戻る Home 目次 次へ

「魔法使いと記憶のない騎士」
第三話
命名
―呼び名―

男は髪も瞳も黒だった。顔立ちは決して美男子ではないが作りはよく、整った顔をしている。背は高く、背筋は真っ直ぐに伸びている。
持ち物は、真っ直ぐな剣と腕章だけ。彼は記憶さえもっていない。



「この先に、宿場町、というか宿場村があるはずだからそこへ向かうの」
エレオノーラは男に言った。男は道の先を見つめた後訊いた。
「あなたはどこに向かっているんです?」
「樹海に。それから――真言主に会いに行くの」
エレオノーラは言葉の端にいくばくかの迷いを混ぜて言った。まだ男を全面的に信じたわけではないのだ。男はそれに気づきつつも、仕方ないので訊いた。
「樹海?」
「大陸の中ほどにある、リュオン王国とローランド皇国の国境にある魔力を持つ森よ。
宝妖って聞いたことある?」
男はしばし考えた。
「額に宝石のように美しい魔石がはまっていて、耳のとがった人間ではない種族……」
「あたりよ。彼らに知り合いがいてね。会いに行くの」
「でも樹海に人間は入れないのでは?」
「宝妖に敵意を持っていたり、彼らに害をなそうとする人間はね。――詳しくはまた近くなったら話すわ」
「真言主って?」
「真言っていうのは――宇宙をも動かす言葉よ。魔法みたいだけど、魔法じゃない。
魔法は、自然と契約して自然から力を借りるものだけれど……真言にそんなものは必要ないの。私も詳しくは知らないのだけど。」
「――」
「詳しくは、本人から聞くのが一番ね。彼がいるのは、ローランド皇国の首都よ。
とりあえず今日は宿場村にいかなきゃ。さ、いきましょう?」
エレオノーラが一歩踏み出したので、男は黙ってついて行った。



村まではあまり会話はなかった。エレオノーラが黙々と歩くので男も黙々と歩いた。それだけのことだった。
時折彼女は彼に体のことを聞くが、質問も短ければ答えも短かった。
日が地平に半分ほど沈んだ頃、二人は村に辿り着いた。
小さな目抜き通りに店が並び、そこを中心に集落が形成されている。最近まで隣国と戦争をしていた軍が駐留していたのだろうか、村の周りには柵が巡らされどこかものものしい雰囲気を残していた。柵の周りには踏み荒らされた農地も見える。
「酒場を探しましょう。こういうところは大体酒場の二階が宿なのよ」
エレオノーラに言われて、男は静かに頷き先導する彼女に大人しくついていった。
通りの中ほどに十字路があった。その東側の手前の角に扉を大きく開きまだ日は完全に沈んでいないのに明々と光を零している店があった。
見上げると看板にはベッドと酒瓶の絵が掲げてある。
「ここみたいね、入りましょう」
エレオノーラは躊躇なく一段高くなっているポーチへ上がり、店へ入っていく。男は店とその周囲を見回した後、彼女についていった。
店はまだ開いたばかりだったらしく、酒の匂いもなければ酔漢もまだいなかった。仕事を終えた者たちがぽつぽつと集まり始め、今日の愚痴をこぼしあう相手を探している――そんな感じだった。
エレオノーラはやはり迷いなく、厨房と客席を仕切っているカウンターに近づく。そこには夫婦らしい男女が忙しく動き回っていた。エレオノーラはそのうちの恰幅のいい女性に声をかけた。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ――あら」
振り返った女将らしい女性はエレオノーラに少なからず驚いたようだった。
「見ない顔だね。旅の人かい?」
「ええ」
それから女将はつい、と男に目を移した。
「あら、いい男連れて。駆け落ちかい?」
その言葉に男はぎょっとして飛び上がらんばかりだった。それを横目で見ていたエレオノーラは面白そうに笑って
「ええ」
と言った。男は唖然としてエレオノーラに目をやった。彼女は楽しそうに笑うだけだ。
「そうかい!若いっていいねぇ」
女将がけらけらと楽しそうに笑うので男はどうしたらいいのかわからずに少々むっとした。
「で、そんな二人だから宿がいるんだろう?二回に部屋があるよ、一晩二人で銀貨一枚ってところだね」
「それでいいわ。お願いします」
「ああ、うちは二人部屋でもベッドは別だよ。いいかい?」
女将は悪びれもせずに大声で言った。男は再びぎょっとしたがエレオノーラはやはり楽しそうに笑ってこういった。
「構いません」
女将はそうかいそうかい、と面白そうに言ってポケットから鍵を取り出した。
「稼ぎ時だから、部屋は自分で探しておいで」
そう言って、カウンターのすぐ脇の階段を示した。



