| 食事が終わり、結局泊まることになったバルレインとマナアクアが欠伸をはじめた頃。エンキは玄関を出て、ふらふらと散歩に出た。
 といっても、甘い果実酒に幾分温まった体を風に晒しに行っただけなのだが。
 そして人家から離れた場所に、やや細くなった白い枝の上から樹海を見渡せる場所を見つけた。
 エンキはそこに胡坐をかいて座り込み、暗い樹海を見渡した。頭上から僅かに降ってくる月明かりと人家から伸びたランプの明かりで手元は十分に見られる。
 その事に無意識に気づくと、エンキは腰のポケットに手を入れ、次にその手を膝の上移動させる。
 そこには、例の腕章があった。リュオン王国の紋章に月と後足で立ち上がる馬の意匠。
 剣を取られた今となってはおそらく、唯一彼の身分や正体を知っているであろう物だ。
 エンキはそれにじっと見入り、時折親指で糸の流れを確認するかのように撫でる。
 そうしてどのくらいか時間が過ぎたとき、彼の背中に声が掛けられた。
 「ここにいたの」
 エンキはその声に振り返る。
 「エレオノーラ」
 振り返ると、やはりエレオノーラだった。彼女は少し微笑むと、エンキの傍らに歩み寄った。
 「隣いいかしら?」
 「どうぞ。」
 そう答えるとエレオノーラはするりとエンキの隣に腰を掛ける。
 「あの子たちにずいぶん好かれたのね」
 「え?」
 「バルレインとマナアクア」
 「ああ……」
 エンキは肩をすくめた。顔は苦笑している。
 先程の食事のとき、子どもたちは――特にマナアクアが――親しげにエンキに話しかけていたのだ。エンキも悪い気はしないらしく、丁寧に声を返していた。
 「たまたまだよ。それにマナアクアは特になつっこいしな。そうだろ?」
 その返答にエレオノーラは優しく微笑む。ルビー色の種宝を持つ少女は紫の瞳の人間にもしきりに話しかけていたのだ。
 そしてふと、エレオノーラはエンキの手の中に例の腕章があることに気づいた。彼女の笑みが少し硬くなる。
 「……それ、どうしたの?」
 「……ああ……」
 エンキはその言葉に、再び視線を手の中の腕章に落とした。そして、また生地を撫でる。
 「昼間、バルレインの相手をしていたら思い出したような気がしたんだ」
 腕章にある月と後足で立ち上がる馬。エンキはその意匠の意味を知らない。けれどそれはひどく懐かしく、大切なものだという気がしていた。
 「……今はもう、なんだか思い出せないんだけれど。何か、懐かしい人の声だった……様な気がする。
 優しい声と厳しい声……二人分の声だった」
 そこでエンキは顔を上げ視線を樹海へと投げた。
 「あれは、俺の記憶なのかな……」
 昼間から数度、エンキは再び二つの声を思い出そうと努力していた。しかし、声は二度と頭の中で響くことはなかった。
 エレオノーラはそんなエンキの様子をじっと見つめていた。わずかにあった彼女の笑みはいつの間にか消えている。
 「あれは俺の故郷の、俺の家族なのかな……?」
 「そう、かもしれないわね」
 少し低い声で答えたエレオノーラにエンキは視線を移す。手は相変わらず腕章をもてあそんでいる。
 彼はしばらくエレオノーラの顔を見つめた後、こう言った。
 「そういえば、エレオノーラの家族は?」
 「え?」
 「摂政に追われているって言っただろ。……家族はどうしたんだ?
 お父上はなくなった、って言ってたよな」
 その言葉にエレオノーラは数瞬目を見開き……、そして伏せた。
 その様子にエンキははっとする。
 「す、すまない。言いたくなかったら別にいいんだ」
 「ううん。大丈夫よ。
 父と母は二年違いで亡くなったの。母は私が12歳のとき、父は14歳のときだったわ」
 それからエレオノーラは少し遠くを見た。
 「……父は体が弱くて、優しかったわ。母も優しかったけど厳しくて……働き者だったわ。
 でも母はどこからかもらってきた流行病にかかってしまって、あっという間だったの。父と私を看病していて、自分の病気を放って置いてしまったのね。
 ……お別れもできなかったわ」
 エンキはその言葉に、思わずうろたえた。そして何もいえないままでいると、エレオノーラは一人で苦笑して言葉を続ける。
 「毎日泣いていたらね、父さんが頑張っちゃって。体が弱いのに、無理してあれやこれをこなして。
 手伝わなくていいんだよ、っていうの。でもやっぱり申し訳ないから、父さんに気づかれないうちに、先回りして色々とやっておくの。でも、そのうち父さんも私が先回りしているのに気づいて、もっと先回りするの。それでまた私はもっともっと先回りするの。
 ……家の中、忙しくなったわ。寂しいけど、ちょっと楽しかった。
 でも父さんも死んじゃった」
 そこでエレオノーラはエンキに視線を移した。途端、彼女は苦笑を広げる。
