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「魔法使いと記憶のない騎士」
第三十二話
皇国首都へ
―真言主―

数日後。
エレオノーラとエンキと青毛の馬のサライは石畳の道をはずれ、草の生い茂る土の上で休憩していた。
エンキはちょうど席を外していて、サライは草を食んでいる。
エレオノーラはとくにすることがないので、サライの顔の前にしゃがんで草を食む様子を観察していた。
「おいしい?」
サライは無言だ。
エレオノーラは石畳の大街道の方に視線を移す。さすが首都へ通じる大街道というべきか。
行き交う人は多く、そして彼らの格好は様々だ。
貴族の馬車、荷車を引く行商人、飛脚、吟遊詩人、親子連れの旅人、奉公先へ向かうらしい少年少女とその保護者。ざっとみただけでそれらの人々が確認できる。
エレオノーラがそれを何気なく眺めていると、サライが鼻先で肩をつついてきた。
つぶらな瞳は何かを訴えている。
エレオノーラはしばしその瞳を見つめた後、彼女――実はサライは雌だったのだ――の要求を当ててみせた。
「お水が欲しいのね?」
エレオノーラはサライの背中に回りこみ、皮でできた水筒をひとつ彼女の背から下ろした。もちろん馬用の水筒である。そしてサライの前でそれを開けてやる。するとサライは水筒に鼻先を突っ込む。
がぶがぶと音を立てて勢いよく水が減っていく。エレオノーラは苦笑した。
「また水を買わなきゃね。あなた馬にしてはよく飲むわ」
その言葉を聞くと、ひょいとサライは水筒から顔を上げた。エレオノーラは慌てていい足す。
「もういいの?責めてるわけじゃないのよ?」
しかし、サライはぶるると鼻を鳴らした。耳は警戒する様に前へとしっかり向けられている。どうやらエレオノーラの言葉に水を飲むのをやめたわけではないらしい。
エレオノーラは水筒の口を縛ると、振り返った。
珍しいことに、人の往来が途切れていた。誰もが足早に去った空気だけがそこには残されていた。
「よぉ、お姉さん」
みれば、にたにたと笑う二人組みの見知らぬ男がいた。どうもこいつらのせいで人がいなくなったらしい。
エレオノーラは返事をせず、サライの横に回りこんで皮袋の水筒を元のとおりに彼女の背に任せた。それからサライの手綱を取り、歩き出す。
「おお、つれないねー」
だが二人も歩み寄ってくる。エレオノーラはため息をついた。サライはぴくぴくと耳を動かす。
「お姉さん、一人旅?いい馬だねー」
「一人だと心細いでしょ?どこまで行くの、護衛してあげるよ」
一人に背後に立たれ、もう一人に前に回りこまれたので彼女たちは立ち止まるしかなかった。
「結構よ。募集の張り紙なんてだしてないわ」
サライもそうだと言わんばかりに喉を鳴らした。
この手の男たちはだいたいがならず者か職にあぶれたものたちで、よしんば目的地まで護衛してくれたとしても相場の三倍ぼったくられるのがオチだった。ついでに言えば金の他にも失うものが多いのが現実だ。
「まま、そう言わずにさぁ」
「そうそう、オレたちゃ夜のほうまでちゃあんとシゴトしますよ」
二人はさらに間を詰めてきた。エレオノーラは少し身を硬くする。サライはいらいらと右の前足で地面を蹴り始めた。
背後側の男はニタニタ笑ってエレオノーラの肩に手をかけた。その時だった。
男は肩にトン、という衝撃を感じた。そしてそれは冷たい。そちらを向くと、人の顔よりも大きい刃物が鈍い光を放ちながら肩に乗っかっていた。男は声を上げることもできない。
「うちの連れに何か御用か」
その肩に乗っている刃物はもちろん青竜偃月刀の刀刃で、その得物を操っているのはもちろんエンキだった。
背後にいた男はそぅっと手を肩の高さに上げる。
「そうだ、そのまま下がれ」
エンキは殊更低い声で命じた。男は素直に従う――かに見えた。
だが男は前に動いた。エレオノーラを突き飛ばし、エンキとは反対方向に逃げていく。もう一人は、エレオノーラが突き飛ばされた拍子にサライの手綱を放してしまったのを見逃さず、サライの手綱をとり強引に連れて行こうとした。
だがこの暴れ馬、そうは問屋がおろさない。
くるりと男に向かって尻を向けたサライは狙いすまして後ろ足を振り上げた。
男はふごっと声を上げて吹き飛ばされ、石畳に背中から叩きつけられた。
一方、もう一人はそんな仲間に目もくれず一目散に走り去ろうとしている。エレオノーラは反射的に腰に手をやり、はっと気づいた。
