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「魔法使いと記憶のない騎士」
第三十七話
夫妻の会話
―むずかしい話―

クラウディースは片眼鏡を外して書斎を出ると、真っ直ぐ妻が休んでいる部屋に向かった。
部屋に入ると、ヴィプサーニアはベッドの上で刺繍をしているところだった。
「あらあなた、ルキウスが作った書類には目を通されました?
あの子、ここのところ頑張っていたんですよ」
夫は、妻の質問に片手を掲げて答えた。そこにはバラバラになったあの書類があった。
「書類を一纏めにする方法を教えねばならんかな」
「まぁ……」
夫はいつもの通りに妻のベッドに腰掛ける。妻は刺繍をベッドの傍らのサイドテーブルに置くと、夫を見つめた。
「ルキウス、どうしたんです?」
「十年越しの想いがやぶれそうだったんだよ」
「まぁ」
ヴィプサーニアは目を丸くした。
「あなた気づいてらしたんですか……」
するとクラウディースは少しむっとする。
「わたしは彼の父親だぞ。見てればわかる。というか、ルキウスの場合わかりやすすぎた」
「昔のあなたに少し似てますわ」
「わたしに?」
今度はクラウディースが目を丸くした。ヴィプサーニアは楽しそうに微笑む。
「ええ。ルキウスは好きな子にそっけなくしてしまう子ですから。
そっくりでしょう?」
「……いやどこがだ。わたしはこんなにも愛情表現豊かだぞ」
なんなら証明して見せようか、と腕を広げた夫に妻はまた笑う。
「今は。
でも三十年近く前は、あなたは冷たい人でした。
冷たくて怖い、優秀で完璧なクラウディースの若当主。
覚えていません?私たちはお互いが嫌いでしたのよ?」
「そうだったかな」
クラウディースはなんともいえない笑みを浮かべて、そっと妻を抱き寄せた。
「しかし昔からわたしは完璧などではなかったぞ。
その証拠に、君はわたしのことを冷たくて怖いと思っていたのだろう?」
「そうねぇ。最近は書類を目から離して見るようになられたし、額は秀でてきたし、子どもたちは相変わらず甘やかすし……どんどん完璧から離れていってますわねぇ」
すると、夫はひょいと妻から体を離して彼女を見下ろした。
「老眼はともかく、額のことはあまり言わんでくれたまえよ」
「まぁ、伯爵、おいたわしい」
ヴィプサーニアは大げさな調子でそう言うと哀しげに首を振った。それから夫婦は揃って笑った。
「……ああ、それで何の話だったかな……」
「エレオノーラがエンキさんを連れてきたので、ウチの次男坊君が、十年越しの恋にやぶれてしまいそうだ、という話でしたわね。たしか」
「そう、そうだ」
夫婦は体を離して向き合った。
「それでちょっとしたコトがあって、ルキウスが癇癪を起こしてね。
その結果がこの書類というわけだ」
「まぁ。でもそれなら、破ったりしなかったんですから、昔から比べたら随分成長しましたわね」
「そうそう。でも私としてはもう少し成長して欲しいと思うねぇ。
エレオノーラほど遠慮深くはならなくてもいいが」
「それで、ルキウスがどうしたのですか?」
「いやね、妻よ、」
クラウディースはひょいと体を動かして妻のベッドにすっかり乗ってしまった。それから妻の体を少し離し彼女の隣に並ぶと、彼女の頭を自分の肩に預けさせる。
「ルキウスにはっきりとあきらめさせた方がいいのかと思ってね。
今までは可能性があるから黙っていたが、さすがにあんな男を連れてこられたのじゃ望みはない。邪王の一族はコレと決めた相手を手放さないからね。これからは見向きもされなくなるだろう」
「そんなにはっきり“コレ”と決めていますの?
エレオノーラはどうも、エンキさんを意識しないようにしているようなところがあるように感じましたけれど……」
「まぁ男女の仲は難しいものさ。そうだろう?」
「そうですけれど。
……ところで“あきらめさせる”ってどういうことです?」
「文字通りさ。」
クラウディースがきっぱりとそう言うと、ヴィプサーニアは眉を寄せて夫から体を離した。
それから彼に体を向ける。
「『ルキウス、エレオノーラはエンキさんと結婚なさるだろうからあきらめなさい。いいね、わかったね』と、言うのかしら」
妻の言葉に夫はうなった。
「もっと婉曲な言い方をするかもしれんな」
「まぁなんて愚かな方でしょう真言主」
ヴィプサーニアはクラウディースに向けて棘のある言葉を投げた。妻の辛らつな言葉に夫はびっくりする。
「わたしが愚か?なぜだいサーニャ?」
「真言主、たしかにあなたはこの世の真理とやらにはこの世界で一番お詳しいかもしれませんが、子育てと恋愛と平凡な人生にはからっきしダメなお方です!
