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「魔法使いと記憶のない騎士」
第三十五話
娯楽
―休息の象徴―

「おはようございます、エンキ様」
シャッとカーテンが開けられる音。そして直後に顔の上に暖かな日光があたり、エンキは目を覚ました。
むっくりと起き上がり、顔をこすって辺りを見回す。すると、女性の使用人と目が合った。
使用人はにっこり笑う。
「旦那様が朝食をご一緒にとおっしゃられています。よろしいでしょうか」
「……ああ……、はい」
エンキは寝ぼけた声でそう答えた。



着替えを終えた後、連れて行かれたのは昨日とは違う食堂だった。
こぢんまりとした部屋で、暖かな色使いの調度が並び、テーブルクロスもどこか素朴だった。食卓の椅子の数も家族の数に少し多いだけだ。
昨日は客人が来たときのための食堂で、こちらは私的な食堂らしい。
エンキは食堂が二つもあるという事実からこの屋敷の広さに改めて気づき、なんだか呆れてしまった。
エレオノーラはすでに席についていた。その隣の椅子が給仕によって引かれ、エンキは腰掛ける。
「よく眠れたかね」
クラウディースの問いかけに、客人二人は揃って頷いた。
「今日はお休みなんですか?」
「陛下にしばらくお暇をいただいてね」
「『しばらく』ってどれくらい?」
アウレーリアが興味深そうに尋ねると、父は自慢げに答えた。
「今度お呼びがかるまで、だ」
その言葉を聞いて、ルキウスが固まった。
「……親父、クビじゃないだろうな」
「まさか。それだったら知らせが来るはずだろ」
マーカスが冷静に言う。すると次にコルネーリアが不思議そうに言う。
「裁判長さんって暇なの?」
「お父さまは今回難しい裁判をなさったのよ。そのご褒美でたくさん休暇をいただいたの」
母のヴィプサーニアが諭すように言うと、子どもたちは納得したようだった。
だが、クラウディースはそっと客人の方へ身を寄せた。
「大方、わたしの下した判断について議員と陛下が議会で大騒ぎするんだろう。
その間、わたしが議場の近くにいると色々と心中複雑になるから、議会が今回の判決に対して意見をまとめるまでしばらく休め、ということさ。
議場と大法廷は同じ区にあるからね。色々と丸聞こえなのも確かだ。」
「ああ、なるほど……」
「まあどんな意見が出ても下してしまったものは取り消せないがね。
議員たちは精神衛生を保ちたいのさ。陛下に叱られるだけで十分、とね」
クラウディースは口の端に皮肉っぽい笑みを浮かべて肩をすくめた。
食卓の上に食事が並べられ始めた。今朝は順番に出てくる形式の食事ではなく、パンとスープとおかずが一緒に出された。
スープはポタージュで、腹に溜まるものだった。パンは焼き立てで香ばしい匂いを漂わせている。
そのパンにバターを塗りながら、この家の主人はまた客人に話しかける。
「そういえばエレオノーラ、服は同じようなのしかないのかね」
言われてエレオノーラは自分の格好を見下ろす。
それは、清潔ではあるがくたびれた暗い色の旅装束だった。動きやすさを第一に考えられており、飾りも刺繍もない。もし彼女がとびきり女らしい顔を持っていなければ小柄な男性ととられても仕方ないだろうという格好であった。
「これが一番ですから」
クラウディースはバターを塗ったパンを妻の皿の上の真っ白なパンと取り替えた。ヴィプサーニアは小さく微笑む。
「でも、せっかく家にいるんだし綺麗な服を着ればいいのに」
アウレーリアが大皿に入った果物を取りながら言う。エレオノーラは肩をすくめた。
「持ってないのよ。ずぅっと旅してたから」
「わたしのを貸しましょうか?」
ナイフとフォークの動きを止めてコルネーリアが言うと、マーカスが首を振った。
「お前のじゃあ丈が足りないよ。エレオノーラは背が高い」
そっか、と末の妹は一番上の兄の言葉に納得した。そこへ、ぽんと手を叩く音が響いた。
「仕立て屋さんを呼びましょう」
ぽんという音とその言葉の主は夫人のヴィプサーニアだった。それから控えていた執事にも言う。
「今日か明日、もし都合がつけばすぐに来てくれるように伝えて頂戴」
「かしこまりました」
執事が慇懃に頭を下げたところで、エレオノーラはあわてて言った。
「あの、すみません。持ち合わせがあまりないんです」
「エレオノーラ、わたしたちは友人の娘から金を貰うほどケチじゃないよ。
……、おっと、遠慮の言葉なら要らないぞ。客人は家の主を喜ばせる努力だけすればいいのだ」
クラウディースは優しい笑い皺を目元に作りながらそう言った。エレオノーラは少し緊張したように礼を述べた。
そしてヴィプサーニアは重ねて言う。
「エンキさんも。服はあって損をすることはないですから」
「え、俺もですか」
話に混ざることが出来ず、なんとなくスープをかき回していたエンキは突然の呼びかけに心底驚いたようだった。
「ええ。是非。色々知っていた方が後々良さそうですし。ねぇあなた?」
「色々って……?