 「そんな顔しないで頂戴、エンキ」
 エンキはうろたえていた。彼の黒い瞳は彼女の顔を探ってすこし揺れ、喉は言葉を搾り出そうとしている。
 だが結局、彼は彼女の顔に苦笑しか見出せなかったし掛ける言葉も知らなかった。
 エレオノーラはそんな彼の腕章を握る手に自分の手を重ねた。
 「私は大丈夫よ」
 エンキの手に重ねられた手は暖かく心地いい。だがエンキは腕章を離してその手を握り返すことができない。
 その代わりに彼の口から出たのは、再び質問だった。
 「家は……故郷は、どんな?」
 その問いに、彼女は手を重ねたままうーんと数瞬考えた。
 「……この森の東に、ラボレムスという山があるの。私の家はそこよ。
 麓に村はあるけれど、私の家は一軒家だったわ。山のなかに屋敷があるの。山に似合わないくらい立派なのよ。曽祖父のオメガが建てた屋敷なのだけど、彼は変わり者だったから――」
 そこで、彼女は不意に黙ってエンキの手に重ねていた自分の手をそっと膝の上に引き戻した。重ねられていたエンキの手がピクリと動いたが、それだけだった。
 「廟もあるの。先祖の廟よ。白い石でできていてね。蔦が好む場所らしくて、用心してないと蔦だらけになってしまうの。
 祖父の集めた本を納めた書庫もあるの。重い本がたくさん。もしかしたら本に虫が湧いて、頁を食べているかも。そしたら祖父はきっと残念がるわ。
 ……家の中も埃だらけでしょうね。母さんが見たら、きっと怒るくらいに」
 エレオノーラの顔に苦痛や哀切の情は見えない。ただ、懐かしそうな色だけが何故かエンキを責めたてた。
 「帰れるなら、帰りたいわ。廟を掃除して、本を虫干しにして家の空気を入れ替えるの。
 でもできないわ。
 だってあそこはリュオンの土地だもの。きっと兵士が張り込んでるわ。
 ……ねえエンキ、家族とか家ってとても素晴らしいものなのよ」
 唐突にそう言うと、彼女は戸惑うエンキに優しい顔を向けた。
 その表情にエンキは昨夜エレオノーラが「家はいいな」とギィグランダに言っていたことや、先程子どもたちとエルファマナーラの背を複雑そうに見ていた彼女を思い出した。
 「……帰る場所があって、待っていてくれている人がいるというのは素晴らしいことなのよ」
 「エレオノーラ……」
 エンキの呼びかけに、彼女は笑うだけだ。
 「エンキはその場所と、待っている人を覚えてないだけできちんとそれを持ってると思うの。
 ――この森を南東に抜けて、真っ直ぐ行くと東ノ国のリュウジョウにたどり着くわ」
 そう言うと、エレオノーラはまっすぐにその方向を指差した。
 それはエンキに対して故郷に帰れ、ということだった。その南東は、おそらく彼の故郷のある場所。
 エンキはそれにゆるゆると首を横に振り、力なくまた訳もなく抵抗する。
 「俺が東ノ国の人間って決まったわけじゃあ――」
 「可能性はゼロじゃないわ。むしろ高いかもしれない。
 それに腕章のその馬と月の意匠はリュオンに編入された東ノ国の軍隊のものだって聞いたし。
 ……その腕章を持っていれば関所で止められても大丈夫でしょうし、行ってみるべきだわ」
 「家族だっているかどうかわからない。家だってあるかどうか。俺は嫌われ者かもしれない」
 そう言うエンキにエレオノーラは笑みをおさめ腕を下ろし、すこし顔を傾けて質問する。
 「怖いの、エンキ」
 問われてエンキは俯く。
 「わからない。俺は何も――知らない。それが怖いっていうんなら、多分怖いんだと思う」
 「エンキ……」
 そんなエンキの返答に、エレオノーラはしばし考え込んだ。そして、唇から零れたのはすこし厳しい言葉だった。
 「それを言うなら、アナタは私のことだって知らないはずよ」
 その言葉に彼は顔をあげ、彼女をじっと見つめた。
 「それはそうかもしれない……けど、全く知らないんじゃなくて、ほんのちょっと知ってる。
 それに、あなたには色々よくしてもらった。借りがある」
 だから、一人で南東に向かうよりもついて行きたい。
 その意味を言葉と視線に含ませて、エンキはエレオノーラと対峙していた。
 エレオノーラの表情はすこし厳しい。その表情から彼女は動かない。
 「……俺がついて歩くのは、迷惑だろうか?」
 エンキはたまらずに聞いた。エレオノーラは目を伏せる。
 「――南東に進めば、リュウジョウがあるわ」
 エレオノーラは再び一言そういうと、すっと立ち上がった。エンキは彼女の名前を呼ぶ。
 「森を出ればリュオン王国の領地よ。行くなら気をつけて。私は先に戻るわ」
 それだけ言い足すと、彼女はさっと踵を返した。
 その背中にエレオノーラ、と言うエンキの声がぶつかった。
 後に残されたエンキはしばしその背を見つめた後、手の中の腕章に目を落とした。
 その腕章は、彼が何者なのか知っている。
 
