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「魔法使いと記憶のない騎士」
第三十八話
美味なるお茶を
―日の当たる席で―

またしても翌日。
クラウディースに書斎に呼ばれたエレオノーラは、目の前に差し出された物を見つめて考えていた。
その向こう側でクラウディースは足を組んだ。
「受け取ってもらえないのかね」
その質問に、エレオノーラは即答しかねた。
「……ちょっといただくわけには」
エレオノーラに差し出されたのは財布である。
それも最高額の貨幣である金貨が入ったものである。もちろん金貨のほかにも銅貨や銀貨も入っている。
おかげで財布は結構な重さになっていた。
「うむ、実はな、エレオノーラ。
わたしは君たちを客人として迎えいれたわけだが、実はそうそう娯楽を提供できるわけではないんだ」
「いえそれでしたら書庫を見せていただいて」
「人の話は最後まで聞きなさい。
それでだな、その提供できない分をお小遣いにして差し上げようというわけだ。
なんだかカネでモノゴトを解決するようで気が進まないかもしれんが、君は大人だ。カネの使い方はわきまえているだろう?
旅の装束でも買い換えてくれたまえ――また旅に出るつもりなんだろう?
妻から聞いたよ」
エレオノーラはクラウディースを真っ直ぐ見た。クラウディースは苦笑する。
「止めても聞かんだろう?
君の両親は頑固だったからね。
だったらせめて我々を安心させてくれたまえ」
その言葉を聞いても、エレオノーラは決めかねているのかじっと財布を見下ろすだけであった。
クラウディースは優しいまなざしでそれを見守る。
エレオノーラが顔を上げた。
「お金は――あればありがたいです。
でも、旅にこんなに必要はありません。逆にこんなに持っていると危険ですし――、でもお言葉に甘えて道具を一そろい新しくする分だけいただいてもいいでしょうか?」
クラウディースはやれやれと首を振った。
「好きにしなさい」
「ありがとうございます」
エレオノーラは深々と綺麗に頭を下げた。
「ああ、そうだ――」
それからクラウディースは気づいて、エレオノーラに言う。
「君たちの馬はどこにいるのかね。
連れて来なさい。厩舎には余裕があるから。
それと今度皆で遠乗りをしようということになってね。うちの馬たちに君たちの馬をならしておいたほうがいいだろう」
エレオノーラはこっくり頷いた。
それから財布を見つめて、サライを迎えにいくついでに買い物をしてしまおうと思った。



「街に出るの?」
クラウディース家の図書室に行くと、アウレーリアとコルネーリアが勉強しているところだった。今日は先生がつかない日らしく、二人はエレオノーラに気づいて勉強をやめてしまった。
「うん、卿にお小遣いをいただいたからいろいろ揃えようと思って」
「エンキさんも行くのよね」
「うん。彼の分もそろえないとおかしいでしょう?
ついでに、サライを迎えにいくわ」
「サライ?」
「馬よ。黒い馬なの。ちょっと気が強くて、ここの馬と仲良くできるといいんだけど」
すると、双子は顔を見合わせる。そしてコルネーリアが口を開いた。
「エレオノーラ、美味しいカフェがあるの」
「え?」
突然出たカフェという単語に、エレオノーラは面食らった。だがコルネーリアはかまわずにこにこと続ける。
「ケーキが素晴らしく綺麗でおいしくて、お茶もいいの。
ね、地図を描いてあげるからエンキさんと一緒に行ってくるとといいと思うわ」
「そうね!
せっかくデートするんだもの!」
アウレーリアが興奮したように言うと、エレオノーラは頭が痛くなったらしくこめかみの辺りを押さえた。
「あ、でも」
コルネーリアが何かに気づいて、口元を押さえた。
「そのお店、女性のためのお店みたいな感じで、内装も淡い色を使ってるの。
この前ルキウス兄さんと出かけたとき、入ろうと思ったんだけど兄さんとても嫌がったの。
エンキさんも嫌かもしれないわ」
残念そうに言うコルネーリアの言葉にエレオノーラはなんだかほっとした。
「じゃあだめね、エンキはどうやらそういうところ苦手みたいだし」
すると、今度はアウレーリアがぐっと拳を作った。
「大丈夫よエレオノーラ!
