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「魔法使いと記憶のない騎士」
第二十六話
館長のお誘い
―古ぼけた本と小エビに見る皇国―

エンキが郊外の牧場で頭が痛くなっていた頃、エレオノーラの方は黙々と本を本棚に戻し続けていた。
そして、その日何度目かの返却を終えて司書室の前を通りかかったときだった。
ライアンを含む、三人ほどの司書が頭を突き合わせていた。
興味をそそられて、エレオノーラはそこへ言葉を投げかけた。
「どうかしたんですか?」
ライアンたちは一斉に振り返った。その動きにエレオノーラはちょっとびっくりした。
が、全員エレオノーラをのけ者にする気はないようだった。
「寄贈されたモノがあるんですがね……ちょっと分類に困ってまして」
ライアンの言葉に合わせて、年配の女性司書がその本をエレオノーラに見せてくれた。
それは、古ぼけてはいたが立派な革張りの表紙の本であった。差し出されたその本を受け取り、エレオノーラはパラパラとページをめくる。
黄ばんだページは、普通の印刷本よりも厚い。そしてそこに走る文字も時折滲んだものがあり、あきらかにそのページに直接書き込まれたものであることがわかった。
これは広く読まれるために書かれた本ではない、私的な書き物を記したものだとエレオノーラは気づいた。
「これは……」
「それを書いたのは、ルシアス一世時代の人なんです。その人の家はもう没落して断絶したみたいなんですが、古本屋でみつかったそうで……」
「マリユス・メセナスという人物のものですね」
エレオノーラは最後の遊び紙に記してあった名前を読み上げた。そしてその文字を人差し指でなぞる。その途端、エレオノーラの意識は貧血を起こしたかのように遠のいた。
エレオノーラは驚いて、気を保とうとした。が、それが普通の貧血ではないことにすぐに気づいた。意識が“検索”しているのだ。あらゆることを記憶する“邪王の知識”、このマリユス・メセナスという男の事も“邪王の知識”の中に入っていたらしい。
エレオノーラの意識は、三百年ほど前のルシアス一世の時代に行き着いた。
マリユス・メセナス。
「……彼はルシアス一世の側近中の側近……腹心だった人ですね」
「え?」
ライアンをはじめとする司書たちが驚いて彼女を見た。彼女は意識を現代に戻し、にこりと彼らに笑いかける。
「マリユス・メセナスというこの書き物を残した人物は、ルシアス一世の腹心だった人です。公的な記録にも残っているはずですが、彼は五十代で一線を退いた後、プフェアート・シュタート近郊に領地を下賜され、そこで人生を終えています。
……おそらくこれは、引退後から亡くなるまで、心に浮かんだものを書き綴ったものでしょう」
エレオノーラは再び、手の中の古めかしい本をパラパラとめくった。
ライアンたちはそのエレオノーラの様子を不思議そうに眺めていた。
「……それは確かでしょうか?」
「そうですね、もし可能でしたらマリユス・メセナスが書き残した公式文書を首都から取り寄せて筆跡鑑定するといいでしょう。ルシアス一世期の資料は膨大に残っているはずですから……」
「でも館長、コレがもし本当にマリユス・メセナスの書き残したものならちょっとした大発見じゃないですか?……まぁ一般人にはあまり関係ない人かもしれませんけど……」
エレオノーラの助言を聞いて歳若い男性司書が、少々自信無さげにライアンにそう話しかけた。ライアンは右手で顎をつまみ考え込む姿勢をとった。
「“ちょっとした大発見”じゃなくて“大変な大発見”になるかもしれないよ……。
メセナスは大した役職につかなかった人だけれど、まるでルシアス一世の影のような人だったからね。秘密裏の外交をいくつも行って、何度かローランド皇国の危機を救っている。
……うーん、でも見たところただの隠遁後の日常を書いた日記みたいですが……」
「え、ボクが読んだところには5ページにわたって詩のようなものが書いてありましたが……」
「あら、わたしの読んだところにはなんだか物語のようなものが書いてありましたけど」
司書たちはそれぞれ違うことを言って、顔を見合わせた。エレオノーラはそれに微笑む。
