| タイベリウス・クラウディースは廊下に作りつけられたベンチに座り、霞草の大きな花束を大事そうに抱えていた。そこへ使用人に先導されたエレオノーラとエンキがやってきた。
 使用人はクラウディースの前に二人を案内し終えると、礼をしてもと来た廊下を戻って行った。
 クラウディースは立ち上がる。エレオノーラは彼の背丈が長身のエンキとほとんど変わらないことに気づいた。
 「部屋はどうだったね、気に入ったかい」
 「ええ、とても。本当にありがとうございます」
 「いやいや。どうぞ自分の家だと思ってくつろいでくれたまえ。
 さて……」
 クラウディースはすっととあるドアを指し示した。
 「妻の部屋だ。少々、体を壊していてね。
 体がつらくてあまり起きられないんだ。横になっての対面だが、かまわないだろうか」
 エレオノーラは驚いて思わず聞き返した。
 「お体を?
 あの、逆に迷惑じゃありませんか……?」
 「ああ、ちょっと妙な病気らしくてね。移りはしないんだが。
 彼女は人が好きだから、その点は心配しなくていいよ。それに君に――と、エンキ君に会えば逆に元気になるだろうし」
 にっこりと笑ってクラウディースは言った。それからドアに向かって歩き出す。
 ノブに手をかけかけたところで彼はふと振り返り、唇に人差し指を当てた。
 二人は頷いて、口をつぐんだ。
 かちゃり、とドアが開く。音を立てないように部屋に入る。
 するとそこには大きなベッドがあり、清潔そうな白い寝具に身を任せた女性が横たわっていた。
 豊かな亜麻色の髪を枕に広げ、深く深く呼吸を繰り返している。
 少し痩せすぎの感があるがそれでも美しく年を重ねた見本のような女性だった。
 クラウディースは手振りで二人に入り口付近にとどまるようにと言った。それから自分は、静かにベッドの傍らに歩み寄った。女性は気づかず、ころんと横に寝返りをうった。体を向けたのはクラウディースの方へだった。
 クラウディースは優しく微笑むと、身を屈めて彼女のこめかみへ唇をひとつおとした。
 すると、ゆっくりと女性のまぶたが上がった。それから夫を傍らに見つけ、心底嬉しそうな笑みを浮かべる。
 クラウディースは少し体を離すと、妻の顔を覗き込んだ。
 「具合はどうだい?」
 妻のほうは、その質問に答える前にちょっと身を起こして夫の顎にひとつキスを返した。
 「だいぶいいわ。
 お仕事お疲れ様でした。疲れているでしょう?」
 クラウディースは完全に起き上がろうとする妻を助け、背中が楽になるようにと枕をたててクッションの代わりにしてやった。それから、大きな霞草の花束を渡す。
 「まぁ“霞草の君”」
 妻はくすくすと笑って、花束を愛おしそうに見下ろした。夫はその様子に満足したのか、今度は妻の額にキスを落とす。妻は嬉しそうに笑う。そして夫に頬ずりした。
 ……さてその間。
 入り口に残された客人はなんともこそばゆい気持ちになり、エレオノーラはくるりと遠慮がちに背を向けた。エンキの方は、顎をひとつ撫でた後困ったように腕を組みつま先を見つめることにしたようだった。
 「ヴィプサーニア、今日はお客さんが来ているんだが誰だかわかるかい?」
 そう言ってクラウディースは妻の傍らに腰をかけると、こちらを指し示した。ヴィプサーニアと呼ばれた彼の妻は花束を大事そうに抱えたままこちらに視線を移してきた。
 茶色の瞳にぶつかって、エンキは慌てて背中を向けているエレオノーラをつついて振り返らせた。夫人の視線がエレオノーラへと移る。
 夫人は少し首をかしげた後、ぱっと顔をほころばせた。
 「エレオノーラ!エレオノーラね!
 ああ、なんてことでしょうこんなに大きくなって……そばへ来て、顔をよく見せて頂戴!」
 夫人はすっと手を伸ばし、夫の友人の娘を求めた。エレオノーラはそっと歩み寄り、その手をとる。すると夫人はその手に、まるで幼い子にそうするように頬ずりをした。
 「まぁ相変わらずの美人さん!背も高くなって。
 なんてことでしょう、元気だった?今までどこにいたの、怪我や病気はしていなかった?
