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「魔法使いと記憶のない騎士」
第三十三話
ランドマール伯爵邸
―名家クラウディース―

タイベリウス=ギュスターヴ・クラウディース。
ローランド皇国ランドマール伯爵。
そして彼は同時にローランド皇国における法務官の最高位につく人物、つまり大法廷の裁判長である。
体つきはがっしりしている。だがいかついというほどではない。
歳は五十過ぎ。だが黒い髪に白髪はなく、若く見えることがある。
家族は妻が一人に、子どもが四人。
性格はいたって温厚で、博愛主義者。愛妻家としても有名である。
だがもう一つ、彼には一般になじみのない顔を持っていた。
「あんなにまどろっこしいことをなさらなくても、初めからすべてお見通しだったんではないのですか、“真言主(しんごんぬし)”」
“真言主”――それが彼の知られざる顔であった。
真理なる言葉を知り、真理なる言葉を操り、それによって様々な現象を起こさせるという、一種の“賢者”。それが真言主だった。
だがその存在は“真理なる言葉”とやらが“簡単で難しい”ために人にはあまり知られていない。
「エレオノーラ、いいかい。最初からわたしがすべてをわかっていたとしても、それは大して重要ではないんだ。
あの場面で重要だったのは、二人の少年の精神面での成長だ。
それを促す作用をわたしは与えたに過ぎないんだ。わかるかい?」
「なんとなく」
エレオノーラがそう言うと、クラウディースはからからと笑った。
「ああ、それにしても久し振りだエレオノーラ。
十年間ずっと探していたんだよ」
クラウディースはエレオノーラに歩み寄るとまさに父のように彼女を抱きしめた。
それから彼女を離すと、顔をしかめて言った。
「一体どこにいたんだい。わたしは君の父から君の事を頼まれていたんだ。
でも彼の葬式には間に合わず、ラボレムスに着いたときには屋敷は荒らされていた。
しかし……無事でよかった。少々大きくなっているが」
それからまたエレオノーラは抱きしめられる。エレオノーラは子どものように彼に身を任せた。父親独特のにおいがする。
「まぁ、裁判長どの!」
そこへ花屋のルーシーが声をかけた。大げさに驚いている。
「愛妻家で知られるクラウディース卿が若い娘さんと浮気ですか?これは大変!
号外ものですわ!」
そう言われて、一瞬二人はきょとんとした。そしてエレオノーラは慌てて説明しようとした。だがその前にクラウディースの大きな笑い声がそれを吹き飛ばした。
笑いを収めると、彼は言う。
「ああ、ワタシによしんば愛人がいたとしても私の奥さんには絶対に、そして永遠に敵わないよ!
なぜなら彼女と世界中の他の女性の間には、考えられないほど大きな溝があるのだからね。
しかし残念ながら、この彼女はわたしの友人の娘だ。号外は出ないぞ」
するとくすくすと花屋は笑う。どうやら冗談だったようだ。それもそのはずで、クラウディースの愛妻家としての評判は国中に知れ渡っているのだ。エレオノーラも笑うしかない。
花屋は笑いを納めると、改めてクラウディースに言った。
「そうそう、ご注文の品できましたよ」
「そうか!」
クラウディースは花屋へと入っていく。エレオノーラはどうしようかと思ったが、花屋の前で待っていることにした。
数分後、出てきたクラウディースは大きな霞草の花束を抱えていた。
それは本当に霞草だけで出来た花束で、アクセントには鮮やかな緑色の葉しかない。
ふわふわしていそうで顔をうずめたくなるような花束だった。
「エレオノーラ、これはどうだ?」
とクラウディースは自慢げに花束を見せてきた。エレオノーラは笑う。
「素敵ですね。誰に贈られるんです?」
「もちろんわたしが花束を贈る人などこの世に一人しかいない。
さて、そのこの世に一人しかいない人も君の心配をしているんだ。会ってやっていってくれるね?」
「はい!」
エレオノーラは元気よく返事をした。そんな彼女にクラウディースは父親の笑みを向け、馬車に乗るように促した。
