| エレオノーラは目覚めて、しばらくベッドの上でぼぅっとしていた。エンキはまだ眠っているが、物音を立てればすぐにおきるだろう。だから彼女はそっとベッドを下り、音を立てないように風呂場へのドアを開けて、閉めた。
 脱衣所で服を丁寧に脱ぎ、たたむ。それから髪を濡れないように上げようかと手を頭の後ろに回したが、やはり髪は洗おうと思いそれはやめた。
 風呂の扉を開け、少し低い床に足を下ろす。床は乾いていた。
 エレオノーラは固定されているシャワーの下に立ち、コックを捻る。
 ちょうどいい温度の水が髪をぬらし、肌をぬらしていく。
 黒髪の間に指を入れ、頭皮を揉み解す。ふと右手側にある小窓に目をやる。この宿はここいら近所の中では一番背が高い建物で、四階建てだ。隣の建物は二階建てだが、小窓からはかろうじて三角屋根のてっぺんが見えるほどだ。
 エレオノーラは小窓から目を離し、石鹸を手に取った。それを泡立て、体をつつませる。
 エレオノーラは満足するまで体を洗うと、再びシャワーを浴びた。まず頭から水をかぶり、そして胸や腹についた泡を落としていく。
 その時だった。
 ふと視線を感じたような気がして、エレオノーラは小窓の方に無意識に目をやった。
 
 そして、ソイツと目が合った。 
 エレオノーラはソイツと目を合わせたまましばらく呆然とシャワーを浴びていたが、我に返るとソイツを睨みつけたまま後ずさりした。後ずさりして……後ろ手で脱衣所への扉を開ける。 
 そしてくるりと身を返しながら乱暴に扉を閉めた。 
 
 
 ガタン、ガタンと五月蝿いな、とエンキは眠りながら思った。そして起きなくては、と思い徐々に意識を覚醒させていく。そして、まさに意識が覚醒し終え目が開くと言うときだった。
 「エンキ!!」
 その呼び声でエンキは目を開くと同時に体を素早く起こした。
 その胸に何故かエレオノーラが飛び込んできた。
 「エレ――」
 彼女の名を呼びかけて、エンキは絶句する。
 ――はだかだ。
 いや正確にははだかではない。
 “はだかにタオルを一枚”巻いているのである。
 飛び込んできた彼女を支えようと肩に触れる――だがそこは濡れていて、エンキは薄皮が触れると同時にぱっと手を離した。それから手は中空をさまよい、結局ベッドの上に置かれ二人分の体重を支えることとなった。
 髪も顔を濡れぼそり、エレオノーラは困惑顔でエンキを見上げている。――……タオルの胸元を押さえながら。
 タオルに包まれていない部位は触ると柔らかそうだ。白い肌はやはり水に濡れている。
 エンキは天井を――ではなく、天を見上げた。
 「ど、どうした?」
 「風呂場の外に――、人がいて――見ていた……の」
 「は?」
 エンキは反射的に視線を戻した。エレオノーラは完全に彼の膝の上に乗っかってしまっている。たぶん勢いでこんな格好になってしまったのだろう。それは考えないことにした。
 「なんだって?」
 「窓の外に人がいたの」
 エレオノーラの髪からぽたぽたとしずくが落ちて、エンキの服にしみをつくる。
 それも考えないことにした。
 「はい?」
 「だから、人がいたの!」
 エレオノーラにしては珍しく、悲鳴のような叫び声のようなヒステリックな声を上げた。
 エンキはその声で状況を把握し、エレオノーラを投げ出すようにベッドの上に置くと風呂場へと行った。
 
 間抜けなことにソイツはまだいた。
 茶色の短髪のヒョロリとした男だった。
 
 「なっ?!」エンキは仰天し、思わずくるりときびすを返した。そして寝室に戻ると得物を取り上げる。
 それから風呂場へ戻る直前、ベッドの上で呆然としているエレオノーラにこう言い放った。
 「体を拭いて服を着るように!それから髪も拭くこと!風邪引くぞ!!」
 こくこくとエレオノーラが頷いたのを目の端で確認する。それから再び風呂場に飛び込む。