「財布を盗られたわ!」
言うが早いか、エンキは駆け出す。そして青竜偃月刀の間合いに男を追い詰めると、くるりと得物を返し鈍器である柄の尻の方を男の足めがけて振り払った。
めき、というなんとも表現しがたい音がして男はもんどりうった。そして地面へと倒れこむ。
おそらく男の足の骨は砕かれたことだろう。エンキは倒れた男の傍らに膝をつく。男は白目をむいて気絶していた。ため息をつきながらエンキは男の手の中から財布を取り返した。
それから立ち上がり、振り返る。
視線の先で、サライが自慢げに尾を振っていた。エレオノーラは石畳に叩きつけられた男の様子を見ている。
「……死んだか?」
「気絶してるだけみたい」
二人はサライの元に戻ると、顔を見合わせてため息をついた。
「で、コレどうする?」
「大街道はローランド警備隊の重点警備地域になってるわ。
ほっとけば三十分後くらいに警備隊が回収してくれると思うけど」
「そうか、じゃあ急いだ方がいいな。幸い誰にも見られてない」
エンキはそう言うと、サライにはこう言った。
「二人乗るぞ」
サライは任せて!という感じの声を上げた。
エンキはエレオノーラをサライの背に乗せると自分はその後ろに座った。鐙に足を乗せる。
「走るぞ」
エンキはそう言うと、サライの腹を蹴った。サライは二人も乗せているのにも関わらず、軽快に走り出した。
首都まであとわずかである。



ローランド首都。
この国は“王よりも高きところにある”といわれる皇帝によって治められている。
皇帝は首都の中央の宮殿に住まい、そこから国を取り仕切っている。
その宮殿の程近くに、白亜の壮麗な建物がある。ローランド最高裁判所である。
不思議なことに、この“王よりも高きところにある皇帝”に治められているこの国には、その皇帝をも取り囲み国を秩序建てる存在がある。それは、“法”であった。
最高裁判所と呼ばれるこの白亜の建物は、その法を司り行使する場であるのだ。
その中の最も奥、大法廷では今重要な問題が審議にかけられ、そして判決の時を待っていた。
傍聴席は百席あるがそのほとんどが埋まっている。見れば、傍聴人はみな貴族の格好をしている。
一方裁判官の席には何ものにも染まらぬ黒の法衣を来た男女が7人。その中央の裁判官、つまりローランド皇国の最高法務官である裁判長が槌を取り上げた。
カン、カン、という乾いた音が大法廷に響く。
「――よってヴァリフォン大公領の独立は法的に認められぬ」
裁判長の下した判決に、告訴人側は落胆したようだった。一方、訴えられたらしい側はいかにも満足げだ。
「――だがしかし、私はある可能性を申し上げたい。
ヴァリフォン大公領の生産性と発展性が今後このまま成長し続けるのであれば、独立は難しくとも自治を得られる可能性はあるでしょう。
ローランド皇国法第246条は、自治の可能性について述べている。
皇帝陛下および議会には、その可能性を常に考慮し判断していただきたいと存じます。」
裁判長はそう付け足した。だがその口調はいやに平坦で、どちらの味方をする様子も無い。
しかし今度は告訴人側が喜ばしそうな雰囲気になり、もう一方は苦い顔をした。
そして、裁判長は再び槌を振り下ろした。今度は三度音が響き渡る。
「――これにて、ローランド皇国最高裁判所大法廷を閉廷する。」



法衣を脱いで、男は裁判所を後にする。そして自分の馬車に乗り込み、商業区へと向かうように御者に命じる。
馬車が動き出すと、男は瞑想するように目を瞑り目的地に着くのを待った。
十五分ほどして、馬車が止まる。男はドアが開けられるとすっと地面に降り立った。
「あら!裁判長どの!」
そこは色とりどりの花を店先に飾った花屋であった。奥から馴染みの店員がにこやかにやってくる。
男は肩にかけたコートを押さえながら店の中に入る。そのしぐさはどこか優雅で自信に満ちている。すこし古い言い方かもしれないが、伊達男、というのが男にとても似合いそうな言葉であった。
「やぁルーシー、今日も元気そうで何より」
男は先ほどの大法廷で中央に座っていたこの国の最高法務官であった。
だが男の態度は気安いもので、店員は変にかしこまったりする様子はない。
ルーシーと呼ばれた店員はあたりを見回すと、そっと小さな声で男に質問した。
「大公領はどうなりました……?」
だが男はその質問ににっこり笑うと、自分の唇の前に人差し指を立ててこう言った。
