| 「助けていただいてありがとうございました、私はアーニャと申しましてこの牧場の持ち主の娘です」厩舎で働く人々のための休憩所に通されたエンキの前に、一杯のお茶が出される。お茶をいれたカップとそのソーサーは白磁でいかにも高級そうだ。
 そしてその向こうに、先程の少女――アーニャが腰掛けている。
 アーニャの編んで背中に長く垂らした髪はハチミツ色で、白い顔にはいくつかソバカスが浮いている。やんちゃと言うほどの顔立ちではないが、それなりに活発ではあるのだろう。そうでなければあのような馬に乗ったりはしない。
 エンキは出されたお茶を飲みながら、少女を観察していた。
 不躾ではないものの、異性の視線にさらされた少女はもぞもぞと動いた。
 「ええと……」
 「あの馬は、別に人嫌いじゃない。ただ選り好みがすぎるんだ」
 「え?」
 エンキが突然口を利いたことにアーニャは驚いたようだった。
 エンキはかちゃりと音をたててカップをソーサーの上に戻した。
 「目を見てわかった。あれはいい馬だ。いい馬、というのは何もよく走るとかそういうことじゃない。いろいろな性質を含めていい、と言うんだ。
 ただ、すこし選り好みが激しい。自分がいいと思った人間しか乗せない。そういう馬だ」
 「はあ」
 アーニャは突然馬の話をしだしたエンキにあっけに取られていた。その様子にエンキは気づき、苦笑しながら言った。
 「俺はエンキ。旅のものだ」
 「エンキ、さん、旅の方ですか。」
 「そう」
 会話が途切れる。アーニャにはその沈黙の居心地が悪いらしく、必死に話題を探しているようだった。
 「ええと、ええと、あの、助けていただいてありがとうございました。」
 「いや、気にしなくていい。それよりもあの馬に乗ろうと思うのは、しばらくやめたほうがいいな。
 あの馬はあなたが自分に乗るのに相応しいと認めるまで、決してあなたを乗せないでしょうから」
 「はい」
 エンキの助言に、アーニャは神妙に返事をした。
 そこへ、馬を追って行った厩務員たちがどやどやと戻ってきた。
 一番年嵩らしいひげの男がアーニャに深々と頭を下げた。
 「申し訳ありません、お嬢さま、また逃げられてしまいまして……」
 「ああ、やっぱり。サライは追われると嬉しがって速度を上げるから」
 アーニャはこめかみを摩りながらそういった。その言葉に作業員たちは恐縮する。
 「ああ、でも気にしないで。どうせしばらくしたらケロッとした顔でまた自分の寝床に戻ってきてるでしょうから」
 恐縮した作業員にアーニャはそうも告げる。それから「さぁ、仕事に戻って」と言った。
 その命じる姿は板についており、いかにも良家の令嬢のようだった。
 それから、アーニャはエンキに向き直った。
 エンキはそれに笑いかける。アーニャはその笑顔にぶつかって少しびっくりしたようだった。
 「戻ってくるのか」
 「ええ、はい……なんというか気まぐれで」
 「人嫌いじゃないって言ったろ。その証拠だ。
 あとはあの馬があんたを認めるのを待つだけだな」
 そう言ったエンキの笑みはなんとも頼りがいがある、おおらかなものだった。
 アーニャはそんなエンキの顔を数瞬またぽかんと見つめた後、ソバカスが散る頬を染めてこう言った。
 「あの……本当にお世話になりました。それで、お礼がしたいのですけど……」
 エンキは再びカップを持ち上げようとしていたが、その「お礼」という言葉に笑みを収め動きを止めた。
 一日中仕事を探して歩き回った足はもうすでに疲れている。
 ――これはチャンスかもしれない。
 エンキはカップをソーサーに戻し、探るような、けれど真面目な顔でこう切り出した。
 「それじゃあ、ちょっとお願いがあるんだけれど……」
 「はい、なんでしょう?」
 エンキは、慎重に用件を切り出した。
 
 
 