ああいう手合いはね、こうすればいいの!」
そう言ってアウレーリアは傍らのコルネーリアの片手を両手で取った。そして優しく握る。
そしてその手を顎の近くに持っていき、上目遣いで相手を見る。それから目をうるうるさせると彼女は可愛らしい声でこういった。
「……一緒に入って?」
エレオノーラは胃のあたりが痛くなった。
アウレーリアはぱっとコルネーリアの手を放すと胃の辺りを押さえているエレオノーラに向き直った。
「甘えるようにがコツよ!
そして握るのは、利き手じゃないほう!男は利き手をあけておきたがるものなの!
そしてその手は包むようにやさしく握るの、両手でね。片方は添える感じでもいいわ。
包むのよ!忘れないで。
あ、言葉は『だめ?』でもいいわ!
大半の男はこれで言うこと聞いてくれるわ」
するとそれを聞いて、コルネーリアはぽつりと言った。
「アウレーリア、あなたたぶん家が没落してもするりするりと華麗に生きていけるわ」
「あら褒めてくれるのコルネーリア!」
コルネーリアが意味深に頷くと、アウレーリアは嬉しそうだった。
エレオノーラはそんな二人を見つめながら、クラウディース家当主のことを考えた。
――卿が聞いたら卒倒するわ。



そして午後。エレオノーラはエンキを伴って街に出た。
店が多く並ぶ商業区の一角に馬車をつけてもらい、降りる。
それからエレオノーラは御者に言った。
「帰りは馬を連れて行くから、迎えは結構です」
すると御者はこくりと頷いて了解の意を示し、馬車を走らせた。それを見送ると、エレオノーラはエンキを振り返った。
「さて行きましょう!」
「……あ、ああ」
元気よく歩き出すエレオノーラにやや遅れてエンキはついていく。
「卿にいくらいただいたんだ、お小遣い」
「使えるだけ」
「使えるだけ?どういうことだ?」
「そういう意味よ」
エンキは立ち止まる。納得いかない顔をしていた。
エレオノーラは数歩先で立ち止まり、振り返る。
「クラウディースはローランドで指折りの貴族よ。
カネに糸目をつけないと決めたらそうすることもできるの。普段は質実剛健な人たちだけど」
「質実剛健?あのむだに広い家で?」
「あの家、かなり古いのよ。修復しながら住んでるの。飾りだって少なかったでしょ?
家具だって古かったし。
普通の貴族だったら流行おくれだって建て替えてるでしょうね。それに広くないと、使用人たちの住むところが取れないし」
「……そうなのか」
「そうなの」
エレオノーラは、トン、とリズムを取るように一度踵を浮かせた後先を切って歩き出した。エンキはついていく。
エレオノーラの足取りはどこか軽い。ふわふわと動くスカートが楽しげなのを象徴しているようだとエンキは思った。
「まずどこに?」
「そうね、私の背嚢底が抜けそうなの。そこから見ていい?」
「ああ」
「ありがとう」
そう言うと、エレオノーラは少し歩調を落としてエンキに並んだ。



「ありがとうございましたー」
買い物に出る際、クラウディースに「店の人に家に届けるように言えばいいから」と言われたエレオノーラが店員にそう伝えると店員は揃ってにっこりと笑って「お届けします」と言うのだった。
「……手ぶらだな」
「楽ちんね」
二人は店から出て数歩歩いたところで苦笑した。たしかにランドマール伯爵クラウディースはすごい人である、というのを実感したのだった。
「それでどうする?」
「あのね、コルネーリアにいいカフェを教えてもらったの」
「カフェ?」
「喫茶店よ」
エレオノーラはポケットからコルネーリアが書いてくれた地図を取り出した。
そこには可愛らしい筆跡で通りと店が記してある。
「ケーキとお茶が美味しいんですって」
「へぇ……」
「こっちみたい」
エレオノーラが歩き出すと、エンキはやはり従った。
そして五分ほど歩いた後、たどり着いたのは可愛らしい外観をもったやはり可愛らしいカフェだった。
エンキは二、三歩後ずさる。
