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「魔法使いと記憶のない騎士」
第六十一話
出立
―名の無きものの名前―

「それじゃあ、行くね」
壮麗な屋敷が見下ろす玄関先。旅装束に戻ったエレオノーラとエンキと、屋敷の双子の娘アウレーリアとコルネーリアが対峙していた。
それはこの屋敷の主とその妻と次男が馬車で旅立った翌日のことだった。
頭を打っているのだしもう少し休んでいったら、という双子の意見にエレオノーラは首を縦に振らなかった。
「もう大丈夫だから」
としか言わないエレオノーラの心の奥底の心理に気づいていたのはエンキだけだっただろう。
――居づらいのだ。
クラウディースが居た間に十分養生できてよかった、と彼は思う。
主がいなくなった途端に、使用人の幾人かの視線が冷たくなったのだ。エンキはその空気をエレオノーラが読み取っているのに気づいていた、というか彼自身も冷たい視線を時々浴びていたのだから気付かないはずがない。
だが彼は、エレオノーラが回復するまではその視線を無視し話題にもしなかった。
しかしエレオノーラのほうは、体が回復してくるにつれ徐々にそれを無視しているのが辛くなったようだった。
昨夜双子とマーカスに明日発つと告げた後、彼女が
「まるで逃げるようね――この旅自体が逃げるための旅だから、そうなるのは当然なのかもしれないけれど」
と独り言のように言ったどこか寂しげな声がエンキの耳にこびりついている。
「そういえば、マーカスは?」
ふと、エレオノーラが尋ねた。よく見てみれば、この場にはアウレーリアとコルネーリアだけで嫡男長兄で屋敷の主の名代たる男の姿はどこにもなかった。
双子はそれぞれにあたりを見回した後、顔を合わせた。
「兄さん、そう言えば見ないわね。お別れが悲しくなったのかしら」
とコルネーリアが言うと、アウレーリアは悪戯っぽい顔をして
「意外と薄情者ってだけかもよ」
と応えた。エレオノーラはそんな二人のやり取りに苦笑する。
「どっちにしても、少し寂しいわね」
エレオノーラが苦笑するのと重なるように、どこかから馬の蹄の音が響いてきた。その軽やかな音に、一同はそちらに顔を向けた。見れば、マーカスが颯爽と鼻筋の白いこげ茶の馬を駆ってこちらに向かってくる。
「あら、フィーアじゃない。兄さんはじゃじゃ馬が好きなのに、大人しいフィーアに乗るなんて」
アウレーリアが長兄の駆る馬の名前を言い当てた。しばらく待っていると、マーカスは一同の前で手綱を引いてフィーアを止めた。それから、ひらりと地面に降り立つ。
そんな長兄へ、アウレーリアが声をかけた。
「今、兄さんが薄情者だって言ってたところだったのよ。よかった、見送りに出てきてくれて」
「それは遅れて悪かったな」
マーカスは妹の言葉に苦笑した。それからマーカスは再び旅立つ二人の客人に目を移した。
「馬一頭で移動は大変だろう。フィーアはエレオノーラによく懐いたようだし、連れて行ってくれないか」
「……え?」
それは破格の申し出だった。馬一頭!サライがいるだけでも僥倖なのに、さらにもう一頭馬が増えるというのだ。エレオノーラとエンキはしばし絶句した。
その沈黙をなんととったのか、クラウディースの嫡男は珍しく悪戯っぽく口の端をあげて見せた。
「貴族の馬だから飼葉しか食べないと思ってるんだろう?フィーアはもともと柔軟でな、ついでだからしばらく前から道端の草に慣らしておいたんだ。だからその辺の心配はいらない」
「……いや、それもそうですが」
エンキはそこまで口をきいて、黙ってしまった。彼とほぼ同じ気持ちだったらしいエレオノーラが後を引き継ぐように口を開いた。
「……いただけないわ。だって、馬ってすごく高価なのよ?農家の、足の太い頑丈な馬でも……」
フィーアがゆさりとしっぽを振った。エレオノーラは馬のつぶらな瞳を見て言う。
「サライはもともと野生だったらしいから、大丈夫だったんでしょうけど。慣らしたとはいえ、フィーアは心配だわ。野宿することだってあるし……」
「この種類の馬はもともと頑丈なんだ。それこそ農家の馬から派生した種類でね」
マーカスはフィーアの首を撫でながらいう。そして彼はエンキに顔を向けた。
「図書室の『繁殖と良質の血統』、ご覧になりましたか。あれにはこうあります。
『性格は穏やかで辛抱強く従順。肉体的には頑丈で長距離および重い荷にもよく耐える』とね」
「ああ、それなら目にしました」
エンキはそう言って、フィーアに近づいた。フィーアは明るいつぶらな瞳で偉丈夫を見つめている。
「これの性格の良さなら実際に知っています。サライとも仲が悪くないようですし。