「マリユス・メセナスは書き物が好きな人でしたから。ルシアス一世は彼をヘボ詩人と呼んでいたようですし……。
これは雑記帳というところではないでしょうか。」
「雑記帳……」
歳若い司書と、年配の女性司書が声を重ねてため息をついた。それでは少々分類に困るからだ。
「あ、でも分類するよりも資料として専門家に見せるのが先ですかね館長」
「そうなるねぇ。その上であえて書籍分類はしばらく控えておくという手もあるし……」
それからライアンはふと気づいてエレオノーラに視線を投げてきた。エレオノーラは手元の本を閉じると、女性司書に丁寧に返した。
「エレオノーラさん、ずいぶんマリユス・メセナスについて詳しいですね」
「メセナスについて、というかルシアス一世についてですけれど」
エレオノーラは苦笑しながらそう答え、本を棚に戻す仕事に戻ろうとした。その彼女をライアンは呼び止める。
振り返るようにして立ち止まったエレオノーラにライアンは数歩歩み寄った。
「ルシアス一世にお詳しいのでしたら……、僕の父に会っていただけませんか?」
「え?」
エレオノーラは突然の申し出にびっくりした。先日の食事の誘いといい、どうも読めない人だ。さすがに困って視線をさまよわせると、先ほどの二人の司書がやれやれと首を振っているのが目に入った。
「あの……なぜお父さまと?」
エレオノーラがさすがに質問すると、ライアンはああと言いながら説明してくれた。
「さっきから専門家と言う言葉が出てますが……一番近くにいるルシアス一世の専門家が僕の父なんですよ。ルシアス一世の研究を仕事にしてるんです。
それで……」
「ああ、そうですか……」
エレオノーラはそれには納得して口を閉じた。ライアンもしゃべらない。司書室に妙な空気がただよった。
「えーと……それで私はなぜお父さまと?」
仕方ないので、エレオノーラは質問を繰り返した。するとライアンはうーんと悩みながら言った。
「えぇと、僕の父はルシアス一世研究を生業としてまして……、エレオノーラさんはいろいろとルシアス一世に詳しいようですし……、……父の知らないこともご存知かもしれません。それで」
「あ、なるほど」
と納得しかけて、エレオノーラは再度首をかしげた。
「あの、申し訳ないんですが、専門家のお父さまより私の知識の方が詳しいということはあまりないかと……」
その言葉に、ふたたび沈黙が訪れる。その数瞬後、ライアンがあわてて言い足した。
「いや、何かあるかもしれませんよ!
……それでもしよかったら、明後日食事なんてどうでしょう?もちろん、お連れの方も一緒に」
「はあ」
やはり読めない人だ、なぜ食事の話に?とエレオノーラはもちろん思った。
――……たぶん、ご家族でのお夕飯に招いてくれてるのね。
エレオノーラはそう結論付けるしかなかった。
「……明後日の夕方でしょうか?連れの都合を聞いてみます」
「本当ですか!」
エレオノーラの戸惑いがちな言葉に、ライアンの顔がぱっと輝いた。それから彼は、不意にエレオノーラの手をとって、ぐっと握った。エレオノーラはちょっとぎょっとした。
「約束ですよ!」
「は、はい」
ぎょっとしつつも、エレオノーラはなんとか笑顔をつくった。するとライアンはそれに満足したのか手を離し、「それではまた!」と言いながら足取り軽く司書室を出て行った。
そしてその背中に、若い司書の
「かんちょう〜!ちょっとこの資料結局どうするんですかー!」
という悲しげな声がぶつかったが、ライアンは気づかない様子でそのまま行ってしまった。仕方なく若い司書は立ち上がり、マリユス・メセナスという男が残した雑記帳を女性司書から受け取って彼を追いかけていった。
エレオノーラがその光景をあっけにとられていると、残された女性の司書が話しかけてきた。
「久々に見たわ、若館長の悪いクセ」
「え?」
「綺麗な女の人を見るといつも強引に食事の約束を取り付けるのよ。
……エレオノーラさんは館長の好みにどんぴしゃりだったみたいね」
「……はぁ」
年配の女性司書は、再びやれやれと首を振った。
それから、まるで母親のような視線をエレオノーラに向ける。
「連れの方って男の人かしら」
「はい、そうですが……」
