| 「さて、じゃあ稼いでこようかしらね」男――エンキが返事をしたのに納得して、エレオノーラが言った。
 「稼ぐ?」
 「そう、ちょっと財布が心許ないのよ。ちょうどいい具合に酒場に人がいるみたいだし」
 階下から聞こえてくるのは陽気な声だ。日が沈み、一仕事終えた村の人々が集まってきたのだろう。
 「どうやって?」
 エンキは少々眉を寄せて聞いた。エレオノーラはすっと立ち上がって胸を張った。
 「私にできることは、魔法と剣だけじゃないのよ。ついて来て」
 エレオノーラは行儀よく膝の上に置かれていたエンキの手を取った。エンキはつられるように立ち上がりかけ、彼女のベッドの上にあるマントに手を伸ばしそれを羽織った。人前で傷をさらすわけにはいかない。
 エレオノーラは彼がマントを羽織り終わると歩き出した。エンキは引っ張られるような格好でついていく。
 酒場への扉を開けたところで彼女は手を離した。エンキは開け放たれたドアのところで彼女を見送った。
 コツコツといい音をたてる靴に、酒場の数人が振り向く。顔がやや赤くなっているが、悪酔いというほどではないといったところか。そして、彼らの顔が明るくなった。
 「別嬪さんじゃねえか。どっから来た?」
 その中のひとりがエレオノーラに声をかける。エレオノーラはにこりと微笑むだけで返事をしない。そして彼女は真っ直ぐに、店の中央へ向かう。その頃には客のほとんどが彼女に気づいていた。
 店の中央に立つと、彼女は周囲を見渡した。一通り見渡し終わると、彼女は背筋に力を入れ息を吸った。
 エレオノーラは歌った。
 
 
 ――日が昇り  土と共に働き――月が昇り  友と語らう
 ――鳥のように翼があればと  思うこともあるさ
 ――だけれど ここは われらの故郷
 
 
 古い農耕歌だった。一瞬だけ酒場が静まり返る。グラスやジョッキを持っていた手が一瞬静止する。
 澄んだ声でエレオノーラは続きを歌う。
 
 
 ――父祖が眠り  子が育つ――朝を伴侶とともに迎える喜びを  知ったのはこの故郷
 ――地を踏みしめ  遊ぶことを  われらの子もここで覚えるだろう
 ――ここは われらの無二の故郷
 
 
 人を感心させるような歌声だった。空気が静まり、神聖になるような声。エレオノーラは酒場を見回した。そして、再び歌う。
 
 
 ――日が昇り  土と共に働き――月が昇り  友と語らう
 ――鳥のように翼があればと  思うこともあるさ
 ――だけれど ここは われらの故郷
 
 
 すると、ジョッキを片手に持った中年の男がエレオノーラの声を追って歌い始めた。
 美しいとは言いがたい農民の太い声だったが、力強く土の匂いがするような農耕歌に相応しい声だった。そして、つられる様に老若男女の声が続いていく。
 エレオノーラだけではどこかしみじみとした歌だったものが、酒場の中で歌声が重なるにつれ力強く、心地良いものとなっていく。
 
 
 ――地を踏みしめ  遊ぶことを  われらの子もここで覚えるだろう!――ここは われらの無二の故郷!!
 
 
 肩を組み、酒を零す。酒場の空気は一体になろうとしていた。
 
 「姉ちゃん、歌うまいな!もう一曲頼むよ!」農耕歌が終わる頃、誰かが言った。酒場は陽気な騒がしさに包まれている。その騒がしさのほぼ中央にいるのはエレオノーラだった。
 「何がいいかしら?」
 エレオノーラは小首をかしげて聴衆に聞いた。すると、どこからか女の声がした。
 「恋の歌がいい!」
 間髪いれずにエレオノーラはそちらを向いて答える。
 「失恋モノかしら……それとも」
 「人のフコウは蜜の味だぜ!」
 近くで男が言った。エレオノーラはその言葉にオドロイタ様子を見せてから、背筋を伸ばす。
 
 
 ――もしも鳥だったら  貴方のいるこの土地を離れ  私は幸せを探せるのに――いいかしらお嬢さん  男は嘘つきなのよ  あなたを手に入れたらきっと
 ――コイビトは目移りさせるわ
 
 
 明るい曲調で、男には耳の痛い歌詞の歌だった。女たちはやんやとはやし立てる。
 
  
 