ああ、婚礼衣装のことかい、妻よ」
「そう!ね、基本の寸法を知っておけば、あとでちょっと直すだけでいいから……」
「あの、ですから……」
エレオノーラはパンを皿に戻して、クラウディース夫妻を見やった。
タイベリウス・クラウディースの目には幾分からかいの色が見て取れたが、夫人のヴィプサーニアはかなり本気のようであった。エンキはまたスープをかき混ぜるのに集中することにした。
「……どうしたルキウス、大人しいな」
「オレは朝に弱いんだよ……」
「お前が生まれてこの方一緒だが、ソレは記憶にないな」
だから、その脇で交わされたマーカスとルキウスの兄弟の少し妙な会話に客人たちと父母は気づかなかった。ただ双子だけが、兄たちと残りの人々をそれぞれの目で眺めていた。



仕立て屋が来たのは午後だった。まずエレオノーラが呼ばれて、とある部屋に通された。
そこには車椅子に乗ったヴィプサーニアと双子のアウレーリアとコルネーリアがいた。
エレオノーラが驚いて車椅子のヴィプサーニアを見下ろしていると、夫人は苦笑した。
「食堂では普通の椅子に座らせてもらっていましたからね。
少し歩くのが億劫になってしまったの」
母の乗る車椅子をコルネーリアはゆっくり押す。そして、ついたてがある場所にエレオノーラを先導した。ついたての隣には仕立て屋が控えていた。
「寸法を測ってもらって。それから色々選びましょう。
既製品も幾つか持ってきてもらったから着てみせて?」
ヴィプサーニアは優しくエレオノーラを促す。エレオノーラは頷いてついたての向こうに行き、仕立て屋に寸法を測ってもらった。
ついたてを出ると、ヴィプサーニアは優しく聞いてきた。
「数字を聞いてもいいかしら」
エレオノーラは幼い子どものようにこっくりと頷いた。すると仕立て屋がそっと夫人に耳打ちする。
「……うーん、やっぱり少し細いわねぇ。
持ってきていただいた既製品の中に合う物はあるかしら」
仕立て屋はハンガー掛けに近づき、うーんと悩んだ後一着のワンピースを取り出してみせる。
「ええと」
差し出されて、エレオノーラは戸惑った。するとアウレーリアが勇気付けるように言う。
「エレオノーラ、とりあえず着てみたら?」
「全部気に入るものがなくても、気に入った部分だけ取り出して新しい服を作ってもらえるから大丈夫よ」
コルネーリアもにこにことした口調で言う。
エレオノーラはそれに後押しされて、服を受け取るとついたての向こうにまた消えた。



十着ほど試着しただろうか。
「気に入ったのはないの?」
夫人に聞かれてエレオノーラは遠慮がちに、だが正直に言った。
「あの、やっぱり服をいただいてもこれから先持って行くことは出来ないので気が進まないというか」
「持っていく?どこへ?」
夫人と双子の姉妹は驚いた顔をした。それから三人で顔を見合わせる。
「旅です」
エレオノーラは簡潔に答えた。
「旅って?ずぅっとここにいるんじゃないの?
私たち、ずっとエレオノーラと暮らすと思ってた」
コルネーリアが悲しそうにそして少し不思議そうに尋ねた。
エレオノーラは複雑そうな笑みを浮かべて首を振った。肩の上で髪が揺れる。
「ずっとご厄介になるわけにはいかないわ」
「でも摂政はずっとあなたのことを追いかけているのよ?
