| 時間を戻し、エレオノーラの一日に視点を移そう。 
 彼女を目覚めさせたのは、エルファマナーラのノックの音だった。「エレ?」
 エレオノーラは目を擦りながら体を起こす。
 「はい」
 「入るわ」
 そうして、ドアがすっと開きエルファマナーラが入ってきた。その動きで銀の髪がさらさと音をたてているように見える。
 「おはよう。朝もずいぶん早くて申し訳ないけれど、長老は今日の午前中はお暇なの。
 もう起床なさってるでしょうから、行きましょう。もちろん朝食を食べた後だけどね」
 その言葉に、エレオノーラは頷くだけで答えた。
 
 
 
 一階に下りると、ギィグランダが朝食を全て用意していた。用意されていたのは三人分だ。エレオノーラは思わず訊く。
 「エンキは……」
 「日が昇ったばかりで霧も晴れぬ時間です。彼には、後で別に食事を取ってもらいます」
 そうギィグランダは答える。つまりエンキはまだ眠っているのだ。
 いつもならエンキの目覚めのほうがエレオノーラより早い。その彼が目覚めぬ時間なのだ。
 窓から外を見れば、まだ周囲はかなり薄暗い。その暗闇に靄がかかっている。外は冷えているのだろう。
 席につくと、まずエレオノーラはミルクを口にした。そしてパンをちぎり、口に入れそしてまたミルクを含む。
 「ちゃんと噛んで食べなさい」
 背筋が真っ直ぐになるような声がエルファマナーラの口から零れた。エレオノーラは顎を少し大きく動かした後、パンを飲み下す。
 「……教育行政官は厳しいわね」
 そう言うと、エルファマナーラは肩をすくめた。
 「つい、癖でね」
 食事を終えると、ギィグランダがキセルを出した。そして火皿に粉のような物を入れ火をつける。次に吸い口を口を持っていくと、火皿の粉が赤々とした色になり、甘い香りが漂い始める。その香りを吸い込んで、ギィグランダは恍惚とした顔になった。
 一見、人間のものと変わらないような嗜好品である。だが、火と煙の元である粉は人間にとっては猛毒である。
 香りを嗅ぐくらいではなんともないが、口に含んで肺に入れれば血管に毒が進入し苦しんで死ぬ。
 だが宝妖にとってはすばらしい嗜好品である。真面目だが酒とキセルは存分にやるギィグランダにとって食事の後の一服は大事な物である。だから食器の片づけやらはエルファマナーラが自然とやることになる。食事を作るのは主にギィグランダだから、上手く分担ができている二人であった。
 「それ、おいしそうね」
 ギィグランダの皿を片付けるために手を伸ばしたエルファマナーラが言った。ギィグランダはそれにキセルの吸い口を向けることで答える。
 エルファマナーラはそれを素直に受け、吸い口に口を寄せる。そして、ひとしきり吸い終わると、ふーっと煙を吐いた。やや桃色がかったような煙だった。
 「美味しい?」
 エレオノーラが聞くと、エルファマナーラは首をかしげながら言った。
 「一口でいいわね」
 その言葉にギィグランダはキセルを噛みながら苦笑した。嗜好品だから、あまりそれを好かない宝妖もいるのだ。
 エルファマナーラが残りの食器を流しに移動させたところで、ギィグランダは立ち上がった。
 「今日は僕がやっておきますから、そろそろ長老のところに向かった方がいいんじゃないかな。
 午後は元老会だし、準備もあるでしょうから」
 「それもそうねぇ。じゃあ、お任せしようかしら」
 「はい、了解です。気をつけて」
 ギィグランダは煙を吐き出しながら言った。
 
 
 
 外は寒そうなので、エレオノーラはマントを取りに部屋に戻った。穴が空いていないマントを取り出し、刀を帯刀し指輪をはめる。部屋においてある鏡と数秒にらめっこし、手櫛で髪を整える。――ギィにあとでマントの話、したほうがいいわね。
 壁の衣装掛けに掛けてあった穴の開いたマントをたたみながら、エレオノーラはちょっと眉を寄せた。街についてからその話題は出ていない。かなりの確率でギィグランダは忘れているのだろう。