だがエレオノーラは首を振る。
「何故だね?わたしたちのところに来てくれたんではないのかね?」
「もちろん、そうです。
あのでも、こんなところで卿とお会いするとは思っていなくて……連れを喫茶店で待たせているんです?」
「……。連れ?」
エレオノーラの言葉にクラウディースは花束を抱えたままきょとんとした。



“連れ”はサライを馬屋に預けると、エレオノーラと共に喫茶店に入った。だがエレオノーラは注文したものが来る前に「ちょっと待っていて」と言ってどこかに行ってしまったのだ。下手に動くと迷子になることは確実なので、エンキは大人しくそこを動かずにいた。
それにしても足が少々だるい。
四人がけの席、しかもエンキはソファの席に座っていたのでこれ幸いと片足を空いている方の席に乗せて伸ばした。そうして、しばらく目を瞑る。
何分かが過ぎ、エンキがうとうとし始めたときだった。
トンっと唐突に、ソファに乗せている足を突かれた。
「?」
「足を下ろしたまえ。いくら男とはいえそのような格好はあまり感心できるものではない」
「……?」
見上げれば、歳は食っているが伊達男と呼ぶにふさわしい男が立っていて、持っているステッキでエンキの足を突いている。しかもしかめっ面で。
「??」
「……まったく、エレオノーラの連れというから期待してみれば……」
ぶつぶつと男は何やらつぶやいている。
――エレオノーラ?
「あの……?」
エンキは迫力に負けて足を下ろした。すると男の後ろからくすくすというエレオノーラの笑い声が聞こえていた。ひょいと体を動かしてエンキはそちらを見る。
「エレオノーラ?」
「ごめんなさい。エンキ、こちらクラウディース卿。以前から言っていた“真言主”よ。
そして卿、こちらが私の連れのエンキです」
「エンキ君というのか、よろしく」
クラウディースはそれまでのしかめっ面を引っ込めるとエンキに手を差し出してきた。エンキは戸惑いつつもその手を握り返す。
「タイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースだ。ランドマール伯爵、裁判官の仕事をしている。
エレオノーラの父とは友人で、わたしは生まれたころから彼女を知っている。
さて君はどんな人間かね?」
エンキはクラウディースの自己紹介とそれに続く質問にさらに戸惑いを強めた。
だが答えるしかないので、なんとか答えを搾り出す。
「……エンキ、です。
事情があって苗字に当たるものは覚えていません。それから出身も、生い立ちも。
エレオノーラは命の恩人です。それで、彼女にお世話になってます。
……今の俺にわかる自分自身のことはそれだけです。」
エンキは言い切ると、真っ直ぐに見てくるクラウディースの目を見返した。
エンキはてっきり、素性がわからないということを告白したらすぐに嫌悪の目が向けられると思っていた。
だがクラウディースの目の色はひどく深く非難の色はない。しかし同時になにか背筋がぞくりとするものを秘めていた。目が離せなくなる。この人の目から目をそらしてはいけないという、恐れにも似た感情が深い部分から湧き出してくるようだった。
だがその恐ろしさも一瞬のことで、エンキは真っ直ぐに背筋を伸ばした。
そして数瞬後、不意にそのクラウディースの瞳が微笑んだ。
「君は正直な男だな。
エレオノーラ、いい人を見つけたな」
クラウディースは振り返ってエレオノーラに言う。するとエレオノーラは困ったように答えた。
「そんな関係じゃありません」
その言葉を聞いて、クラウディースは優しく笑った。
「そうかな?
いやはやそういうこととは突然にやってくるものだ……。わたしもそうだった。」
それから再びエンキに向き直る。
「君たちを客人としてわたしの屋敷に招きたい。
少々小うるさい家かもしれないが、かまわないかね?」
「俺もかまわないんですか?」
エンキは少々驚きながら、目の前の男に尋ねた。男は鷹揚に頷く。
「エレオノーラだけ招いて、君だけのけものにしろというのかね?