 
 
 白い枝の上でしばらく考え込んだ後、エンキはのっそりと立ち上がりエレオノーラが戻って行った道を辿っていった。戻ると家々は寝静まっていた。月光を照り返す金の筋を持つ葉はさわさわと揺れ、瞬く星と共に街を見守っている。考え込んでいた時間は思いのほか長かったようだ。
 エンキは音を立てないようにドアを開け、階段を登る。
 そして二階のエレオノーラの部屋の前。
 彼はしばし閉じられたドアを見つめた後、静かに自分にあてがわれた部屋に入り、ベッドの中で体を丸めて眠った。
 
 
 
 翌朝、エンキはカーテンの隙間から零れてくる光で目を覚ました。身支度をして一階に下りると、バルレインとマナアクアと出くわした。「おはよう」
 そう言うと宝妖の子どもたちは元気に答えた。そしてマナアクアがエンキの手を取ってこう言った。
 「ご飯ができてるよ」
 エンキはその仕草に微笑み、頷いてみせる。するとマナアクアはテーブルのところまで彼を引っ張っていった。バルレインは遠慮がちについて来る。
 食卓に相変わらず肉はない。エルファマナーラがすでに席についており、ギィグランダはキッチンで大皿になにか盛り付けているところだった。
 各々の席の前には、バターを付けて焼いた後シロップで格子模様を描いた狐色のパンがほくほくと暖かな湯気をあげている。
 「おはよう」
 エルファマナーラが柔らかな声音でそう挨拶した。エンキはそれに答えてから辺りを見回す。
 「……エレオノーラは?」
 「まだ起きてこないみたいなの」
 そう答えられて、エンキはふと考え込むようにした。しかし起き抜けの頭の回転は悪い。
 さてエレオノーラが起きてきたらどうしようか、と考えているのだが考えが進まないのだ。
 そんなエンキの様子を見て、エルファマナーラは言った。
 「何かあったのね?」
 「え、ああ……まぁ」
 「とりあえず、お座りなさいな」
 エンキはまだ席につかないままだった。そんな彼に着席を促し、彼が腰を落ち着けたのを見るとエルファマナーラは優しい声で言った。
 「何があったのかは、わからないけれど。
 あの子はちょっと考えすぎるところがあるの。だからあなたは、あんまり深く考えない方がいいかもしれないわね」
 「……は?」
 エルファマナーラはにこりと笑う。エンキのほうは助言か何かされるものだとばかり思っていたので拍子抜けだ。今の言葉は助言と言うにはあまり的を射ていない。
 思わず眉を寄せて怪訝な顔をすると、エルファマナーラは付け加えてくれた。
 「考えるなってことじゃないわ。世の中は意外と単純に動くこともあるの。
 二人して深みに嵌らないように、ということよ」
 「はあ」
 要領を得ないエルファマナーラの言葉にエンキは生返事するしかない。が、エルファマナーラは微笑むばかりだ。
 そんな二人の様子を見比べていた子どもたちが顔を見合わせた。そして、マナアクアのほうがエンキを見上げて質問した。
 「お兄さん、お姉さんとケンカしたの?」
 子どもらしい真っ直ぐな質問だった。
 「いや、そういうわけじゃあ……」
 言いかけて、エンキは口をつぐむ。もしかしたらあれは静かなるケンカか、もしくはその一歩手前だったのかもしれない。
 その可能性に思い至って、エンキは頭をかいた。そんなエンキを見て、バルレインがぼそりと言った。
 「早く仲直りするといいよ……」
 バルレインから発せられたその意外な言葉に残りの者は一瞬静まり、そして笑った。言った本人は真っ赤になった。
 その笑いが収まったところで、ギィグランダの大皿が出てきた。
 それはフルーツを盛り付けた色鮮やかなデザートだった。
 「さ、みなさん朝ご飯は大切ですよ。きちんと食べてくださいね」
 その言葉に子どもたちは元気に返事をして、いただきますと言った。
 
