
「あなたも、くる?」
サライはさっと顔をあげ嬉しそうにいなないた。



石畳の道をゆっくりと進む。
サライの背には荷物とエレオノーラ。手綱を取ってサライと歩むのはエンキだ。
エレオノーラは後ろを振り返る。それから小さく手を振った。
「ほら、エンキも」
エンキは肩越しにちょっと振り返ると、適当に手を振った。
「素直じゃないわねぇ」
「ほっといてくれ」
門はもう遠ざかり始めている。その下に、小さな少女。少女は精一杯手を振っている。
「いい子だったじゃない。根はね」
「俺はヒョウメンで散々苦しんだよ」
「それってちょっと贅沢な悩みなのよ?」
馬の背の上と馬の横。そこで会話は交わされる。
しばらく進んで、門が見えなくなるとエンキは馬上のエレオノーラに話しかけた。
「そろそろ交代しないか?」
するとサライが鼻息を鳴らした。エレオノーラはくすくす笑う。
「あなたは重いから嫌だそうよ」
「……そんなこといったのか?」
サライは答えない。すまして歩くだけだ。
かくして旅の仲間は、唐突に増えた。そして旅はまだ続くのだった。

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