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「魔法使いと記憶のない騎士」
第六十話
別れの日
―車輪の音は遠くなり―

クラウディースの顔に血の気が戻ってきたころ、今度はヴィプサーニアの体が「座り続けている」という行為に耐えられず、車椅子から滑り落ちた。
すぐに彼女の主治医が呼ばれ、そして診察後、別室に彼女の夫であるタイベリウス・クラウディースと長男のマーカス、次男のルキウスが呼ばれた。双子のアウレーリアとコルネーリアは母の寝室に付き添っている。
クラウディースは負傷した右腕を三角巾で吊り、その上にガウンを羽織っている。病人の態で見れば、クラウディースの方が痛々しい。
「一刻も早くヴァリフォン大公領の権威の医師に診せることをお勧めします。
最近の話では、その医師は病の進行を抑える方法を見つけ出したと聞きます。
わたしなどよりも、彼にお診せした方が病状は好転しないまでもこれ以上進むことはないかもしれません」
「……」
クラウディースは無事な左手を握ったり開いたりして、そこへ目を落としている。
答えない父に、長男が代わった。
「大公領への移動の間に、病がさらに進む可能性は?」
「あまりないでしょう。非常にゆっくり進んできた病です。奥さまにお話を伺ったところ、ご自身は病状の進行に気づいていらっしゃった上で――……隠されていたのです。
だからここ数日や数週間で病状が劇的に進むというのは考えにくいです」
「そうですか……」
「それに、大公領への移動はわたしは、ランドマール伯爵のためにもなると思ってお勧めするのです」
先日クラウディースを診た医者は名医でそれなりに年食っていたが、ヴィプサーニアの主治医はまだ経験は少ない。が、その代りに若々しい情熱にあふれていた。自分の患者ではないクラウディースを見て、彼はその情熱故に恐れずに、怪我人のことを思い、こう進言した。
「大公領の医療は首都のここよりも優れています。奥さまの病気のことだけではありません。
優秀な療法士もたくさんいます。ランドマール伯爵の右腕のことを思えば、伯爵も奥さまと一緒に大公領に行かれたほうがいいと思うのです。良い訓練療法士につけば、伯爵の右腕も予想されたより良く回復するかもしれませんし――なにより、奥さまにとっても伯爵がおそばにいるのは心強いことにもなると思います」
その言葉に、長男と次男は顔を見合わせた。幾分明るい表情をした兄弟は、期待を込めて父を見やった。だがクラウディースは左手を握りこんで微動だにしない。
「紹介状ならいくらでもお書きいたします。どうぞいつでもなんなりと、申しつけてください」
若い医師は伯爵が黙りこくっているのを気にしつつもそう言うと、部屋を辞した。
医師が去ったのち、しばらく沈黙が部屋を支配した。その沈黙に耐えられなくなったかのように、ルキウスが口を開いた。
「親父、母さんと一緒に大公領に行こう。いい療法士がいるって、いいことじゃないか!」
二番目の息子の言葉にも、クラウディースは微動だにしなかった。ここではないどこか一点をひたすらに見つめて、壮年の男は息子たちに言った。
「ヴィプサーニアの移動の準備をしよう。早い方がいい――ルキウス、お前は母さんに付き添って、大公領まで行ってくれ。女で病身の母さんにはなしがたいことがいくつもあるはずだ。母さんを助けてやれ。
それからマーカス、お前はしばらく、右手がそれなりの署名(サイン)ができるようになるまで、わたしの名代となれ。」
「父さんは行かないんですか?」
マーカスの声に、父は静かに答えた。
「わたしはここに残る――残らなければならないからだ」
断固とした言葉だった。その言葉にマーカスは覚悟していたかのように、だが無念そうに眉をよせ、ルキウスはあからさまに声を上げた。
「だって、ここよりいい療法士がいるって先生が言ってたじゃないか!
親父だって、少しでも腕が良くなった方がいいだろ?!一緒に行こう、兄貴を名代にするんだったら、べつにここに居なくてもいいじゃないか!手紙でだって指示はだせるし――」
「わたしはこの国の最高法務官だ」
わめくように訴える親思いの子を、クラウディースは強い口調で遮った。
「わたしはこの国の最高法務官だ。民の守護者にして、為政者の抑止力、規律の具現者だ。しかもその最高位を任されている。投げ出すわけにはいかない――それもこの先、この腕ではどうなるかわからないが、ともかく今はそうだ。投げ出すわけにはいかない」
「でも――」
「それに」
クラウディースは重ねて言った。
「わたしは皇帝陛下の乳兄弟にして友人。そしてあの方をもっとも諌めることができるものだと自分では思っている――色々な意味でだ。法務官としても、友人としても、あの方を裏切ることは決してない。
そのわたしが陛下と暗に対立している大公のもとへ行くと?