 
 
 エレオノーラは食事が終わっても下りて来ない。起こしに行こうかとエンキは考えたが、その意志がはっきりと決まらないうちににギィグランダに工房に誘われ、結局起こしに行くのをやめてしまった。そしてギィグランダに修理してもらった青竜偃月刀の調子を見に行くため、バルレインとマナアクアを連れて異種族の男二人は官舎を出た。エルファマナーラは留守番だ。
 工房に着くと、エンキは立て掛けてあった自分の得物をさっと取り上げ、柄の感覚を確かめた。手首を捻って得物を回し、振り上げる。
 それを宝妖の子どもたちは目を輝かせて眺めていた。
 エンキが自分の身長よりも長い得物をぐぃと持ち上げ頭上で回して見せると、マナアクアは歓声を上げ、バルレインは目と口を最大限に開いた。
 エンキの見事な得物さばきを見てギィグランダはひとつ頷くと、質問してきた。
 「何か具合の悪いところはありますか?」
 「いや、前よりいいくらいだ。滑らないし」
 そう言ってエンキは得物を下ろし刀刃に目をやる。刀刃は丁寧に磨かれ、鈍い光を返していた。
 「前の柄は大分くたびれて磨り減っていましたからね。ずいぶん長いことそれと一緒なんですね」
 そのギィグランダの言葉にエンキは苦笑する。
 「いや、出会ったのはつい最近だ」
 「え?」
 「前の得物を盗られてね。」
 「盗られたんですか……」
 エンキの意外な告白に、武人の端くれであるギィグランダは悲しそうな声を出した。
 それを見てエンキは慌てて付け加える。
 「いや、前のやつよりコイツの方がなんだか性にあっててね。怪我の功名だよ」
 そして刀刃を愛でるように指先で撫ぜる。そのエンキの様子に、宝妖の大人と二人の子どもは得心した。
 エンキが得物を下ろし柄の尻を地面につけると、マナアクアが唐突に口を開いた。
 「そういえばお兄さんはどうしてお姉さんと一緒に旅してるの?」
 「え?」
 またしても子どもらしい率直な質問だった。
 「どうして、ねぇ」
 エンキは左手で得物を支え、右手を口元に持っていく。
 「世話になったから、かな」
 「せわ?」
 「ああ。ちょっと俺には事情があってな。……当座は俺に目的の場所なんかないし彼女についていくしかなくて、しかも彼女には世話になったし信用できる人だからだ。だから一緒に旅してる。」
 「それだけ?」
 マナアクアと一緒にギィグランダもバルレインも首をかしげた。
 「ああ、それだけだ」
 マナアクアはもっと首をかしげた。
 「人が旅をするのは目的があるからだって聞いたよ。宝探しとか、友達に会いに行くとか。
 お姉さんには"ひみつのじじょう"があるって聞いた」
 マナアクアが言った"ひみつのじじょう"とはもちろんエレオノーラの逃亡の旅のことだ。それを知る必要のない少女が知っているのはたぶん、昨夜エレオノーラが好奇心一杯の彼女にせがまれて説明でもしたからだろう。
 マナアクアはうーんとしばらくうなった後、言葉を見つけてエンキにさらに質問した。
 「お兄さんはお姉さんに"おんがえし"をしようと思って一緒に旅してるの?」
 「そうなるな」
 「じゃあ、"おんがえし"が終わったらお兄さんは旅をやめるの?」
 「え……」
 マナアクアの率直な疑問は、エンキにとっては予想外のモノだった。
 予想外だったので、エンキはしばし考え込む。その様子にギィグランダとバルレインは一度顔を見合わせた。
 そして、エンキは声を出す。
 「……そういうことは考えてなかったな……」
 エンキのその言葉に、宝妖たちは今度は三人で顔を見合わせた。その宝妖たちの中でも一番の年長の男がふっと息をはいた。顔は優しく笑っている。
 「それでも、いいと思いますよ。エレオノーラは人好きですから」
 その言葉にエンキはかりかりと頭を掻いた。
 