 そう考えた後、自分の姿を見下ろす。ブーツについていた泥を払い、もう一度姿を確認してから部屋を出る。
 そして階段を下りかけたところでふと思い直し、エンキの部屋のドアをそっと開けた。
 中を見るとベッドが少々小さいのか、彼は丸くした体をこちらに向けて眠っていた。
 だが顔はずいぶんと安らかだ。それに何故か満足してから、エレオノーラはそっとドアを閉めた。
 階段の下では、同じくマントを着たエルファマナーラが待っていた。
 
 
 
 日差しが霧を消し始める時間になっていた。長老の家は同じ第三層の中央にある。エルファマナーラとギィグランダの官舎は東に行ったところにあるので、少し歩くことになる。
 宝妖の街は複数の白生樹の枝が絡み合うところにできている。もちろん離れた枝の間に桟橋を渡したり、枝と枝の間に板を渡して家を建てている場所もある。
 長老の家は<一ノ都>一番の巨木の枝の生え際に建ててあり、周囲の木から五つの桟橋が伸びている。また、一本の枝の上だけでは足りないので少し細い枝との間に床板を渡している部分もある典型的な宝妖の建物だった。
 宝妖の最高位に位置する人物の家であるから、三階建てで広く大きいがいつも静けさに包まれている。
 エレオノーラとエルファマナーラは五つあるうちのひとつの桟橋の上を通り、長老の家へと向かう。大きなその家を見つめながら、エレオノーラは言った。
 「……いつもとなんだか雰囲気が違うわね」
 「……そう?」
 「ええ、静かだけれど何か、殺気だっているような……」
 「……」
 その言葉にエルファマナーラは足を止め、長老の家を見上げる。
 「……元老会が開かれるから長たちが集まっているしね。今日は狩人対策の議題が出されるから多分そのせいでしょう」
 「……狩人、そんなに出るの?」
 「ええ。今月だけで五つの都合わせて二桁は狩られているわね。
 ……私たちは人間と違って大勢いるわけではないから、それは大変な数なのよ」
 長く生きる分、人間に比べて宝妖の個体数は少ない。
 エルファマナーラは少し俯く。
 「最近、生まれる子どもの数も減っているの。……私たちの歴史は夕暮れ時になっているのかもしれないわね」
 そう言いながら、語調に苦い笑いを混ぜる。エレオノーラは戸惑った。
 「そんなこと……」
 「はじまりのあるものは、いつかおわるのよ。さて、ここで考えていたって仕方ないから、行きましょう」
 深刻を装わないような口調で言いながら、エルファマナーラは再び歩き出す。
 エレオノーラは少し遅れてそれについて行った。
 
 
 長老の家には、警護の者はいない。元老会という大事な会議があるとなれば、そういうものがいても良さそうだが宝妖はそんなものは考えもつかない。己たちの都に極悪人は居ない、というのが彼らの主張である。実際にそうなので――盗みを犯す者やケンカをする者も稀にいるが――やはり、彼らの思考は人間とはどこかが違うのだろう。
 警護の者はいないから、エルファマナーラは気軽に玄関を開けた。そこには使用人もいない。ただ広いエントランスが広がっているだけだった。
 階段とドアがいくつかある。エルファマナーラは迷わずに歩みを進め、左手の置くから三番目のドアをノックした。
 中から男性の声がして、どうぞと言った。
 エレオノーラは玄関のところで立ち止まっていた。エルファマナーラは彼女の手招きする。そして傍らに彼女がたどり着くと、失礼しますと言ってドアを開いた。
 そこは応接室だった。こちらを向いたソファに、一人の老人が腰掛けている。かつては黒だったとわかる灰色の髪をしており、キセルをふかしている。そして、老人はすっと顔を上げる。
 「やぁ、エル。それにエレオノーラ。久しぶりだね」
 老人は目の前のテーブルにキセルを置き、立ち上がる。
 エルファマナーラは深く頭を下げる。エレオノーラも会釈をして老人に歩み寄る。
 「お久しぶりです、ダルグレン長老」
 言うと、老人はしわしわの手を伸ばしてエレオノーラの手をとった。