妻は君がくれば喜ぶだろう」
「……、ではお言葉に甘えて」
エンキはあったこともない人物が何故自分に会ったら喜ぶのかわからなかった。



招かれて馬車に乗り込むと、向かい合わせの四人がけの席の一つにちょこんと大きな霞草の花束が鎮座しており、それを初めて見たエンキは少し驚いた。そして、先に乗っていたエレオノーラの横に座る。
最後にクラウディースが乗り込み、花束を大事そうに抱えるとドンとステッキで天井を突いた。すると馬車はガタガタと動き出した。
「屋敷は郊外でね。少しばかり遠いが、我慢してくれ」



喫茶店は宮廷がある政を行う区域の外れにあった。そこは白亜の壮麗な建物とレンガ造りの素朴な建物が混在する地区であった。
馬車が進むにつれ、白亜の建物の数は減り、レンガ造りの建築物の数が増えていく。
やがて外を行きかう人々も服を隙なく着こなした上流階級から、見慣れた一般の人々へと変わっていく。
そして馬車が動き始めて一刻ほど経つと、人の往来もまばらになり店はほとんどなくなった。しばらくたつと、レンガの建物群が唐突に消える。かわりに現れたのは、大街道よりも立派な石畳の道とその道に沿う木の列だ。
進むうちに時折その木々の列が途切れ、唐突に横道が現れることがあった。その先には、立派な屋敷や公園のようなものが見えるのがほとんどだった。
馬車はその中の一つの横道に入っていく。
「さてもうすぐだ」
その横道をさらにしばらく進む。
しばらく進む。
「……、あの、着きませんね」
もうすぐ、と言われたので動きがあるのを待っていた二人だったが、外の景色は相変わらず流れ行く街路樹ばかりで家もその門も見えてこない。
エレオノーラの一言に、クラウディースはからからと笑った。
「ああ、すまない。里の人のすぐそこは旅人の一里という言葉もあるからねぇ。
わたしにとってはすぐそこなんだが」
からからと車輪は回り続ける。それからまたしばらくして、やっと馬車の速度が落ちやがて止まった。
馬車の外で重い靴音がした。クラウディースは窓からそちらを見やる。
そこには、簡易武装をした守衛らしい男がいた。彼はクラウディースに向かって敬礼する。
「お帰りなさいませ、伯爵」
「ああ、いつもご苦労。変わりはなかったかね」
「はい、異常なしであります。今門を開けております、しばらくお待ちください」
前方から、ギギギ、という思い鉄が動く音がした。
「……少し、錆びたか」
「は。たしかにここ数ヶ月で動きが悪くなっています」
「あとで誰かをよこそう。それと、君たちにも何か差し入れを。何がいい?
暖かいものとか、冷たいものとか。甘いものもいいだろうか。もちろん、酒はだめだが」
クラウディースが守衛にそう言うと、守衛はぱっと顔を輝かせた。
「パンを人数に二つずつ戴ければ嬉しいです。
それと果物を搾った飲み物も戴ければ……」
「わかった。あとで届けさせよう」
「ありがとうございます!