三十年近く前を思い出してくださいな、タイベリウス」
「……いやいや最近がめくるめく忙しく……」
クラウディースは誤魔化すようにそういったが、しっかりと三十年近く前を思い出していた。
「思い出しましたか?」
「……たぶん君が意図したものを思い出したと思う。今思い出すと恥ずかしいこと極まりないな」
「あら私は大好きでしたよ?」
「過去形かね」
「今は愛してます。
……、それで思い出してくれたらそれでよろしいんですけど、三十年前のあの時、あなたのお義母様がもしあなたに『ヴィプサーニアは対立するアルトリウス家の人間だからあきらめて頂戴』とおっしゃっていたらあなたは私をあきらめたでしょうか?」
「まさか」
「即答ありがとうございます。
ね、あなたはそれをルキウスになさるのですか?」
「ううむ」
クラウディースは思わず腕を組んで、眉間に皺を寄せた。
「対立する家の人間だから、とか、あの人には好きな人がいるから、という理由ではどうにもならない感情なんですよ、ルキウスが抱え込んでいるのは。
あきらめ“させる”必要はありません。」
「……かと言ってわたしはエンキ君とルキウスが決闘するような事態は避けたいのだが」
「まぁ、あなたさっきおっしゃった事を忘れたんですか?
邪王の一族はコレと決めたら相手を手放さないと。確かにエレオノーラはエンキさんを意識しないようにしてますけれど」
「……言いたいことがよくわからんのだが」
ヴィプサーニアは嘆かわしそうに首を振った。
「例えエンキさんとルキウスが決闘することになって、ルキウスが勝ってもエレオノーラはルキウスを選びません。
エレオノーラはエンキさんが好きですから。そうでしょう?」
クラウディースはまた眉間に皺を寄せ、首をかしげた。ヴィプサーニアはわらう。
「タイベリウス、本当に真言以外には鈍い方ね。
どのみち、エレオノーラが選んだのはエンキさんなのです。昔私もあなたがクラウディースの人間だと知ってもあなたを選びました。私の実家アルトリウスはクラウディースを毛嫌いしていたにもかかわらず。
ルキウスは自分の心に自分で折り合いをつけるしかありません」
「……なるほどな。あきらめさせるのは無理か」
「ええ、そうです。させる、なんて親の余計なお世話です。
うちの子どもたちはみんなしっかりしてますから」
「そうか……」
クラウディースは得心がいったようだった。深く頷くと、妻に笑いかける。
「子どもたちの問題は子どもたちに解決させよう」
「ええ、そうですわ」
ヴィプサーニアは微笑んでそう答えると、夫の傍らに戻り再び彼の肩に頭を乗せた。
しばらく二人は黙ってそうしていたが不意にクラウディースが、あ、と声を上げた。
「どうなさったんです?」
ヴィプサーニアは不思議そうに上目遣いで夫を見る。
クラウディースはちょっと眉を寄せ、マジメな表情で妻に言った。
「君、さっきからわたしのことを『真言以外には鈍い』と言っているがそうじゃあないぞ」
「まぁ!何にお詳しいんです?」
ヴィプサーニアは驚いてみせる。するとタイベリウス・クラウディースは人差し指を妻の顔の前に突き立てて言った。
「わたしは“法律”にも詳しいぞ」
ヴィプサーニアはじっと夫の顔を見つめていた。しばらく真面目な顔をしていたが、彼女は夫の言葉を飲み込むと、くすくすと笑い出した。
そして優しく頭を振りながら言う。
「お仕事ですもの、詳しくなければ困りますわ」
妻の笑顔に満足したのか、クラウディースも相好をくずして笑った。
そこへコンコンとノックの音がした。音をさせた者はどうぞと言われるまで律儀に外で待っていた。入ってきたのは、長男のマーカスだった。
長男は、ベッドに仲良く並んでいる両親を見て肩をすくめた。
「相変わらず仲がよろしくていいですね。
おかげでボクは来年の結婚に希望が持てそうですよ」
「感謝したまえ」
楽しそうに笑って父は言う。
「マーカス、何かあったの?」
母の優しい呼びかけに、マーカスは首を振る。
「いいえ特に。
ただちょっと提案をしてみようかと思いまして。遠乗りの」
「遠乗り?」
両親は顔を見合わせたあと、息子を見た。マーカスはこっくりと頷く。
「エンキさんが馬を持っているというので、久々に皆で。
ただ母さんの体調によりますが」
「……わたしはお留守番しててもいいのよ?」
体調を崩し続けているヴィプサーニアは息子にそういった。マーカスは頷かない。
「たぶん、これから先父さんがこれほど長くていい加減な休暇を取れることはないでしょう。おれも来年結婚しますし。
だから記念に、と。」
「結婚する息子のわがままというわけか」
「ええ」
「でもあなたはお婿さんに行くのではなく、お嫁さんをもらうのよ?