 心配してたのよ、探したけれど見つからなくて。
 ああでも良かった。元気なのね?元気なのね?」
 「ヴィプサーニア、落ち着きなさい。エレオノーラが困ってる」
 苦笑しながら、夫は妻をなだめた。エレオノーラはなんだか嬉しくなって、にっこりと笑って答えた。
 「ええ、元気でした。十年前からずっと、国境付近を旅していたんです。今回は体力に自信もついたので、お邪魔してみようと思ったんです」
 「そうだったの……」
 夫人はにっこりと笑う。
 「よかったわ……無事で、元気で。
 でもたくさん、怖い思いもしたんじゃない?」
 「ええ。でも大丈夫です」
 夫人はそっと片手でエレオノーラの頬を撫でた。
 「ちょっと痩せてるわね。女の子はちょっとふっくらしているほうがいいのよ。
 今夜、美味しいものを用意させましょう!
 たしか、タルトが好きだったわね?果物いっぱいの!大きいのを作らせるわ!」
 それからあと夫人は、入り口にぽつねんと立っている長身の男に気づいた。
 「あら?そちらは?」
 エレオノーラは振り返って、エンキに手招きをした。エンキはひどく遠慮がちにベッドに歩み寄る。
 「エンキです。私の連れで……。
 エンキ、こちらは」
 「ヴィプサーニア=レイン・クラウディース。
 タイベリウスの妻ですわ」
 ヴィプサーニアはエンキに手を差し出した。エンキは失礼にならないように、そっとその手を握り返した。暖かいが、肉の薄い痩せた手であった。
 「エンキさんとおっしゃるの?」
 「はい」
 「……、エレオノーラの旦那様なのかしら?」
 ヴィプサーニアはじっとエンキの顔を見つめていった。
 この旅始まって以来の何度目かの同じ質問だ。エンキはさすがに慣れはしないものの、返答はわりとするりと口を出て行った。
 「いいえ、俺は彼女に助けてもらっただけで。
 それ以来、彼女の護衛代わりにと一緒に旅をさせてもらってるんです。あんまり役には立ってませんが……」
 「まぁ、そうなの」
 途端に、夫人は残念そうな顔をして傍らの夫を見る。夫は片目を瞑ってみせた。
 「サーニャ、そうそう残念そうな顔をするな。まだわからないぞ。
 重要なのは“一緒に”と言う言葉だ」
 「まぁそうね!あなたったらよく気づいたわ!
 もしかしたら、一番に孫を産んでくれるのはエレオノーラかもしれないわね!」
 「あの、話が飛躍しすぎている気がするんですが」
 目の前の伯爵夫妻の会話にエンキが硬直すると、エレオノーラがさすがに割って入った。
 だが伯爵夫人はめげずにエレオノーラの手をとり、力を込めてこう言った。
 「子どもは多ければ多いほど楽しいわ!大変だけれど。
 私は、最初に抱かせていただけるなら女の子がいいわ!でも男の子もきっと可愛いでしょうね!赤ちゃんのほっぺというのは素晴らしいのよ!」
 「いえあの」
 「いやぁ、しかしもしエレオノーラがこの歳までもし独り身であったなら、うちの次男坊をあげようかと思っていたんだが、その心配もなさそうだな!」
 「卿!」
 冗談めかしていうクラウディースにエレオノーラは悲痛な声をあげた。クラウディースはその慌てた様子を見て楽しそうに笑う。
 その時、不意にガチャリとやや乱暴にドアが開く音がした。
 「親父殿、誰を誰にあげるって?」
 見れば、そこには眼鏡をかけた茶色い髪の青年が立っていた。青年は眼鏡を外すと、ベストの合わせ目からシャツの胸ポケットがあるらしいところにそれを仕舞う。そしてまっすぐに、父と母目指して歩いてきた。
 「これはこれは、我が家の次男坊のルキウス殿
 聞かれていらっしゃいましたか」
 くつくつと笑いながらクラウディースは腕を広げて息子に親愛の情を示す。次男だというルキウスは呆れた顔を父に向けただけだった。
 それから、やや無愛想な顔をエレオノーラに向ける。
 「久しぶりだな」