 すると茶髪の男はくるりと背中を見せて一瞬消える。
 エンキはあわてて小窓から――ギリギリだった――体を乗り出した。
 男は隣の二階建ての屋根の上を軽い足取りで遠ざかる。
 「待て!」
 エンキは器用に体を捻って小窓から脱出すると、隣の建物の屋根に着地した。斜めになっている屋根に一瞬足を取られそうになったが、重心を移動させ平衡を保つと男の後を追った。
 男は明らかにのんびりと走っていた。だが何故かエンキは追いつけない。屋根の上だからだろうか。
 男が別の建物に飛び移ると、エンキもそれを追って飛び移る。そんなことがしばらくつづいた。
 そして男は今度平屋根の建物に飛び移った。エンキはそれに悪態をついた。男は飛び移ったが、その建物とエンキの足下の屋根には子供の背丈ほどの差があったのだ。
 男が屋根の上にしっかりと立つ。その時だった。男の左手側の空気がゆらゆらと揺れだし、人型の陽炎のようなものを作り始める。
 エンキはその光景に足を止め、思わず得物の柄を握りなおした。
 陽炎は色を纏い始める。人の肌の色、金の髪、そして銀の仮面。
 「お前は……」
 「はい、ご苦労様でした」
 金の髪に銀の仮面の男は、屋根の上でエンキに背を向けたまま立ち止まっている茶髪の男の額に手を伸ばした。
 すると男の体がぐにゃりと崩れ、さらさらと粉になっていく。粉は砂で、砂は風に流されて消えていった。
 「錬金術師。」
 呼ばれて金の髪に銀の仮面の男はにこりと笑う。屋根の上にはエンキと錬金術師の二人だけになった。
 錬金術師はすっと歩みだす。エンキは思わず身構えたが、彼は屋根の縁に来るとそこに優雅に腰を下ろして足を組んだ。それだけだった。
 「お久し振りです。ご記憶にあれば幸いですが」
 「あまり嬉しい再会とは思えんがな」
 「それは残念です」
 錬金術師は心底悲しげに胸に手を当てて感情を表現して見せた。
 エンキはもちろんそんなもの信じない。
 「何の用だ」
 「用、というか。あっさり引っかかりましたねぇ、貴方も。以前の貴方なら引っかかりもしませんでしたでしょうに」
 エンキはその言葉に一瞬眉を開いたが、すぐに顔を油断のないものに戻した。
 「何の用だ、と聞いている」
 錬金術師はにこにこ笑うだけで答えない。仕方ないのでエンキは話題を変えた。
 「さっきの男はお前が作ったのか」
 「ええ、土人形ですよ。ちょっと表面を細かくしただけで、簡単なものです」
 言い終えると、錬金術師は口元に手を当ててくつくつと笑い出した。
 「……何が可笑しい?」
 「いえ、本当になぜ引っかかったんでしょうかね、貴方。
 よく考えればわざわざ宿の3階の風呂を覗く努力家な覗きがいるとは考えにくいですが。
 いやはや、エレオノーラさんまで引っかかってくれましたしね」
 確かにそうだった。そのことに気づいて、エンキははっとした。
 「俺とエレオノーラを引き離したのか」
 「ええ、まぁ」
 その言葉にくるりとエンキは踵を返す。だが錬金術師がそれを引き止める。
 「エレオノーラさんには何もしませんよ。
 だいたい、何かするつもりならとっくにしています。このところお二人は別々なところで働いていらっしゃるではありませんか」
 「――……」
 エンキはその言葉に警戒しつつ向き直った。この男は、何をどこまで知っているのか。
 「ははは、警戒なさってますね」
 「あたりまえだ……それで何の用だ」
 エンキは得物を持ち上げ、切っ先を錬金術師の眼前へと突きつけた。
 錬金術師は肩の高さに開いた両手をあげてみせる。
 「用ですか。特に用はなかったんですが、お元気かなぁと思いまして」
 「摂政に何か言われたんじゃないのか」
 「トランキルス殿ですか。確かに早くしろ早くしろとはおっしゃいますが、そんなの私の勝手じゃありません?」
 「……は?」
 エンキは首をかしげた。
 ――コイツ、摂政の手下じゃないのか?