 「大きくなったねぇ。目がオメガに似てきた。輪郭は母上だなぁ。耳は父上だ。
 そうだろう、エレオノーラ」
 そう言ってまるで孫に会った祖父のように微笑む。エレオノーラもつられて笑顔になる。
 老人は背が高い。背筋も真っ直ぐで、しっかりとしている。
 ふと見れば、老人の額の種宝は不思議な色を放っていた。一見、深い青に見えるそれはしかし、光を受けある所は貝殻の光沢のように、ある所は緑にそして赤く光を照り返していた。
 老人の種宝はまるでブラック・オパールだった。
 種宝は宝石に似ているとはいえほとんどは単色のものだ。ダルグレンと呼ばれた老人のように様々な色と光沢を持っている種宝は珍しかった。珍しいものは、生命力も強い。つまり、この老人は相当な魔力を持っているのである。そのために長老という大役を務めているという部分もある。
 だがダルグレンの態度は気安いもので、とてもあたたかい。
 エレオノーラはまるで本当の祖父に会ったかのように嬉しくなる。
 ダルグレンはエレオノーラの頭をひとつ撫でると、エルファマナーラに視線を移した。そして目を見開く。
 「おや、その手はどうしたんだね」
 「ちょっと子どもに噛まれまして」
 彼女の右手には包帯がまいてある。ダルグレンは彼女に歩み寄り、その手をとった。
 「おやまぁ、雑な巻き方だね。大方ギィグランダがやったんだろう」
 その言葉に二人は苦笑する。その笑いにダルグレンは重ねて訊ねる。
 「ギィグランダは元気かね」
 「ええ。私のフォローに忙しそうですけど」
 エルファマナーラがそう言うと、長老は笑った。
 「いやいや、逆だろう……、あいつは丁寧真面目だけが取り柄だからねぇ」
 そして包帯に包まれた手を優しくぽんぽんと叩く。それからまた、エレオノーラの方を振り返りソファに座るように促す。
 「エレオノーラ、今回は一人じゃなかったらしいね」
 長老はまず最初にそう切り出した。エレオノーラとエルファマナーラは並んで座っている。
 エレオノーラはちらりとエルファマナーラを見た。たぶん、彼女が伝えたのだろう。
 「ええ、確かにそうです」
 「背の高い、男の人だそうじゃないか。もしかして」
 そこで長老は年甲斐もなく身を乗り出してみせる。オパールの種宝がきらりと光る。
 「その彼にしたのかね」
 エレオノーラは眉をあげて見せた。
 「エルも同じことを言ったのですが、そうではありません」
 そう答えると、ダルグレンは残念そうに体を戻した。
 「違うのか。そうか、残念だ。しかしオメガが初めての子どもを得たのは35歳のときだし、それは人にしては遅いと聞く……」
 「"邪王の子孫"は確かに子どもを得ぬ限り死ねぬという一族ですが、いままでそういうものはいませんでしたし、私は子どもを得るのにいき遅れているわけではありません」
 苦笑を交えて、そうエレオノーラは答える。それにふむ、とダルグレンは答える。
 「"邪王の一族"か。面倒な一族だの。
 "遺産"を引き継ぐには邪王の血族でないといけないからなぁ。」
 エレオノーラは、特殊な一族の血を引くものだ。
 かつて大陸を統一した金獅子王の腹心、邪王を始祖に持つ一族。天地創造のとき大地母神と天空父神が使用したとされる道具のかけらである"呪具"と、邪王が保持していた"知識"を"遺産"として引き継ぐ、同時代に一人以上存在せぬ縦に連なる妙なる一族。
 彼らは、その特殊な"遺産"のために子を残さねばならない。"遺産"を引き継ぐことができるのは、始祖の邪王の血を引くものだけだからだ。
 だから今ダルグレンに問われたエレオノーラのように、"邪王の子どもたち"は子どもを成せるようになると周囲からこのような話が持ち上がるのだ。仕方のないことといえる。
 「……それにしてもたいした美丈夫と聞いたが。いいんではないかのぅ、その辺りで」
 ことさら他人事が楽しくて仕方ないと言う口調で宝妖の長老は言う。
 「その辺りで、ってどの辺りですか……」