 いつの間にか、エンキは階段を下り酒場の床の上に立っていた。そして感心したように目を見開き、彼女を見つめる。
 一曲歌い終わると、財布の紐が緩んだ者たちから彼女へコインが投げられた。エレオノーラはそれを受け取ると一礼する。そこへ、再びリクエスト――。
 ――なるほど、こうやって稼いでいたのか。
 エンキは納得して階段の手摺にもたれかかった。
 そこへ、ジョッキを持った若者がすすす、と近づいてきた。
 「アンタの連れだってな。イイ女だなぁ、別嬪だし」
 「有り難う」
 エンキがそっけなく答えると若者は満足したらしく、手近な席に言って仲間らしき者たちと話し始めた。
 エンキは複雑な思いで彼女を見つめていた。
 ――俺はどうやって稼げばいいんだ?
 彼女は「貸す」と言った。つまり貸されたものは返さなければならないのだ。
 ――……何か力仕事でも探すか。
 エンキはふう、とため息をついた。それしかできそうにない。思わず自分の手を見つめる。
 ごつごつしている手だった。記憶をなくす前、やはり剣を扱う仕事をしていたとしか思えない手だった。皮はひどく厚く、指は節くれだっている。
 「おや、お兄さんお腹でもすいたのかい?」
 「え?」
 物思いに沈んでいたエンキを喧騒に引きずり戻したのは、恰幅のいい女将の声だった。空のジョッキを両手にいっぱい持っている。
 「……そういえば、ちょっと」
 エンキは遠慮がちに言った。すると女将は嬉しそうに言った。
 「そうかいそうかい!じゃあ食べなきゃね!用意するからそこら辺に座ってな。あ、食事代は宿代に入ってるから安心しな!」
 言い終えると、女将は思い切りよくエンキの背中を叩いた。
 「っつ!」
 彼の背中には傷があった。エレオノーラか治療したとはいえ、完璧に治ったのではない。
 エンキはなんとか踏ん張ろうとしたが、よろけてしまった。手摺にすがりつく様な形になる。酒場の空気が、すこし静まった。
 「エンキ……」
 コツコツと靴音をさせて歩み寄ってきたのはエレオノーラだった。歌うのをやめてしまったのだ。
 客が注目していた。
 エレオノーラは屈んで彼の顔を覗き込む。
 「――大丈夫じゃないみたいね」
 額には汗が浮かんでいた。歯を食いしばっているのがエレオノーラにも解った。
 エレオノーラは傍らに呆然と突っ立っている女将に目を向けた。
 「背中に怪我を負ってるの――」
 「ああ、そうだったのかい。じゃあ、悪いことしたねぇ……」
 「ここは私に任せて、仕事に戻ってください」
 エレオノーラがそういうと女将はしばらく戸惑っていたがくるりと広い背中を見せてカウンターの奥に入っていった。
 エレオノーラは耐えるために中腰状態になっているエンキを階段に座らせた。
 「ひどく痛む?」
 「――しばらく大人しくしてれば収まるさ……」
 言ったエンキにエレオノーラは苦笑する。
 「やせ我慢するのね。背中の傷が開いたのかもしれないわ」
 「部屋に、もどる」
 せっかく座ったのに、エンキはぐいと立ち上がってしまった。彼が不意にそうしたので、支えるようにしてしゃがんでいたエレオノーラは押されてバランスを崩した。
 後へ転びそうになった彼女の腕を、エンキは手摺につかまっていない方の手で掴んで引き上げる。
 危ういところで彼女は立ち上がった。
 「あ、ありがとう」
 礼の言葉にもエンキは答えなかった。痛みに顔をしかめている。そして無言のまま階段に向き直り、登っていく。エレオノーラは慌てて彼を支える。そして、肩越しに振り返って言う。
 「ごめんなさい、ちょっとお暇するわ」
 客たちはかくかくと頷くだけだった。
 
 
 