さぁ門が開きました。どうぞお通りください」
守衛は敬礼で馬車を見送った。よく見ると、彼の後ろには守衛の詰め所がありそこにもう一人、そして門の傍にも二人守衛がいた。皆一様に背筋を伸ばし、敬礼して馬車を見送っている。
馬車はそして屋敷の敷地内に入った。
そこは、緑豊かな前庭だった。エレオノーラが窓へと体を向ける。
「わぁ……広いですね」
馬車の通る石畳の両脇には低く整えられた庭木が道を額縁のように彩っている。その向こうには、道を挟んで左右対称な緑の庭が広がっている。芝はきっちりと整えられ、木々は順序良く並んでいる。
「そうか、エレオノーラは家にくるのは初めてだったか」
「はい。卿はよく家へ遊びにいらしてくださいましたけど……」
「ラボレムスの君の家は、うちの子どもたちにとっては素晴らしい場所だったらしくてね。
また行きたいとよく言っていたよ」
「……」
緑の風景が流れていく。馬車の窓から見ると、それは出来の良い風景画のようだった。
馬車は屋敷の前に止まり、ドアは開かれた。まずクラウディースが花束を大切そうに抱えながら馬車からおり、ご苦労とドアをあけた使用人と御者に声をかける。
それから、エレオノーラにすっと手を伸ばす。エレオノーラは一瞬首を傾げたが、すぐにクラウディースの手をとった。クラウディースの方はなれたもので、器用に彼女を馬車から石畳へとエスコートしてみせた。
エンキはその後に続いておりる。
石畳の上で、二人は並んで上を見上げた。
やや赤みがかった石で造られた壮麗な邸宅が目の前にあった。玄関を中心に庭と同じく左右対称に建てられている屋敷は、どっしりとだが優雅にその身を置き二人を大らかに見下ろしているようだった。どこか母性を感じる建物であった。
「……でかい家だな」
エンキはもちろん、そんな大きな家も庭も見るのは初めてであった。
「クラウディース家はローランドでも指折りの名家だと聞いていましたけど……すごいですね」
エレオノーラがそう言ってクラウディースを振り仰ぐと彼は苦笑した。
「そう、クラウディース家はすごい。
これは先祖代々の努力の結果なのだよ。
さて、エレオノーラ」
クラウディースはすっと彼女に自分の肘を差し出した。
「えっ……と?」
「女性一人でポーチを上らせ、玄関をくぐらせるほどわたしは野暮じゃないよ。
……ああ、エンキ君がいたか」
「え?」
エンキは突然名前を呼ばれてびくりとしていた。エレオノーラはしばしその顔を見つめる。
「……お、俺は何かしなくちゃならないのか……?」
「ええと。エンキ、エスコートって知ってる?」
「いや全然。」
どうもその類の知識は元々彼になかったようである。
「そうか、では仕方ない。ではエレオノーラ」
クラウディースはにっこりと笑って自分の肘に手を添えるようにエレオノーラを促す。
エレオノーラは戸惑って、クラウディースを見上げる。
「ここは卿のご自宅ですし、そんな仰々しく……」
「エレオノーラ、君はわたしが嫌いかね」
クラウディースは少し悲しそうな顔をして、友人の娘を見下ろした。
「いいえ、そんなことは……」
「では、わたしにエスコートさせてくれたまえ。
家に招かれたとき、家の主人は最大限のもてなしをする。客人を喜ばせるためにね。
客人はそのとき、くつろぐ以外にただひとつの仕事をすればいい。主人を喜ばせることだ」
エレオノーラは観念して、父の友人の肘にそっと手を添えた。
「なんだか難しいです。互いに喜ばしあうということですか?」
「そういうことだ。それこそ人生円満の秘訣の一だ」
二人は玄関前の階を上っていく。エンキは少し遅れて戸惑った犬のように二人についていった。
玄関のドアの前には使用人が二人いて、観音開きの扉をそれぞれ開ける。
そして、重い木の扉が開ききる。その向こうの、屋敷のホールに広がる風景にエンキとエレオノーラは唖然とした。
「お帰りなさいませ、旦那様」
ホールの左手に、白髪頭の執事を先頭とした男性使用人。右手には使用人頭を筆頭とした女性の使用人――つまりは給仕係だ――が、総勢五十名ほど並んで花道を作っている。
エレオノーラがそれに唖然として気を取られている隙に、クラウディースはするりと進んでしまった。エレオノーラは知らぬ間に入り口に置いてきぼりにされ、エンキへと寄り添うように後ずさった。
かつこつと靴音高くランドマール伯爵ことタイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースは使用人たちが作った花道を進んでいく。その歩みのうちにステッキは使用人に預けられ、コートは回収されつつたたまれる。それだけではなく、彼は同時に口を動かして傍について一緒に歩んでくる執事になにやら声をかけていた。
「留守の間、異常は?」
「とくになにもございませんでした」
「妻の様子は?」
「はい、発作もなく幾分すごしやすそうでした」
「そうか、それはよかった。子どもたちは?」
「マーカス様はいつも通りお仕事へ。ルキウス様はお部屋で家産の改めをなさっておいでです。
アウレーリア様とコルネーリア様はお勉強とお稽古を」
「結構。そうだ、門の守衛に差し入れを。人数分足りるだけパンを――そうだな、二、三種類いや四種類だ。それから柑橘系のジュースと葡萄のジュースを。スープもだ!
