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「魔法使いと記憶のない騎士」
第二十五話
単純労働
―雇い主の娘からの受難?―

翌日。
エンキは牧場主が出している厩務員用の乗合馬車に乗って、牧場へと出かけていった。
街から牧場までは三十分ほどだ。エンキは馬車に揺られながら草原を眺めていた。
牧場まであと少しというところで、視界の端に動くものが映った。エンキはそちらに目を転じる。
それは馬だった。黒い見事な馬。
――あの馬だ。
エンキはそれが牧場から逃げ出したサライという馬だということに気づいた。思わず腰を浮かせると、隣の厩務員が不審そうに彼を見上げた。
サライはじっとこちらを見ていた。
目が合う。
だがそれも一瞬のことで、青毛の馬はくるりと身を返して緑の地平線へと向かって駆けて行ってしまった。



エンキの仕事は主に厩舎の掃除だった。
馬たちを柵の中の草原に放った後、汚れた藁をかき出し新しい藁を敷く。内容はそれだけだったが、馬が百頭近くいるとなれば単なる単純労働ではない。
馬には触れるな、と厩務員頭の男は言った。理不尽だとは思わなかった。人から見ればどうせ自分は通りすがりの気まぐれな旅人である。信用を置く必要もないだろう。
藁置き場と馬が柵内に放されたために空になった厩舎とを五度ほど行き来したときだった。
「エンキさん」
ころんと鈴を転がしたような声が呼び止める。アーニャだった。彼女はにこにこしながらエンキに歩み寄る。エンキはそれを見て藁を運ぶ手を一旦休めた。
「どうです?慣れました?」
「ええ、まぁ」
エンキは控えめな声でそういった。それから僅かに二人は沈黙した。エンキはそれに気づいて慌てて言い足す。
「仕事くれてありがとうな。……勝手なことして親御さん怒ってなかったか?」
エンキはアーニャから仕事を貰った。だが、ここは本来アーニャの牧場ではなく彼女の父親のものなのだ。アーニャは昨日、エンキが仕事をくれないかと言ったその場で雇ってくれた。「父には後で私から言っておきます」と言いながら。
「いいえ、ちょうど人手不足だと厩務員(みんな)から聞いていましたし、父はあまり馬には興味がないんです。牧場(ここ)は片手間でやっているようなものですから」
少女は悪びれることなく、むしろ胸を張ってそう言った。エンキはそれに安堵のため息をつく。
「父、研究者なんです。運動も得意じゃないから馬も苦手で、自然と牧場のことなんてどうでもよくなってるっていうか……」
聞いてもいないのにアーニャは説明しだした。エンキは周りを少し気にしながら相槌を打つ。
「研究者?」
「ええ、そうなんです。ルシアス一世の」
「ルシアス一世?」
エンキはもちろん、そんな人物全く知らない。鸚鵡返しのように思わず聞き返してしまったが、アーニャは「そうです」とさも当然のような顔をしている。どうも質問の意図は読み取られなかったようだ。
なんとなく適切な切り返しやその他諸々のものを逃がしてしまったように感じたエンキは、かりかりと頭をかいた後、アーニャにあいまいに挨拶を投げて仕事に戻った。
そして午前の仕事の間、アーニャはなぜかにこにことエンキの姿を見ていたのだった。