先だっての独立・自治騒動に対する、わたしのあの判決はたしかに中立だったと自負をしている。
が、妻のヴィプサーニアならともかく、わたしが大公領に赴けば少なからず様々な邪推をするものがあるはずだ。
――皇帝の手先だとか、鞍替えしようとしているとか。そのような疑われる行為はしたくない」
息子たちは、黙った。だがまたもしばらくして口を開いたのはルキウスだった。
「陛下が親父の本当の友人なら、わかってくれるはずだ!」
「あの方にもお立場がある。それを無視することはしたくない」
一刀両断だった。
魑魅魍魎跋扈するような権謀術数の中で、クラウディースは様々なものを見てきたのだ。裁判官という職を奉じるがゆえに、火のないところに煙に似た湯気のようなものをたたせた輩も数多く見てきた。青二才にも満たぬ雛の様なルキウスの言葉など、父の思慮深さの足元にも及ばない。
ルキウスはついに言葉を失い、悔しげに唇を引き結んでうつむいた。マーカスは黙って父を見つめている。
クラウディースはそこでやっと、二人の息子に目をやった。その目は、優しい父親の目だった。
「だが、お前たちの気持ちは嬉しい。ありがとう――」
何もかもわかっているかのような声音に、息子たちは自分の不甲斐無さをかみしめていた。



執事に連れられて、部屋を真っ先に出たのはクラウディースだった。幾分色を取り戻したとは言え、まだ疲労の色が濃い主人を使用人は放っておけなかったのである。
取り残された息子二人は、片方は腕組みをし、もう片方は形の良い顎をつまんで何やら思案していた。
「……ルキウス」
思案していた兄が弟を呼ぶ。
「ひとつオレに考えがある。それがうまく行くかはわからないが。
お前はともかく、父さんの指示に従って母さんと大公領へ行け。父さんや母さんに文句は言うな、不平も言うな」
「……わかった」
「そのかわり、愚痴の聞き手や面倒事の片づけなら請け負ってやる」
マーカスは一言だけそう言うと、ルキウスを見ずにすたすたと部屋を横切って行った。
「兄貴、どこに?」
「嫡男は面倒だが、それなりに旨味もあるんだよ――お前はお前の役割を果たせ」
そう言うと、長兄は出て行ってしまった。ルキウスは重いため息をついて、それを見送った。
しばらくして、ルキウスは自室からマーカスが馬に乗って駆けていく姿を広大な庭の一角に見ることとなった。



その翌々日、クラウディースがマーカスにヴィプサーニアの移動のために必要な書類を口述筆記させているところに、表情をこわばらせた執事が小走りでやってきた。
クラウディースが訝しげにそれを見やると、執事はやや上ずった声で主人に不意の来客を告げたのだった。
「皇太子殿下と――皇帝陛下の枢密使の方々がおいでです。すぐにお召変え願います」
「枢密使?」
クラウディースは一瞬だけ眉をあげたが、すぐに思いつめたような顔になった。
それからマーカスに一瞥をくれてから、
「わかった――着替えを手伝ってくれ」
と、執事に言った。



皇太子、とは周知のように皇帝の嫡男――つまり後継ぎ――の称号である。現在においては国政上強力な権力はもたないが、それでも“皇帝の名代”などとして時に絶大な力を行使することもある人物である。当代の皇太子は、マーカスとそれほど歳が変わらない。皇帝とクラウディースが親しい友人であることを考えれば、彼がこの屋敷を訪ねてくることも不思議に思えないこともないかもしれない。
だが、皇太子は今回の訪問に枢密使を伴っているという。
枢密使とは行政機関にも軍隊にも属さず、皇帝に忠誠を誓い、皇帝のためだけに多岐にわたる仕事をこなす機関“枢密院”の構成員のことである。その“多岐にわたる仕事”の全容を知る者は少ない。表向きには、公務での皇帝一家の護衛をする者や皇帝の顧問のような人間が属する組織とされている。だが裏では、皇帝にとって邪魔な人間を排除するための暗殺部隊や、隣国へ遣わす密偵や工作員がいるのではないかとも言われている。
その枢密院の人間を伴って皇太子がやってきた、ということは私用で友人に会いに来たというわけではないだろう。私用の時は、私的な護衛を伴うのだ。権威を示す制服を着るものは伴わない。
執事は最高の賓客を最高の応接室に通し、しばしお待ちを、と言った。通された皇太子はにっこりと笑う。
ゆるやかに波打つ癖をもった髪を揺らして、皇太子はクッションが置いてある長椅子に腰かけた。半ばクッションに身を沈めて寛いでみせる。
彼につき従ってきた二人の枢密使は椅子の後ろにまるで影のようにひっそりと、微動だにせずに立っている。