「それなら今、新聞屋がいそいで号外を刷っているところだろう。あと一時間もすればここいらでも号外の声が響くさ。それまで楽しみにしていなさい」
「はぁい、裁判長どの。
……それで、今日のご注文はいつも通りでよろしいですか?」
「ああ。だけれど、とびきり大きなヤツにしてくれ」
「かしこまりました」
店員は奥のカウンターに引っ込み、男の注文をこなし始めた。
男はなれたもので、店の花を見て回る。その間、馬車と御者はじっと辛抱強く主人を待っている。
男は桃色の花びらを持つ可愛らしい花に目を奪われていた。が、それもつかの間で男はふいに顔をあげ店の外へと視線を移した。それから男は店を出る。御者がすぐに駆け寄ってきた。
「わたしのステッキを」
御者は一つ頷くと、すぐにステッキを主人に差し出した。男はステッキで石畳を突きながら、まっすぐに斜め向かいの店に歩いていった。御者は馬車の前に戻り、また待つという仕事をこなすことになった。
男が向かった店は、庶民向けの宝飾店であった。むきだしの商品陳列はまるで露天商の店のようだ。その前にちょっとした人だかりが出来ている。
男は臆することなくその人だかりの中央へと入っていった。野次馬たちは男の顔を見ると驚いて道を開ける。
人だかりの真ん中には3人の人物がいた。
1人は店の店主らしい年配の男で、もう一人は彼に腕を掴まれている下級市民らしき少年、それから下級貴族らしい少年であった。
「どうしたのかね」
男は3人に言葉を投げかける。
すると3人はこんなところで大法廷の裁判長と出くわすとは思っていなかったらしく一様に驚いていた。
だが店主は気を取り直すと、渡りに船とばかりに訴えた。
「ああ、裁判長殿!どうぞ聞いてやっておくんなさい!
このガキが、うちの商品を万引きしたんでさぁ!!」
そう言うと、店主は捕まえている少年の腕を捻り上げた。
捕まっている少年はうめいた。少年の暮らしは貧しいものらしく、ズボンの膝と上着の肘には継が当てられている。だがその継も瑣末なもので、中に着ているシャツもぼろぼろで靴に至ってはつま先に穴が開いていた。
「違います!」
だが貧しい少年は、抗議の声を上げた。
「誓って言います!裁判長どの、ぼくは万引きなんてしていません!ただネックレスを見ていただけなのです。なのに、二人が――」
「往生際がわりぃガキだな!」
店主が少年を叱咤した。貧しい少年は目に涙を溜めて首を振った。
それを見て男はしずかに声を出す。
「二人、とは誰かね」
「はい、この店の人と、その子です」
貧しい少年は空いている方の手で下級貴族の少年を指し示した。すると貴族の少年はぱしっとその手をはじいた。
「指をさすなんて無礼なヤツ!
裁判長どの、ボクは確かに見たのです、コイツがイヤリングを盗むところを!」
貴族の少年は自信満々に言った。
男はひとつ頷くと、店主に向かっていった。
「まず君はその子の手を放したまえ。逃げられはしないよ、こんな人だかりになっているのだから」
店主はしぶしぶといった体で少年の腕を放した。貧しい少年は涙目のまま腕をさすった。
男はそれに頷くと、3人を横一列に並ばせた。
「まずわたしに整理させてくれたまえ。
3人が揉めた理由は、アクセサリーが一つなくなったことだと見ているのだがどうだね。」
「はい、そうです。」
店主は帽子を脱いで慇懃に答えた。ついで貴族の少年が声を張り上げる。
「なくなったのは、イヤリングです!」
「確かかね店主」
「はい、裁判長殿。たしかにイヤリングが一そろい足りなくなっていました」
そこで貧しい少年が声を上げようとした。だが男はそれを制する。
「では、こう言う事だな。
君――つまり捕まった少年はネックレスを見ていた。
そしてその間にイヤリングが一そろい消え、店主はそれに気づき、もう一人の君が捕まった少年がイヤリングを盗んだと証言した。そうだね」
「はい」
「では聞こう。証言した少年よ、君は確かに捕まった少年がイヤリングを盗むところを見たのかね」
「はい!見ました!ズボンのポケットに隠していました!」
すると貧しい少年はそれを聞いてまた抗議しようとした。だがまた男に制される。
「それはどちらのポケットかね」
「ええと、ええと……、確か左のポケットです!」
男は一つ頷いて二人の少年を見比べた。それから今度は店主に質問を投げかける。
「店主、あなたは捕まった彼がイヤリングを盗むところを見たのかね?」