ただし腹いっぱいになって眠くない程度に。」
「かしこまりました、すぐに」
「ああ、そうだ。後でわたしの書斎に手紙のセットを。
一筆書かなければならないのだった。青ではなく、黒のインクを用意してくれ。それとクレイブン男爵の住所を調べるように」
「かしこまりました、早急に」
そんなやり取りが終わる頃、使用人の花道が途切れた。そこでクラウディウスはふと気づいた。そして振り返る。
「……エレオノーラ?エンキ君?
どうしたのかね、早く来なさい」
「あ……はぁ」
二人は入り口付近にまだいて、そこで顔を見合わせた。
――どうも二人して庶民体質らしい。
たまたまそのときの二人の立ち位置は、エレオノーラが左手男性使用人の列側で、エンキが右手の女性使用人側だった。
すぃっとそれぞれに一番近い使用人が歩み寄る。
「「お客様、お荷物お預かりいたします」」
見事にテノールとメゾ・ソプラノがハーモニーを奏でた。エレオノーラにはもちろん男の使用人、エンキには女性の使用人が話しかけてきた。
エレオノーラは少し驚いた後、自分の背嚢を彼に預けた。エンキもそれに習うが、一言「重いですよ」と付け加えた。たしかにエンキの物のほうが重量物が入っているので重かった。
女性の使用人は背嚢を受け取るとちょっとよろけたが、すぐに持ち直しにっこりと笑った。
「大丈夫です。それと、そちらも」
「そちら?」
使用人はにっこり笑ってもうひとつの荷物を預けられるのを待っているようだった。
だがエンキに心当たりはない。
にこにこと低い位置から微笑みかけられて、エンキは戸惑う。
「エンキ、“後ろ”のことよ」
そこへくすりと笑いながらエレオノーラが助け舟を出した。
後ろ、というのはエンキが背負っている青竜偃月刀のことであった。
「あ……ああ。でもこれは重いので……」
「大丈夫です!お預かりします!!」
使用人はナゼか元気よく答えた。何故かそれに逆らえない気がして、エンキはベルトから得物を外した。
「刃物ですし……本当に重いですよ」
恐る恐る、と言った体で得物を差し出す。すると使用人は預かった背嚢を背中に背負ってから青竜偃月刀の柄を握った。
エンキはそっとそれから手を放す。
「きゃあ?!」
あいにく使用人は手も足も細く、馬鹿でかい得物の重さに耐える力がなかった。エンキが助ける前に、青竜偃月刀の柄の下敷きになる。
途端にホールがざわついた。
エンキは慌てて得物を取り上げて使用人を助ける。羽のようにふわりと彼女は起こされた。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ……た、大変申し訳ありません!」
使用人はすっくと立ち上がって深々と頭を下げた。エンキは苦笑して、立ち上がりながら声をかける。
「いや俺がはっきり断ってればよかったんだし……怪我とかないですか?」
「あ、ありません!ご心配していただいて申し訳ありません!」
「それはよかった」
エンキは苦いものを収めて優しく笑いかける。その笑みは慈愛に満ちていて、使用人はしばしそれに見とれていた。
エレオノーラはふぅと息をついた。
そこへ、カツカツと靴底を鳴らしてこの家の主が戻ってきた。二人がいつまでも彼の傍にやってこず、そして使用人がなにやら失敗したようだったから主は戻ってきたのだ。
ひっくり返った使用人は驚いて身を硬くする。
クラウディースは静かに言った。
「自分の力量をよく見極めたまえ。次は失敗しないように。大事なことだよ。
……それにしてもエンキ君、珍しい武器だねぇ、ちょっと持たせてくれるかな。」
クウディースは使用人を責めず、慈父のような口調でそれだけ言うと興味深そうに青竜偃月刀を見た。エンキはひとつ頷いて、クラウディースに得物を差し出した。