 エレオノーラはややがっくりと脱力しながら言った。エルファマナーラはくすくす笑っている。
 「だいたい、お主ら"邪王の一族"は選り好みがすぎる。しかも世間一般とは逆方向に。
 オメガは"安産型の農家のたくましい娘"が良いと言うし、お前の祖父は"素朴で凡庸で気のつく子"、お前さんの父上もどちらかと言うと……いやなんでもない。
 まぁ、オメガだけは思い通りにいかなんだったが。ポーラ姫の外見は農家の娘とは真逆だったからのぅ、まぁ気立てはまあまあだったが」
 それに、お前さんの容姿の素晴らしさはポーラ姫に頼るところも多いだろう、見えるところは近親者のモノだが……ブツブツとダルグレンは言う。
 「まるで"邪王の一族"の伴侶は美しいのが第一条件だと言わんばかりですね」
 苦笑しながら言うと、ダルグレンはぐっと胸を突き出した。
 「美しいにこしたことはない!なにせお主らはこの惑星の偉大な一族なのだ。その一族が醜男・醜女だったら世間の者の落胆は計り知れぬぞ」
 「たしかに」
 同意したのはエルファマナーラだった。エレオノーラはため息をつく。
 「人の美醜の感覚の移り変わりは早いものです。私だって太いことが良しとされた時代に生まれれば、醜女ですよ」
 そして言い足す。
 「それにエンキは今流行の美男子とは程遠いですよ。たしかに整ってはいますが」
 「はて、それはなんじゃろな」
 興味津々と言った体でダルグレンは身を乗り出す。
 「髪と目の色素は薄く――そうですね、金髪とか碧眼が喜ばれる世の中です。
 そして体は鍛えすぎず、ほっそりとしていた方がいいのです。肌も白く、かといって少女のようではなく、けれど顔立ちはやわらかく、と言ったところでしょうか」
 「軟弱なことだ!」
 宝妖の長老は嘆かわしそうな声を出した。
 「そのような容姿を持つ者には軟弱な者が多いぞ。なんだ、エレオノーラもそのような者がいいのか?」
 「いえ、そういうわけでは」
 はっきり言って流行りの容姿は好みではないエレオノーラだった。
 「……エンキはそのような容姿とは真逆……といっては言いすぎですが、肌は東の者のように色は濃いですし、髪も目も漆黒で、体はきっちりと鍛えてありました」
 「見たのか!」
 宝妖の長老は素っ頓狂な声を出した。エレオノーラはこめかみを撫でる。
 「着替えのときに一度だけ。ヘンなことはしておりません」
 「なんだ、つまらんのぅ」
 その言葉に傍らのエルファマナーラがぶっと吹き出した。
 エレオノーラはそれを横目でちらりと恨めしげに見やる。
 「……しかし常の世には決して変わらぬ本質的な美しさというものがあるのだ。」
 ダルグレンは不意に真面目な声を出した。
 「"邪王の一族"の伴侶はなにかしらそういうものを持っておるものだ。人間と異なる我らが見て美丈夫と言ったのだから、その彼もその要素は持っておるのだろう」
 「……」
 エレオノーラは思わず押し黙る。
 「……美丈夫という話はどこで?」
 切り出したのは、エルファマナーラだった。エレオノーラはきょとんとして彼女を見やる。
 「あなたが言ったんじゃないの?」
 「いいえ?」
 エルファマナーラも目を丸くして、言葉を返す。
 「昨夜は約束を取り付けるだけだったもの」
 「入り口のカゴの係りの者から報告を受けてな。人間が入ってくればワシまで伝わることになっておる。そやつが言うたのじゃ、『馴染みの女と美丈夫が一組』とな」
 「……なるほど」
 エレオノーラは納得したが、ふとエンキの顔を思い浮かべて首を傾げる。
 確かに、たたずまいは美丈夫とよんで差し支えないだろう。が、初めて会ったときに追いかけてきた彼の表情や、青竜偃月刀を手に入れたときの顔、そして先程の寝顔を思い浮かべると、
 ――どっちかっていうと、……犬っぽいわ。
 そう思ってしまうのだ。
 ふと気づけば、ダルグレンとエルファマナーラがこちらを覗き込んでいた。
 「何かを思い浮かべておるようじゃの、エルファマナーラ」
 「まさしくそのようですね、長老」