それから本当にしばし――重厚な扉が開いて、息子二人に付き添われたタイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースが現れた。右手は清潔感あふれる白い三角巾で吊り、左にはステッキを携えている。背筋はまっすぐに伸びているがやはり覇気が足りない。上着の右袖に腕が通されていないことが痛々しさに拍車をかけていた。
皇太子はさっと立ち上がり、馴染みの“小父さん”に近づいた。
「お見舞いを申し上げます――あまりよろしくないようですね」
「率直にものを言いなさるな、相変わらず」
クラウディースは苦笑した。皇太子は笑って先ほどまで自分が座っていた椅子へこの屋敷の主人を連れて行って座らせた。
「コレは父譲りだと思っております。残念ながら母に似なかったもので」
「御顔は母上ですよ――それだけは感謝なさいませ」
「相変わらず容赦ないですな、小父さん。安心いたしました。父にもそう伝えます」
クラウディースは青い顔に言い表しがたい色を浮かべたようだったが、皇太子がそれの意味するところを読み取る前にそれを消してしまった。
皇太子はクラウディースの向かいの椅子に新たに腰をかけた。この屋敷の主の息子たちは、長兄は皇太子側に、次兄は父親側に立ったままだった。だが彼らに目上の二人は――一人は生まれの地位で、一人は父親として彼らより上位にいたのだ――彼らに「座れ」とは言わない。地位のない若者は辛抱強く立ったままだ。枢密使はいつのまにか扉の前に移動していた。その姿はさながら城を護る門番のようであった。
「わたしがここに来た理由は察しておられますね」
皇太子が短くそう言うと、クラウディースは答えた。
「法務官のお役は御免と言うところでしょう。本来なら任命院の役人が来るはずだろうが――陛下の“優しい”気遣い痛み入ります」
すると、皇太子は口元を弓なりに引き上げた。
「さすが父の親友にして諫め役。よくわかっておいでだ。そう、わたしは法務官のお役御免の報せの衝撃を和らげる先触れとして参りました」
「ふん――余計な気づかいだ」
タイベリウス・クラウディースにしては口汚い言葉は、まるで自分に言い聞かせるようにぽつりと発せられた。
「――が、それだけではありません」
そんなクラウディースの悪態を打ち消すかのように皇太子は張りのある声で言った。
それから若者は立ち上がる。クラウディースは眉を寄せたが、皇帝の息子が年上の者に身振りで立つように命じると、彼は素直に従った。
「ランドマール伯爵タイベリウス=ギュスターヴ・クラウディース。
これよりわたしは皇帝の名代としてそなたに辞令を与える」
新たに発せられた言葉は格式ばったものだった。枢密使がドアの傍で音高く踵を合わせて背筋を伸ばすのが聞こえた。そしてマーカスが背筋を伸ばす。ルキウスもわけがわからないままに、兄を真似た。
「今上陛下は法務官特別任免権の発動を議会にかけ、父祖の血を継ぐ議員たちはこれを了承した。よってこれは高官の職務遂行について重大な欠陥が生じたときに発動される特別措置法の第27条に基づく正当な権力の発動である。
タイベリウス=ギュスターヴ・クラウディース、以下の辞令を命ずる。
そなたの重大な負傷により職務遂行は不可能と判断し、最高法務官の任を解く。」
その言葉にルキウスはヒューッと息を吸った。マーカスは事の成り行きを見守っている。
クラウディースは覚悟していたように目を伏せた。
それから一呼吸おいて、皇太子は言葉を続けた。
「――ならびにランドマール伯爵タイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースをヴァリフォン大公領特別法務監督官に任命し、同地に派遣する。」
その言葉に、クラウディースは伏せた目をあげた――そこには驚きの色があった。
マーカスはほっとしたように息をつき、ルキウスは目を丸くしていた。
「いま、なんと――」
クラウディースが困惑したように言うと、皇太子はにっこりした。
「驚いていただけたようでよかった。卿のそんな顔はめったに見られませんから。正式な辞令はもちろん文書で任命院から出されますから、しばらく待ってくださいね。
父曰く、また議員たちの大多数曰く、あなたは法務官として突出して優れているのだそうです。ですが小父さんは利き腕に重大な怪我をなさって、最高法務官を続けるのは負担であろうし、現実的に司法の場がその回復を待つのは無理です。が、隠居させてしまうのも忍びない――というのが陛下と議会の大多数の意見でした」
「……ヴァリフォン大公領にわたしを派遣すると?」
「そういうことです。あそこは医学が優れていますが、法律はそうでもない。どころか、妙な現地法も色々ありましてね。実務だけでなく学者としての才能もお有りの卿には、“特別法務監督官”というのはこれ以上ない仕事だと思いますが?