「それじゃあ、何も心配は要らないと思うわ」
なんの心配だ、とエレオノーラは思ったが言わなかった。
その様子に気づいたのか、気づかないのか女性司書は母親のような視線を収めてにっこりと笑う。
「館長には、連れの方が男だということは黙っておいた方がいいわね。
いいクスリになるかもしれないし」
「はぁ……」
ワケがわからず、エレオノーラは曖昧に答えながら仕事へと戻った。



その日も仕事は終わる。エレオノーラは真っ直ぐに宿に戻り、3階へと続く階段を軽快に上っていく。階段は以外に狭い。だがすれ違う人がいないので、エレオノーラは3階まで軽快な足取りのまま登り終えることができた。
そしてかちゃり、と自室のドアを開ける。すると、二つ並んだベッドの片方に乗っている足が目に入った。それはもちろん男の足でエンキのものだ。靴を履いたまま、踵を天に向けている。うつ伏せているのだ。
エレオノーラは回り込んで、ベッドの横にたどり着く。エンキはこちら側に顔を向けている。その顔は安らかだが、彼の纏う雰囲気はまるで屍のようであった。エレオノーラは彼が息をしているかを胸の上下の有無によって確かめた。“死んだように眠っている”のだと確認してほっとする。
ふと、エレオノーラはエンキの寝顔を見下ろした。思えば、ここまで彼の寝顔に接近したのは初めてのことかもしれない。物音を立てれば彼は起きるし、エレオノーラが近づけば何かあったのかと目を覚ます――それがエンキだった。
――よほど疲れてるのかしら。
エレオノーラはそっと物音を立てないようにして屈んだ。エンキはまだ起きない。それは本当に珍しいことだった。
それから彼女は、彼の髪が湿っているのに気づいた。今日もシャワーを浴びたのだろうか。
エレオノーラはそっとその髪へと手を伸ばした。ひと撫でするとエンキの黒髪から湿り気がなくなり、さらさらとさわり心地の良い髪になる。
――これでよし。
エンキはまだ目覚めない。エレオノーラの彼の髪を撫でた手が、しばし中空をさまよう。
そして何故か、その手の主も理由がわからぬままエレオノーラはその手の甲をエンキの頬にあてがった。
人差し指が目尻に触れる。
――睫毛も黒いのね……。
それから、手を返しながら彼の顔の輪郭をなぞっていく。人差し指の腹が頬に触れたところで、エレオノーラは手の動きを止めた。
指の腹が触れる肌には、赤子のような柔らかさやすべらかさはもちろんない。
エレオノーラはそのまま、人差し指でエンキの頬をつついてみた。骨の手ごたえがある。肌は粗い。おそらく風と太陽に晒されて育ってきたのだろう。
そしてもう一度、彼女が優しく彼の頬をつついたときだった。
不意にエンキのまぶたがすいと上がり、漆黒の瞳があらわになった。
エレオノーラはその目に、はじかれたように立ち上がり後ずさりした。
エンキの黒い目は起き抜けにしては鋭すぎた。射抜くような視線だった。
「……今起きた?」
「……うん……」
エレオノーラの疑問に、眠そうな声で答えながらエンキは起き上がって伸びをした。
エレオノーラは「うん」という返事に何故かほっとしながら、体を動かしたり顔を撫でているエンキを見下ろしていた。
「だいぶ疲れてるみたいね」
「疲れてる……いや疲れているというより“参った”だな」
エンキは言いながら、ぱんぱんと軽く頬を叩いた。
「“参った”?」
「うん、参った、参った……」
エンキはそう言いながらベッドから降りる。そして“参った・参った”を繰り返しながら風呂場と洗面所へと続くドアの向こうに消えた。程なくして蛇口を捻る音と、バシャバシャと水がはねる音がした。
エレオノーラはそちらを見つめて、小首をかしげた。
すると水のはねる音が止み、蛇口が閉まる音。それに続いてドアの向こうから顔を拭きながらエンキが戻ってきた。顔を洗っていたらしい。
「夕飯は?」
タオルの向こうで声を発したので、声はくぐもっていた。エレオノーラは肩をすくめて微笑む。
「もちろん、まだよ」



二人は一緒に部屋を出た。鍵をかけ、3階分の階段を下りる。
街はやわらかな夕日に包まれていた。
「何が食べたい?」
エレオノーラがエンキを見上げながら聞く。するとエンキは数瞬眉を寄せたが、すぐに答えた。
