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「魔法使いと記憶のない騎士」
第四十一話
夫人と侵入者と屋敷の主
―夜中に主寝室で―

この屋敷の主の妻、ヴィプサーニア=レイン・クラウディースは体を壊して以来、夫と同じベッドで寝るのは控えていた。体に負担をかけてはいけないと夫のタイベリウス・クラウディースはすぐ隣のドアを一枚隔てた副寝室で眠るようになっていたのだ。
この日の彼女の眠りは浅いものだった。患ってから、何かと目が覚めてしまう。
でもそれにももうなんだか慣れてしまった。目を開け、暗い天井を眺める。
夫はもう眠っているだろうか。子どもたちは夜更かしをしていないか。屋敷のものたちももう休んでいるだろう。いつも他愛もないことを考えるが、眠れぬ思いはいつも同じところに行き着く。
病。
彼女を蝕む病は目に見えにくいものだった。はじめ、症状が出たのは足だった。異様なほどつま先の体温が下がり、冷たくなった。最初はひどい冷え性かと思ったが、感覚が鈍り、痛覚が反応しなくなった。
そこで慌てて医者に見せると、医者はひと言こう言った。
――治療法のない病です。
ごく微細な虫の仕業か、それとも体の中で異変が生じているのか、症例が十数例しか報告されておらず何もわからない病だという。
――統一前にいた、とある哲学者の冤罪の話をご存知でしょうか。
医者は症状の話に至ると、昔の話をした。
――彼はいわれのない罪で、死刑を賜りました。そして執行日、彼にはとある毒が与えられました。その毒は末端から体の機能を停止させるものでした。つま先、膝、腰、腹と毒は進み、胸にいたって毒は心蔵の動きを止めました。そして彼は死にました。
――この病は、その毒と同じように進みます。
医者は、そのように病を説明した。
事実、その通りになった。ヴィプサーニアは足の痛覚を失って数日後、痛覚以外の神経も失った。そして、歩けなくなった。エレオノーラには「億劫だから」と説明した車椅子に乗る理由は、本当は歩けなくなったからだった。
――病は、ほとんど腰まで進んでいるというのに。
ヴィプサーニアは自嘲した。隠す必要もないのに嘘をついたのは、あの子を心配させないためかしら。それともまだ、どこかにプライドが残っているのかしら。ヴィプサーニアは考える。
彼女は若いとき、天女か舞踏の女神の化身かと称されたほどの踊りの名手だった。
貴族は決して踊らない踊り――社交用の踊りではなく、他人に見せるための踊りの名手だった。わがままを言って習わせてもらった下賎なはずの踊りは、彼女の高貴な身分と合わさり溶け合い昇華されたのだ。
音楽に合わせ、舞台を歩き、跳び、回る――その姿には誰もが見とれたという。事実、当時ほとんど朴念仁の代名詞だったタイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースは彼女のその姿を見て恋に落ちたのだ。
だから、よく動く美しい足は彼女の誇りだった。
足が動かなくなったその日、医者から戻り家で主人の妻として母として振舞う姿はいつもとかわりがなかった。だが夫と二人きりになると彼女は泣き崩れた。
――あなたの愛してくれた足ですのに。踊りでしたのに。
すると、タイベリウスは泣く妻を抱き寄せると静かに言葉少なに告げた。
――足だけを愛したのではない、舞いだけに焦がれたのではない。あなただったからだ。
愛情表現は豊かだ、という夫はやはり不器用だと思う。出逢った頃と変わらずに。
その晩だけ夫の胸で泣いて、ヴィプサーニアは泣くのをやめた。
だが哀しくないわけではないし、まだ死にたくもなかった。だが真言主であり、人とは死ぬものだとこの世で最もわかっている不器用な夫をこれ以上困らせたくなかった。心配する子どもたちや、使用人の気遣いも見たくはなかった。
だから泣いて無為に時を流すよりも、笑ったり普通の生活をして残り少ないものとなってしまった時に意味を持たせてやるほうが、自分にも残されるものたちにとってもいいものになるのではないか――ヴィプサーニアはそう考えたのだ。
それから、彼女は泣くのをやめて普段どおりにすごす事にした。死ぬときまで。
――それでもやっぱり、強がっている気持ちがあったのね。
エレオノーラに対して張った見栄に、ヴィプサーニアはそう結論付けた。



とりとめもないことを考え、色々なことが頭によぎり、そのうちにまた眠ってしまう。いつもはそうだった。
だが今晩は少し違った。目を瞑り、深く呼吸をしても眠りは訪れない。気になるものがあった。
――なにか、気配が。
夫人はゆっくりと体を起こした。そしてあたりを見回すが、特に変わったところはない。
――気のせいかしら……。
だが、目は自然とサイドテーブルに置いてある呼び鈴の方へと動く。これはもし何かがあったときに、と夫が置いたもので鳴らせば昼は使用人が、夜は夫が飛んでくるはずだ。
鳴らしてみようかしら、とヴィプサーニアは思った。
奇妙な気配がある。だが何も見えない。気のせいかもしれないが、部屋の空気は冷たく不安があおられる。
ヴィプサーニアはそっと呼び鈴へと手を伸ばした。
もう少しで呼び鈴に手がかかる、というとき目に見える異変が起こった。ふわりと呼び鈴が浮き上がって、夫人の手から逃げたのだ。