 結局エンキはほとんど自力でベッドまで辿り着き、うつ伏せになった。「痛む?」
 「背中に心臓があるみたいだ……」
 「ちょっと失礼」
 エレオノーラは起用に男のマントを取ると、避けた生地の間をそっと広げて傷を診た。
 「――やっぱり」
 傷からはじわりじわりと血が染み出していた。エンキは枕に顔をこすり付けるようにしている。
 「すぐに良くなるわ」
 エレオノーラは左手の中指にはめた指輪を見た。穏やかな青い宝石がそこにはある。宝石が下になるように、手の甲を傷に向ける。
 青い宝石が静かに発光した。
 すると傷はみるみるうちに塞がっていく。もちろん、塞がるだけで傷が消えることはない。
 エンキの顔が穏やかになっていく。
 「……どうかしら」
 「大分よくなったよ……ありがとう」
 エレオノーラが傷に宝石をかざすのをやめると、エンキは横になったまま彼女に顔を向けた。
 「昨日もソレで助けてくれたのか」
 指輪のことだった。エレオノーラは頷いた。
 「魔法具か?」
 「――似てるけど、ちょっと違うわ」
 「違う?」
 「呪具っていうの」
 「ジュグ?」
 エンキは不思議そうに聞いたが、質問はしなかった。ただ、こう言う。
 「ソレ、完璧じゃないな」
 「え?」
 「中途半端なものだって言う意味じゃなくて、……何かと対になってるんじゃないか?そんな気配がする」
 その言葉に、エレオノーラは目を見開いた。
 「……よく解ったわね」
 「勘だよ」
 「勘でも、すごいわ。あなたすごく強いのね。――そうよ、コレには対がいるの。この刀よ」
 エレオノーラは自分の腰に刺している刀を示した。そこでエンキは気づいた。
 「……外してなかったのか」
 「寝るとき以外は外さないようにしているの」
 エンキは昼間の戦闘で、刀から発せられた不気味な空気を思い出す。そして、この指輪の癒しの力。
 「――なるほど。つまり、その指輪が陽の力を持っていて、刀が陰というわけか。そしてその両方を持っている君は、そのバランスを上手くとってその刀と指輪の力を利用してるんだな」
 「そんなところね」
 それから、ふと気づいたようにエレオノーラは言った。
 「陽と陰なんて、珍しいたとえをするのね。東方の例えだわ。リュオンやローランドでは正と負って言うから」
 「……?」
 エンキは何のことだかわからない、と言う顔をした。
 「まぁ、いいわ。――私、酒場に戻ってもうひと稼ぎしてきていいかしら?」
 「ああ、どうぞ。――ありがとう」
 
 
 
 
 エンキは酒場の喧騒を遠くに聞きながら、眠った。もちろんうつ伏せのままだ。どのくらい眠っただろうか。酒場から騒がしさが消え、エレオノーラの抑えた声が耳朶を打った。
 「エンキ、起きられる?」
 エンキはそっと目を開けた。五感がのろのろと起きだす。最初に覚醒したのは嗅覚だった。
 「いい匂いがする」
 「ムギのお粥よ。なんだか味のついたお肉と青菜が混ぜてあるみたい」
 エンキは腕をついて上体を起こした。すると、エレオノーラは自分のベッドの上に深皿の乗ったトレイを置いて彼を手伝った。枕をたてて、ベッドヘッドに寄りかかっても背中の傷に響かないようにした。
 そして、エンキの膝の上にトレイを置く。深皿は二つあった。
 「これは私の」
 同じ粥だった。深皿とスプーンを取り上げると、エレオノーラは自分のベッドに腰掛けた。
 「――何かもっと別なものを食べてくればいいのに。酒場だからいろいろあるだろう?」
 「生憎、油っぽいものはだめでね。コレが唯一まともそうだったから。他は油っぽいかおつまみばかりだったの」
 そういうと、エレオノーラはスプーンで粥を掬う。遅れてエンキもスプーンを入れ、二人は同時に口に粥を運んだ。
 粥自体にあまり味はなかったが、肉になにやらほんのりとした塩味のようなものが効いていてそれが粥に旨味を与えている。軟らかいばかりの肉と粥に青菜の歯ごたえが嬉しい。
 「美味い」
 「うん」
 エレオノーラは言葉少なにスプーンを再び粥の中に入れ、掬った。
 「……ムギの粥って珍しいな」
 「そう?ムギの実を潰したりしないで、そのまま炊くのよ。すごく簡単よ。リュオンでもローランドでも一般的だと思うわ」
 「――そうなのか」
 エンキが珍しそうに深皿を見つめている間に、エレオノーラのスプーンは進んでいた。
 エンキは食が進まないのか、エレオノーラに言った。
 「稼げたのか?」
 言うと、彼女はベルトに下げた麻袋を取り上げた。そして、振ってみせる。麻袋は手のひらほどの大きさだが、ずっしりとしている。そのため、振ってもあまり音はしない。
 「ええ、なんとかね」
 「一芸があるっていうのはすごいな」
 「あなたにも何かあるかもよ?」
 エンキは肩をすくめて、粥を掬った。
 そんなエンキを見ながら、エレオノーラは麻袋を再びベルトに付け言った。
 「近くに仕立て屋さんがあるって聞いたから、明日行きましょう」
 「……迷惑かける。ありがとう」
 「どういたしまして」
 
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