 「ええ、久しぶり。背が伸びたのね」
 「当たり前だ。最後にあってから十年経ってるんだぞ。もうお前より背が高いよ」
 「それでもわたしよりは小さいがな」
 あいかわらずくつくつ笑いながら、クラウディースは息子の言葉に補足を付け加えた。
 すると息子は憤慨したようだった。
 「親父!背のことは言うなよ!」
 「まぁそう怒るな次男坊。確かにお前さんはわたしより小さいが、ついでに言えばお前さんの兄よりも小さいが、お前さんの身長自体は平均的で特に気に病むほど低くはないんだぞ」
 「親父殿、それ慰めてないだろ」
 「よくわかったな」
 からからと楽しそうに笑う父親に、次男のルキウスはがっくりと肩を落としたようだった。
 父親は笑ったまま妻の傍らから立ち上がると、ぽんっと二番目の息子の肩に手を置いた。
 それから二人でエンキのほうを向く。
 「エンキ君、これは次男坊のルキウスだ。エレオノーラと同い年。計算が得意なので、家財の管理をさせている。
 ……ルキウス、こちらはエンキ殿。“エレオノーラの連れ”だ」
 父の紹介の口上にあわせてエンキに手を差し出しかけていたルキウスの動きが止まった。
 「エレオノーラの?」
 「そうよ」
 エレオノーラは屈託のない笑顔で、ルキウスの言葉に答えた。ルキウスはその言葉を聞くと、一瞬自分の差し出しかけた手を見つめた。父であるクラウディースは静かにそれを見下ろしている。
 わずかな間。
 「……ルキウスだ。よろしく」
 エンキはそのルキウスが作った奇妙な間に内心で首をかしげながらも、その手を握った。
 ルキウスはその手を上下に動かしながらエンキに言う。――目線をやや外しながら。
 「エレオノーラとは子どものころから知り合いで。
 ラボレムス山の彼女の実家では良く遊ばせてもらったよ」
 「ああ、そうなんですか」
 再び妙な間が訪れた。二人の男は手を握り合ったままだ。
 「……離してもいいでしょうか?」
 エンキはさすがに手を振り回されるのに疲れたのか、そう言った。するとルキウスは何も言わずにぱっと、少々乱暴に手を放した。
 ――なんだ?
 エンキは不思議そうにルキウスの顔を見た後――視線は合わなかった――、自分の手を見つめた。
 場を沈黙が支配し始めようとしたとき、再びドアが開く音がした。今度は乱暴にではなく静かに開かれたようで、振り返ると使用人がドアを開けたところだった。
 使用人は自分が入るためにドアを開けたのではなかった。そこには同じ顔をした髪の長い二人の少女がたっていた。ただ違うのは髪を飾るリボンだ。一人は赤で、一人は青。
 少女たちは、部屋に入ってくる。
 すると赤いリボンの少女が、エレオノーラに走りよりぱっと彼女に抱きついた。
 エレオノーラは少しよろめいたが、しっかりとそれを受け止める。
 「エレオノーラ!久しぶりね!」
 「おてんばな方だからあなたはアウレーリアね!」
 二人の女性は笑いあう。そこへ、もう一人の青いリボンの少女がにこにこと微笑みながら近づいた。
 そしてエレオノーラの前ですっと綺麗に礼をした。
 「いらっしゃいエレオノーラ」
 「のんびりやさんのコルネーリアね」
 「紹介しよう。
 双子の娘のアウレーリアとコルネーリアだ。元気なのがアウレーリア。おっとりしているのがコルネーリア。
 まぁもっとも見分けやすいのは色だな。赤いものを身につけていたらアウレーリア、青いものを身につけていたらコルネーリアだ。それで見分けてくれたまえ」
 「はあ」
 と、言われてもエンキはとっさに見分けることが出来ない。双子の一般例に漏れず、見慣れない第三者には二人は全く一緒に思える。
 エンキが戸惑って二人を見ていると、双子の娘は同時に彼に向き直った。彼は少々ドキリとした。
 「男の人だわ」
 「見ればわかるでしょう、しっかりしてよねコルネーリア」