「肉がいいな。複雑に調理したのじゃなくて、甘辛いソースをかけて焼いたやつがいい」
「それだけ?」
「そうだな……あと、イモが食べたいかもしれない」
「おイモ?それじゃあ油で揚げたやつかしら」
「いや、油で揚げたやつはあんまり好きじゃない。潰したやつがいいな」
「マッシュ・ポテトね」
そんなわけで、二人は香ばしい匂いを漂わせている小さいが洒落た食堂に入った。
中流層が主な商売相手らしいその店は、テーブルとテーブルの間に適度な間隔があり木目の見える古ぼけた床が良い雰囲気を醸し出していた。店員もでしゃばらず、かといって存在感がないわけでもなくいい店であった。
二人は向かい合わせの席に座り、エンキは先ほど食べたいといったものを――マッシュ・ポテトは付け合わせにもなっておりますが、と言われたが別にもたのんだ――、エレオノーラは小エビと青菜のサラダを頼んだ。
「小エビ?この街は内陸にあるんじゃないのか?――海は見ていないな」
給仕が下がると、エンキはエレオノーラが選んだメニューの感想を述べた。
エレオノーラはひとつ頷くと説明する。
「ローランド皇国の交通網の発達は素晴らしいものがあるのよ。建国――というかリュオン統一王国からの独立時から、代々の皇帝が力を入れてきたものの一つが交通網の整備なの。
それで、こんな内陸でも新鮮な小エビが食べられるの」
「そうなのか……」
「リュオンではこうはいかないでしょうね。ローランド皇国は至る所に大きな街道があってそれにつながる様々な道があるけれど、リュオンには首都につながる六本の街道しかないから」
そこで給仕がカップに入ったポタージュスープを運んできた。二人はどちらからともなく会話を止め、スープカップを口元に運んだ。
程なくしてメインの食事とパンが運ばれてきた。
エンキは肉を切り分け、エレオノーラはサラダにドレッシングをかける。
手元を動かしながら、先に口を開いたのはエレオノーラだった。
「そういえば、明後日図書館の館長に食事に招かれたんだけれど……」
「うん?」
エレオノーラはサラダをすこしエンキの皿に取り分けた。
「連れの方もどうぞって。エンキ、都合はいい?」
「明後日ね……たしか休みをもらっていた気がする」
エンキはフォークで小エビをつついた後、切り分けた肉をエレオノーラの皿へと移動させた。
「いいのに」
「いや……もらって。……というのもなんかヘンだけどな」
「そう?……じゃあいただきます」
エレオノーラは手を合わせてから、フォークを使った。
「それでね、明後日なんだけど一緒に行ってくれる?」
「俺は構わないけど、いいのか?」
「うん、『連れの方も一緒に』って言ってくださったから」
「わかった」
「……そういえば、寝起きに『参った』って言ってたけど、何かあったの?」
その言葉にエンキは口に運びかけていたフォークを止めた。そして眉根をよせる。
「ああ……うん、なんでもないよ」
しかしすぐに表情を戻し、小エビを口に放り込んだ。エレオノーラは少々不思議そうにそれを眺めていたが、それ以上は聞かずに自分の食事に戻った。
そこに遅れて、木製のボウルに入ったマッシュポテトがテーブルに届けられた。それはあきらかに一人で片付けるのには少し厳しい量だった。
エレオノーラとエンキは顔を見合わせて笑うと――片方の笑みには少々苦いものが混じっていた――ボウルからマッシュポテトを取り分けた。



お腹がいっぱいになったのか、エレオノーラは宿に戻るとベッドに倒れこみうとうとし始めてしまった。
「エレオノーラ、風呂は?」
「明日の朝、入るわ……」
エンキが倒れこんだエレオノーラを覗き込みながら言うと、彼女は顔を枕に押し付けながらそういった。エンキはうん、と頷いて寝る前の身支度をする。
その間にエレオノーラはそのまま眠ってしまった。
エンキはやれやれと思いながら、エレオノーラに毛布をかけてやった。そして自分もベッドに入り、眠ることにした。




翌日、彼は彼女に叩き起こされることになる。
もちろんそれは、旅が始まって以来初めてのことだったし、最後のことでもあった。

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