「……エンキ?」
それからエンキはやや挙動不審になった。数歩先にいたエレオノーラはヒールで石畳を鳴らしながら小走りに駆け寄る。
エンキはエレオノーラに対して小さく首を振った。
「なに?わからないわ」
「だめだ……ああいうところ……俺は」
エンキはちらりと店の方を見て言った。エレオノーラも店を振り返る。
店は何度見ても可愛らしい店だった。
店のウィンドウにはくまのぬいぐるみがちょこんと小さな椅子に腰掛けてこちらを不思議そうに見つめている。その横にはやはり小さなテーブルがあり、その上には淡い色をつけたクリームで飾られたデコレーションケーキが乗っている。
ウィンドウを飾るカーテンは少女が好む色だ。しかもレースもあしらってある。
――コルネーリアが好きそうね。
それからエレオノーラはエンキに視線を戻した。そして苦笑する。
――確かに。
エンキがその店を苦手とする理由がわかった。背が高く、かっちりとした体をもつ彼には最高に似合わない店だ。店の客と店員もおどろくことだろう。
だがエレオノーラはこの店に入ろうと決めた。
「コルネーリアが薦めてくれた店だから、はずれじゃないと思うわ。
だめかしら?」
エンキはゆるゆると首を振った。エレオノーラは小首をかしげて彼を見上げた。
――困ったわね。
どうしてもこの店でなければだめだということはないが、せっかくなので入ってみたい。
それがエレオノーラの今の気持ちだった。
――そうだ。
アレをやってみようか、とエレオノーラは思った。そう思い立ったのは、半分は好奇心のせいだったのかもしれない。エレオノーラはそれでも断られれば、他の店を探すつもりだった。
エレオノーラは一歩エンキに近づくと、彼の左手に手を伸ばした。
「?」
つい、と彼の手を持ち上げて、撫でる。皮の厚い手だった。
それを二、三度撫でる。指先が柔らかく暖かな凹凸をとらえた。
「……。」
「エレオノーラ?」
エンキは不思議そうにエレオノーラを見下ろす。
果たして、二人のその姿は通行人になんととらえられたことか。
エレオノーラはアウレーリアがやったことを思い出すと、一つ息をついてから、上目遣いでエンキを見つめてみた。
エンキは眉を寄せて、首をかしげる。
――甘えるようにがコツよ!
「…………、あ」
「………………エレオノーラ?」
エレオノーラはエンキから視線をそらした。それから吐き捨てるように言った。
「やっぱり、ムリだわ」
「え?」
「ううんなんでもないの」
エレオノーラはぱっとエンキの手を放した。突然手を放されて、エンキは不思議そうな顔で自分のその手を見下ろした。
エレオノーラはエンキに背を向け――店の方を向いて――、ため息をついた。
それをなんと取ったかエンキは苦笑した声で言った。
「仕方ない、入るか」
「え?」
肩越しに振り返ったエレオノーラにエンキは近づく。そして、彼女の顔の近くまで屈むと言った。
「入りたいんだろう?」
「え、でも……嫌なんじゃないの?」
「確かに。でも……」
エンキはそこで肩をすくめた。エレオノーラはしばらく彼を不思議そうに見つめた後、にっこりと微笑んで頷いた。
「それじゃあ、入りましょ?」
エンキは仕方ないな、と言う顔で頷いた。
やはり、二人のその姿は通行人になんととらえられたことか。



外見に違わず、中も可愛らしい店だった。
つまるところ、店内はおしゃれをした女性に少女、母子連れで賑わっているのだ。
可愛らしく飾り付けられた内装。可愛らしい格好をした少女。可愛らしい菓子。可愛らしい食器。さらにはドアには可愛らしい音を奏でるカウベルが取り付けてあり、店に入るとからんころんと音をさせた。
場違いなのは誰だ、と問われれば自分だと手を挙げなければならないだろうということがエンキにはわかった。
「……なんだか場違いねぇ」
「え?!」
「私みたいなのがこんなところに来るのには、歳をとりすぎたって感じがするわ」