 するとまた錬金術師は笑い出す。
 「私は単なる、一時的な協力者にすぎませんよ……実際私の協力があの摂政殿の役に立つかは知りませんがね」
 その発言にエンキは無言で得物を錬金術師の顔に近づけただけだった。
 「おっと、危ないですねぇ」
 錬金術師は笑ったままだ。そして彼はあたりを見回す。
 「整然と整備された街だ……そう思いません」
 錬金術師は両手を広げて街を示す。眼下に広がるのは、規則正しい赤い屋根の列と放射状に広がる街の風景だ。
 「一人目の男がここを尋ねたとき、ここはただの草原だった。
 二人目の男が尋ねたとき、ここには貧しい村と強欲な役人が住む官舎しかなかった。
 ここは、二人目の男が思ったとおりに発展し続けている。彼が死んで何百年も経つのに」
 「……何の話だ」
 突然ワケのわからないことを話し始めた錬金術師にエンキは困惑する。
 錬金術師はエンキが困惑しているのがわかっているのに、彼に話しかけてきた。
 「一人目の男も、二人目の男も、とうの昔に死んだのに未だに影響を残し続けている。
 ……あなたもだ。十五年前、あの国は貴方の“せいで”死んだのに、貴方は生きて民に希望を与え続けた。
 そして貴方の貴方たる所以の記憶を失った今も、民は貴方が戻ってくると信じ待ち続けている。無益なことです、なぜ“死んだもの”がいまだにこの世に影響を与え続けるのか?」
 錬金術師の声には静かなる怒りが含まれているようにも感じた。
 いわれのない怒り。底知れない怒りを感じ、得物を突きつけたままエンキは少し身を引いた。
 「……意味がわからん」
 「わからなくても結構……。別に貴方に答えを求めていません」
 エンキは少々脱力した。得物の切っ先を突きつけたままため息をつく。
 「で、特に用がなくて、元気か確かめに来ただけなら俺もエレオノーラも元気だ。
 迷惑だからさっさと帰るなり消えるなりしてくれ」
 その言葉に錬金術師は怒りを消し、またにこやかな口調になる。
 「そんなに邪険になさらないでくださいよ」
 「邪険になさらないで、というなら厄介者にしてやろうか」
 エンキは得物を構えなおすと、左足を一歩引いた。
 「去れ」
 そしてそのまま得物を横に引き、反動をつけて戻す。狙ったのは錬金術師の首だった。だがそれも一瞬遅く、錬金術師は掻き消える。
 エンキ自身、錬金術師の首が刎ねられるとは思っていなかったので驚かない。
 得物が首を刎ね損ねて止まったところのすぐ横に、錬金術師は再び現れていた。
 そしてにこやかに歌うような口調で言う。
 「貴方に私は倒せない。この時代の如何なる者にも私は殺せない」
 「それはよかった。こっちも手間が省けるよ」
 エンキの皮肉めいた言葉に、錬金術師は肩をすくめた。
 「さて帰れと言われたので帰ります。“邪王の娘”によろしくお伝えください」
 「考えておく」
 エンキが答えると、さわさわと風が吹き出した。錬金術師は手を広げる。
 「あ、そうそう。貴方、面白いモノに好かれましたね。
 今日は一旦帰りますが、これから楽しまさせていただきますよ」
 エンキはその言葉を咀嚼するのに少し時間がかかった。その間に錬金術師風へと解け始める。さらさらと砂のように風に乗っていく部分もあれば、陽炎のように消えていく部分もある。
 「待て、それはどういう意味だ?」
 エンキが遅れて聞き返した時には錬金術師はほとんど消えかかっていた。
 「それは後をお楽しみに。ではさようなら」
 にこりとした口調だけが響き、エンキの視線の先にはなにもなくなった。
 エンキは深く深くため息をついてから、得物の柄の尻を屋根についた。そして疲れたように肩を落とす。
 「おおーい!」
 そこへ足元の方向から声がかけられる。屋根の向こう、通りのほうだ。エンキはそっちに歩んでいって下をのぞいた。
 野次馬と馬に乗った制服の男が二人いた。――二人の男はこの街の警備隊である。
 「キミ、なにをやっているのかね?!降りてきなさい!!」
