戻る Home 目次 次へ

「魔法使いと記憶のない騎士」
第二十四話
仕事始め
―草原の夢再び―

トン。
……トン。
…………トン。
エレオノーラは本棚に一冊一冊丁寧に本を戻していた。
彼女は図書館で図書整理の仕事を得たのだ。
――奇妙な縁ね。
本を戻しながらエレオノーラは思い出す。



ここに仕事はないかと訊ねたエレオノーラに司書の男は鷹揚に笑い、「では面接を」と言ったのだ。
先程の蜂蜜色の髪を持つ若い男は、なんとこの図書館の館長だったのだ。
驚いてみせたエレオノーラに、ライアンと名乗った彼はやさしげな顔に困ったような照れたようなどちらとも取れない笑みを浮かべて言い訳した。
「成り手がなかっただけなんです」と。
図書館の館長というものは、図書館の奥にいて普通図書整理などしない。だがライアンは歳若い自分が館長をやっているのが申し訳なかったのか、週に一度“普通の司書の仕事”をしているのだという。今日はたまたまその日だったのだ。
それから先はトントン拍子だった。
唯一問題になったのは、やはり紅邪刀だった。館内では帯刀が禁止されている。図書館に勤める者がすすんで規則を破るわけには行かないのだ。
エレオノーラはそれをどうするかと問われてしばらく考えた後、自分のマントをはずしそれで刀を何重にも覆った。それからエレオノーラはライアンに訊ねた。
「荷物を置く場所を貸して頂けませんか」
それにライアンはこっくりとひとつ頷いて事務所の一角の荷物置き場にエレオノーラを案内した。エレオノーラはその部屋の隅に紅邪刀を包んだマントを横たえると、左手の中指から青癒の指輪を引き抜いた。それから指輪にキスをひとつ落とし、マントの上に置く。
すると青い光が小さなドームを作り、マントに包まれた紅邪刀を包んだ。
小さな結界だった。この結界は、エレオノーラ以外の触ろうとする者の手に痛みを伴う刺激を与えるものだった。
「これで大丈夫です」
エレオノーラがそういうと、ライアンは感心したように言った。
「よほど大事なものなんですねぇ……」
「ええ」
と答えたものの、実は紅邪刀も青癒の指輪も“邪王の一族”以外には操ることができない。
遺産を継ぐ“血”がなければ、この二つの呪具は操れないのだ。しかし操れないとはいえ、その影響を受けないわけではない。負の感情を力とする紅邪刀を手に取り、絶望のふちに追いやられた者がいることはいるのだ。用心するにこしたことはない。
ライアンはもちろん、そんなことは知らない。そして彼はエレオノーラの顔をじっと見つめた後、にっこりと笑った。
「それじゃ、問題も解決しましたし……よろしくお願いします」
その言葉にエレオノーラはほっと息をついた。彼女に与えられたのは、図書の整理。満足のいく仕事だった。



トン、トン、トン。とエレオノーラは返却された本を本棚に戻していく。
「エレオノーラさん」
ふと、彼女の背中に声がかかった。ライアンだった。
「はい、なんでしょう?」
エレオノーラは残った本を抱えたまま振り返った。ライアンはにこにこしていた。
「どうですか、仕事は」
「始めたばかりですし、特に問題もなく。と言って明日腰痛になってるかもしれませんけど」
エレオノーラは微笑みながら言った。本というのは以外に重いもので、何冊も抱えて本棚に上げ下げしていると腰にくることもしばしばあるのだ。
エレオノーラはラボレムス山の家の祖父の書庫でそれを体験していた。
ライアンはそれを聞いて、こくりとひとつ頷いた。
「あまり頑張りすぎないでくださいね。
あ、そうそう。お近づきに今夜一緒にお食事でもどうですか?」
ライアンが切り出した突然の誘いに、エレオノーラは本を落としそうになったがなんとかこらえた。
きっと、新しい人が来ると必ずこのように誘うのだろう。そんな風に感じる誘い方だった。
「いえ、お誘いは嬉しいんですけど、連れの都合がわからないので」
エレオノーラは一応、自分は旅の者でこの仕事は一時的なものであることを説明していた。
だがエンキのことは説明し忘れていた。
するとライアンは驚いたように眉をあげた。
「お連れの方がいたんですか。
僕、てっきり一人旅でご苦労なさっているのかと思ったんですが……」
その言葉にエレオノーラは少々バツが悪そうに笑った。けれどもライアンは気にした様子もなく、またにっこりした。
「それじゃ、また日をあらためて。」
「あ、はい」
それだけ言うとライアンは軽く頭を下げてから元来た通路を戻っていった。エレオノーラはふう、と少しため息をついた。
――少し苦手かもしれない。
雇われたわりに申し訳ないが、彼女はそう思ってしまった。