 
 
 「あら、お帰りなさい。」一時間ほど後になって、皆で官舎に戻ると居間にはエルファマナーラが一人でいた。
 エンキはきょろきょろと辺りを見回した。求める姿はない。
 すると、視線を感じた。すこし低い位置を見下ろすと、ソファに座っているアメジストの種宝を持つ宝妖がこちらを見上げていた。エンキは顎をすこし引くと、彼女の方へ体を向けた。
 エルファマナーラの瞳には不思議ないろがあるだけで表情は読み取れない。
 「……エレオノーラは」
 「先に出たわ」
 エンキの低い声での問いに、異種族の女は明朗に答えた。
 明朗な答えに鼻白んだのは意外にもエンキではなくギィグランダだった。
 「一人で?何故です?」
 エルファマナーラはその長年の相棒の質問に苦笑をしたが、答えない。
 だが苦笑しながらも彼女はエンキから目を離さない。しかしその目から相変わらず表情は読めない。
 一方でエンキの表情は険しくなっていった。
 「エレオノーラから伝言よ」
 エルファマナーラはそんなエンキに言葉を告げる。
 「『南東へ行きなさい』って」
 「……それだけ?」
 「それだけ。」
 ふと、表情の見えなかったエルファマナーラの目に穏やかな色がともった。
 エンキはそんなエルファマナーラを睨みつける。
 「どうして止めなかった?」
 「どうして止めなければならないの。あなたを置いていく決断をしたのは彼女だわ。
 あとは、あなたがどうするか決めるだけ。
 どちらにも私が入り込む部分はないわ」
 その言葉に、エンキは彼女を睨むのをやめた。そして気づいたことを口にする。
 「……つまりあなたは、エレオノーラの決めたことに賛成したわけじゃない?」
 その質問に、エルファマナーラは明瞭に頷く。
 「ええ。彼女はただ伝言を残してまた旅立っただけよ。私にとってはね。
 エレオノーラはああしたけれど、あなたはどうするの?
 あなたたちの旅だもの。あなたたちで決めなさい。エレオノーラは自分の意見を表しただけなのだから、そうそう落ち込むことじゃないわ」
 その宝妖の言葉にエンキは当惑していた。
 エレオノーラが先に行ってしまったということは、二人旅はすでに終わってしまったということではないのか?
 それが結論であって、変えることはできないのではないか?
 エンキは当惑したまま、異種族の教師の顔を見返した。教師は慈母の顔で笑う。
 「頭をゆっくり回転させなさい。
 エレオノーラが旅立ったことは、"エレオノーラが"その方がいいと思ったから。
 でもあなたは違うと思っている――つまり、このままさよならするのは"二人で決めた結論"ではないのでしょう?」
 「あ、ああ……」
 「だったら、あなたの考えをあの子に伝えなくちゃ。
 あなたが南東を目指したいと思うのだったら、そのまま目指せば彼女は理解するわ。
 もし違うのなら――」
 そこでエルファマナーラはすっと手を挙げ、今しがたエンキが入ってきたドアを指差した。
 「追いかけて、彼女に追いついて、自分の意見をいいなさい。
 そして二人で話し合うの。二人で旅を続けるか、それとも、どうするか」
 「……」
 エンキが何も言えないままでいると、口を挟んだのはギィグランダだった。
 「彼女はいつここを出ました?時間によっては追いつけないかもしれない」
 「あなたたちが出かけてすぐよ。ローランドの首都に向かうんでしょう?
 そうしたら、北西の樹海の出口を目指すはずよ」
 「出てすぐ……北西ですか。そこは他の場所より出口が近いですね。早ければ夕暮れには出口に着いてしまう……」
 「エンキさん、どうする?」
 二人の宝妖の視線を受けてエンキは数瞬目を瞑り、そして開いた。
 「泊めてもらった御礼もろくにできずに申し訳ないが……」
 「いえいえ、いつでもまた来てくださいな」
 エンキの言葉に、エルファマナーラはにっこりした。
 「追うんですね」
 「恥ずかしながら、そうさせていただきます」
 すこし苦笑しながらそう答えたエンキに、ギィグランダもほっとしたようだった。
 「お兄さん!」
 そんなエンキの背中に声がかかる。バルレインとマナアクアだった。
 「北西の出口、近道があるの!」
 「案内するよ。」
 子どもたちの申し出に、エンキは微笑んで見せた。
 