 四つの瞳と二つの種宝がキラキラと輝いている。エレオノーラは盛大にため息をついた。
 「……そういえばお聞きしたいのですが」
 エレオノーラは気を取り直して背筋を伸ばした。
 「先日のリュオン王国とローランド皇国の戦闘……何か聞き及んでおりませんか?」
 その質問に、途端二人の宝妖は真剣になる。樹海を挟んで対立する二つの国は、彼らにとっても対岸の火事ではない。
 「五分だったと聞いておるが。リュオン、ローランド共に大国。しかしリュオンは落日、ローランドは昼の情勢だと聞く。五分で引いたのは恐らくリュオンの方だろう」
 「ローランドの向こうにはローランド自治領のヴァリフォン大公国が控えているわ。あそこは錬金術を改良してめきめきと力をつけていると聞くし。……大陸はリュオンにとって不利になっているわね。摂政が焦って仕掛けた戦争だとも聞いてるわ」
 「金獅子王が逝って二千年近く――」
 宝妖の長老は遠くを見ながら言った。
 「大陸はまたも戦乱の時代に戻るのか」
 その言葉に、エレオノーラは目を閉じる。浮かぶのは、言葉。
 「――『金獅子王の威光の終わる時代の我の子どもを<終わりに生まれたもの>と名付けよ。その者とともに金獅子の時代は終わりを告げん。続き始まるは夜明けの前の真の闇。生きよ、生めよ、育てよ、名付けよ。
 幾代か後に王国に再び男児生まれん。銀の髪を持ち、真名は金獅子王と同じ。銀獅子王生まれん。
 銀の獅子は新たなる平和と共に戴冠せん。それまで、我が子たちよ、生きよ、生めよ、育てよ、名付けよ。銀の獅子の時代の息子は、銀の獅子の案内とならん』」
 そこで目を開く。エレオノーラの瞳は紫色にきらきらと光っていた。
 「一度、世界は戦乱に落ちるでしょう。
 けれど、はじまりのあるものには、おわりがあります。何事にも」
 「"邪王"の予言か」
 ふぅ、と宝妖の長老はため息をつく。エレオノーラは頷いてから、もう一度話題を切り出す。
 「それで、お聞きしたいのはリュオン軍の方で行方不明者の話など出ていないか、ということなのですが」
 「聞かんな。といっても戦乱に行方不明と死は付きモノだ」
 「……そうですか」
 エレオノーラはため息をついた。それを見て、アメジストの種宝の女が尋ねる。
 「エンキさんに関係あるのかしら」
 「ええ。彼は多分、リュオン軍の人間だわ」
 「怪我を負っているところを助けたんだったわね。そして、彼は記憶をなくしている、と」
 エレオノーラはエルファマナーラの言葉に頷いて見せた。
 「帰したいの?彼を」
 「それは……」
 エルファマナーラの率直な質問に、エレオノーラは押し黙った。
 そのエレオノーラの様子を、長老は場違いだと思いながらも微笑ましいと感じていた。
 「その彼は何か身分を示す物を持っていたのかな」
 「はい、腕章を。今はしておりませんが」
 「どのような腕章かな」
 「……リュオンの印と、月を背後に後足で立ち上がる馬の意匠がしてありました」
 それを聞いて、宝妖の長老は静かに言った。
 「月と馬の意匠は、今はもう亡い国の旗にひらめいていたものだ」
 エレオノーラはその言葉に、ダルグレンに真っ直ぐ目を向ける。静かな瞳だった。
 「……それが彼のものなら、彼はリュオン軍に編入された東ノ国の人間ということになる」
 「……やはり、そうですか」
 すこし低い声でエレオノーラは答えた。ダルグレンは少し目を細めて人間の娘を見た。
 「……彼には、帰るべき家があって、家族がいるんでしょうね」
 ふと遠くを見ながら、ぽつりと人間の娘が口を開く。
 「きっと待っています。……それは、素晴らしいことなんです……」
 「エレオノーラ……」
 エルファマナーラはそっと母親のようにエレオノーラの名前を呼び、そっと抱き寄せた。
 その腕の中で、人間の娘は微笑む。
 「もちろん、ここは好きよ。だって"みんな"がいるもの」
 
 
 
 エレオノーラの両親はすでにこの世にいない。それを彼女は思い出し、ふと寂しくなったのだろう。ダルグレンは、そんなエレオノーラを見ながらとうの昔にこの世を去った友人を思い出した。
