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「魔法使いと記憶のない騎士」
第三十九話
馬を小屋へ
―遠乗りの準備―

「それで、さっきは中途半端になってしまったけれど、グローブどうしましょうか」
マーカスとアエミリアと別れて店を出てしばらく歩いたところでエレオノーラはエンキにそう言った。
「だから、いいって」
「どうして?」
「なんだか卿に恨まれそうだから」
エンキがそう言うと、エレオノーラは笑った。
「卿はそんな方じゃないわよ?」
「それでもだよ。
――なんとなくだけど」
あくまでいらないと言うエンキに、エレオノーラは案外あっさりと引き下がった。
「気が進まないなら、仕方ないわね」
エンキはエレオノーラのあっさりした様子にほっと胸をなでおろす。
それから彼女に向かって気持ちをあらためて言った。
「さて、サライのところへ行こう」
うん、とエレオノーラは頷いた。



三日ほど見知らぬ馬小屋に他の馬と一緒に詰め込まれていたサライはすこぶる機嫌が悪かった。
蹄でどしどしと石畳を叩き、首を振って不平を表す。だがその姿はどこか滑稽で、エレオノーラは思わず笑ってしまった。すると、サライは失礼なといわんばかりに今度は鼻を鳴らした。
そんなわけで、しばらくの間サライの背に乗ることが出来なかったので二人と一頭はゆっくりと歩いて街を横切ることとなった。その間に、サライの気持ちも落ち着いたようだった。
ここはプフェーアト・シュタートと違って馬が身近な存在ではないらしい。
馬車を引かない馬が珍しいのか、すれ違う人たちはサライと二人をどこか遠巻きにしていた。
サライはその視線の間を得意そうに歩いていく。

郊外に来ると、サライの気持ちも落ち着いたらしい。
二人を振り返って、乗る?とばかりに首を下げた。二人はその好意に甘えることにした。
まずエンキがエレオノーラを助けて、サライの背に乗せようとした。
だが鐙に片足をかけたところでエレオノーラが気づいた。
「エンキ、乗れないわ」
「え?」
その言葉にサライも肩越しに振り返る。
エレオノーラは鐙から足を下ろすと、長いスカートをつまんで見せた。
「ほら、スカートだから……またがれないのよ」
エレオノーラは今まで、ズボンをはいていた。だからサライの背に乗るときはもちろんまたがっていたのだが、今度ばかりはそうもいかない。
その言葉を聞くと、サライはなんだそんなことかと顔を前に向けてしまった。
だがエンキはそうもいかない。
エンキはサライの背とエレオノーラを見比べた。そして、屋敷から街まで馬車に揺られた時間を計算してみる。
「……屋敷まで結構、距離あるよな」
「でも歩けないこともないわ」
エンキはしばらく無言で悩んだ後、唐突に鐙に自分の足をかけひょいと体を持ち上げてサライの背に乗ってしまった。エレオノーラはそれを不思議そうに見上げる。
「……エレオノーラ」
エンキはそっとエレオノーラに手を差し出した。エレオノーラは首をかしげる。エンキは手を動かし、握るようにと促した。エレオノーラが従うと、エンキはぐいっと彼女の体を持ち上げた。
腰が支えられ、次の瞬間には彼女はサライの背の上にいた。
「これならいいだろう」
気づけば、エレオノーラはエンキの前で横乗りの格好になっていた。
「この姿勢はバランスが悪いわ!」
エレオノーラは思わず強い口調でエンキに訴えた。その傍からバランスを崩して後ろにひっくり返りそうになる。エンキはそれを慌てて支える。
「私、この乗り方苦手なのよ」
「だったらつかまってればいいさ」
エンキは軽く言って、左手でエレオノーラの腰を支え右手で手綱を握った。そして、サライの腹を蹴る。サライは軽快に、そして楽しそうに走り出す。
エレオノーラは慌ててエンキにしがみついた。