別にあらたまらなくても……」
「それでも、なんとなくそうしたいと思うのです」
マーカスはただ真面目に答えた。そして続ける。
「母さんと父さんは無理なさらず、馬車でついて来てもらってもいいですし、ピクニックだけにしてもいいかなと思っています。
どうでしょう?」
「ピクニックねぇ」
クラウディースは苦笑してヘッドボードに体を預けた。
「お前とコルネーリアとアウレーリアはともかく、ルキウスが乗ってくるかどうか。
ガキくさいだのと言うかも知れんぞ」
「エレオノーラが来たら、文句を言いつつも来ますよ」
長男はなんだかぶっきらぼうにそう言った。ヴィプサーニアはきょとんとする。
「あらマーカス、あなたも気づいてたの……」
「24年も付き合っていて、気づかない方が不自然でしょう。もしくはよほど鈍いか。
ともかく、どうでしょう。皆で遠出するというのは。もちろんエンキさんとエレオノーラも誘いますが……」
「遠出でピクニック……うん、いいわね」
ヴィプサーニアは頷く。するとクラウディースが不安そうに言った。
「体は大丈夫なのかね」
「ええ。最近お天気もいいですし、眠くもなりませんから。
お医者様と相談して日付を決めてもいいかしら、マーカス」
「どうか母さんがいいように。せっかくですから体調のいいときに行きましょう。
若いものと父さんはどうにでもなりますから」
嬉しそうにヴィプサーニアは頷く。
「ピクニックなんて何年振りでしょう。お弁当を考えなければなりませんね。
おやつも!お茶も持っていきましょう。今の時期だから何がいいかしら……」
その言葉に夫と息子は顔を見合わせて苦笑した。
そこへ使用人がやって来て、お風呂の準備が出来ました、と言った。
風呂と言っても体を悪くしているヴィプサーニアのために薬草を湯に混ぜたものである。
クラウディースは使用人を下がらせると、ピクニックの計画に夢中になっている妻に言った。
「サーニャ、気持ちはわかるがまだ時間はある。
まずは風呂にでも入って体を温めてから、ゆっくりと考えるといいさ」
「それもそうねぇ」
ヴィプサーニアが納得すると、クラウディースは長い足を動かしてひょいとベッドから降りた。マーカスは父の考えを察してさっとベッドの近くから身を引いた。
「では、わたしが浴室まで運んで差し上げよう」
言うが早いか、クラウディースはヴィプサーニアを横抱きに抱き上げる。ヴィプサーニアは一瞬バランスを崩しそうになって、夫の首に腕を絡めた。
「そしてついでだから背中も流してあげようか、奥さん」
「あらまぁ旦那さま、今晩はお暇なのかしら」
くすくす笑いながらヴィプサーニアは言う。すると、クラウディースは片目を瞑ってみせる。
「休暇中だからねぇ」
それからふと、ランドマール伯爵クラウディースは長男がなんともいえない顔でこちらを見ているのに気づいた。
「どうした、マーカス。
一緒に入りたいのか?」
クラウディースの腕の中で、ヴィプサーニアも首をかしげる。
「いえ、結構です。
……色々見たくないものも見てしまいそうですし」
と、マーカスは視線をそらしながら言った。夫婦は顔を見合わせてから、首をかしげる。
「そうか。
……では、マーカス。また明日」
「ええまた明日。父さん、母さん」
マーカスは今度はうって変わってにっこりと笑って両親を部屋から送り出した。
それからパタンとドアが閉まるのを見てから、まさか今更兄弟は増えやしないよな、とクラウディース家の長男は考えた。だがその一瞬後、両親の年齢を考えて自分が考えすぎだということに思い至ると、やれやれと首を振って母の部屋を辞した。

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