ついでに、治療もできますしね」
「……わたしに密偵のまねごともしろということだろうか?」
クラウディースは声を低めて言った。現在、大公と皇帝の関係は微妙なものになっている。
自治を得たい大公と、それを許さない皇帝と議会。そこへ、公的には職務に忠実で中立を保ちつつも、私的には皇帝に近しい人間を派遣するというのはどういうことか。
――クラウディースは当然のごとく深読みをした。
だが皇太子は横に首を振るだけだった。
「奥さんも連れて行かれるといい。あそこにはいい医者と、療法士がいます。
父は友人の危機に職権を乱用したんです。それだけで十分ですよ」
だがクラウディースは考え込んでいるようだった。皇太子は苦笑する。
「小父さんの悪いところはそうやって考えこまれてしまうところですよ。
父が「やらなくていい」ということはやらなくていいのです。それは命令です。
当座は治療と――それから、学者の仕事と教育者の真似ごとをしていただければ十分です。
あそこは大公の力が強すぎますから、民にも権利はあるのだということを教えてきてください――あらゆる人々に」
「……そして大公の威光を削げというわけか」
クラウディースがそう言うと、皇太子は肩をすくめた。
「まぁ、小父さんがそう解釈なさるならご自由に。わたしは関知しませんよ。父にもそう言っておきます――ですが、教育は必要です。権謀術数に関わらず、より良く生き、生活するために」
「……」
クラウディースはしばらく考え込んでいた。そして意を決したように言った。それは慈父に似た声と表情だった。
「……民のためなら、喜んでお受けいたします」
皇太子はにっこりと笑った。



「任命院からの正式な連絡と任命にはあと数日かかる。それまで移動の準備でもしているといい。
それにしても、お前の我儘を聞くのはこれが最初で最後だろうなぁ」
クラウディースと歓喜するルキウスを残して部屋を出た皇太子一行とマーカスは、屋敷の玄関ホールで立ち止まった。
「さてどうでしょうかね」
「そりゃあ先が怖いな」
そこでふと、枢密使と使用人たちの密やかな視線を感じたらしいマーカスが、玄関近くにある待合室を指差した。
「殿下、内密に話があるのですが」
「よかろう」
ことさら演技くさい声を二人は出して、そこへ入って行った。皇太子は枢密使二人にドアの外で誰も近づかないように見張っていろと命じた。
そこは待合室、といっても客人のためのものではなく、客人の先触れや手紙を届けに来た小間使いのためのものでひどく狭い部屋だった。
粗末な椅子を皇太子にすすめ、自分も腰を下ろした後マーカスは言う。
そのときすでに二人は、皇太子と臣民という態度を捨てて親しい友に戻っていた。
「ガイウス、本当に感謝するよ。おかげで父に大公領へ行く大義名分ができたからな。“ついで”とはいえ、いい療法士を探すことにするよ」
「わたしに感謝するんじゃなくて、皇帝陛下たる我が父上に感謝するべきだね、そこは。
なにもかも取り計らったのは陛下で、わたしはただの伝言係だ。まぁ、あえてわたしに感謝するとしたらわたしとお前の“幼馴染”という関係にだろうな。
それと卿の人望にもだ。それがなければ、議会は“法務官特別任免権”の発動なんて許可しなかっただろうからね」
「最高位の為政者が自由にふるまえないなんて、全く面倒な国だな」
「そうだなぁ。でも、リュオンなんかよりはいいんじゃないか。あっちはやりたい放題過ぎて、民が苦しんでいる。苦しみが怒りに変わればどうなるかわからんぞ」
「……摂政か」
「そうだ」
そこで皇太子は伸びをした。
「ここで政治の話はやめよう。どの道、わたしが皇位を継ぐときにはあの卑しい男は死んでいるさ。こちらとしては王女クローディアが賢明な人物であることを祈るだけだな」
「それと彼女の無事を、だな」
「ああ」
「卿と奥さまには、ルキウスが付き添うのか」
「ああ。オレは父の名代を勤めなきゃならないから残らないと」