ランドマールがあなたを保護したとわかればあきらめるかもしれないわ」
「ランドマール伯爵夫人、たしかにランドマール伯爵家の名前は大陸の隅々まで知られていますが、リュオンに対して大きな力を持つわけではありません。
私の存在はリュオンとローランドの外交問題に発展するかもしれません。一所に長く留まりたくないのです。
……入国してしまった時点ですでに迷惑をおかけしている可能性もあるんですが……」
エレオノーラはきっぱりとそう言った。すると、クラウディース家の女たちはしゅんとしてしまった。だが、ヴィプサーニアはうんと一つ頷くと、背の高い夫の友人の娘を見上げた。
「あなたがそう決めたなら、そう生きなさい。私は応援するわ。
でも人生には休息があっていいものなのよ。さ、その休息の象徴として服を選びましょう!
ことが片付くまで、出来上がった物は家で預かっておくわ。落ち着いたら取りに来てちょうだい」
ヴィプサーニアは言葉の終わりにエレオノーラの手を取り、ぎゅっと握った。
暖かな手だった。母親独特のかさかさしたような、湿っているような、優しい手だった。
エレオノーラははにかみながら幼い子どものようにうなづく。
すると彼女の双子の娘もなんだかほっとしたようだった。
だがふと、コルネーリアが首をかしげる。
「あれ?でも預かるってことはその間着ないわけで、着ないけどエレオノーラはその間も太ったり痩せたりするのよね?
……着れなくなっていたらどうするの?」
娘ののんびりした口調の鋭い指摘に、夫人はあっと声を上げた。それから困ったようにもう一人の娘を見上げる。赤いリボンを揺らしながら、アウレーリアはしばし考えた。
そして、彼女はポンと手を打った。
「わかった!エレオノーラ、これから太ったりしちゃダメよ!
痩せたら服をつめたらいいけど、太ったらどうしようもないもの!」
「ええ?!」
エレオノーラはアウレーリアの提案に声を上げて驚いてみせた。
「言ってることが無茶苦茶よ」
「そうねぇ。子ども生んだら太るしねぇ。あ、妊婦用の服も用意しなくちゃね!」
「まだ生みません!」
エレオノーラはくすくすと笑っている仕立て屋から新しい既製服を受け取ると、またついたての向こうに足早に消えた。



再びエレオノーラは数着着た。だが彼女は着るだけで、なんとも言わない。
ヴィプサーニアが本気で似合ってると言っても、アウレーリアがかわいいとおだてても、コルネーリアがにこにこしても、どこか気が進まないところがやはりあるようだった。
エレオノーラは今度は、胸元が大きく開き肩も露出したワンピースを着ていた。スカートはふくらはぎまでで、ふわりと広がる。柔らかい生地の服だった。
「こーいうの流行ってるのよ!」
アウレーリアが腰に手を当てて胸を張っていった。
「だけど母さまも父さまもそういうのは好きじゃないから、あんまりもってないの」
コルネーリアがやんわりと補足する。見れば、確かにヴィプサーニアはあまりいい顔はしていない。
「でもエレオノーラがそれが好きだというなら、仕方ないわ」
そう言われて、エレオノーラは自分の姿を見下ろした。肩と胸元の露出はともかく、ふわふわと足にじゃれてくるスカートは楽しい。
「……気に入ったみたいね」
ヴィプサーニアは苦笑しながら言った。エレオノーラは慌てて弁解する。
「あの、でも気に入ったのはスカートで……肩と胸元はちょっと」
「えー、でも絶対そのほうがいいわよ!エレオノーラ意外と肌綺麗だし!ね、コルネーリア!」
「エレオノーラがいいなら、それがいいな」
双子の娘たちはそろってその服を薦めた。エレオノーラは顎に軽く作った拳を当てて悩んでいる。
「エンキさんに見てもらう?」
「え」
コルネーリアの突然の提案に、エレオノーラは驚いた。
「うん。エンキさんに見てもらおうよ。スカートは気に入ったんでしょ?それが一番だと思うなぁ」
「そうね。エンキさんを呼びましょう」
コルネーリアの提案にヴィプサーニアが賛成すると、アウレーリアが嬉しそうに部屋を出て行った。
エレオノーラは突然の展開に戸惑う。
「あの、これを買っていただこうとは、まだ……」
「だからこそ、見てもらうのよ」
ヴィプサーニアはにっこりと笑ってエレオノーラの不安を和らげた。
数分後、アウレーリアに引っ張られてエンキがやってきた。
部屋に入れられるなり、エンキはアウレーリアに背中を押された。たたらを踏みながらなんとか体勢を立て直すと、目の前にはエレオノーラがいた。