屋敷にたどり着くと、守衛に庭の一角――といっても見苦しくないようにと作ってある小さな林の向こうだった――にある馬小屋と馬場の場所を教えてもらい、エンキはサライをそちらに向かって歩かせた。
馬場に入ると、小屋からちょうど馬を連れ出している最中のルキウスと遭遇した。
「あ!」
ルキウスはそう言うと、手綱を握っていない手のほうでエレオノーラとエンキを指差した。
エレオノーラはエンキにしがみついたまま、エンキはエレオノーラの腰を支えたまま首をかしげる。無視されたと感じたらしいサライは前足で土を蹴った。
「おまえ!エレオノーラは横乗りするのが嫌いなんだぞ!」
「おま……え?」
お前呼ばわりされたエンキは思わず空いた手で自分を指差して聞き返してしまった。
「ルキウス、今のちょっと失礼よ」
エレオノーラも眉をしかめる。すると、ルキウスは自分の馬の手綱を放してずかずかと近寄ってきた。自由になった彼の栗毛の馬は、戸惑ったように耳を動かしてからやれやれといった感じで小屋に戻っていった。
「エレオノーラはな、昔、横乗りしててひっくり返ったんだ!
あんたまさか無理やり乗せたんじゃないだろうな」
言いがかりである。――まぁ確かにちょっと強引だったかもしれないが。
エンキは間をおいて言い返そうとした。だがそれより早くエレオノーラが口を開いた。
「エンキはアナタと違ってちゃんと支えてくれてるわ。ご心配なく。
それに成り行きとはいえ、無理やりじゃないわ。一応ね」
すると、ルキウスは耳まで顔を真っ赤にして押し黙った。
エンキはそれにすっかり毒気が抜かれてしまっていた。
「……すまん、サライを休ませたいんだが、いいかな」
するとルキウスは無言で馬小屋を指差した。見れば、小屋の中から馬丁が心配げにこちらを見ていた。エンキは黙ってサライの腹を蹴った。



馬小屋の空いていたところに案内されて、サライを入れるとエンキは地面に降りた。それからエレオノーラに手を貸してやる。エレオノーラのほうは本当に横乗りが苦手らしく、降り方さえままならないらしい。エンキが差し出した腕の中に、飛び降りるようにして収まった。
「嫌いだったのか、悪かったな」
「ううん。あなたはちゃんと支えていてくれたし」
トン、と優しく下ろされてエレオノーラはにっこりする。エンキはついでに、気になったことを聞くことにした。
「『アナタと違って』って?」
「昔の話よ」
笑みがやや苦笑を含んだ、しかし懐かしそうな優しいものになる。
「ここの家の人たちがみんなで家に遊びに来たとき、ルキウスと二人で父さんの馬に乗ったのよ。彼が手綱を取って、私は彼の前に乗って初めて“女性らしい座り方”をしたのよ。
結果は……」
「子どもじゃ他人の体重を支えきれなかったんだな」
「ええ。アタリよ。ひっくり返ったわ。頭から地面に落ちたの。半日くらい気絶してたみたいだし、目が覚めてからも記憶があるのは次の日から」
「そりゃまた……」
見事だ、という言葉をエンキは飲み込んだ。その代わりに、こう言う。
「無事でいてくれて助かったよ。そうじゃないと今頃俺、どうなってたんだろうな」
「そういうことを考えてもいいけど、あんまり実りにはならないわね、起こらなかったんだし。暇つぶしにはなるでしょうけど」
エレオノーラの済ました物言いに、エンキはやれやれと首を振った。
そこへ、馬丁が先ほどルキウスが連れていた栗毛の馬の手綱を持ってやってきた。
「あのぅ、申し訳ないですがこいつを坊ちゃんのところに連れて行ってくれませんか。
あっしはどうも、機嫌の悪い坊ちゃんは苦手で」
二人は顔を見合わせると――エンキは不思議そうな顔を、エレオノーラは苦笑していた――、こっくりと頷いた。