 
 
 さくさくさく。靴底に触れる土は軟らかい。落ち葉が腐り、それによって多くの栄養を得た柔らかな土だ。
 白生樹の森の土とは違う。
 エレオノーラはその感触を確かめながら、黙々と一心に北西を目指していた。
 何も考えていなかった。ただ足を動かしている。
 ――このまま……。
 やっと、脳内に言葉が浮かぶ。
 ――このまま進めば、夕暮れ時には森を出られるかしら。
 木々の間から降りてくる光は、朱の色を増していた。
 大分歩いた、はずだ。
 さくさくさく、と足下で音がする。それだけを考える。
 しかし、軽快だったその音が不意に止まる。
 緑の葉を繁らし、悠々と樹海の天辺に身を伸ばす木が一本ある。
 その根元に、彼女が足を止めた理由があった。
 「エンキ――」
 エンキは大樹の根元で胡坐をかき、瞑想するかのように目を瞑っていた。左の腕には青竜偃月刀が抱えられ、それはそのまま肩に寄りかかっていた。
 呼ばれてエンキはゆっくり瞼を上げた。
 沈黙のうちで、二人は視線を交し合う。
 先に動いたのはエンキだった。苦笑、という動きだった。
 「やぁ」
 エレオノーラは背中に腕を回し、すこし小首を傾げて見せた。
 「エルから伝言は――」
 「聞いたよ」
 エレオノーラは言葉を出そうとしてやめ、息を呑んだ。
 エンキは苦笑をおさめ、すくっと立ち上がる。
 「俺は行かない」
 一言はっきりと彼は言った。
 「俺は南東には行かない。」
 「いかないって……」
 エンキの出した答えに、エレオノーラは戸惑った声を出した。
 「どうして?」
 その問いに、エンキは笑って答えた。
 「前にも言ったじゃないか。
 知らないところに行くよりも、エレオノーラについて行くほうがいいと思うって」
 ――あなたについていくほうが、知らないところに帰るよりもいいと思う。
 それは、出会って2日目にエンキがエレオノーラに言った言葉だった。
 基本的にエンキの心境はあのときから変わっていない。
 けれどエレオノーラは、あのときよりも強い戸惑いを覚えていた。
 「だけど、もし」
 「『何か思い出したら、どうするの』、かな。」
 エンキはエレオノーラの言葉を先取りして、苦笑した。
 「"だけど"、とか、"もし"なんてことは、そのときに考えたらいいと俺は思ってる。
 確かに、今帰れば俺には昔の生活とやらが帰ってくるかもしれない。でも俺は実際のところ"昔"なんて覚えてないから、未練も何も感じてないんだ。
 だから、"昔の生活"というのは、俺にはただの"新しい生活"と変わらないんだ。"昔"を覚えてないからな。
 下手したら一生、思い出さないままかもしれない。そうなれば"昔"なんてただのわずらわしいモノになってしまう。俺にも、周りの人間にもな。」
 エンキはそこで一度言葉を切って、エレオノーラの顔を見つめた。
 エレオノーラの顔はなお戸惑いの色を見せていた。
 「でも、"こっち"のことはよく――とは言わないものの、知ってる。
 だから、正直に言うと――"旅"から離れるのには未練があるんだ」
 「未練?」
 「そう。あんたにろくに恩返しができてない。それをしたいのがまずある」
 「……」
 エレオノーラはすこし顎を引いた。納得しかねるというような表情である。
 エンキはかりかりと頭をかいた。
 「"なんとなくあなたについていったほうがいい気がする"、というのに、恩返しがくっついたんだな。
 ……上手くいえないけど、そんなわけで、俺はあんたと一緒に行きたいと思う。
 それじゃだめか?」
 エンキは懸命に言葉を捜し、選び、そう言った。まっすぐにエレオノーラを見て。
 エレオノーラは初め硬い表情をしていたが、しばらくしてふーっと息を吐いた。
 それから、苦笑する。
 「『"だけど"、とか、"もし"なんてことは、そのときに考えたらいい』、か。
 本当にそれでいいの?」
 そしてエレオノーラは苦笑したまま、首を傾げて見せた。それにエンキはひとつ頷いた。
 「それでいいんだ」
 そう言うと、エレオノーラは歩み寄ってきた。そしてエンキの直前でぴたりと止まる。
 そして彼女は彼を真っ直ぐ見上げた。
 「……それじゃあ、一緒に行く?」
 その言葉に、エンキは満面の笑みで答えた。
 「もちろん。」
 