「お前はともかく、ルキウスは少々心配だな」
「同感だ」
二人はそこで静かに笑った。
つまり、これが事の真相なのである。マーカスは父が強情を見せたあの日、馬を駆って宮殿に赴き皇太子との面会を求めた。そして事情を聞いた皇太子が父である皇帝に“親友の窮地”を伝えたのである。かくして皇帝は最高法務官の負傷を公にし、議会に“法務官特別任免権”の発動を求めた。議会の方も、なんとこれに納得した。そしてクラウディースは無事、息子の思惑通り大公領に派遣されることになったのである。これには、皇帝が議会での演説の途中に「ランドマール伯爵の嫡男の父を思う嘆願について」を切々と織り込んだことも功を奏していたかもしれない。先日マーカスがルキウスに言った「嫡男の旨味」をマーカスは最大限利用したのである。
……それから二人は、他愛もない話をいくつかした後、ほぼ同時に立ちあがった。
「お暇させていただくよ。仕事は終わった。これでも忙しい身なんでね」
「御送りいたしましょう、殿下」
皇太子と伯爵の嫡男が部屋を出ると、控えていた二人の枢密使は静かに皇太子の後ろについた。そして、玄関ホールの中央へと進む――ふとそこで、皇太子が立ち止まった。
「どうかいたしましたか」
マーカスが問うと、皇太子は静かに振り返りながら上を見上げた。ホールは吹き抜けであり、見上げた先には二階の廊下があった。
そこに、人が一人。波打つ黒髪、白い顔。細いその姿は女だった。
「……あれはお前の妹のどちらかではないな、マーカス」
皇太子は何気ない口調で聞いた。マーカスもそちらを見上げる。
――あれは。
「父の友人の娘にございます。客人としていまは屋敷に泊まっております」
「ほう」
皇太子は目を眇めて二階の女を見た。
「少々細いが、いい(かんばせ)をしているな、名前は?」
「エレオノーラと」
エレオノーラは、手すりに手をかけて静かにホールを見下ろしていた。
ふとマーカスはそこで、皇太子の“女好き”という性格を思い出して眉を寄せた。
そして警告のためにそっと耳打ちした。
「……あれは当代の“邪王の一族”にございます」
そう言うと、皇太子は一瞬驚いたようだったが、再び目を細くして二階の女を見やった。
「……目が紫なのか。ここからはよく見えん。だがそうであれば、あれはわたしの幻の親戚というところか。中興の祖ルシアスより枝分かれしたサーガの子孫」
皇太子はそこですっと片足を後ろに引き、腕と体を使って最高の紳士の礼を二階の女にささげた。それにエレオノーラは少し驚いたようだったが、遠くからもわかる程度に軽く礼を返した。
そこへ、また違う姿がひとり。それは背が高く、黒髪の、肌の色の濃い偉丈夫だった。彼は女の傍に近づくと、まるで彼女を護るかのように背後に立った。
「あれは」
「彼女の連れです」
マーカスは聞かれるより早く答えた。だが皇太子の関心の中心は他にあったようだ。
「西の者ではないな」
「詳しい素性はわかりません」
見上げていると、偉丈夫の警戒心を含んだ鋭い眼光が皇太子をひたと捉えた。だがそれはよく抑えられたもので、護衛の枢密使二人は気づかない。
皇太子はわずか、マーカスにしかわからない程度に怯んだが、すぐに打ち解けた雰囲気を放って二階へと――今度は男に向かって――会釈した後、さっと踵を返してドアに向かって歩き出した。
外では、豪奢な二頭立ての馬車が待機していた。装飾をふんだんに使い、権威を振りまくために作られたそれに乗りこむと、枢密使の一人がドアを閉めた。だがその直後、皇太子は窓を開けてマーカスを見下ろした。そして別れの挨拶をしようとするランドマール伯爵の嫡男を遮った。
「こういった話は聞いたことがあるか?」
「?」
皇太子は高い位置から話し続ける。
「先ごろ南の方のリュオンとの国境沿いで小競り合いがあったのをお前は知っているな?」
「ええ。村がひとつ焼き払われたとか。事前に住民は逃げていたようですが」
