| 翌朝、やっとあたりが白み始めたころに目を覚ましたのはエンキだった。――気配が、する。
 ゆっくりと起き上がる。そして部屋を見渡す。特に変わったところはない。ドアのすぐ隣にある鏡台の上には昨日の深皿とトレイが置いてある。エレオノーラはベッドの上に刀を置き、まるでぬいぐるみのようにそれを握り締めている。指輪もしているし、金の入った麻袋もしっかりと持っているようだ。
 すぅすぅと寝息を立てる彼女の顔は意外に幼い。その顔を見てため息をつくとエンキはベッドから降りた。背中の痛みは大分治まっている。
 気配はドアのすぐ向こうでしていた。
 ――二人、いや三人か。
 足音を立てずにエンキはドアに歩み寄った。敵意はない。だが、居心地のいいものではない。聞き耳を立てているのだ。
 そっと彼はドアノブに手を伸ばした。ドアは内側に開くものだった。寄りかかっている気配がする。エンキはふーっと息を吐き出すと、一気にドアノブを回した。
 途端、三人の若者が部屋の中に転がり込んできた。
 「ぎゃっ」
 「わっ」
 「おわっ」
 その悲鳴に、エレオノーラがぱちっと目を開けた。
 エンキはドアノブを握ったまま、三人の若者を見下ろした。
 「何か用か?」
 三人はそうっとエンキを見上げた。
 エレオノーラがもそもそと動いた。
 「……エンキ?」
 寝起き特有の気だるげなハスキーボイスに、若者たちはつられる様にそちらを見た。エンキは少々むっとする。
 彼女がくるりとこちらを向く。そして、きょとんとした顔になる。
 「あなたたち、だれ?」
 寝起きにしては的を射た質問だった。
 「「「お、おれたち怪しいもんじゃないっす!!!」」」
 「――いや人の部屋の前で聞き耳立ててたら十分怪しいぞ」
 エレオノーラもそう思ったのか、ベッドの上で器用に後ずさりした。
 そこへ、どどど、という足音が聞こえた。
 「あんたたちッ」
 見ると、寝巻き姿の女将が駆けて来ていた。エンキはその姿に少々面食らう。
 「なにやってんだいまた!!うちの信用が落ちるだろう!!」
 そう言って、部屋にどかどかと入り込み、三人をむんずとつかまえた。
 「「「うわっ」」」
 「すいませんねぇ、お客さん。何せ盛りなオトコなもんでねぇ。綺麗な女の人の夢寐の声を聞きたがるんですよ。女の人が泊まると毎度のことで」
 おほほ、と女将は笑ったがエンキはぎょっとした。
 「夢寐って……」
 そして、ギロリと三人を睨む。若者たちはその眼光にすくみあがった。そしてすくみ上がったまま、女将に引きずられていった。
 「ごめんなさいねぇどうぞ寝なおしてください。おほほほほ」
 「――……」
 エンキは力なく、ぱたん、とドアを閉めた。そして、盛大にため息をついた。よろよろと自分のベッドに戻るとエレオノーラが確認するように聞いてきた。
 「夢寐の声って寝言のことよね?」
 「――知らん」
 十分に含みのある「知らん」、だった。
 
 
 
 
 日が昇りきるまで二人はそれぞれのベッドの中にいた。昨日ここまで歩き続けたときのように会話は少ない。
 「背中、もういい?」
 「ああ、かなり」
 そう言ってエンキは仰向けになって見せた。
 「まだ違和感はあるが……」
 「そう、よかった」
 エレオノーラは手に刀を握り締めたまま、丸くなった。体をエンキの方に向けて。
 「さっき」
 口を開いたのは今度はエンキだった。天井を見つめたまま言う。
 「女将に食器を持っていってもらえばよかったな」
 エレオノーラは鏡台の上に載せたままの深皿を思い出した。
 「――そういえばそうね」
 そして、カーテンの向こうから強い光が射してくるまで二人は軽く目を瞑っていた。
 
 
 
 
 朝食は酒場に下りてとった。女将が少々申し訳なさそうにたたずんでいた。他に客はない。ここの主人は無口な性質らしく、黙々と料理道具を動かすだけだった。
 なので、二人も黙々と料理を口に運んだ。
 