しかし……」
そこでエンキはちらりとエレオノーラを見やった。
「いただくわけにはいかないわ。だいたいフィーアの馬主のおじさまは御存じなの」
するとマーカスは笑った。
「もちろん。コイツはオレが父さんから買い取ったんだ」
あっけらかんと言われた言葉に、その場にいた全員が反応できなかった。マーカスは笑う。
「オレにだってそれくらいの財力はあるさ。まあ、家族への譲渡ということで少しはまけてもらったが。だから気にすることはない」
「余計いただけないわ!」
エレオノーラは心から、悲鳴のように声を上げた。それを見やるマーカスの微笑みは珍しく、どこまでも柔らかいものだった。
「オレも他の家族と同様に、お前のことはもう一人の妹だと思ってる。
邪魔になるんだったら、売って金にすればいい。オレはお前の旅がよりよくなるように、と思っているだけなんだ。
さあ、連れてってくれ。オレと父さんとの値切り合戦を無駄にしないでくれよ」
マーカスはそう言い切って、手綱をエレオノーラの手にそっと押しこんだ。エレオノーラは戸惑いながらそれを見下ろし、苦笑した。
「やっぱり、マーカスもおじ様とおば様の子なのね」
「そうじゃなきゃ困るだろう?」
マーカスはそう言ったあと、エンキを見やった。
「売るのであったら、馴染みの者を紹介しますが」
「……いや、二頭居たほうが移動が速いですし連れて行きます」
エンキはそう言って、フィーアの首を優しくたたいた。
「本当にいい馬をありがとうございます。……道中、馬泥棒にあう危険もありますが」
「ソレをあなたが背負ってる限り近寄る馬鹿はいないでしょう」
マーカスは少し不安げに言って眉を寄せたエンキが背負っている青竜偃月刀を指して笑って見せた。エンキは肩をすくめたあと、笑って見せた。
二人が笑いを収めると、しばし寂しげな沈黙が場に落ちた。
「すぐ行っちゃうの?」
ぽつりと言ったのはコルネーリアだった。
「うん――そうね。エンキのグローブを受け取ったら、すぐに」
少し緩かったというエレオノーラが贈ったエンキのグローブは、すでに直しに出されていたのだ。そしてこの騒ぎの間に出来上がったと連絡があったのだ。
「そっか」
アウレーリアが珍しく静かな声で言った。
「またいつでも来たらいい。どのみち、誰かはいるさ。なんならランドマールの本邸の方だっていい。父さんたちも喜ぶよ」
マーカスらしい別れの言葉にエレオノーラは思わず笑った。
「そうね。――いつか、またお邪魔するわ」
それから旅立つ者と見送る者はそれぞれ固く握手をして――しなれていないらしいエンキはぎこちなかった――旅立つ二人はそれぞれぞれ馬へ跨った。サライは胸を張り、フィーアは楽しげに耳としっぽを動かした。
「それじゃあ、さようなら」
エレオノーラがそう言うと、すかさず双子が口を尖らせた。
「違うわよ、ノーラ」
「またね、よ!」
エレオノーラは年下の少女たちに笑いかける。
「ええ、またね」
その横では、エンキがマーカスに声をかける。
「お世話になりました」
「こちらこそ。一家を代表して言います、エレオノーラをよろしく」
エンキは一つ深く頷くだけで答えて見せた。それから彼はエレオノーラに目配せして、サライの腹を鐙で優しく蹴った。サライはくるりとマーカスと双子たちに背を向けて軽快に歩み出した。エレオノーラとフィーアもそれに倣う。
またね、という大きな声が背中にぶつかってエレオノーラは振り返った。双子が力強く手を振っている。マーカスは彼らしく、手をひとつ軽く振っただけだった。エレオノーラもそれに身振りで答えて、前を向いた。すると、エンキの優しい目が彼女を待っていた。エレオノーラは彼に頷いて見せた。
背後で、広々とした庭園と優しい邸宅が遠ざかっていく。



馬たちを預かり所に繋いで、二人は街を歩いた。
旅装束がこの街では完全に浮いているが、仕方あるまい。グローブを預かった店の店主は一瞬旅装束の二人を見て怪訝な顔をしたが、エレオノーラの顔をみとめるとにっこりした。
店主は肌の色の濃い偉丈夫を恐れることなく、最後の仕事をしていった。客にグローブの状態を聞き、緩いところもきついところもないことを確かめる。そしてエンキがグローブの出来に心から満足していると言うと、店主もこれまた満足そうな笑みを向けてくれた。
誇り高い職人に見送られて二人は店を出た。
そしてエレオノーラはふと思う。
――この店にまた来れることがあるのかしら。
と。気持がどんどん沈んでいく。
おじ様が怪我をした。おば様の病状が悪化したのも、それが原因かもしれない。良くしてくれたクラウディースの人たちに私は一体何をしてしまったのだろう?