「……そしたら、俺は一体どうなるんだ」
エンキは呆れてエレオノーラを見下ろした。エレオノーラは彼を見上げて、さあね、という感じで肩をすくめた。
その店はショーケースの中に飾っている菓子から好みの物を選び、注文し受け取って自分で席へと運ぶ方式を取っていた。ショーケースの前には楽しそうにあれこれと品物を選ぶ人たちがいる。エレオノーラはエンキの服の袖をひっぱってショーケースの前の開いた場所へと連れて行った。
「どれがいい?」
華奢なケーキたちは、さぁ選んでとばかりに行儀よく並んでいる。エンキはちょっと肩を落とした。
「うーん……」
エンキがなんとも言えない声を出すと、エレオノーラはケースの前にちょっと屈んだ。
「どれがいいかしら。さすがに全部は食べられないわね。
……タルトがあるわ」
「……好きなんだな」
「母さんがよく作ってくれたわ。なかなか、あれより美味しいのは、ないの」
エレオノーラは明るい口調で言った。エンキは何か言おうとしたが、それはやめて自分も何か選ぶことにした。
そんな客たちの背後で、またからんころんとベルが鳴った。
エンキがなんとなく振り返ると、そこにはなんとクラウディース家の長男マーカスがいた。
マーカスはエンキと目が合うと、にっこりと笑った。表情を変えないでいると彼は父似だったが、笑うと母に似ている。
エンキは頭を下げる。だがマーカスは入り口に留まったままドアを押さえており、店に入ってこない。エンキは首をかしげる。
その理由はすぐにわかった。
入り口に小柄な女性が現れ、マーカスがドアを押さえていることに気づくと嬉しそうににっこりと笑った。それから女性はしずしずと店に入ってくる。女性が進んだ後、マーカスは静かにドアを閉めながら店に入ってきた。
女性は、自分たちを見ていたエンキに気づくとにっこりと笑った。
「こんにちは。マーカスさんのお知り合い?」
短めの髪が肩の上で揺れる。可憐、というのを絵に描いたような女性だった。
エンキが返答に困っていると、彼女の隣に来たマーカスが答えた。
「エンキさんだ。友人の連れで、今家に泊まっていただいている」
「まぁ、お話は少し伺っています」
いつ間にか、エレオノーラがエンキの隣に来ていた。
「エレオノーラさんね。私はアエミリアと申します」
アエミリアと名乗った女性はエレオノーラに手を差し出した。エレオノーラはそっとその手を握る。
「来年以降、末永くお世話になるかもしれませんので、お見知りおきを」
控えめなアエミリアの声に、エレオノーラは驚いてみせた。
「もしかして、マーカスの婚約者さんですか」
「ええ」
それからエレオノーラはマーカスに視線を移す。
「意外ね。結婚できるのねマーカス」
「さりげなく失礼だぞノーラ」
にっこりとしたままマーカスは言った。エンキは何故だかわからないがその笑顔に背筋が寒くなる。だがエレオノーラは気にした風もない。
「マーカスもコルネーリアに教えてもらったの?」
「ああ。おれはそうでもないが、アエミリアが好きなのでね。甘いものが」
アエミリアはにっこりとしたままエレオノーラに頷いてみせる。それから顔と同じように楽しそうな口調でアエミリアは言う。
「ずっと来てみたかったんですけど、なかなか来れなくて……。
もしよかったらご一緒しませんか?」
「いいんですか?」
「お菓子は大勢で食べた方が美味しいんです」
それからアエミリアはエレオノーラを伴ってショーケースの前へ行った。
「マーカスさんはどうします?」
「任せるよ。席をとっている」
「はい」
「エンキはどうする?」
「……待ってる。食べたいのをいくつか選んでくれ。余ったらそれを食べるよ」
そう言うと、エレオノーラは苦笑した。
エンキは居場所がないので、マーカスについていく。マーカスは通りのよく見える窓際の席を選んだ。慣れた様子で席に着くと、エンキに向かい側に座るように促した。エンキは黙って従う。