エレオノーラは無言で数秒エンキを見つめた後、スカートをちょっとだけ広げてくるりと回って見せた。それから、露出した肩をすくめる。エンキは首をかしげてそれを見守る。
「エンキさん、エレオノーラはどうかしら」
ヴィプサーニアは車椅子を動かしてエンキの隣に並ぶとそう言った。エンキは夫人を見下ろした後、再びエレオノーラに視線を移す。
エレオノーラは少し不安そうに、背中に腕を回してそこで手を組んだ。
「……肩が、」
「はい?」
「肩が、……露出しすぎだと。思う」
聞き取りにくい声で、だがはっきりとエンキはそう言った。それからエレオノーラをまた見つめると、不意に視線をそらす。どうも目のやり場がなくて困っているようだった。
「えー!でも流行ってるのよ!こういうの!」
アウレーリアが不満の声を上げると、エンキはこめかみを撫でながら言った。
「流行ってるのか……でも俺はちょっとダメだ」
「ダメ?なんで?」
アウレーリアが詰め寄ると、あきらかにエンキは困り始めた。
「なんでといわれても。」
「だってエレオノーラの肌綺麗だし、今はこういうのが流行ってるし、目を引くし、とてもいいと思うわ!なんでだめなの?」
――それが全体的にダメなんだ!
とはエンキは言わなかった。
「ともかく俺はダメだ。……エレオノーラがいいのなら、別にいいけれど」
「えー」
アウレーリアはまた不平の声を上げた。コルネーリアとヴィプサーニアは黙って事の成り行きを見守っている。
エレオノーラはスカートをつまんで自分を覆っている生地を見渡した。
「……それならコレはやめるわ」
「えっ?!」
エレオノーラの言葉はアウレーリアには予想外のものだったらしい。彼女は慌てて背の高い友人に向き直った。
「どうして?似合ってるのに」
「なんとなく。私も露出してるのあんまり好きじゃないしね」
そう言うと、エレオノーラは服にまぎれて手近にあったストールを羽織った。それからまたヴィプサーニアに促されて既製服が並んでいる場所へと行く。
アウレーリアは少なからず、いやかなり残念そうだった。だがコルネーリアはどこか楽しそうに、そっとエンキに話しかけてきた。
「家には若い男が二人いますからね。上の兄さまはともかく、若い方は要注意です。
賢明な判断だと思いますよ」
エンキはからかわれたと思い、なんとも苦い笑いで彼女に返答した。それからエンキはなんとなく、こちらに背を向けて服を選んでいるエレオノーラを見つめた。
「……うん、スカートの裾はそのくらいがいいな」
ぽつり、とエンキが言うとエレオノーラは振り返ってにっこりと笑って見せた。



エンキの服に関しては早いものだった。
正式な服のための寸法が測られると、それからはシャツとズボンを選ぶだけ。上着に関してはなぜかエレオノーラが「詰襟が見たい」と言ったためちょっとした騒ぎにはなったが。
結局、エンキはエレオノーラの一言により詰襟の服を着せられ、エレオノーラは肩が露出しないふわりとしたスカートのワンピースを着ることになった。
女性陣に二人揃って色々と感想を言われた後、二人はやっと解放された。
「エンキ大丈夫?」
廊下をてくてくと並んで歩く。エレオノーラは襟元が気になっているらしいエンキに声をかけた。
「苦しい。というか、なんか首の居心地が悪い」
「?着心地が悪いんじゃなくて?」
「うーん、なんというか“居心地が悪い”と言う気分だ。着心地はいい」
そう言って、エンキは詰襟をくいと一度前に引っ張った。だがそれも結局意味を成さない。
二人はどこに向かっているかというと、この家の主のもとだった。夫人に「せっかくだからタイベリウスにも見せてちょうだい」といわれたのだ。見せてちょうだい、とはエレオノーラのことでエンキは“ついで”だろう。
クラウディースは書斎にいた。ルキウスが作った家財の書類に目を通しているところだった。
左の目に洒落た片眼鏡をかけ、ベストまできちんと着込んだそのいでたちには一分の隙もない。彼は家に居ても伊達男なのだった。
彼は部屋にエレオノーラとエンキが入ってくるとにっこりと笑い、机の前にあるソファを指し示した。促された若い二人は、ちょこんとそこに腰掛ける。クラウディースは大きな革張りの椅子から立ち上がり、やはり大きな机の脇をすぎると応接用のテーブルを挟んで彼らの向かい側に座った。
「着替えたのかい?」
「はい、買っていただきました。ありがとうございます」