ルキウスは不機嫌そうに馬場の柵に寄りかかっていた。
エンキが栗毛の馬の手綱を差し出すと、ひったくるようにして受け取った。栗毛の馬は「ね、困った人でしょう?」といった感じの視線をエンキに寄越してきた。
そんなことされてもどうしようもないので、エンキは栗毛の馬の鼻面を優しくたたいてやった。
「そういえばルキウス、何をしてたの?」
エレオノーラが尋ねると、彼はやはり不機嫌そうに答えた。
「遠乗りに行くからな。慣らしとかないと、オレもこいつも」
ルキウスは栗毛の馬の頭をぽんと叩いた。栗毛の馬は首を振るう。
「遠乗り?出かけるのか?」
エンキは首をかしげた。エレオノーラがあ、と声を上げる。
「そういえば言ってなかったわね。遠乗りに誘われたの」
「兄貴が提案したらしくてね。皆で遠乗りしようってさ。あんたもだと」
「そうなのか」
「母さんの具合を見てだから、まだ具体的なことは決まってないけどな。
エレオノーラの乗馬用の服も出来上がってないし」
何気なく言ったルキウスの言葉に、エレオノーラは眉を動かした。
「そのことなんだけど……」
「あ?服ならもう注文出しちまったから取り消しきかねぇぞ」
「そっちじゃなくて。
おばさまの病気のこと」
「ああ……」
ルキウスは、しばらく口をつぐんだ。エレオノーラも急かさない。
やがて彼はふう、と息を一つ吐いた。
「よくわからないんだよな。それが。奇病って話だ。医者も首を傾げててな。
ただ、命に関わるもの、らしい」
エレオノーラが少し、身動きをした。ルキウスは手綱を持ったまま腕を組んだ。
「……うちの親父はよく言うんだけどな。
『みんな死ぬものだ』って。さっすが真言主サマってか。
だけど親父も、オレたちもあんまり直視は、してない」
「……」
空気が重くなった。エンキは何も言わず、年下だと思われる二人を見下ろしていた。
「……まぁ、そんなわけだからさ、お前もあんまり、なんというか、気にしないでくれないか。オレたちは直視はしてないけど、覚悟はしてるつもりだからさ。
……母さんも」
いつの間にか、ルキウスから機嫌の悪さが消えていた。栗毛の馬はいたわるように彼の肩に鼻面を押し付けた。ルキウスは苦笑して、馬を撫でてやる。
それから、ルキウスはやや眉を寄せてエンキに視線を移してきた。
「まぁそんなわけで、皆で遠乗りすることになったから。あんたも色々準備しておいてくれ」
「……わかった」
静かに返事を返した後に、エンキは気づいた。
「……こちらには馬が一頭しかいないんだが」
「あれはあんたの馬なのか?」
「サライっていう名前なのよ。エンキに懐いてるわね。私はおまけって感じよ」
「じゃあ、エレオノーラはウチの馬に乗れよ。
いろいろいるぜ。大人しいのに、気が強いの。……、大人しい方が良いか」
「そうね」
ちょっとしょげたような声を出したルキウスに、エレオノーラは苦笑した。
「鞍は、婦人用の横乗りのものじゃなくて普通のでいいか?」
「そうね、それでお願いするわ」
「……あんたは、何かいるものあるか?」
エレオノーラにはどこかにこやかな口調で言ったのに、ルキウスがエンキに投げた言葉はやはりつっけんどんだった。
「……いや、特に」
「そりゃよかった」
場にいやな沈黙が下りた。二人の男の間で、エレオノーラはどこか所在なげだ。
「あのぅ」
そこへ、馬丁が声をかけてきた。エレオノーラはほっとしたように振りかえる。
「あのお馬さん、何か好き嫌いはありますかねぇ。
干草が嫌いだとか、野菜がいいとか」
「特にないな」
答えたのはエンキだ。
「元々野生だったらしくてな。道端の草でも食べるんで、特に気を使ってもらわなくて大丈夫だ」
すると、馬丁は目を丸くしてかしこまりました、と言った。