「いいえ」
「ではなぜ証言した少年の言葉を信じたのか?」
「貴族の坊ちゃまを疑うことなど、あってもいいのでしょうか?」
店主の言葉に男はふむと頷いた。最後に貧しい少年に質問をする。
「君はなぜこの店でネックレスを見ていたのかね?」
「はい、裁判長どの。じつは近々、姉が結婚するんです。それで贈り物を選ぼうと思ってネックレスを見ていました」
「失礼だが、持ち合わせはあるのかね」
「はい、裁判長どの。これです」
そう言うと貧しい少年は右のポケットから一枚の銀貨と五枚の銅貨を取り出した。
店主がそれを見て鼻で笑う。
「それじゃあ、おもちゃしか買えないぜ」
男はちらりと視線を店主に移す。
「3人の言い分は確かに確認した。店主、あなたは一歩下がっていたまえ。
では少年たち、次の段階に進もう」
少年たちは素直に従う。男はステッキを掲げてみせた。
「捕まった少年、わたしは今から君にこのステッキを投げる。そうしたら君は、片手でこれを受け取りたまえ。片手で、だよ。取り易いほうでいい」
「はい」
男は優しくステッキを放った。すると貧しい少年は右手でそれを受け取った。男はまた頷き、ステッキを返してもらう。
「証言した少年、位置関係を教えてくれたまえ。この店は中央に通路があり、正面から見て左側に指輪とイヤリングとピアス、右側がネックレスとペンダントの売り場になっている。
君はこのことを見たとき、どこにいたのかね」
「ええと、ボクは左側、ちょうど隣の店との境あたりから犯行を見ました。
彼は何気ない風を装って、左手でイヤリングを一つ掠め取るとまた何気ない風を装ってペンダントを見ていました」
貧しい少年はふるふると首を振って男に訴えた。男は何も言わない。
「……双方の言い分はわかった。
では、捕まった少年よ上着を脱ぎたまえ」
男がそういうと、貧しい少年は驚き貴族の少年は会心の笑みを浮かべた。誰もが男が貧しい少年にステッキで罰を与えようとするのだと思った。
貧しい少年は逆らうことが出来ずに上着を脱いだ。その目からは涙が零れ落ちている。
だが男の意図は、違った。
「証言した少年よ。尋ねよう。彼はどちらのポケットにイヤリングを入れたのかね」
「!!」
誰もが驚いて息を呑んだ。上着はちょうど少年のズボンのポケットのあたりを覆い隠していたのだが、上着が取り払われるとポケットが丸見えになった。
少年のズボンには右のポケットしかなかった。
「……左のポケットはあるかね?」
「いいえ、裁判長どの!」
「じゃ、じゃあズボンの中に隠したんだ!」
「裁判長どの、ぼくは潔白です、誓って!!」
男はそれを聞いて、すっと右手を肩の高さに上げた。
「では二人とも、誓いを立てよう。
自分の証言に嘘偽りは一切ないと。」
すると、貧しい少年は右手を肩の高さに上げて膝を地面についた。宣誓の姿勢である。
「大地母神、天空父神、そして地上の統治権を任せられた皇帝陛下に誓います。
ぼくの言葉にこれまで一切の偽りはなく、またこれからも嘘はつきません。
この誓いの証人に、裁判長どのを迎え入れます」
たどたどしい宣誓であったが力のある言葉たちであった。男は頷くと貴族の少年の方を向く。
「君も誓いたまえ。君は確かに見たのだろう?」
「……」
「見間違いというものもある。それならば許される、さぁ誓いなさい」
貴族の少年は後ずさりはじめた。まさか、という目で店主は貴族の少年を見た。
男は、ステッキを再び掲げた。
「これを受け取りたまえ」
そうして優しくそれを放る。すると貴族の少年は左手でそれを受け取った。
男はステッキを少年から回収する。
「左手で盗み――、左のポケットへ入れた――
……少年よ、右利きの人間の左手はひどく不器用だ。利き手が左の人間の右手が不器用なように。
盗みの習慣というのは利き手につくものなのだよ」
「じゃ、じゃあ左っていうのは見間違いだったんだ!彼は右のポケットに――」
「彼は右のポケットから、先ほど躊躇することなく小銭を取り出して見せてくれた」
男はステッキで貴族の少年のスボンの左側を指した。
「ポケットをひっくり返したまえ」
少年は明らかに動揺し始めた。男はステッキを納めると、静かに待った。
しかし貴族の少年は一向にポケットをひっくり返さなかった。その代わりに、地面に膝をつく。だがそれは宣誓のためにではなかった。
「お願いです、裁判長どの、父には言わないでください!