 エンキはしまったと額に手をやった。
 
 
 
 結局エンキは何とかして地上に降りると、最寄の警備隊の詰め所に連れて行かれ、三十分ほどじっくりしぼられた。覗き?覗きが屋根登るかね。不自然じゃないかね。だいたい覗きになんでそんな大きな刃物が必要なのかね。ところで君は引き取り手はいるかね、等々。
 エレオノーラに迷惑をかけたくなかったので――というより何かどことなく情けなかったので、エンキは一人で帰れる、と言って詰め所を出してもらった。
 青竜偃月刀を肩に担いで、3階分の階段を登る。
 がちゃりとドアを開けると、きっちりと服とマントを着込んだエレオノーラがいた。
 「お帰りなさい。……遅かったわね、どこまで追いかけてきたの?」
 「いや……」
 エンキは言葉を濁す。得物を手近な壁に立てかけるとため息をついた。
 「部屋、換えてもらうか?」
 「ううん、大丈夫よ。ごめんなさいびっくりしたものだから」
 と言いつつエレオノーラはため息をついた。
 「錬金術師……」
 「え?」
 覗きは錬金術師だった、と言いかけてエンキはやめる。そういえば結局土人形を通してエレオノーラの裸を見たのか問いただしていない。
 「錬金術師、がいた」
 「……そう」
 エレオノーラには覗かれたショックがわずかながら残っているらしい。反応が鈍い。
 「……それで、今度は何?」
 「特に用はなかったらしいんだが、気をつけたほうがいいかもしれん。あれは絶対に何かする気だ」
 「……」
 エレオノーラは考え込んでいた。
 「……あんまり考えたって仕方なくないか?」
 エンキはあまりにも真剣な様子の彼女にそう言った。何をしてくるかわからない相手には対処のしようがない。ただ用心するだけだ、と。
 だが彼女の口から出たのはエンキの意表をつくものだった。
 「ねぇエンキ、あなた明日お休みをもらっているのよね?」
 「うん?」
 「ということは今日はお休みじゃないのよね?」
 エレオノーラが小首をかしげてエンキを見上げる。
 「ああ、そうだが――」
 「乗合馬車、行っちゃったんじゃないかしら……。私は今日は午後から仕事だけれど……」
 「!」
 言われて、エンキは慌てた。そう、彼には郊外の牧場での仕事があるのだ。
 「遅刻だ!完全に!」
 エンキは慌てて必要なものを纏めるとドタバタとドアを開けて出て行った。
 それをため息をついて見送ったエレオノーラだったが、ふと先ほどまで自分がしていたことを思い出して慌てて彼の後を追った。
 「待って、お弁当……!」
 
 
 結果的には牧場へは二時間遅刻した。
 だが詰め所でやられたようにしぼられることはなく、厩務員頭に白い目で見られ「以後気をつけるように」と言われるだけで終わった。
 二時間分余計に頑張るしかなかったが、覗きの件からして疲れているので頑張りきれるかは謎であった。
 だがいざ厩舎に行くと、昨日よりも厩務員たちの態度が軟化していた。
 「おぅ、兄ちゃんどうしたんだ遅刻なんて」
 「アレだろぅ?昨日の夜は連れのねーちゃんとヨロシクやって起きられなかったんだろ」
 と、厩務員たちはガハハと下品に大声で笑い始めた。
 ――軟化してくれないほうがよかったかもしれない……。
 エンキは頭を抱えつつ藁積みの仕事へと向かった。
 ザックザックとフォークで藁をすくい、積み上げる。
 それを何度か繰り返す。その間に他の厩務員は放牧場に馬を出したり、競走馬を調教師のところまで連れて行ったりしている。
 エンキは、いらいらしたことを藁にぶつければいいことに気づき黙々と仕事をした。
 ――これは頑張りきれるかもしれない。
 藁積みの後は飼葉桶を洗う仕事が待っていた。猫車を押して飼葉桶を回収するところからはじめなければならない。一人での作業だ。
 馬は今放牧か調教中なので、厩舎の中はがらんとしていた。
 エンキはもちろん無言で――少々乱暴に――桶を回収していく。そして最後の桶に手をかけたときだった。