「そう、それだ。それも妙なんだが、もう一つ妙な話が一つあってね――」
皇太子はマーカスに馬車に近づくように言った。マーカスは馬車の踏み台に片足を乗せ、耳を寄せた。
「リュオンの斥候隊がひとつ、まるごと全滅したらしい」
「――?」
「だが、我が軍が斥候隊とやりあったとの報告はない。それどころか、その斥候隊、騎馬だったそうだよ。お前、リュオンの騎馬隊がどんなものか知ってるか」
「……リュオンの乗馬技術はたいしたことはないはずだ。騎馬隊のほとんどは東ノ国の者だと聞いているが」
「そう、その斥候隊もそうだった。そして妙なことに、その斥候隊には東ノ国の長が入っていたそうだ」
「“長”?」
「そう、“旧指導者”、と言った方が適切かな――その長を含めて斥候は五人。三人の死体が確認され、一人は戦闘不能の重傷。長は谷川に落ちたらしい。死んだ、と扱われたようだがね、あちらでは」
「……」
「一番妙なのはね、マーカス。リュオンがその斥候隊の報復行動を起こさないところだ」
「……リュオン王国の臣民じゃないからじゃないか。東ノ国の民の扱いはお前も知っているだろう?蛮族として人としての扱いを受けていない」
「だがそれにしても、貴重な騎馬隊を五騎も失ったんだぞ。そしてそのうち一騎は東ノ国の指導者ときた。形だけでも報復行動を起こさなければ、東ノ国の民がなにをするかわからないぞ。蛮族の扱いしか受けていないとはいえ、しばらく前まで“地獄の者ども”(タルタロス)と呼ばれていた人たちだからな」
「……そう考えると妙だな」
「ついでにいうと、その長は、王女クローディアと“非常に個人的に”親しかったらしい」
「……というと?」
「長の年齢は見たところ30歳程度。薄汚いジジイ摂政に比べれば青二才だろうが、19や20そこいらの小娘さんにとってはどうだろうね?」
「……なるほど」
「実際、王女はその長に処女を捧げたとかいう噂もあるそうだ」
その言葉をマーカスは鼻で笑った。
「まさか!貴族より躾の厳しい王族にそれは無理でしょう」
「後宮に幾人も女を囲うという東ノ国の長にとって、果たしてその理屈が通じるかなぁ」
皇太子の好奇を含んだ言葉に、マーカスは押し黙った。皇太子は薄く笑う。
「……それで、この話をオレにしてなにを?」
「先ほどの彼、その長じゃないかなと思ってね」
「は?」
皇太子は馬車の窓から身を乗り出した。そしてマーカスの耳にささやく。
「東ノ国はリュオンに従うことを潔しとしていないと聞く。我々にとってはクローディアはともかく、国境を小突いてくる摂政は邪魔極まりない。利害が一致しているとは思わないか」
「……成程?」
マーカスはそこですっと身をひいて、馬車の踏み台から足を下ろした。
「だけどそれは違うでしょう。エンキさんは、非常に優しい人ですよ。それに長だとしても、ちょっと難ありですね。アナタの駒としては使えませんよ」
「ほう、なぜだ?」
「あなたの“幻の親戚”が許可を出さないでしょうから」
その言葉を聞くと、皇太子は一瞬の沈黙ののち、爆笑した。
「なるほど!“世界のすべては男が支配するが、すべての男は女に支配される”というやつか!それなら諦めよう、仕方ない。妻と母親ほど恐ろしいものはないぞ。
――お前、アエミリアを大事にしろよ。そのうち頭が上がらなくなる」
「言われなくとも。すでに尻に敷かれかけてます」
その言葉に皇太子はまた愉快そうに笑って、馬車の窓を閉めた。ほどなくして車輪が回り出し、豪奢な馬車は広い庭を遠ざかって行った。
マーカスは一つため息をついて、父と母のために屋敷へと引き返した。



それから一週間ほど後――任命院からクラウディースに正式な辞令が下り、彼とヴィプサーニア、ルキウスはヴァリフォン大公領に旅立つこととなった。
見送りに、屋敷中の使用人が集まった。ルキウスに車椅子を押してもらっているヴィプサーニアは使用人の一人一人に声をかけたがったが、執事がそれを諌めた。タイベリウス・クラウディースは執事と使用人頭にマーカスを主人だと思うように、と言った。