 一方、エレオノーラはというと。「仕事ってないものね」
 街で仕事を探していたが、見事に見つかっていなかった。途中うっかり色街に入り込んでしまい、客引きらしい男に
 「おねーさん美人だねぇ。ウチに来ない?がっぽり稼げるよ」
 などと幾度か声を掛けられていた。その都度エレオノーラは妙に色気のある笑みを浮かべて
 「あら、ごめんなさい」
 と断る。その笑みに気圧されたのか客引きの男たちはしばらくぽかんとしていた。
 そして、色街を出るとエレオノーラは劇場や図書館が並ぶ"ルシアス一世通り"に向かった。
 ルシアス一世、とは三百年ほど前のローランド皇国の中興の祖だ。
 その昔、プフェーアト・シュタートは小さな円村にすぎなかった。その街をここまで大きく育てたのはルシアス一世である。
 ルシアス一世の即位前、建国から二百年経ったローランド皇国は荒れていた。いまのリュオン王国は成人した王位継承者がいるにもかかわらずトランキルスが摂政を勤めているという異常が生じているが、当時のローランド皇国の混乱はそれ以上だった。
 そしてそれはルシアス一世の父である皇帝が亡くなった時、最悪の形になって現れた。
 内乱、である。
 父であった皇帝は後継者を指名していなかった。もちろん、順当に考えれば皇位を継ぐのは皇帝の長子であったルシアスであった。だがそれに彼の叔父が異を唱えたのである。
 内乱は七年にも及んだ。そして、ルシアス一世が誕生する。
 ルシアス一世は、"四本爪の龍"ともあだなされる。軍を指揮するだけではなく、自らも馬を駆っていた彼は内乱終結時に左目の視力と左手の小指の先を失っていた。
 その四本しか爪がない左手と、龍のごとき勇猛ぶりからついた二つ名であった。
 しかし戦時の勇猛ぶりとはちがい、平時になれば彼は文化を愛する良き人であった。
 そんなルシアス一世は即位後、内乱で荒れ果てた国の復興に力を注いだ。中でも街をつくる際は劇場や市場、歓楽街もつくるなど娯楽にも理解がある人物であった。
 このプフェーアト・シュタートもそんな復興時に大きくなった街なのであった。
 そしてこの街の人々は、そんな文化を愛した皇帝に劇場と図書館がある通りを捧げたのだ。
 エレオノーラは"ルシアス一世通り"という看板を見上げ、それから白い石が規則正しく敷き詰められた通りと整然と並ぶ文化施設を眺めながら遠い時代の皇帝に思いを馳せていた。
 色街を経由してここに来たのは不謹慎かもしれないと思う一方、当のルシアス一世がそのことを知ったら大いに笑い飛ばすことだろうとも思った。
 「さてと」
 エレオノーラは再び元気に歩き出した。この通りの雰囲気は悪くない。適度に知的で適度に平凡だ。エレオノーラはこの通りが気に入っていた。
 ――それに"四本爪の龍"は他人ではないし?
 エレオノーラは心の内で一人そうごちて、くすりと笑った。
 そして彼女は、白亜の建物の前に差し掛かった。
 図書館である。
 三階建ての壮麗な建物を見上げ、彼女は思った。
 ――本。本なんてしばらく触っていないわ。ちょっとよって行きましょう。……それと、整理係が必要ないか聞いてみるのも悪くないかもしれない……。
 彼女は自分にそう言い聞かせながら、玄関前の白い階段を上って行った。
 
 
 
 年季の入った本棚が、整然と静かに並んでいる。彼らの背の高さは、エレオノーラよりすこし高いだけで一番上の本でも手を伸ばせば容易に取れるようになっていた。エレオノーラはその本棚の間をゆっくりと進んでいる。
 辺りを満たすのはどこか無機質な静けさだ。
 革張りの大型の本。中に詰まっているのはどんな物語だろうか。あるいは、何か大切なこの世の法則がびっしりと書き連ねてあるのかもしれない。
 エレオノーラが好きなのは、百科事典だった。
 あの本は捲っても捲っても終わりがない。一つ一つの単語の説明はどんな短編小説よりも短く、そして続きが気になることもない。百科事典は、"邪王の知識"を得た彼女にとってはある意味でもう必要のないものだったが、それでも彼女は百科事典が好きだった。
 だから彼女は百科事典の棚の前に行った。
 この国に百科事典は、三種類ある。
 ひとつは、この国で一番最初にできた本屋が作った由緒正しき百科事典。
 もうひとつは、変わり者の学者が編集している奇妙な切り口の百科事典。
 そして三つ目は、ルシアス一世が纏めさせた百科事典だ。
 由緒正しき本屋の百科事典は、15年に一度内容が見直される。
 だがルシアス一世の百科事典は、ルシアス一世が亡くなって以来全く見直されていない。
 それはルシアス一世への冒涜だとエレオノーラは思う。だが、ルシアス一世以降の皇帝たちは、文化や百科事典がそれほど大切なものだとは思っていないのだ。仕方ないことなのかもしれない。
 エレオノーラはルシアス一世の百科事典の第一巻に手を伸ばし、それを丁寧に開いた。
 薄いが美しい模様を織り込んだ遊び紙をそっと捲ると
 