昼休みになった。
厩務員用の休憩所の隅でエンキはエレオノーラが持たせてくれた昼食の包みを開けていた。
休憩所にはソファなどのほかにキッチンや大きなダイニングテーブルがある。厩務員たちはそのダイニングテーブルで昼食をとりながら語り合っているのだが、エンキはなぜか気が引けて隅の椅子にいるのだった。
厩務員たちのほうもエンキに興味はあるようだが、この牧場は保守的なのか誰も近寄ってこない。エンキと厩務員たちとの会話を今朝から数えても、片手も埋まらない。
妙な緊張感がエンキと厩務員たちの間に横たわっていた。
エンキは厩務員たちの背中をしばらく観察した後、包みの中身に手を伸ばした。
今日はロールパンではなく、正統派のサンドイッチであった。もちろん作ったのはエレオノーラである。今日はいつのまに作ったのかゆで卵の和え物を挟んだものまであった。
その和え物の胡椒の具合が素晴らしくいいものだった。
エンキはそれを一口かじってなんだかほっとしていた。そして、彼の持つ空気が緩んだことに気づいた厩務員の一人がそっと気配を窺いつつ彼に近寄ってきた。
その厩務員は一番の下っ端だった。歳はアーニャより三つほど上というくらいだろう。
壮年の厩務員が多い中で、彼は若さのために目立っていた。青年はエンキの隣に椅子を引っ張ってきて腰掛ける。
それから彼は若干警戒しているエンキとうちとけようと思ったのか、気さくに話しかけてきた。
「ども、おれロイって言います」
ニカッと笑って右手を差し出してきた彼――ロイに少々面食らいながらもエンキはその手を握り返した。
「え、ああ……」
手を離すと、ロイはエンキの持っているサンドイッチに目を向けてきた。
「?」
その視線に腹が減っているのかと思えば、彼は空いた手のほうにしっかりと自分の弁当を持っていた。
エンキが訝しんでいると、ロイは出し抜けに言ってきた。
「あんた、奥さんと二人で旅してんのか?」
「は?」
「いや、だって、あんたホントは旅の人だろ?一時的な手伝いだって親方言ってたし。
それにあんた料理しそうには見えないわりに、それ手作りっぽいし」
親方、というのは厩務員頭の年かさの男の事だ。
エンキはロイの不躾な物言いに少々眉根を寄せた。するとロイは自分の物言いの悪さに気づいたらしく、しゅんとした。
「すんません……親方にもいつも口に気をつけろっていわれてるんすけど……」
エンキはふーっと息を吐いて苦笑して見せた。
「……質問に答えるが、俺に妻はいない」
するとロイはあからさまに驚いていた。確かにエンキは自分で料理をしそうには見えない。
「じゃ、じゃあ自分で……」
「連れならいるがな。これはその連れに作ってもらった。」
ロイはその一言にへぇ、と納得したあと重ねてこう聞いてきた。
「その人、女の人っすか?」
「……、まあそうだが……」
「……とすると……」
ロイはぱっと目を輝かせて、少し大きな声でこういった。
「愛の巣探し中ですか?!」
エンキはもちろん、サンドイッチを喉に詰まらせた。げほごほと苦しむエンキの隣で、ロイはなおも推察を続ける。
「あ、それともアレっすか、“駆け落ち”ってやつっすか?このご時世、そうそう男女二人で旅に出るなんて……」
エンキはなんとか喉に詰まった物を嚥下すると、ロイを横目でにらみつけた。
ふと気づけば、他の厩務員たちの耳や気配もこちらに向いていた。それに気づいて、エンキは少々強い語気で言った。
「違う。」
それから、ロイの方に呆れの視線を投げつけて言い足す。
「君は本当に口に気をつけたほうがいいぞ」
すると、ロイは口元を引きつらせて「ハイッ」と返事をした。エンキはため息をついてこめかみを撫でた。
ふとダイニングの方へ視線を向ければ、厩務員たちの背中がこっそり笑っていた。エンキは先程とは別種のため息をつく。
――俺は珍獣か猛獣の類か?
エンキは心の中で毒づいた。すると、それに気づいたのかロイが耳打ちしてきた。
「あ、みんな悪い人じゃないっすよ。ただちょっと今回は事情があって」
「事情?」
「そうっす。最近ここいらの牧場で馬泥棒がでてるんすよ。で、これ実は内緒なんですけど……エンキさんちょっと疑われてるんすよ」
「俺が?」
内緒なら言うなと頭の片隅で思いつつ、エンキは思わず目を丸くしてロイを見た。
なるほど、厩務員たちが妙に距離をとってくると思ったらその所為だったのだ。つまり、警戒されているのだ。
「馬泥棒がボクジョウで堂々と働くか?」
エンキの疑問にロイは肩をすくめて見せた。