この通り、イヤリングはお返しします――」
懇願のための姿勢だった。左のポケットからイヤリングが出てくる。店主はあっと声を上げた。
男は表情を変えず、じっと貴族の少年を見下ろしていた。
「……君のお父上には、君を寄宿舎に入れたほうがいいと話そう」
「?!
き、寄宿舎なんて嫌です!規則はガチガチだし、好きなときに好きなことは出来ないし、母上と離れ離れになる!絶対に嫌です!」
「いいや、寄宿舎はとても良いところだ。
規則を学べるし、自律と自立の術を学べる、じつに素晴らしいところだ。
今はわからないかもしれないが2、30年後に君は寄宿舎に入ったことを感謝するようになるだろう!」
男がそう言い放つと、少年はわっと泣き出した。男は深く深くため息をついた。
それから男は貧しい少年の方に向き直った。
「さて、君の潔白は証明された。これで君ははれて自由の身だ」
貧しい少年は顔を輝かせて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!裁判長どの!!」
「確か、お姉さんが結婚だと言ったね」
「はい」
男はにっこりと笑って、自分のポケットを探った。
「さあ、わたしからのお祝いだ」
そう言ってカサカサな少年の手をとり、そこへ祝いを置いた。
それは三枚の金貨だった。少年はびっくりして男を見上げた。
それは下級市民が三ヶ月は悠々と暮らせる額なのだ。
「いただけません、こんなに!」
「いいや、受け取りたまえ。それはお姉さんへのお祝いと、君の嘘をつかない勇気と、君を立派に育てたご両親への贈り物だ。
それでお姉さんとご両親と何か美味しいものを食べるといい。
――それと、この店より安くていい品物が手に入る店を紹介しよう」
「あ、ありがとうございます!!」
それから男はちらりと店主の方を振り返った。
「……あなたも災難だった、と言いたい所だが……。
……あなたはすべての左手が罪を犯すわけではなく、またすべての右手が潔白でもないことを知った方がいい」
「は……はあ?」
店主は男の言葉に首をかしげた。男はため息をつき、くるりと踵を返す。
すると固唾を呑んでやり取りを見守っていた野次馬たちがざっと彼のために道を開けた。
男は苦笑する。それから貧しい少年に手招きをした。二人はまるで花道のようになった場所を通り抜ける。
そして開けたところで男は立ち止まり、貧しい少年に言った。
「この先の路地裏に、看板を掲げていないが宝飾品を飾っている店がある。
ウィンドウには首飾りがひとつ飾ってある。それが目印だ。
そこにいきなさい。職人は頑固だが、人はいい――きっと君にいいものを売ってくれる」
そう言うと、少年は深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました!」
「なに、正しく物事を判断するのがわたしの仕事だ」
少年はもう一つ頭を下げると、言われた路地に向かって走り出した。そして路地を曲がる手前で、また振り返って深々と頭を下げた。
男は微笑んで手を振る。
「……さて」
思いのほか、時間がかかってしまった。花屋の注文はとっくに出来上がっていることだろう。
男は急いで斜め向かいの店に戻ろうとした。
「クラウディース卿」
だが男は呼びかけられて、ぴたりと立ち止まった。
それは若い女の声だった。
声がした方向を見ると、旅姿の女が一人立っていた。女はとびきりの美人で、黒い波打つ髪に紫の瞳を持っていた。
女は綺麗に腰を折る。
「お久し振りです。
ご記憶にありますでしょうか、私は――」
「待て」
男はステッキを持ち上げて女を制した。
「いやいやいや、こんな美人さんは知り合いには一人しかいない。
当てて見せよう!」
そして男は顎を撫で始める。
「君は――そう君に最後に会ったのは十年と少し前だ。
家はラボレムスの山の中だったね。泣き虫で怖がりだった――そう。
ご両親は君をノーラと呼んでいたのではないかね?
……我が友人の娘、エレオノーラどのだな?」
懐かしい声に名前を呼ばれて、エレオノーラは顔をほころばせた。

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