満足そうなクラウディースにエレオノーラは座ったまま綺麗に腰を折った。クラウディースは手を振って気にするな、と意思を示した。
「ふむ、立って見せてくれるかな」
クラウディースの申し出に、エレオノーラは驚いたように胸に手をやった後そっと立ち上がった。
エレオノーラが着ているのは、シンプルな、ワンピースの見本のような服だった。普段黒や紺を好む彼女には珍しく優しい若草色をしたものだ。そのためか、彼女の白い肌が美しく見える。露出した首にはコルネーリアがどこかから見つけてきた服と同じ色のリボンのアクセサリーが飾ってある。
クラウディースはソファの背もたれに身を預けると、顎をつまみながら彼女を観察した。
「回ってみて……そう、そうだ」
エレオノーラがくるりと回るとスカートが遊ぶ。エンキはその様子を見守った後、ちらりとクラウディースをうかがった。クラウディースは口元に笑みを浮かべている。それは、父親の表情そのものだった。
「気に入ったかい?」
「ちょっと歳にあってないような気もしますけど」
聞かれて、エレオノーラはそう言いながらも微笑んだ。それからすとんとまたエンキの隣に腰掛ける。するとクラウディースは今度はエンキに目を向けてきた。
「……、馬子にも衣装か」
「……。」
エンキは動かないようにした。
それから再びクラウディースはエレオノーラに話しかける。
「詰襟が好きなのかな」
「好きと言うか、見てみたかったというか……」
エレオノーラは素直に述べた。隣でエンキはクラウディースがエレオノーラの趣味を見抜いたことに密かに驚いていた。
「見てみたかっただけかい?
それだったらもっといいものがあったのに」
「いいもの?」
「古いものだがね。わたしが裁判官になる前に一年間従軍した時の制服だ。
エンキ君とは背もそんなに変わらないし、着れると思うぞ」
「従軍なさっていたんですか!」
「貴族の子弟には従軍の義務があるからね。
この十年の間にマーカスもルキウスも従軍したよ。子どものためにと制服を取っておいたんだが――物を捨てるなという家訓もあってね――、マーカスには幅がありすぎたし、ルキウスには幅も丈もありすぎて結局誰も着てくれていない。
せっかくだからエンキ君、どうかな」
「……えーと」
エンキは困ったようにエレオノーラの方へ首を回した。エレオノーラが見つめてくる。その目は心なしか輝いているようだった。
「……、そのうちに」
エンキは結局、その目に押されたかのようにそう答えてしまった。クラウディースは笑って、用意させよう、と言った。
「ところで二人とも、まだこの一日には時間があるわけだが、これから何をするのかね?
かと言って街に出れるほど時間があるわけではないようだしな。
そうだ、庭に生垣で作った迷路があるぞ。庭師の力作だ。どうだね、挑戦してみるかい?」
クラウディースは客人に対して心遣いを見せた。
「迷路は――そのうちに」
エレオノーラはさすがに迷路は辞退した。それから、思いついたように彼女は言う。
「そうだ、卿――、真言について教えていただくことはできませんか?」
するとクラウディースは少々面食らったようだった。
「真言についてかい?なぜだい?
“邪王の知識”には載っていないのかい?」
エレオノーラは苦笑する。
「いえ、もちろん載っています。
ただ“邪王の知識”とは、個人の力量によって理解できる――と言うより引き出して使える度合いが違うんです。力がなければ、知ることが出来ない知識も多いです。
私には力がないので、“邪王の知識”のほとんどは意味のない文字の羅列のようなものなんです」
エンキはその言葉で出会った当初にエレオノーラが真言について詳しくは知らないといっていたことを思い出した。
クラウディースはエレオノーラの言いたいことがわかったのか、ふむ、と頷いた。
「……、もちろん、教えてもかまわない。真言への門は誰にでも開かれているからね。
ただし、この真言の知識を役立てるか役立てないか、また面白いものととらえるかつまらないものとするかは君たち次第だ。それを心して聞けるかね」
クラウディースはエレオノーラだけではなくエンキにもそう言って、返答を求めるために腕を広げた。二人がはい、と生真面目な声で答えるとクラウディースは静かに頷いた。
「うむ、わたしも覚悟しなければならないな。ちょっと長い話になるかもしれないから」

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