 オメガが建て、エレオノーラが生まれ育った館は樹海の東のラボレムス山にある。
 そこは、リュオンの土地だった。
 追っ手が放たれたのは、エレオノーラが両親を失って間もない14歳のときだった。
 彼女はその時家を捨てた。リュオンの土地であるラボレムス山は危険すぎた。
 ――引き取ろうとしたことも、あったか。
 ダルグレンは思い出す。当時のエレオノーラは全くの子どもで頼りなかった。亡くなった父親から"遺産"を引き継いだばかりで、使い方も知らなかった。
 それを手ほどきしたのはダルグレンだった。そして彼はそのまま彼女を留まらせる気でいた。
 だがしかし、それは元老会によって阻まれた。
 『リュオン王国と対立することになりそうな要素は、排除されたし』
 決定はそれだけだった。賢いエレオノーラは決定が出された翌日、気丈に旅立っていったのだ。それから、十年。時折尋ねて来るエレオノーラの心は次第に武装していった。
 堅く、何者をも寄せ付けないように。
 その娘の心に、わずかながらほころびが生じていた。
 ――喜ぶべきことなのか、それとも。
 ダルグレンは娘の顔を見ながら思った。
 その老人の物思いを断ち切ったのは、まだ若い宝妖の女の声だった。
 「と、いうことは彼はリュオン軍の軍人なんですね。……兵士、でしょうか」
 「いや、東ノ国は騎馬能力に優れていたと聞くから、多分騎士隊の人間だろう」
 「騎士隊?」
 その言葉に、エルファマナーラが眉を寄せる。エレオノーラはその腕から逃れて、彼女の顔を見る。
 「エル、どうしたの?」
 「騎士、エンキさんが騎士ですか……」
 エルファマナーラはどこか不服そうだ。残りの二人はきょとんとその顔を眺める。
 と、突然ダルグレンが笑い声を上げた。
 「エルファマナーラ、お前さん、リュオンやローランド式の騎士を思い浮かべておるな!
 エンキさんやらはそれにそぐわなかったんじゃろ?え?」
 「?」
 エレオノーラは首を傾げる。
 「……違うんですか?」
 エルファマナーラは不思議そうな声を出した。
 「おお、騎士には二つの形がある。ひとつは、リュオンやローランドで言う騎士。
 これは貴婦人に礼節を尽くし、主人に忠誠を誓い、馬を愛する戦士だな。
 もうひとつの意味――東で言う"騎士"は、ただ単に"馬に乗る武人"を指すのだよ。
 彼らが馬の上から弓矢を射る姿はそれはそれは美しいそうだ。馬の上から剣も操ると聞く。
 たぶん、エンキさんはこっちの"騎士"だったんじゃないかの」
 「……そう、なんですか」
 「そうなのだよ、エルファマナーラ。言葉というのは曖昧なモノなのだ。広い人間の世界では、同じ物を指すのに時に全く違う音を出すこともあれば、同じ音でも別のものを指すこともあるのだ。
 ――そうだろうエレオノーラ」
 「……ええ」
 エレオノーラは旅先での色々な出来事を思い出しながら頷いた。
 「そうなの……勉強になりました」
 エルファマナーラはまだ不思議そうな色を残したままそう言うと、ゆっくり綺麗に礼をした。
 「生きるとはこれ学ぶことなり。教育行政官には良い体験だったか」
 くつくつと楽しそうに笑いながら、宝妖の長老は傍らに放りっぱなしにしていたキセルを取り上げた。しかし、火種はすでに消えていた。長老は残念そうに火皿を覗く。
 その時だった。コンコン、と小気味いいノックの音が響く。そしてドアが開かぬまま、声だけが部屋に入ってくる。
 「長老、そろそろ会議のご準備を」
 「はいな、ごくろうさん」
 ダルグレンはそう言って立ち上がり、年若い者たちに話しかける。
 「これから面倒で退屈な会議だ……。若者たちよ、経験のために傍聴していくかね」
 エレオノーラとエルファマナーラは一瞬顔を見合わせた後、はい、と答えた。
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