階段は一度踊り場で九十度折れ、そしてその階段の先にはドアがあった。鍵はないが、それは宿と酒場を区別するものだった。ドアを開けると、両側に個室のドアが並ぶ廊下になっていた。エレオノーラは鍵の頭に目をやった。
「三号室って書いてあるわ」
「……こっちだ」
男はすぐ隣の部屋番号を見て歩き出した。そして、左手の三つ目の扉。
「ここだな」
エレオノーラが鍵を鍵穴に差込み、ドアを開けた。
ベッドが二つ並び、鏡台が一つある狭い部屋だった。目抜き通りに面している窓のカーテンは閉じている。
「意外と綺麗ね。酒場の雰囲気も悪くなかったし」
エレオノーラはそう言いながら窓に近づき、カーテンを少し開けて外をのぞいた。
日はすでに沈んでいた。客が酒場に入っていくのが見える。
「ここが村唯一の酒場といったところかしらね」
そう言いながら振り返ると、男はベッドに腰掛けていた。少しうなだれた姿勢で。
「参ったな」
「あら、私が駆け落ち相手で不満だったかしら」
冗談めかして言うと、男は苦笑した。
「まさか。あなたは記憶を失った男には十分すぎますよ。
――昨日から今日にかけて、いろいろな事がありすぎた」
「――疲れたの?」
エレオノーラは向いのベッドに腰掛けた。二人は向き合う形になる。
「少し」
「そういえば、怪我人にずいぶんな距離を歩かせちゃったわね。運動もさせちゃったし」
「それは――大丈夫です」
男は申し訳なさそうに言う彼女に首を振った。
「精神的に、というか。――慌ててないんですよ、俺」
「?」
「記憶ってなくなったら困るものでしょう?なのに焦らないんです。自分の名前もわからないのに」
「――そういえば、そうね」
エレオノーラは改めて男の顔を見た。目は黒で切れ長で鋭いが、ひどく落ち着いた色をしている。男は迷いなくエレオノーラの紫の瞳を見返してくる。
「――でもパニックを起こすより、ましなんじゃないかしら。そう思うといいわよ」
「でも何か、自分が不気味で」
「あなた、冷静ね」
くす、とエレオノーラは苦笑する。
「まぁ――見ず知らずの女についてきたという時点でかなりの恐慌をきたしているのかもしれないし、ね」
「――そういう見方もありますか……」
男は思わず腕組みをした。


酒場が騒がしくなってきた。陽気な騒がしさだ。ちょっと浮ついたところがあるようにも思える。
「――あなたの服、何とかしなくちゃね」
「――え?」
「背中、裂けてるでしょ」
「あ」
男はそれまで着けていたマントを外し、肩越しに背中を振り返った。
「直せませんかね」
「直せることは直せるでしょうけど。新しいものを買ったほうがいいわ。それに、一緒に来るならそのマント、返してもらってもいいかしら?新しいのをあつらえましょう」 
エレオノーラの口調は、世話好きの女のものによく似ていた。男は眉を寄せる。
「――最もなことですけど、持ち合わせがないです」
エレオノーラは男が手に持っていたマントに手を伸ばした。男はさっとその手を避ける。
「洗って返します」
エレオノーラは男の手を追う様にさらに手を延ばした。
「別にいいのよ。――お金も貸すわ」
ピタリ、と男は動きを止めた。その隙にエレオノーラはさっとマントを取り返した。
「かす?」
「ええ」
慣れた手つきでマントを畳むエレオノーラを見つめながら男は言った。
「そこまでしていただくわけには」
「あら、あげるなんて言ってないでしょう?貸すんだから、いつか返してもらわなくちゃ」
「それは当たり前です――」
男はかりかりと頭をかく。
「なんでそこまで?」
するとエレオノーラはひたと男を見つめて言った。
「一緒に行くんだもの。そうでしょ?」
男は顎を引いて、彼女を見つめる。エレオノーラは紫の瞳を優しく輝かせながら身を乗り出した。
「ついてくる理由はさっき聞いたわ。
それじゃ、どこまでついて来るつもり?」
男はそっと彼女から目を離した。楽しんでいる気配。
「――わかりません」
「記憶が戻ったらどうする?」
「それもわからない。その時にでも考えます」
すっとエレオノーラは身を引いた。ベッドに両手をつき、足をブラブラさせる。男が再び彼女に視線を戻した。
「行き当たりばったりね。記憶をなくす前からそうだったのかしら」
男は肩をすくめた。
「――でもどの道、ついてくるんでしょう?だったらそれなりの格好をしてもらえたらありがたいわ」
「――わかりました」
男が観念したように言った。エレオノーラは微笑んで右手を差し出した。
「それじゃ、よろしく――……」
男は差し出された手を握りかけて、エレオノーラの考え込んでいる様子に気づいた。
「どうしたんです?」
「名前。あなたのことこれから先ずーっと"あなた"なんて呼ぶわけにはいかないわ。どうしましょう」
男は手を引っ込めた。エレオノーラも右手を顎のところに持っていく。
しばらくした後、口を開いたのは男だった。心底困った口調だった。
「好きに呼んでください。反応しますから」
「音のかけらも覚えてないの?」
「ええ、まったく、ぜんぜん」
即答した男に拍子抜けしながら、エレオノーラは思いをめぐらせた。
「――エンキ」
「え?」
「エンキってどう?」
男はじっとエレオノーラを見つめた後、言った。
「意味は?」
「特になし。」
即答した彼女に、男はかくっとコケた。それを見てクスクス笑いながら、エレオノーラは続けた。
「音がいいなって思ったの。嫌かしら」
「いえ。どうぞお好きに。エンキ、ですね」
男は半ば呆れたように言った。エレオノーラはもう一度エンキ、と言った。男は仕方なさそうにハイ、と返事をした。


戻る  Home  目次  次へ