マーカスは窓から外を眺めている。それはいかにも慣れた感じがした。ふと気づけば、回りの女性だけのテーブルがマーカスのほうを見てひそひそと何か言い合っている。心なしか彼女たちの頬はほんのりと染まっているようだった。
良家の長男坊だ。顔は知れ渡っているのだろう。
エンキはそう思った。
程なくして、アエミリアとエレオノーラが戻ってきた。二人は菓子とお茶の乗ったトレイを抱えている。マーカスは立ち上がると、アエミリアからそれを受け取った。そして片手でそれを持つと、空いた手で椅子を引いて彼女を座らせた。
エンキはそれを見て「あ」と思ったが、エレオノーラはそれらを全部自分でやってしまった。
「?どうしたの?」
「いやなんでも……」
かくして四人が席に着き、小さなお茶会が始まった。エレオノーラはエンキにあまり甘くないケーキを選んでいた。
天気の話からはじまり、マーカスとアエミリアの馴れ初めを少し聞かされ、店の感想に至る。そこで会話は途切れてしまった。だがアエミリアは特に気にした様子もなく、動きは淡々とだが楽しそうにケーキを口に運んでいる。
エンキとエレオノーラにとってはそれは幸いなことだった。ここのところクラウディース家の人々に“二人の関係”なるものを根掘り葉掘り聞かれて少しうんざりしていたのだ。アエミリアは節度があるらしい。
なんとなくエレオノーラはエンキの向こうにある通りに目をやった。すると、自然ティーカップを口に運ぶエンキが目に入る。そして彼女は気づいたように、あ、と言った。
エンキはその声に不思議そうな顔をしてエレオノーラのほうを見た。エレオノーラはフォークを置くとエンキに向けて掌を差し出した。
「エンキ、手を出して」
「手?」
「そう、掌を上にして」
エンキは言われた通りにする。
「やっぱり、新しいマメが出来てる」
「へ?」
エレオノーラは片手でエンキの手を支えると、もう片方の手でエンキの掌を撫でた。
「さっき触ったとき思ったの。もうクセみたいに硬くなっているところもあるけど、新しいものもあるみたいだし……」
「……いやこれくらいなら、剣とか扱う人ならいくらでもあるだろう……」
エンキは自分の手を見下ろすと、眉を寄せてそういった。マーカスとアエミリアも覗き込んでくる。
「グローブとかは使っていらっしゃらないんですか?」
アエミリアが聞いてきたので、エンキは首を振った。するとマーカスが続けて言う。
「辛くないですか、使わなくて……皮が引っ張られたり」
「いや全く」
エンキはさらりと答えた。
「素手で扱うのが当たり前ですから。逆に感覚狂いませんか、そう言うもので手を覆って」
「手が傷つくよりはマシですね」
マーカスの言葉に、エンキはこの人の剣術や武術は生き死にに直結していないのだろうなと思った。
その間も、エレオノーラはエンキの掌を撫でていた。
「……薄手のものだったら、感覚の狂いは少ないかしら」
「え?」
エレオノーラが顔を上げて、首をかしげる。
「“マメを造り慣れている”手だけれど、保護した方がいいと思うわ。
今は武器だけでなく手綱も握るし、テントも張ってもらっているから。その時だけでも保護したらどうかしら」
「……そうか?」
エンキはやや怪訝な顔をした。
「ええ。使わなくても、寒くなったら普通の手袋代わりにしてもいいんだし……あって損はないと思うわ。幸い卿にお小遣いもいただいたし、サライに会いに行く前に作りに行きましょう?」
「え!」
エンキは素っ頓狂な声を上げた。他の三人はびっくりしてエンキを見る。エンキはその三つの視線に少し身を小さくした。
「……、気持ちはありがたいんだが、遠慮しておくよ」
「どうして?あったほうがいいわ」
エレオノーラが不思議そうに言うと、アエミリアも賛同するように首を動かした。
するとエンキはちらりとマーカスを伺うように見た後、いいにくそうに言った。
「買うって言ったって卿からいただいた小遣いでだろ?