その日、慣れるようにと言われて与えられた仕事を終えると夕暮れになっていた。
エレオノーラは紅邪刀をしっかりと帯刀し青癒の指輪を指にはめてから、ライアンや他の図書館の職員に挨拶すると早々に引き上げた。
宿に入り、3階にある部屋を目指して軽快に階段を登っていく。
部屋の鍵はすでに開いていた。
かちゃりとドアを開けると、風呂から上がったばかりのエンキがベッドの向こうの壁際に立っていた。
「あ、お帰り」
「ただいま」
エンキは肩にタオルを掛け、シャツを着ていた。黒髪には水滴が散らばっている。
髪をすぐに拭けばいいものを一日放っておいた得物が気になるのか、彼は立てかけてあったそれに手を伸ばしているところだったのだ。
エレオノーラはくすりと笑う。
「青竜偃月刀は逃げないわよ、あなたが主人なんだから。それより髪を拭きなさいな」
「え、ああ……」
言われてエンキは青竜偃月刀を手に取るのを止め、ベッドの上に座ってタオルで髪を拭き始めた。エレオノーラの方もマントを外す。
「珍しいわね」
「え?」
「まだ日が落ちないのにお風呂に入ってるなんて」
エンキはこれまで、日があるうちにはシャワーも浴びなかったのだ。そもそもエンキにはあまり入浴の習慣がなかったようだ。お湯も使うこともまれで、水で体を流して終わりのこともしばしばあった。
その彼だから、エレオノーラがそんな感想を持ったとしても仕方ないだろう。するとその感想を聞いたエンキは眉を寄せてこう言った。
「馬の匂いが……ひどかったんだ。嫌だろ、そういう匂いがするの」
どうやら彼は気を遣ったらしい。エレオノーラはそれに笑みを見せた。
「仕事が見つかったのね!」
エンキもそれにつられて笑う。どちらかと言えば悪戯っぽいような笑みだった。
「ああ。ちょっとした人助けをしたら、お礼をしたいって言われたんだ。
その子が牧場主の娘で、うまいこといったよ」
「情けは人のためならずってヤツね」
そういうとエレオノーラはエンキの座っているベッドに上がり、彼の背中に回った。そして彼の頭に乗っかっているタオルに手を伸ばし、それから彼の髪をくしゃくしゃと撫で始めた。
「ぐちゃぐちゃにかき回して水滴を取ればいいんじゃないのよ」
どうやら自分の髪を拭いてくれるらしいということに気づいて、エンキは頭に伸ばしていた手を下ろした。エレオノーラは丁寧にエンキの髪の水滴をふき取っていく。それと同時に、頭皮にマッサージもしているようだった。
さすがにくすぐったくなって来て、エンキは声を上げた。
「自分でやるよ」
「いいのよ、今日は歩き回って疲れてるでしょう?」
仕方ないので、エンキはエレオノーラの好きにさせておくことにした。
数瞬の沈黙の後、彼は切り出した。
「そういえば、そっちはどうだった?」
「うん、図書館の整理員の仕事が見つかったわ」
「へぇ、すごいじゃないか……」
それからまた沈黙が下りる。エンキがため息をついた。
「……お互い、疲れてるらしいな」
「そうみたいね」
エレオノーラが苦笑する気配がした。それから二、三度しなやかな指がエンキの洗い立ての黒髪を撫でた。そしてするりとタオルが離れていく感覚。
「はい、終わりよ」
言われてエンキは自分の髪に手を伸ばした。すると何か魔法を使ったのか髪はふわふわに乾いていた。
「ありがとう」
「どういたしまして。ところで、夕ご飯どうしましょうか」
その日は二人とも疲れていて再び街に出るのは億劫だったのと、仕事が見つかった安心感から夕食は割高な宿の食事となった。