クラウディースはすいっと得物を持ち上げた。多少重量感は感じているようだが、苦ではないらしい。
「面白いな。叩いて断つ武器か」
「そうです。よくわかりましたね」
「コレでも若い頃は剣で遊ぶのが好きだったのでね」
クラウディースは若い男ににやりと笑いかけてから、男の使用人を一人呼んだ。
「これを運んで差し上げろ」
男が青竜偃月刀をうやうやしく受け取ると、先ほどの女の使用人がエンキとエレオノーラの前に改めて立った。
「お部屋にご案内いたします」



通されたのは二階だった。その区域は客専用のものだと言う。
「お隣同士の別室になります」
使用人はドアを開けながら言う。部屋の内部を見て、思わずエンキは半歩ほど後ずさった。
「広い……」
その一言の後、絶句するほどの広さだった。下級市民ならこの部屋の広さに台所と居間と主寝室を作って満足することができるだろうという広さだった。これまで泊まってきた宿など、ウサギ小屋である。
足下には毛の長い絨毯が敷き詰められ、入り口左手側には重厚そうなテーブルと3人掛けソファ、そして壁際には年代物と思われる落ち着いた色合いをしたチェストと書き物用の机が並んでいた。
その向こうには何故かドアがまたある。見れば右手側にもドアがもうひとつ。今しがた入ってきたドアの正面にはベランダへと続く窓があった。
部屋だけでなく目の前のベッドもはっきり言って小さな子どもとその両親が川の字になってもまだ余裕があるほどの大きさである。
「こちらのドアは、お隣の部屋と繋がっております。」
と言って使用人は入り口右手側のドアを示した。そして、次に左手側ソファとテーブルの向こうのドアを示す。
「あちらは浴室になっております。このお部屋専用のものですので、どうぞご自由にご利用くださいませ」
「はあ」
「タオル等はこちらのチェストに一通り揃っておりますが、何かご入用の際はお気軽にお申し付けください」
「……どうも」
「ごゆっくりおくつろぎください」
使用人は丁寧に礼をすると、部屋を出て行った。ドアが閉まる。
エンキは所在無くぽつねんとドアの傍にたたずんでいた。
それからソファに丁寧に置かれた背嚢のところに歩み寄る。その隣には青竜偃月刀が立てかけられてあった。
それをなんとなく見下ろす。
するとカチャリとドアが開く音がした。
「あ、私の部屋と造りが逆なのね」
「エレオノーラ」
隣の部屋へのドアからエレオノーラが入ってきた。彼女は部屋の中を見回す。
「そっち、お風呂?」
「らしいな。広すぎて落ち着かない」
「クラウディースはローランドでも指折りの貴族だからね。」
エレオノーラはそう言って靴を脱いでエンキのベッドにのぼった。
「ふかふかね!」
エンキは部屋を見回しながらベッドの傍らに歩み寄った。
「こんだけ広いんだから、二人で一部屋でも良かったかもな」
「でもベッドはひとつよ。ソファで休むの?」
「一緒に寝ればいいじゃないか、広いし」
エンキは何気なくそう言った。だがエレオノーラはぴしりと固まった。
「…………」
「…………」
「…………」
「……や、他意はないぞ?深い意味もないぞ?ほんとだぞ?」
エンキは慌てて言い足した。エレオノーラはほっと息をつく。
「そ、そう……」
気まずい空気が流れる。
そこへ、コンコンとノックの音がした。
「どうぞ!」
エンキは助け舟だといわんばかりに返事をした。するとドアが静かに開く。
先ほど案内してくれた使用人とは別の女性が立っていた。
「失礼いたします。
旦那様がお二人に来ていただきたいとおっしゃっているのですが……」
「卿が?」
「はい、ご案内いたします」
二人は顔を見合わせた後、使用人に頷いて見せた。

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