 どうも性格はだいぶ違うようだ、とエンキは内心で苦笑した。
 エレオノーラも笑いながら私の連れよ、とエンキを紹介した。すると、双子は顔を見合わせる。エンキはてっきり夫人と同じようなことを言われるのかと身構えたが、双子の表情は複雑だった。
 それから双子は、それぞれの表情でナゼか兄のルキウスに視線を移した。
 「な、なんだよ」
 「「ううん、なんでもないわ」」
 と、赤いリボンのアウレーリアは少し面白そうに、青いリボンのコルネーリアは悲しそうに言った。
 そこへコンコンとノックの音が響く。双子を部屋に入れドアの傍で待機していた使用人がドアを恭しく開けた。そこには執事が立っていた。
 「旦那さま」
 執事がクラウディースへと声をかけるとクラウディースはいかにも主人らしくそちらへと顔を向ける。
 「今夜のお食事はどういたしましょうか」
 すると、クラウディース家の人々は顔を見合わせた。
 「マーカスは何時に帰ってくる?」
 「兄貴だったらいつもどおりだと思うけど。定時だったらあと一時間か二時間もすれば帰ってくるぜ」
 「そうか。
 すまないが長男と一緒に食事を取りたいので、それまで待っていてもらってもかまわないだろうか」
 クラウディースはエンキに問うた。だがエンキは困ったようにエレオノーラの方へ首をめぐらす。エレオノーラは苦笑して答えた。
 「構いません」
 「ありがとう。
 それで君たちは何か食べたいものはあるかい?」
 その言葉にエンキとエレオノーラは顔を見合わせた後、首をかしげた。
 クラウディースは優しく微笑む。
 「タルトはもちろんつけるとも。
 エレオノーラ、確か君は鴨が好きではなかったかな。それと川魚。
 お父上が釣ってきたのを喜んで食べていただろう?」
 「はい、どちらも好きです。でも最近食べてません」
 「そうか。それじゃあぜひ用意させよう。
 エンキ君は?何か食べたいものは?」
 エンキは小さく首を横に動かした。
 「いえ、特に。いただけるだけでありがたいです」
 「そうか?だめだぞ欲のない男は。
 ……では逆にこれはダメというものはあるかね」
 「いえ特に」
 「健康的なことだ」
 クラウディースは笑う。それから執事に命じた。
 「鴨と川魚で頼む。
 それと果物がたくさん乗った大きなタルトをデザートに。他のものは任せる」
 「かしこまりました。
 メインの鴨はどちらのものを使いましょうか。それと川魚もどれを?」
 「一番いいものを」
 「承知いたしました。失礼いたします」
 執事が深々と頭を下げると、ドアのところにいた使用人は静かにドアを閉めた。
 それを見てから、クラウディースは若者たちに言った。
 「さてと。
 子どもたちよ、ちょっと妻と親睦を深める時間を私にくれるかね。なに夕食までの間だ」
 夫の言葉に夫人はくすくすと笑って彼の肩にこつんと額を乗せた。
 クラウディース家の子どもたちは、やや呆れたように肩をすくめてからいいよと言った。
 
 
 
 長男のマーカスが帰ってきたのは一時間半ほど後のことだった。彼は父に似て背が高いが、口数は弟や父よりずっと少ない物静かな印象の男だった。
 エレオノーラとの再会の挨拶も一番穏やかで二人ともただ「久しぶり」と言葉を交わしただけだった。
 食堂に招かれて、エンキはまた驚いた。
 プフェーアト・シュタートのアーニャの家もなかなか立派な食堂を持っていたが、クラウディース家の比ではない。
 三十人は座れるであろう石造りのテーブルに、たった八人だけが座る。
 給仕たちは忙しく立ち回り始める。その間に、クラウディース家の面々と客人二人は親睦を深めるための会話をした。
 「記憶がない?」
 エンキの素性の話しになると、タイベリウス・クラウディース以外の人々は皆一様に驚いていた。
 「まぁ、じゃあとても大変だったんでしょう?」