「……エレオノーラ?」
店を出て少し歩いたところで、エンキがエレオノーラを覗き込んだ。
――察しのいい人だ。
エンキの心配そうな顔を見て、エレオノーラは少し笑って見せた。それを受けてエンキは顔から心配げな表情を少し消しはしたが、目の奥にまだその感情が残っていた。そんな彼の目を見て、エレオノーラはふと気付く。
――出会ったばかりの時の、不安そうな目じゃないわ。
エンキの抱く“心配”の種類が違ったのだ。記憶をなくし、川縁に傷つき倒れていたときの、彼の不安そうな目はもうない。彼の目に宿るのは自己への不安からくる己への心配ではない。あるのはただエレオノーラを気遣う、優しく心強い、保護者のものにも似た男の目だった。
それを見とめた時、エレオノーラの心に強い“何か”が湧きあがり、思わず彼女は立ち止った。
つられて、エンキも立ち止まる。その一瞬の隙を突いて、エレオノーラは振り切るように顎を上げ彼のほうを見ずに歩きだした。立ち止ったエンキは虚を突かれて数歩遅れた。
その一瞬でエレオノーラが振り切ったのは、湧きあがった“何か”そのもの――具体的に言えば彼に対して甘えたいという気持ちだった。
――このひとは、帰るところがあるひとだ。
だから甘えてはいけないし、寄りかかってもいけない。
「……あれ?」
エレオノーラに数歩遅れて歩いていたエンキがふと声を上げた。物思いにふけっていたエレオノーラも思わず、その声が向かっていった先に目をやった。見れば、数人の若いがややガラの悪い男たちが何かを取り囲んでいるようだった。
「なにかしら」
「ガラの悪そうなやつっていうのは、どこにでもいるもんなんだなぁ」
エンキがどこか呆れたような、懐かしそうな、何ともいえない間延びした声を出した。
思えば、ローランドの首都に来てからいわゆる「ガラの悪い」人間には出会ったことがなかった。なにせここは西の大国の首都であるし、彼らはローランドでも指折りの貴族であるランドマール伯爵、この国の最高法務官でもあったタイベリウス・クラウディースの客人だったのだ。そうそうガラの悪い人間と出会うはずもなかった。だが、どんな場所だろうと、どんな身分だろうと、ガラの悪い人間というものはいるらしい。
「……待って、女の人だわ」
その人間たちに取り囲まれている人物に気づいたのはエレオノーラだった。五人ほどの人の輪の中心に小柄な影を見つけたのだ。長い黒髪の、少し変わった服装をした女だった。旅人らしく雨風を凌ぐマントを羽織っているが、その下には袖口が広く裾の長い上着を着ている。ワンピースかと思うほどに長い上着は少しくすんだ萌葱色だ。だがそれはワンピースでは決してない。女性はその下にズボンを履いているのだ。これも少し変わったもので、やはり裾はゆったりとしている。腰に回した幅広のベルトはこの国の女性たちが身につけるような装飾品ではなく、実用性を重視したものであり腰のあたりに道具や小さな袋を吊せるようにしてある。
くびれや体のラインを強調するものではない服、生活に根ざした実用性を伺わせる装飾品。その特徴はローランドのものでもリュオンのものではない。
エレオノーラの脳裏にぼんやりとある可能性が浮かんだ。
その彼女の思いつきに被るように、男たちの声が聞こえてきた。
「おい、東夷の女だぞ」
――東夷。
それは、西の人間が東の人々を侮蔑するときに使う言葉だった。東に生きる素朴な、時に西の人間に驚異となる人々を蔑んで呼ぶ言葉。
エレオノーラの脳裏にその言葉それ自体は浮かんでいなかったが、彼女が思い至ったのも言葉は違えど同じことであった。
少し濃い色の肌、混じりけのない真っ黒な髪。切れ長の瞳――彼女の持つ特徴は、西の人間ではないエンキのものとよく似ていた。
「東ノ国のひと」
エレオノーラは、取り囲まれる女を彼女の国の名前で呼んだ。
「え?」
エンキが聞き漏らしたかのようにエレオノーラをみた。
だが彼女が答えるよりも早く、取り囲まれている女が言った。
「わたしが東夷なら、そなたらは西戎だな」
低いが意志の強さを感じさせる、強い声だった。