ルキウスを置いて、二人は屋敷に戻った。
その途中の庭は広く、そして美しく整えられていて散歩するにはもってこいであった。
「飾り気はそんなにないけれど――」
エレオノーラは、緑の庭を見渡しながら言った。
「綺麗な庭だわ」
「うん。そうだな」
「なんだか卿と奥さまに似てるわ」
「……そうなのか?」
「うん。
昔からお二人とも、色々と名の知れた方だったらしいけれどあまり飾らなかったってよく聞いたわ。
今は楽しい方だけれど、雰囲気が似ているというか――」
「それは褒められたと思っていいのかな?」
二人の後ろから唐突に包み込むような優しい声がかかった。それはもちろんこの家と庭の主人のクラウディースの声だった。
見れば、彼は妻の乗った車椅子を押している。ヴィプサーニアは若い二人を見上げてにっこりと笑った。
「街はどうだったかしら?」
「良かったです。コルネーリアに紹介してもらったお店がとても良くて……」
「まぁ。それはよかったわ」
からからと車椅子の車輪を回して夫婦は若者二人のすぐ傍に来た。
エレオノーラは夫人を見下ろして、はっとしたような顔になった。エンキはその顔を横目で見て、気づいた。この夫人が今まさに死に向かっているらしいということに。
だが、優しく微笑む夫人の顔からはその片鱗もうかがえない。
エレオノーラが表情を戻している間に、エンキは夫婦に話題を振った。
「遠乗りにご招待していただいたんですが、本当に俺も一緒でいいんでしょうか?」
「君は一人で留守番するかね?」
クラウディースはどこか意地悪そうな声で言った。エンキは慌てて首を振る。
それにくすくすと夫人は笑った。
「まぁタイベリウス、イジワルを言わないの。
……エンキさんはご迷惑じゃないかしら?」
「とんでもない!」
「よかったわ」
ヴィプサーニアは胸に手を当ててほっと息をついた。それから二組の年齢の違う男女はどちらからともなく、屋敷に向かって歩き出した。
エレオノーラとヴィプサーニアが言葉を交わす。
「そうそう、エレオノーラ。
乗馬用の服も勝手に頼んでしまったのだけれど、よかったかしら。思えば好きな色とか素材も聴いてしなかったし……」
「いえ、大丈夫です。
でもわざわざ服を用意していただかなくても、乗れましたのに」
「ノーラ、遠慮しちゃだめよ。
女の子はたくさん服を持っていたほうがいいの。それに乗馬服はドレスや普段着とは違う魅力がありますからね」
「はあ……」
困惑したようなエレオノーラに、クラウディースは口元と目だけで笑った。
それから、女性二人は他愛無い会話を続ける。
エレオノーラはヴィプサーニアの病状について聞いてみたかったが、結局聞くことは出来なかった。当のヴィプサーニア本人はにこにこと微笑んでおり、やはり命に関わるという病の欠片も見て取ることはできなかった。
男性二人はと言うとクラウディースは黙って妻の車椅子を押すだけで、エンキは場をわきまえてか静かにエレオノーラに数歩遅れてついていくだけだった。
屋敷の入り口の階段にたどり着くと、この家の主人ははひょいと車椅子から妻を抱き上げた。
エレオノーラとエンキがそれにあっけに取られている間に、ドアを開けるために控えていた使用人のほうは慣れたもので空になった車椅子のところへ駆け寄り持ち上げると、主人の後ろについてそれを運び上げていった。客人はその後ろに少し遅れてゆっくりとついていく。
今度はドアの向こうにずらりと使用人が並んでいるという事はなく、客人ふたりは顔を見合わせてほっと息をついた。
ただ、執事が主人を待っていた。
「旦那さま、お医者さまがお待ちです」
「わかった」
ヴィプサーニアを腕に抱いたまま、クラウディースはくるりと向きを変えて若い客人たちに向き直った。
「では夕食まで、どうぞくつろいでくれ」
「またお話をしましょうね」
この家の主たる夫婦はそう言うと、二階へと続く階段を上っていった。もちろん、夫人は夫の腕に抱かれたままである。

エレオノーラはその背中に深々と頭を下げた。

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