 ヴィプサーニアは気遣わしげな声で夫の友の娘の連れに話しかける。エンキはそれに誠実に答えた。
 「大変だったという記憶は、あんまり。エレオノーラのおかげで」
 「そうなの……」
 ヴィプサーニアはそう言うと、ちらりと次男坊ルキウスのほうを見た。ルキウスは怪訝な目を母に向ける。
 「本当に何も覚えていないんですか」
 次にそういったのは長男のマーカスだった。エンキは肩をすくめるしかない。
 「はい全く」
 「でも、名前は?」
 「エレオノーラにもらいました」
 するとマーカスはテーブルに肘をつき、エレオノーラに視線を移した。それから興味深そうな声で尋ねる。
 「意味は?」
 「特にないわ。でもいい音でしょ?」
 エレオノーラが澄まして答えると、マーカスは笑った。
 「まぁお前らしいな」
 「でも兄貴、オレたちだって似たようなもんだぜ。
 マーカスとルキウス。どっちも伝統的な名前だけど、名前が持ってた意味なんてとうの昔に忘れられているんだからさ」
 「それもそうか」
 そんな兄弟の会話に父は割って入った。
 「いいや、意味ならあるぞ。マーカスというのは古代の武将からいただいた名前だ。ただ古代とは発音の仕方はちょっと変わっているがな。
 ルキウスというのは、ルシアス一世以前の賢帝と同じ名前で……」
 「お父さま、その話なら前にも聞きました!
 わたしはそれよりエンキさんの話しを聞きたいわ!」
 双子の赤いリボンのほうのアウレーリアがそう言うと、クラウディースはちょっと残念そうだったがちゃんと黙った。
 アウレーリアはエンキのほうを向く。
 「どうしてエレオノーラとずっと一緒にいるの?」
 「当座は行く場所がありませんでしたから。それにとても世話になったし、恩返しをと」
 「それだけなの?」
 きょとんとした顔で聞き返したアウレーリアにエレオノーラが答えた。
 「それなら、先ほどおば様にも言おうと思ったんだけど。
 本当にそれだけなのよ」
 すると、アウレーリアは数度頷いてそれからちらりとすぐ上の兄を横目で見た。ルキウスはまた怪訝な顔をする。
 「まぁお前たちの問題だから、おれたちが首をつっこむものでもないだろう。
 アウレーリアもだけど、父さんと母さんもこれ以上首をつっこまないように」
 長男のマーカスがそう言うと、名前の上がった三人は笑って了解の返事をした。
 それから続けて、マーカスはまたエンキに話しかける。
 「話を戻しますが、全くというと全く全然ということですか?出身地とかも……?」
 「全く全然です」
 エンキは肩をすくめながら言うしかない。エレオノーラがその後に続けてマーカスに言う。
 「ただ、東ノ国あたり出身じゃないかとアタリはつけているわ。
 出会った時にリュオン王国と東ノ国の印がついた腕章を持っていたし、肌と瞳の色も東ノ国の人のものだわ。それに極めつけはアレね」
 「ああ、あの馬鹿でかい武器だな。実物を見たのは初めてだが、たしか青竜偃月刀と言ったかな」
 エレオノーラの言葉を引き取ったのはタイベリウス・クラウディースだった。
 「東ノ国独特の武器だな。あれは面白い。あとで詳しく見せていただいてもいいかな」
 家の主の声にエンキは頷く。そこへ、ぽつんとちょっと異質な言葉が落ちた。
 「東ノ国……」
 発言の主は双子の青いリボンのコルネーリアだった。コルネーリアはちょっと小首をかしげてエンキに言う。
 「エンキさん、手を見せてくださいますか?」
 「?いいですよ」
 エンキはちょっと腰を浮かせてテーブルの上に身を乗り出すと掌をコルネーリアに差し出した。すると彼女は白い両手でエンキの手を捕まえた。テーブルを囲む人々は興味深そうにそれを見守る。
 コルネーリアはじっとエンキの掌を観察した後、再びエンキの顔に目を当てた。
 「手を返していただけますか?」
 エンキは言われたとおりに、今度は手の甲を上に向けた。するとコルネーリアは、その隣に自分の手を片方置いた。