午後も午後で単調な作業だ。
藁を積んである倉庫での整理作業。細かくちぎれた藁や埃がのどや鼻の粘膜を刺激して、時折くしゃみが出る。口元を覆うものがあればだいぶ楽だろう。だがあいにくエンキはそんなものを持っていなかった。
「はい、どうぞ」
一度うがいをしに倉庫を出たところ、昼休みの間馬に乗っていたらしいアーニャとばったり出くわした。そして、彼女はエンキに大きな白い布を手渡してきた。
「あ……ありがとう」
エンキはそれをやや戸惑いながら受け取り、うがいをしてからそれを三角に折り鼻と口元を覆った。
それからアーニャを見ると、彼女はなぜか満足そうにしていた。
「?」
エンキは眉根を寄せてから軽く会釈すると倉庫に戻った。するとなぜか少し遅れてアーニャがついてきた。そしてエンキが作業を始めると、彼女は倉庫の隅にある樽の上に乗っかって午前中と同じようにエンキの作業を見守っていた。
アーニャはにこにこしているが、エンキのほうはあまり居心地のいいものではない。
――見張られてる……のか?
牧場主の娘がどこへ行くにもついてくる。馬泥棒疑いの話を聞いた後だ、見張られているという可能性を考えないものはいないだろう。
だがエンキはもちろん、馬泥棒ではない。だから特別気にする必要はないのだが。
「――……」
ないのだがやはり気になってしまい、ときどきそっと視線だけでアーニャを伺った。
アーニャはやっぱりにこにこしている。
しばらく黙々と仕事を続けた後、エンキは耐え切れずにアーニャに話しかけた。
「……見ていて楽しいか?」
するとアーニャは一瞬驚いたような顔をした後、こくんとひとつ首を縦に動かした。
エンキは藁を運ぶために使っていた熊手(フォーク)を手近な藁の山に突き刺し、口元を覆っていた布を引き下ろして腕を組んだ。そして、眉根を少々寄せてまた訊いた。
「なんで見てるんだ?」
「えっ」
と一言声を発した後、アーニャは座っている樽の上で俯いてもじもじしはじめた。
エンキはそれをじっと見つめて、辛抱強く答えを待った。
だがアーニャは時折エンキに視線を投げてよこすだけで、もじもじしたまま何もいわない。
結局エンキは根負けした。腕を乱暴に解いて、左手を自らの腰に添え右手でこめかみを撫でた。
「いやね、どうも俺は馬泥棒かもしれないと疑われているらしいんだ。
もしかして君が俺を見張っているんじゃないかなと思って聞いてみたんだ」
エンキは苦笑を混ぜてそう言ったのだが、アーニャは笑わなかった。
彼女はエンキの言葉に明らかに衝撃を受け、目を見開いていた。エンキはその様子に、徐々に笑みを消していった。最後には口元に苦いものだけが残る。
――図星だったか?
ピーンと空気が張り詰めているように思えた。エンキはこめかみを撫でるのをやめたが、その右手をどこにやったらいいかわからなかった。
「誰、ですか」
アーニャが口を開いた。少女にしてはかなり低い声音だった。
「は?」
「誰ですか、そんなことを言ったのは」
アーニャはいつの間にか顔の角度を変え、下から睨みつけるようにしてエンキを見ていた。
ひくっとエンキは口元を動かした。その拍子に顔から苦いものが消える。
「いや、別に、誰というか」
アーニャの気迫は尋常ではなかった。恐ろしい。良家のお嬢様だって怒れば怖いのだ……そんなことを感じる顔だった。
エンキは思わず言葉を濁してしまう。エンキがはっきりせずにいると、アーニャは樽から降りすっくと立った。そして突っ立っているエンキの傍らを通り抜けて倉庫を出て行った。
エンキはいやな予感がして、やや小走りで距離を置きながら彼女の後についていった。
アーニャが向かったのは案の定厩務員の休憩所であった。
アーニャはお嬢様らしからぬ勢いで入り口のドアを開けて、中に入っていった。ドアを閉める動作はなかったが、反動でドアが自動でしまりそうになる。エンキはそこへ手を伸ばして、ドアを開けたままにしてそこにとどまった。
「ロイ!あなたね!」
「へっ?!」
アーニャは突然ロイを名指しした。ロイはソファでくつろいでいたのだが、いきなり名指しされて飛び上がった。
エンキはマズイ、と思った。
「エンキさんが馬泥棒ですって?!エンキさんは私の恩人なのよ?!
あなた、ひどいわ!それはエンキさんに対する侮辱よ!!!!」
アーニャは甲高い声でロイに言葉をたたきつけた。ロイの方はぽかんと口を開けている。
エンキは思わず額に右手を持っていった。
その場にいたほかの厩務員たちも驚いてアーニャとロイを交互に見つめる。
そしてその後、入り口にとどまっていたエンキにのろのろと視線を移してきた。
エンキは、ははは……と力なく苦笑した。
アーニャは腰に手を当てて、ぷりぷりと怒っている。ロイはなんだかショックを受けているようだった。無理もない、疑われているということを教えてくれたロイは親切心を出しただけであって、エンキのことを疑ってなどいなかったのである。人は他人を疑っているとき、その人にその事実は伝えないし、親しく話しかけたりなどしないものだ。
――これは失敗したな……。
エンキは明日から仕事がやりにくくなる、と訴える頭の冷静な部分の声にぼんやりと耳を傾けていた。

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