 
 食事を終え、外に出ると小さな目抜き通りにもぽつぽつと人が来ていた。店は空き始めた時間らしい。退屈そうな小さな子どもをつれた母親が、雑貨屋に入っていく。農具屋からは、種と修理したてらしい鎌を持った男が出て行った。
 エレオノーラが先立って酒場のポーチを下りる。エンキは入ったときと同じようにまた辺りを見回した。
 エレオノーラは立ち止まり、エンキを振り返った。
 「それ、癖なのかしらね?」
 「え?」
 「辺りを用心深く見るの」
 エンキはまたも肩をすくめるだけだった。
 エレオノーラは苦笑する。
 「まぁ、いいわ。さて、仕立て屋に行きましょうか」
 エンキは頷くだけだった。
 仕立て屋の場所は、女将に聞いていたのですぐにわかった。
 落ち着いた色をした木で建てられた店だった。入ると、既成のものらしい服が掛けられたハンガー掛けが二台並んでいた。奥には二つの更衣室とカウンター。カウンターの奥は店の者の控え室と繋がっているのかカーテンが引いてあった。
 カラン、とドアのカウベルが鳴った。
 それに反応するように、ひょいとカーテンが動いた。
 「いらっしゃい」
 気の良さそうな老紳士だった。この店の主人らしい。
 「この人の服を作って欲しいのだけど……」
 エレオノーラはそっとエンキを押しやった。エンキは少々もつれるように前へ出た。
 「はいはい、男性ものですね」
 「夜盗に襲われてね。死にはしなかったんだけど、怪我をしてしまって」
 エレオノーラのでっちあげに、エンキは内心で苦笑した。
 「それは災難でしたなぁ。お嬢さんは?」
 「大丈夫だったの。守ってくれたから」
 そう言ってエレオノーラは上目遣いにエンキを見た。エンキは彼女のほうの眉をあげてみせた。彼女は涼しい顔をしている。
 店主は「そうですか、それはよかった」と言いながらメジャー片手に歩み寄ってくる。
 それを見て、エンキはマントを外した。
 「おやおや、背中がすっかり……。腕を上げてくださいな」
 言われた通りにしたエンキの胸囲やらを店主は測っていく。エレオノーラは手持ち無沙汰になって、店内を見回し始めた。棚の一つに歩み寄って、セーターを手に取った。ざっくりと編み上げてあるが、十分に暖かそうである。
 エンキと店主に背を向けたときであった。
 「――ところでコレ、直せませんかね」
 エンキの尋ねる声が耳朶を打った。店主は愛想良く答える。
 「ちょっと脱いで見せてもらえますかね。それならわかる。ああ、これをどうぞ」
 店主は手近に合ったシャツを手に取り、エンキに渡した。他に客もいなかったのでエンキはその場でさっと今着ている物を脱いだ。
 ひゅっと店主が息を吸う音をエレオノーラは背中で聞いた。
 「ああ、こりゃあお客さん……」
 「……?」
 不審に思って、エレオノーラは振り返った。
 「――」
 そして彼女も息を呑んだ。目に入ったのはエンキの半裸である。残念ながら彼女は異性の半裸を見て顔を赤らめる歳ではなかった。
 背中に傷があるのは、治療したから知っている。彼女が驚いたのは、それ以外にも傷があったせいだ。
 しかも、無数に、上半身を覆うように。
 肉がそげたような傷跡もあった。傷が完治して肉が盛り上がっているものもある。けれどそれは、首から上には一つもない。首から下に、無数の線状の傷跡があったのだ。
 二人に見つめられて居心地が悪くなったのかエンキはさっと上着を着て、襟を立てた。
 「……ずいぶんな死線を潜り抜けてきたんでしょうね」
 店主がやっと出したのは、その一言だった。その声からは商売っ気が失われていた。
 「――」
 エンキもエレオノーラも答えない。ちらり、とエンキに横目で見られたエレオノーラはとっさに嘘を重ねた。
 「そう、なの。彼の父は厳しくて、子どもの頃から鞭を振るっていたわ。顔に傷つけないようにはしていた、けれど。」
 エンキはエレオノーラから視線を外した。
 「で、それ直りそうですか?」
 「え、あああ、うーん」
 店主は手渡された上着を見やった。
 「……血が染み込んでますし、新しいものを買ったほうがいいでしょうなぁ」
 「そうですか」
 エンキはいささか残念そうに言った。そこへ、エレオノーラが割り込む。
 「それなら、この人にマントとローブ、それから上着とシャツを作ってくださいな」
 その言葉に、店主は商売魂を取りもどしたようだった。
 「はい、それならいい生地がありますよ」
 