 「東ノ国の人は、リュオン人やローラントの人と比べると全体的に色が濃いんだそうです。……本当に色が濃いんですね」
 「……そうなんですか」
 そう言われてもエンキには東ノ国出身だという自覚がないので反論のしようがない。
 コルネーリアが手を放したので、エンキは椅子に座りなおした。
 「あの、もう一つお願いしていいですか?」
 エンキは不思議に思いながらも、こっくりと頷いてみせる。するとコルネーリアはほっとしたように言った。
 「髪の毛を一本いただけますか」
 「は?」
 さすがにそれにはエンキも即答しかねた。すると、マーカスがまた口を開いた。
 「妹は、ちょっとタルタロスに興味がありましてね。
 エンキさんが東ノ国の人だとすると、人種的にタルタロスでもあるということにもなるんですよ」
 「タ、タル……、なんですって?」
 エンキは思わず聞き返した。すると今度はタイベリウス・クラウディースが答えた。
 「タルタロス。古い言葉で“地獄の民ども”という意味でね。
 昔、リュオンやローランドでは東ノ国の人々のことを、軽蔑と畏怖の念をこめてそう呼んでいたんだ。
 ……ルシアス一世の先々代の皇帝ごろから、東ノ国は一時的に国力を伸ばしてね。内乱時には混乱に乗じてローランドの東部にも入り込んだほどだ。
 リュオンも圧迫されたようだったが、ローランドほどじゃなかっただろう。
 馬を駆り、弓を射、女子どもにも容赦をしなかったそうだ。だが観念して従順になれば、彼らほど頼もしい味方――いや、保護者かな……は、いなかったそうだ。
 コルネーリアは顔に似合わず武勇伝や英雄譚、勇ましい物語が好きでね。最近はルシアス一世とタルタロスの長の話を調べているらしい。
 エンキ君がタルタロスの血筋かも知れないと思って興味がわいたんだろう。
 許してやってくれ」
 「東ノ国の人たちの髪は、芯まで真っ黒だと聞いています。
 ……あの、それで見てみたいんです」
 けなげな視線を投げてくるコルネーリアに、エンキはちょっとだけ顎を引いて考えた。
 「俺が“タルタルロス”だっていう保証はないですよ」
 そう言いながらも、エンキは目の前に垂れてくる髪の中から一本選んでそれを引き抜いた。
 コルネーリアは贈られるのが髪の毛だというのに本当に嬉しそうに受け取った。
 それから、明かりにそれをかざす。
 「本当に芯まで真っ黒だわ!」
 コルネーリアがそう言うと、テーブルを囲むものたちはちょっと首をかしげた。
 「そんなに違うものなのか」
 エンキが言うと、エレオノーラが自分の髪の毛をぷちんと一本抜いた。それからコルネーリアと同じようにする。
 「ほら、茶色がかってる」
 「そうか……?」
 すると、それを見たヴィプサーニアが夫の黒髪にそっと手を伸ばした。クラウディースはあわてて身を引く。
 「父さん?」
 「あ、親父。白髪がない代わりに最近額が秀でてきたもんなぁ」
 「禿げはせん、禿げはせんぞ!」
 クラウディースが力強くそう言い放つと、食卓の人々は高らかに笑った。
 そこへ、食事開始の合図であるスープが届けられた。家の主の「さぁ食べよう」との言葉と共に、食卓は静かになった。
 
 
 
 デザートの段になって、食卓はまたにぎやかになる。デザートは注文どおり、果物のたくさん乗った大きなタルトだった。てらてらと宝石のように輝く果物たちは、切り分けるのがもったいないほどだった。
 給仕がナイフを入れようとすると、クラウディースがそれを止める。
 「わたしが切ろう」
 給仕はかしこまりました、というとクラウディースにナイフを渡した。彼は立ち上がり、タルトに狙いを定める。その隣ではヴィプサーニアが座ったまま給仕から皿を受け取り、夫が大皿から移しやすいようにとテーブルに並べていた。
 「さぁエレオノーラが一番だ」