……なんか俺、卿に嫌われているような気がするから、あんまり気が進まない」
エンキの発言にエレオノーラとアエミリアは不思議そうな顔をしたが、マーカスは一瞬後笑い出した。それもかなり盛大に。それを、女性二人はきょとんとして見守る。
マーカスは視線に気づいて、片手を上げて大丈夫だと伝えるともう片方の手で拳を作り口元にそれをやって笑いを収めようとした。だがしばらくそれはうまくいかなかった。
笑いの余韻を口元と目元に残したまま、マーカスはエレオノーラとエンキを交互に見やった。
「見抜かれてるようだなぁ、親父も」
「え?」
「大事な娘を盗られそうで、機嫌が悪いのさ」
まぁ、とアエミリアは口元を押さえた後ちらりとエンキを見やった。エンキは慌てて首を振る。
「“実の娘のように”可愛がっているエレオノーラが男を連れてきたというだけで気に入らないのさ。相手が誰であろうとね。直感は当たってますよ」
「はあ」
生返事をしたエンキは気にかけず、マーカスはアエミリアのほうを向いた。
「もちろん君も半年も経てば、“実の娘のように”扱われるだろうから覚悟しておいてくれよ」
マーカスの言葉に、アエミリアは嬉しそうに微笑んだだけでこたえた。
「……卿はエンキのこと、本当に嫌いなの?」
マーカスに質問するエレオノーラの声はどこか不安そうで、幼げだった。マーカスは苦笑して首を振る。
「気に入らないだけ、さ。“娘”の連れてくる男は全部気に入らないんだよ。
君たちはしっかりしてるから何も言わないようにしているみたいだけど、アウレーリアあたりがとんでもない男を連れてきたら家はどうなることか」
言葉上は不安そうだったが、マーカスの目は楽しげに笑っている。アエミリアはそれをちらりと横目で伺っていた。それから向かい側の二人と目が合うと、彼女は肩をすくめた。
それから、にっこりと彼女は笑う。
「エレオノーラさん、よかったらもう一つケーキ選んできませんか?」
「え……?そうね……エンキはもう一つ食べる?」
「いや、お茶だけでいいよ」
「そう?それじゃあ……」
女性二人は立ち上がり、再びケーキが選ばれるのを待っている場所へと向かった。
二人きりになってしまった男たちは、しばし茶を口に運びつつ外を眺めることになった。
「――お互い」
しばらくして不意に、マーカスが口を開いた。エンキはマーカスに視線を移す。
「好きな女に強請られると弱いらしいな」
「――え」
「あなたもそうだろ?どう見ても進んでこんな店に入るような感じじゃない」
そこでマーカスはアエミリアが行ったほうに視線を移した。その目は、深い愛情に満ちていて優しかった。エンキは彼の言葉に苦笑する。それから彼と同じように、エレオノーラが行ったほうを見た。
二人の女性は楽しそうに談笑しながら、ケーキを眺めている。
「――少し」
エンキはなんとなくしゃべりたくなって、言葉を出した。マーカスがこちらに視線を向けたのを感じる。エンキはエレオノーラを見つめたまま言う。
「少しですけど、初めて――エレオノーラを羨ましいと思いました」
「……羨ましい?」
「はい。
本気で思ってくれる人がいる、心配してくれる人がいるということはとても暖かいことで――少しだけ、羨ましいと」
「……」
マーカスは少しだけ、視線を鋭くした。エンキはそれに気づいて彼に向き直ると、弁解した。
「まあ、何も覚えていないんで、どこかが恋しくなるとか寂しい言う感覚は全然ないんです。
ただ純粋に、彼女は一人じゃなかったんだなぁと思って。……純粋に、まじりっけなしに羨ましいと」
マーカスはその言葉に視線を緩めて、ため息をついた。そしてカップを取り上げる。
だいぶ湯気が収まった茶の香りを求めるように、カップを動かした後彼は言った。
「思い違いをしてらっしゃるようですね、エンキさん。
あなたにもいるじゃないですか、思ってくれている人が」
「え?」
「エレオノーラですよ。
でなければ、あなたの手なんてどうでもいいでしょう」
先ほどのエレオノーラとエンキの会話を指して言うマーカスに、ああとエンキは気づいた。
「……それは思い至らなかったなぁ。……それもそうか」
エンキが心底感心したように言うと、マーカスはソーサーにカップを戻しながら言った。
「まぁ、それと、今回からもれなく家の者たちもあなたを心配するようになったと思いますがね。
あなたは“大切なエレオノーラ”の連れですから。それだけあれば家の者たちには十分な条件ですよ」
そっけないが優しさを含む言葉に、エンキは苦笑した。
それから男二人は、トレイを抱えて戻ってくる女二人を見つけてどちらともなく会話を打ち切った。

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