エンキはその夜、夢を見た。
風が一陣、ざあっと吹いた。
草原の夢だった。
だが、プフェーアト・シュタートの周りとは似て非なる草原だった。
――これは……。
けれど彼はその草原に見覚えがあった。いつか、同じように夢で見た草原だった。天幕が遠くに点在して、羊と馬が遊牧されている。風はごうごうと音を立てて吹いているが、音ほど厳しくはなくせいぜい彼の髪で遊ぶ程度だ。
――いい風だな。
不意に傍らから声が聞こえた。エンキが驚いてそちらを見ると自分のすぐとなりにいつか見た髪の長い、白い衣装の男が立っていた。
男のひとつに束ねた髪と、ゆったりした白い袖が風に遊んでいる。
正面を向いていた男がこちらを向く。男はエンキよりも背が低かった。
――久しぶりだな。
男は親しげに声を掛けてくる。エンキは言葉を返そうとして、やめた。男は笑う。
――無理して喋るな。性じゃないだろう。
エンキはその物言いに少々むっとした。男はもっと笑う。
――樹海の向こうにも、馬の住処があるのだな。
男は正面に向き直ってそう言った。
――“そこ”は“ここ”と近い。……もちろん、距離的にじゃないぞ。雰囲気が似てるんだ。
――馬か?
エンキが反射的にそういうと、男は満足そうな横顔を見せた。
――それもある。それと、草だな。
――草か。
――そう、草だ。
二人はそれからしばらく風に吹かれていた。
――で、何の用だ?
その言葉は意外にも軽くエンキの口を離れて風に乗った。それに男が気づいて、おやと言う顔をする。
――もう頭痛はしないようだな。
言われてエンキは始めて気づいた。そういえば、樹海に入った辺りから頭痛がなくなっていた。
――そうだな、そうらしい。
――……それはよかった。
男は複雑そうに言った。それから、しばらく口をつぐむ。
――“そこ”は本当に“ここ”に似てる。だからこうやって話もできるわけだ。
――ほう。
――……おまえ、また何か面倒ごとに巻き込まれたな。細かいことは私にはわからないが。
男の出した話題は唐突だった。エンキはあっけに取られて男の顔を見る。男は相変わらず前を向いたままだ。
――なんのことだ?
――そのままの意味だ。まぁ、大したことではないといえば大したことではないな。お前なら大丈夫さ。
――はあ?
エンキが高い声を出すと男は苦笑した。
――これから色々あるだろう。だがそれもモレと会うまでの辛抱だ。
――モレ?
そこで男は再びエンキの顔を見上げた。
――そう、モレだ。
男はそれしか言わない。
ざぁっと音をたてて風がすぎていく。
不意に男が寂しそうに苦笑した。
――辛抱、か。よく考えればそれは私の辛抱なのかもしれないな。おまえの辛抱は終わったも同然だから。
エンキは男の言葉にワケがわからず首を傾げる。だが男はエンキの疑問に答えない。
――さて、帰るか。お前も“帰る”だろう?
そう言うと、男は点在する天幕の一つに向かって歩き出した。エンキに訊ねたわりに、男はエンキの返答を待たなかった。
エンキはその後姿を見つめる。
男が不意に立ち止まった。
――そういえばおまえの近くにいる“力”……。よいものだな。
――なに?
――だが弱い……。守ってやるといい。
男はそれだけ言うと、草を踏みしめながら天幕へと向かって行った。
ざぁぁぁ、と風が強く吹いたのでエンキは思わず腕で顔を庇った――



エンキは目を覚ました。
真夜中だった。
左腕が目の前に上げられていた。どうやら、夢の中と同じ格好になっていたらしい。
エンキは腕を下ろすとため息をついてから、よいしょっと起き上がってベッドに腰掛けた。
部屋は暗い。
「ゆめ」
あの夢は何なのだろう。あの男は――誰なのだろうか。そして何を辛抱しているのだろうか。
それから、エンキは隣のベッドに目をやった。エレオノーラが紅邪刀を抱いたまま丸くなっている。すやすやと寝息を立てるその顔は穏やかそのものだった。
エンキは立ち上がって彼女のベッドの傍らに立った。そして、膝立ちになる。
エレオノーラは気づかない。
――面倒ごとに巻き込まれたな。
――よいものだ。だが弱い。
男の声が耳の奥でこだました。エンキはそれを聞きながらエレオノーラの髪に手を伸ばした。
なぜかそうしなければならない気がしたのだ。男が言ったのはエレオノーラのことだと、無意識下で彼は気づいていた。
柔らかな触り心地の良い髪だった。
エレオノーラは気づかなかった。その様子にほっとして、エンキは彼女の傍らを離れて自分のベッドに腰掛けた。
「……わけがわからん……」
低い位置で手を組み合わせて、エンキは深刻にそう呟いた。

戻る  Home  目次  次へ