 そう言ってクラウディースは皿にタルトを乗せた。ヴィプサーニアとマーカスを介して運ばれたそれは、デザートにしてはとても大きな一切れだった。
 エレオノーラは声を出したりはしなかったが、嬉しそうだった。だが一瞬後に、戸惑ったように食卓を見回す。
 「あの、こんなに?」
 「遠慮しなくていいのよ。あなたのために作らせたんだから」
 ヴィプサーニアがそう言うと、エレオノーラはまたタルトに視線を移した。それからフォークを取り上げて、タルトを切り分けてフォークの上に乗せると口に運んだ。
 「……おいしい」
 エレオノーラが静かにそういうと、クラウディース家の面々――と給仕――はほっとしたようだった。
 クラウディースは再びタルトを切り分ける。今度はエンキの前に運ばれた。大きさは、エレオノーラのものより心なしか小さい気がしてエンキはそっと苦笑した。
 「わたしもエレオノーラと同じくらいがいいわ!」
 その様子に気づいたのか気づかないのか、アウレーリアはそう父親に主張した。すると負けじと双子の妹も主張する。
 「わたしも」
 「あ、おれも」
 長男のマーカスまで訴える。クラウディースは苦笑する。
 「はいはい、いった順番な」
 すると、次男のルキウスが慌てて声を上げた。
 「ちょっと待て、それって必然的にオレのが小さくならないかっ?!」
 「ルキウス……、父さんお前がそんなに器の小さいやつだと思わなかったぞ」
 クラウディースは額を押さえて嘆いた。
 「ここはお前、『オレのなんてなくてもいいぜ』と言うところだろう?」
 「差別だ。それって差別だ。兄貴も大きくって言ってるのに」
 しょぼくれる次男坊に母親は言った。
 「まぁまぁ、ルキウス。母さん、デザートはいらないから大きくきってもらいなさいな」
 すると、食卓の空気がぴたりと止まった。
 「……、お母さん食べないの?」
 アウレーリアが不安そうに言うと、ヴィプサーニアはにっこりと笑って返す。
 「お腹がいっぱいなのよ」
 すると、子どもたちは顔を見合わせた。
 「……お前が食べないなら、わたしも食べなくていいな」
 クラウディースは低い声で一言そう言った。
 「……」
 エンキとエレオノーラは顔を見合わせ、それから食卓を見渡した。それをクラウディースは見とめると、今度は口調を明るいものに変えて言った。
 「その代わり、取り分が増えたぞ。
 さぁ余計に欲しい人はいないかな」
 一瞬後、アウレーリアとルキウスが同時に手を挙げた。
 
 
 
 食事が終わり、二人はそれぞれの部屋に戻った。エンキが風呂に入ろうかどうしようか迷っていると、隣の部屋に続くドアが開いてエレオノーラが入ってきた。「面白い人たちでしょ?」
 「ああ、それにきみのことを大事にしてる」
 するとエレオノーラはさぁどうかしら、と照れた様子で首をかしげた。
 「色々しゃべって疲れなかった?」
 「いいや、面白かったよ。
 “タルタロス”っていうのが興味あるな。教えてくれるか?」
 「後でね。今日はもう休みましょう。
 ……あのね」
 「うん」
 エレオノーラは言いかけた話題を話したものかどうか迷っているようだった。
 たぶんその話しが本題なのだろうと思い、エンキは先を促す。
 「……おば様、どのくらい具合が悪いのかしら。
 なんだか気になって……」
 「そういえばあんまり立ち上がったりしてなかったな」
 エンキはそう答えて、顎をつまむ。そういうことには詳しくない。
 「……折を見て誰かに聞いてみるといいさ。今日は兎も角休もう」
 エレオノーラはうん、と頷いた。
 それから彼女はおやすみと言って部屋に戻った。エンキはドアに向かっておやすみと言うと、風呂に入る準備をし始めた。
 
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