 『百科事典 第一巻』 
 というシンプルなタイトルが目に入った。そしてその紙をまた丁重に捲る。すると次のページには、流れるような美しい筆跡でこう記してあった。
 
 
 『我が愛しき妻、我が誇りたる二人の息子、そして我が臣民に贈る。
 
 知識に貪欲たれ。知ることを恐れるな。
 この事典は必ずや貴君たちの味方となろう。
 ルシアス=サーガ・ローラント』
 
 
 美しいが、同時に力強い筆跡だった。"四本爪の龍"はその綽名に相応しい精神を持っていたようだ。エレオノーラの脳の奥で、何かがそれは懐かしいもの、と言った。エレオノーラは口元に柔らかな笑みを浮かべ、その筆跡をなぞった。
 そしてまたページを捲る。
 それから5ページほどめくった時のことだった。
 「あ!」
 すこし高い音域の男の声がエレオノーラの背中に投げつけられた。
 エレオノーラは本を持ったまま肩越しに振り返る。
 すると視線の先に、積み重ねられた本を抱えている腕が目に入った。それからそのすこし上に、顔。すこし顔をしかめているが、優男といった感じの男の顔があった。
 「館内では帯刀しないでください!」
 それは歳若い――二十代半ばと言った感じだ――、蜂蜜色の髪を持った男だった。抱えているのは返却されたばかりの本らしい。その言動からして、この図書館の司書だろう。
 エレオノーラは棚に事典を戻し、その司書の方に向き直ると真面目言った。
 「ごめんなさい、この刀は大事なものなので外せないんです」
 男が言った"帯刀"とはもちろん、エレオノーラが肌身離さず腰に吊るしている紅邪刀のことだ。禍々しいこの刀は、なるべくなら外さない方がいいのだ。
 「大事なもの……ですか」
 エレオノーラの真摯な言葉に男は面食らったようだった。
 「ええ、大事なものなんです」
 すると、男はしばらくエレオノーラの顔をじっと見つめた。それからひとつ頷くと男はにっこりと笑った。
 「あなたは悪い人じゃなさそうですから、特別に」
 「許してくださるんですね。ありがとうございます」
 エレオノーラはほっとして男に笑みを返した。すると男はなぜかびっくりして身じろぎした。その拍子に抱えていた本がバランスを崩し、大地の法則に従って落下し始めた。
 「あっ!」
 男が声を上げた。エレオノーラも驚いたが、彼女は冷静だった。
 ――とまれ。
 心の中でそう念じると、本は空中でぴたりと踏みとどまった。それからエレオノーラは掌を天井に向けて腕を差し出した。
 ――おいで。
 今度はそう念じる。すると本たちはふわりと空中を動き出し、規則正しく彼女の腕の上へと重なっていった。
 エレオノーラは本が全て腕の中に納まると、どうぞと言って男にそれを差し出した。男はしばらくの間ぽかんとしていたが、本を受け取ると感心したように言った。
 「魔法使いさんでしたか……」
 「ええ、まぁ」
 エレオノーラは苦笑する。
 魔法は誰にでも使えるわけではない。珍しがり根掘り葉掘り聞きたがる人もいるのだ。
 だが男はそんな人ではなかった。
 「……便利ですねぇ、その魔法。そんなのがあれば、本の整理も楽でしょうねぇ」
 その言葉にエレオノーラは自分が仕事を探していたことを思い出した。
 「あの、ひとつお伺いしてよろしいでしょうか?」
 男は司書だ。話をしても損はないだろう。
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