 
 
 
 上着とシャツは既製品にした。マントとローブは夫婦で手分けして作って三日でできるという。仕事の速い仕立て屋と言えるかもしれない。にこやかに店を出たエレオノーラは突然無表情になった。エンキはそんな彼女をいぶかしみながら少し遅れて付いていく。
 酒場に戻ると彼女は真っ直ぐに部屋に向かった。
 そしてドアに背を向けて立ち止まる。
 エンキは静かにドアを閉めると、慎重に初めて彼女の名前を呼んだ。
 「――エレオノーラ?」
 すると、くるりと彼女は勢いよくこちらを向いた。少し怒っているのか、なんだか怖い。
 「ちょっと脱いでくれる?」
 「?!」
 エンキはぎょっとして半歩下がった。それを見て、エレオノーラは表情を緩めた。
 「取って食べたりしないわ。さっきの……傷をみたいの」
 「ああ、なんだ」
 そう言って、エンキは店主が行為でくれたシャツのボタンに手をかけた。その間に彼女が傍らにやってくる。服を脱ぐと、そこには無数の傷がある。
 「――触ってもいい?」
 「?どうぞ」
 エンキは不思議そうな顔をして答えた。エレオノーラは左手を伸ばして、中指で腕の傷に触れた。
 胸、背中、二の腕、腰……どうやら傷はズボンの下にも続いているらしい。不思議なことに、腕や手、顔など外に出る部分には傷はなかった。
 そして、その傷は刺されたり打たれたりしたようなものではなかった。みんな細く長い。そのうえ、肉が爆ぜたような傷もある……。
 「とっさに鞭って言ったけれど、はずれじゃなかったみたいね……。ほとんど鞭傷だわ」
 「そうなのか」
 「でもできたのは、子どものときなんかじゃないでしょうね。五年とか、そんな感じの傷だわ……。――エンキ、あなたなんとも思わないの?」
 エレオノーラは傷から目を離して、エンキを見上げた。
 「なんともって?」
 「どうしてこんな傷があるんだろう、とか」
 すると、エンキは眉を寄せた。彼には記憶がない。だから、この傷をいぶかしんでもいいのだ。けれど彼はさも当然というように平然としている。
 「――当たり前な、気がする。コレはあって当然だと思う」
 「――」
 エレオノーラは困惑してエンキを見つめた。
 「あなた、やっぱりヘンな人だわ。昨日は冷静って言ったけれど……。」
 「……」
 「――でもこの傷が、何かの手がかりになるかもしれないわね」
 エレオノーラは胸の傷の一つを撫でた。くすぐったかったのか、エンキがひくっと動いた。
 「も、もう服着ていいか??」
 「ええ、どうぞ?」
 その慌てようを見て、エレオノーラはエンキの弱点を知った。
 
 
 
 また日が暮れる時間になって、エレオノーラは言った。「さて、お金使っちゃったし今日も稼がないと」
 その言葉にエンキは遠慮がちに言った。
 「……俺にも何かできないだろうか」
 「――そうね、あと三日もいるんだし、暇よね。……酒場で聞いてみたらどうかしら。生憎、私もここの職種は知らないし」
 「そうするよ」
 エンキは短く答えた。
 
 
 