その間に、ヴィプサーニアは残していく子どもたちへと声をかける。アウレーリアには物事を深く考えてから行動するようにとお小言を、コルネーリアには信頼しているからマーカス兄さんを助けてねと期待の言葉を、マーカスには困ったら執事やアエミリアさんを頼りなさいと助言をした。
それから、エレオノーラにも。
「エレオノーラ」
「……はい」
血のつながらない、母のように優しい女性は、そっと若い娘の手をとった。
「幸せになりなさい」
娘は困惑したようにヴィプサーニアを見た。
「幸福になりなさい。幸せになるには、絶対に妥協したり、諦めたりしちゃだめよ。
そんなことしたら、絶対に後悔する日が来るわ。ああ、あのときこうしてればよかった、ああしてればよかったって。でもね、そんなもの、何の役にも立たないのよ。
日々悔いて生きることが、何の役に立つというの。エレオノーラ、幸せになって。
今この一瞬を後悔しないように生きて。そうすれば明日の、遠い未来の幸せに繋がるはずだから」
「……はい」
エレオノーラは優しく、ヴィプサーニアの手を握り返した。
それから、ヴィプサーニアはエンキを見上げる。
「……よろしくおねがいします」
それは、誰を――そして何を――さしたわけではない短い言葉だった。エンキはそれでも、ひとつ深く頷いて見せた。
ルキウスはそれを黙って見届けると、四頭立ての立派な馬車へと車椅子を押して行った。エレオノーラの手を、ヴィプサーニアはぎりぎりまで優しく握っていた。
ドアを開けた使用人たちが、奥方を抱え上げようとする。
「待て」
だがそれを制した声が一つ。見れば、クラウディースが三角巾から右腕を引き抜いていた。
「親父!」
「父さん!」
父が何をしようとしているかを察して、二人の息子が声を上げた。執事もあとに続く。
「旦那さま、傷に響きます!」
だがクラウディースは臆することなく、ヴィプサーニアの傍らに屈みこんだ。ヴィプサーニアは不安そうな、けれど誰よりもこの男の性格を知っているがために諦めた顔をしていた。クラウディースは座る妻のひざ裏に右手を差し入れ、左腕を彼女の背に回した。
「妻一人抱えられなくて何が当主か」
彼はそう言ってぐっと妻の体を持ち上げた。一瞬、右手に痛みが走ったのか体が傾ぐ。だがそれを堪えると、彼は妻を抱えたまま颯爽と馬車に乗り込んだ。
息子と娘はため息をつく。その横で、使用人が車椅子を畳み馬車の後ろにある物入れへと入れた。
クラウディースは窓際へと妻を座らせる。彼はそれからその向かい側に腰掛け、ふと外の者たちを見渡した。
エンキと目が合うと、彼は一つ頷いて見せた。エンキは目礼で返す。
その間にルキウスがさっと馬車に飛び乗った。
「ルキウス!」
弟へ兄が声を投げる。弟は肩越しに振りかえった。
「おう」
「頼んだぞ」
「おう」
短いやり取りだった。ルキウスはドアを閉め、父の向こうに座った。
「出せ」
マーカスが命じると、御者が馬に鞭打った。ヴィプサーニアが窓にすがるように取り付いている。馬車が動き出すと、彼女は手を振った。その向かい側の窓が開く。
「落ち着いたら手紙を出す」
車輪が回り、馬車が動き出した。双子の娘がそれを追う。
「そうしたら、お前たちもたまには来なさい――」
「「うん!」」
父の言葉に娘たちは精いっぱいの声で答えた。
四頭の馬が速度を上げる。車輪の速度が増した。双子の娘はどんどん引き離されていく。
やがて二人は、馬車を追うのをやめた。
馬車は広い庭を突っ切り、開け放たれた門を出て、見えなくなった。
「今生の別れではないさ」
立ち尽くす二人の妹の背中に、マーカスがぽつりと言った。
……エレオノーラは黙って、深く深く、馬車の消えた方へと頭を下げていた。

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