 奥から、ぬっと何かが首を伸ばしてきた。
 「!」
 エンキが思わず手を引っ込める。するとそいつはエンキの方に首を伸ばしてきた。
 それは見事な黒い馬だった。そしてそいつがいるそこは、エンキがここで働き出して以来いるはずの馬がいなかった場所でもあった。
 「びっくりした……サライ、だったか?」
 エンキは思わず微笑み、黒い馬に話しかける。すると馬はそうだと言わんばかりに鼻を鳴らした。
 「ひとりで帰ってきたのか?……他の人は知ってるのか」
 サライは親しげに鼻面を寄せてくる。エンキも思わず手を伸ばしかけたが、途中でやめる。
 「ごめんな、触るなって言われてるんだ」
 エンキが律儀にそう言うと、サライは大きな瞳を悲しそうな色に染めて耳を後ろに向けた。エンキは苦笑しながら二、三歩後ずさってサライを見た。
 「……やっぱりな、お前はいい馬だ。
 本当なら人間になんか捕まるようなヤツじゃないさ。そうだろ?」
 サライはそれに答えるようにいななく。エンキは首でも優しく叩いてやりたいところだったが、我慢した。
 「あ!」
 誰かがサライの声に気づいたらしい。エンキはしぶしぶ飼葉桶を回収した。
 「サライ!帰ってる!」
 誰か、はロイだった。
 「うっひゃー、こいつ自分で戻ってきたのなんて初めてっすよ!」
 「そうなのか?」
 「そうそう、いっつも引っ張られて戻ってきてたから……逃げると」
 ロイが近寄ると、サライはその胸を鼻でどつく。ロイはよろけながらも笑った。
 「サライはホントにじゃじゃ馬だけど、悪いヤツじゃないっすよ。
 逃げるけど、意地の悪いことはしないし。オレのこと馬鹿にしないし」
 ロイはよしよしとサライを撫でてやる。エンキは腕を組んでそれを見ていた。
 「サライはアーニャの馬なのか?」
 「そうっすね。捕まえて引っ張ってきたときにたまたまお嬢様が来てて『わたしが貰うわ!』と宣言なさっていたので。
 サライの方は納得しかねているみたいですけどね、捕まったこと自体」
 「どうやって捕まえたんだ?」
 ロイはサライの首を撫でながら、エンキの質問に答えた。
 「誰だったかなぁ。ともかく、誰かが草原をうろついているサライを見つけたんですよ。
 最初はあんまり立派な馬だったからどこかの牧場から逃げてきたんだと思ったらしいんですけど、焼印とかなかったし近づくと逃げたんで野性だろうってことになったらしくて」
 「捕まえた、と」
 「そっす。」
 サライはロイに飽きたのか、再びエンキの方へと首を伸ばしてきた。エンキは残念そうにそれを眺める。すると、ロイが小声で言った。
 「サライ、エンキさんが好きみたいっすね。誰も見てないから、大丈夫っすよ」
 「君が見てる」
 「オレの目はフシアナっす」
 ロイは笑って言う。それに押されて、エンキはサライに歩み寄りその鼻面を優しくたたいてやった。サライは嬉しそうにエンキの胸に鼻を寄せる。
 「……昨日はすまなかったな」
 サライを撫でながら、エンキはロイに言った。ロイは何のことだかわからなかったのか、首をかしげる。
 「俺のせいでアーニャに言われただろ。……悪かった」
 「ああ、別に気にしてないっす。びっくりはしたけど」
 ロイは本気でそう思っているようだった。そしてそれよりも、と口を開く。
 「お嬢様のあの惚れっぽさには参るっすよ。だから最近全然若い厩務員が居ついてくれなくて……少しでも顔が良かったり優しかったりするところっといっちゃって付きまとうようになって、みーんな辞めちゃうんすよ。おかげで万年人手不足」
 はぁ、と若い厩務員はため息をついた。エンキは苦笑する。
 「君は無事なんだな」
 「オレ?オレっすか……。このほっぺのそばかすに感謝っす。」
 ロイは苦笑して、誰か呼んでくるっすとその場を去った。
 エンキはもう一度サライの鼻を撫でて首を叩くと、猫車を押して洗い場へと向かった。
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