反応したのは、男たちだった。
「なんだと、このアマ!」
彼女はあくまでも、無礼な呼称に無礼な呼称で――西戎とは東夷に対応する言葉だった――応えただけだ。だが男たちはそれを理解する知性を欠いていたらしい。一人がまず逆上し、彼女につかみかかろうとした。
「まずい!」
エンキは一言声を上げて駆け寄ろうとした。女は余りに小柄で、男たちは大きすぎた。
だが――ふっと女の姿が視界から消えた。エンキが思わず立ち止まる。すると、彼女に殴りかかっていた男がたたらを踏んだ。そして次の瞬間に彼女は男の背中側に現れていた。彼女は体に引きつけて膝に力を蓄え、同時にその場で体を一回転させ反動をつけてたたらを踏む男の背中を思い切り蹴りやった。男は崩していたバランスをさらに失い、地面に顔から着地した。
それからはほぼ一瞬の出来事だった。彼女は仲間が倒されて飛びかかってくる別な男との身長差を利用し、一度身をかがめた。すると男は女の体に足をひっかけることになる。女はその隙を見逃さず体をかがめたまま男の脚を払った。その男が仲間の上へ倒れ込んだ。
鮮やかな手際だった。
残りの男たちは一瞬呆気にとられ――その後、一斉に彼女に飛びかかった。
いくら鮮やかな手並みを見せたとはいえ多勢に無勢。エンキとエレオノーラが思わず飛び出そうとした時だった。
彼女は今度は飛び上がった。そしてまず一人目の顔面に蹴りをいれ、その反動を使ってひらりと空中で体をひねる。今度は逆方向から来た男の後頭部に足の甲をしたたか打ちつけてみせる。決して重い一撃ではないが、鼻を折られた男と後頭部を蹴られ脳震盪を起こしたらしい男はあっと言う間に崩れ落ちた。その間に彼女はさらに二人を片づける――いったん着地し、一人は急所を蹴りあげてやり、もう一人には鳩尾に肘をいれた。
その光景にエンキは「ぐっ」と訳の分からない声を出し、エレオノーラは呆気にとられた。
そして男たちを倒した女は平然と、臑についたらしい埃を払う。
「すごいわ……」
エレオノーラが思わず言うと、エンキは少しこわばった表情で頷いた。彼らが呆気にとられている間に女は歩み去ろうとする。彼女が背を向けるのと、打ち倒された一人目が仲間の下から起きあがった。
「……んの、クソアマァがぁ!」
「危ない!」
エレオノーラが言うのと、男が殴りかかるのはほぼ同時だった。一瞬だけ女が気づくのが遅い。彼女は虚を突かれたように止まってしまった――だが、男の拳が彼女に届く直前、大股の数歩で間を詰めたエンキがその肘をつかんだ。不意の邪魔に再びバランスを崩した男の顎に、我に返った女の掌手が綺麗に入った。男はもんどりうって白目をむいた。
エンキが肘を離した男が地面に倒れた音の後、しばし場が静けさに満たされる。
「……大丈夫か?」
女に話しかけることで沈黙を破ったのは、エンキだった。エレオノーラは少し離れたところに立ち尽くしたままだ。
ざわり、とエレオノーラの心に予感の波が打ち寄せた。そして彼女は、おそらくエンキの無くした記憶の中にあるはず故郷から来たと思われる女に目をやる。
女は驚いた顔をしている。
「……バトゥーなの?」
女は、エンキの問いに答えなかった。その代わりに目を見開いて、それだけ言った。
エンキは首を傾げて、女を見下ろした。
女とエンキがしばし見つめあう。エレオノーラは目を伏せた。
「……なんだって?」
エンキが問うと、女は膝を折ってその場に叩頭した。エンキがぎょっとして思わず片膝をついた。
「待ってくれ、何のまねだ――」
女が顔を上げる。強い意志を感じさせる表情をしていた。
「お探ししました――長」
エレオノーラは目を開けた。そしてしっかりと、目の前の男女を見た。
何が起こったのか自体が飲み込めない顔をした男と、その顔にどっと目を注ぐ女。
同じ東ノ国の人間の特徴を持つ二人。
エレオノーラは
――ついに来るべき時がきたのだ。
と思った。

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