 
 
 ――そのころ、宝妖の長老の家では。「おやまぁ、珍しいのう二人揃って」
 ダルグレンが若い二人の宝妖と面会していた。一人は女でアメジストの種宝を持ち、もう一人は男でエメラルドの種宝を持っていた。
 「久しぶりですねファータ」
 ギィグランダの呼びかけに、ダルグレンは右手を挙げて答えた。
 「相変わらずそうじゃの、アナ・ソーネ」
 部屋の主の老人は若い二人に席を勧めた。
 それから老人は自分のキセルを取り出して火皿に火を入れた。一口含んで、煙で輪を作る。
 その様子を見てギィグランダもキセルを取り出した。
 「ほっほう、一人前を気取りよって」
 その言葉にギィグランダは肩をすくめて見せる。エルファマナーラはくすくす笑った。
 「ギィは立派な大人ですよ、長老」
 「それはどうかのぅ……」
 それからまた一口老人は煙を含んでから、ふと気づいたように言葉を継いだ。
 「そういえばエレオノーラに"あのこと"は言ったのかね」
 その質問にエルファマナーラはふるふると首をふった。肩の上で銀の髪が揺れる。きらきらと光を返すその様をギィグランダは意味深な目で見ていた。
 「結局言いませんでした。彼らの問題ですから、彼らが自らで見つけて、自らで解決するのが一番だと思ったんです」
 「ほほぅ」
 若い女の答えにダルグレンは興味深そうな顔をしたが、何も言わなかった。その代わりに老人は話題を変える。
 「して、お二人の用事は何かな」
 「はい、実は子どもを一人引き取りたいと思いまして」
 「子どもを?はて、子どもを育てられるのは二人一組の"契"をした者だけだが……」
 ダルグレンはそこまで言って、ふと気づく。
 「ははぁ、なるほどねぇ。今日は私用と公用を混ぜて来たな、お主ら」
 その老人の呆れたような、それでいて嬉しそうな言葉に若い宝妖の男女は顔を見合わせていた。
 
 
 
 「出た!!」地平線から顔を出す太陽があとわずかになった頃、エレオノーラとエンキは樹海を抜けていた。
 「やれやれ、得体の知れない森の中で一泊することにならなくてよかった。
 マナアクアとバルレインに感謝だな」
 「あ。」
 エンキの言葉が言い終わるか言い終わらないかのうちに、エレオノーラが声を上げた。
 その声にエンキはきょとんとする。
 「どうした、忘れ物か?」
 「ううん、違うの。
 ――あのね、バルレインのことなんだけど」
 「うん」
 「エルファマナーラが引き取るらしいの」
 その言葉にエンキは破顔する。
 「そりゃめでたいじゃないか」
 しかし、エレオノーラの顔は浮かない。
 「でも宝妖って、たしか二人一組じゃないと子どもを育ててはいけないというしきたりがあるのよ」
 「へぇ、それで?」
 「……エルにそんな人、いたかしらと思って」
 そのエレオノーラの言葉にエンキは一瞬沈黙した後、大声で笑い出した。
 
 
 旅はまだ、続く。
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