 
 酒場にエレオノーラの歌声が響く。エンキは隅でそれを聞きながらサラダをつついていた。
 そこへ、男が三人素焼きのコップを持ってやってきた。どこかで見た顔である。
 「――今朝の」
 気づいてエンキはギロリと男たちを睨んだ。彼らは一瞬たじろいだが、そそくさとエンキの周りに腰掛ける。
 「何か用か」
 容赦のない、霜のおりたような声だった。三人はぎくりとしたが、リーダーらしい男が口を開く。
 「け、今朝はすみませんでした」
 続けてもう一人。
 「ちょ、ちょっと好奇心って言うか」
 最後の一人。
 「あんまりにも別嬪さんで、男連れだったもんで……」
 「ここは嫁の来てがないのか、え?」
 敵ではないただの阿呆だ、と判断してエンキは呆れたように言った。
 三人は頭を振る。
 「そういうわけじゃないっすけど、だって別嬪さんじゃないですか……」
 そしてうっとりとした目でエレオノーラを見る。そこでエンキは、リーダーらしい男が昨日話しかけてきた男だと気づいた。
 たしかに、エレオノーラは美人だった。佳人、といったほうがしっくりくるような気がするが、単なる表現の問題だろう。
 豊かな髪は、肩甲骨のあたりまで伸びている。ややくすんだ黒で穏やかに波打つ髪は、白い顔を綺麗に飾っている。静かな雰囲気を湛えたそのたたずまいに、確かに男は見とれるだろう。
 「珍しいなぁ、紫の瞳なんて。普通は茶色とかなのに。綺麗だなぁ、似合ってる」
 陶酔した男其の二が言った。エンキはサラダの青菜を口に運びながら、よく観察してるなと思った。
 「珍しいといえば、あんたもだ。東のほうの出身だろ?」
 「え?」
 唐突に、三人目の男がエンキに話題を振った。エンキはサラダから視線を外す。
 「ひがし?」
 「ああ、リュオンの東の端っこのほう。だってあんたここいらの人間にしちゃちょっと肌の色が濃いしな。髪の色も艶もここら辺の奴らとは違う。瞳だってここら辺じゃ黒なんてあんまり見かけないしな」
 「……」
 どうも、この三番目の男他の二人よりいささか冷静なようだ。
 エンキは自分の手を見つめた。たしかに、色が濃い。エレオノーラだけでなく、この三人の男たちもエンキに比べれば大分色素が薄い。酒場の人たち皆がそうであった。
 髪も違う。エンキの髪は本当の黒だ。酒場にも黒髪はいたが、エンキのものに比べればみんな茶色がかっている。そのほかの人は、茶色や金の髪をしていた。もちろん白髪もいる。瞳も同じことだった。
 「もしかして、あんたら"東ノ国"から来たんじゃないか?落ち延びてきたのか?」
 「とうのくに?」
 落ち延びる、という言葉にエンキは首をかしげた。
 「なんだ、違うのか。"東ノ国"ってのは十年位前まで、リュオンの東にあった国だ。
 馬とともに暮らす流浪の民で、あんたみたいにみんな黒い髪と瞳を持ってるって聞いたでね。肌もここいらよりも濃い色してるっていうし。」
 ちくり、とこめかみの辺りが痛んだ。エンキは無意識にそこを揉みほぐした。酒場にはエレオノーラの歌声と客の歌声が響いている。五月蝿いわけではない。
 「そういえばその国では男も女も皆髪を伸ばしてるってきいたしな。あんたは短い、っていうかフツーだしな。違うよな、うんうん」
 こめかみがちくちくする。男はそんなエンキの様子に気づかず勝手に納得していた。
 「あ、でもリュオンにヤられちゃったときに皆髪切られちゃったんだかなぁ。質のいい髪だったから、いいカツラになったとかで……」
 エンキの脳天を、殴られたような痛みがおそった。左手に持っていたフォークを取り落とす。カチャーン、と床にぶつかって音をたてた。
 「お、おいあんた大丈夫か?」
 昨日のような騒ぎにはならなかったが、男は十分にあわてていた。
 エンキは頭を抱えてうずくまっていた。
 「あんた、昨日から具合わるいんだったよねな。ごめんな、話しかけて。大丈夫か?」
 どく、どく、どく。頭の中で血液が飛び跳ねているのがわかる。
 ――なんなんだ!
 エンキは心の中で叫んでいた。
 「い、いや、大丈夫だ。心配しないでくれ……。……すまん、失礼する」
 エンキはよろよろと立ち上がり、壁に肩を支えさせて階段へ向かった。男が心配そうに立ち上がったが、追ってはこない。エンキは大儀そうに階段に足を掛けた。今日は酒場は気づかない。
 エンキは部屋に戻ると、ベッドに体を押し込んだ。頭を枕に押し付ける。
 どくどくどく。ずきずきする痛みだった。
 ――なに、か。
 出てこようとしている。頭の中で暴れている。それは重要なものだ。
 でも、
 ――く、るな。
 エンキは無意識に苦鳴をあげていた。
 ――じゆうに、させて、くれ。
 何に向けての言葉だったのか、それは彼さえも知らなかった。
 
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