ヴィプサーニアは思わず息を止めた。そして呆然と呼び鈴がふわりふわりと移動していく様を目で追う。
ベッドを離れ、ベランダへと繋がる窓の前でピタリとそれは止まった。その呼び鈴のある高さはちょうど、立ち上がった人間が掲げた手の中に納まっているかのようだった。
ヴィプサーニアはごくりと唾を飲み込み、そこを凝視した。誰もいない。
「……、死神さんかしら、いらっしゃるの?」
だが何とか絞り出した声は意外にも滑稽味を含んだ言葉となったので、ヴィプサーニアは内心で少し自嘲した。冷静な部分があるらしいことに、ほっとする。
「死神ではありませんよ、ランドマール伯爵夫人」
響いたのは、美しい若い男の声だった。それはやはり呼び鈴のところからして、ヴィプサーニアはそちらに注意を払った。するとどうだろう、暗闇の中にぼうっと人影が現れ始めた。そして次第にはっきりと輪郭をとり始め、人影は最後には金の髪の青年となった。奇妙なことに、青年は顔の上半分を銀の仮面で覆い隠していた。空いている目の穴からは残念なことに瞳をみることはできなかった。
青年は片手に呼び鈴を片手に携えたまま、すっと紳士の礼をした。
「死にゆく奥様にご挨拶申し上げます」
「まぁ、私のこと知ってらっしゃるのに死神さんではないの?ではあなたは誰かしら」
ヴィプサーニアはベッドの上で背筋を伸ばすと、しっかりとした口調で青年に聞いた。
青年はにこやかに答える。
「錬金術師、と当代では呼ばれております」
「錬金術師?では泥棒さんでもないのね?」
ヴィプサーニアが確認するように聞くと、青年は笑った。
「泥棒が奥さまとのんびり話すでしょうか?」
「……それもそうね」
ヴィプサーニアは胸に手をあて、そっと体を青年のほうに乗り出した。
「では、錬金術師の方が夜中になんの用かしら?錬金術というから、ヴァリフォン大公領の方かしら。あそこは錬金術に優れた方をたくさん輩出していらっしゃるから」
夫が先日下した判決を思い浮かべながら聞くと、錬金術師は愛想よく答えてくれた。
「いいえ。私の術は、あそこの術とは相容れません」
ヴィプサーニアは顎を引く。流れの、ということだろうか。
それにしてもこの男、どこから入ってきた?
「私はどこにでも入れるし、どこにでも存在するのです、奥様」
「まぁ、わたしの心をお読みになったの?」
「顔に出ておいでです」
言われて、まぁ、とヴィプサーニアは頬を押さえた。
「普段から表情には気をつけているのですけれど、まだまだのようですわね。
……それで、何か御用かしら」
ヴィプサーニアは穏やかな声で錬金術師に問うた。錬金術師は腕を背中側で組むと、大股で部屋の中を歩き始めた。部屋の中を品定めしているかのように、歩き回る。
「この時代でもっとも力を持っている、真言主の奥様に興味がありましたもので」
ヴィプサーニアの目から少し、穏やかさが消えた。
女の勘といえるかもしれない。夫を真言主と呼ぶものは少ない。呼ばれたとすればそれは畏怖を込めてか、それとも敵意をもってかのことだ。
だがヴィプサーニアは回りくどい質問はしなかった。
「夫に何か御用かしら」
「ええ。でも今ではなく、後日ですが」
それから、すぃっと錬金術師はベッドに近づいてくる。ヴィプサーニアは思わず身を硬くした。
「後日?では夫に伝えましょうか」
「いえ結構です。奥様の手を煩わせることはありません」
錬金術師はベッドのすぐ傍で歩みを止めた。そしてすぅっとヴィプサーニアの方に手を伸ばしてくる。ヴィプサーニアは出来る範囲で身を引いたが、錬金術師のひやりとした手に顎を捕らえられてしまった。顔をそらそうとして、逆に自由を奪われる。
しかたなく、ヴィプサーニアはまっすぐに瞳を錬金術師に向けた。
「なるほど。綺麗な目をしていらっしゃる。私が怖くないのですか」
ヴィプサーニアは怖じることなく、銀の仮面に空いた二つの穴から見える闇を見つめている。
「あなたこそ、おばさんにこんなことしても何も得にはならないわよ?」
ヴィプサーニアがおどけるような口調で反論すると、錬金術師は彼女を捕まえたまま笑った。
「真言主の伴侶は、真言を修めずとも真理を理解しておられるようだ」
「……?」
ヴィプサーニアは眉をしかめた。すると、錬金術師はそっと彼女の耳に口を寄せた。
そしてささやくような声で告げる。
「真言主が惚れこんでしまわれるのも無理はないというものです……かのお方は貴女を喪われたらどんなに嘆かれることでしょう。
私ならば、ご病気を治して差し上げられます」
甘い毒のような言葉だった。
ヴィプサーニアは驚いて身を引き、錬金術師の顔を見る。そこでやっと、錬金術師の手が彼女から離れた。
「私ならば、ご病気を治し、また歩けるように、踊れるようにさせて差し上げられます。
かのお方と再び手を取り合って、美しいお庭を、散歩することもできることでしょう」
一言一言区切りながら、錬金術師は言った。そしてにっこりと口元に笑みを浮かべる。
ヴィプサーニアはじっと銀の仮面の顔をみつめた。しばらく呆けたように見開かれていた目に、力が宿る。
「……いいえ」
力は、拒否の色を持っていた。力強く、ヴィプサーニアは拒否をする。
「いいえ、結構だわ。それは“よくない”ことだわ」
その言葉に、錬金術師は口元に笑みを張り付かせたまま後ずさる。
「――“よくない”ことだわ」
「やはり、学ばずして真理を理解し、真言を使っていらっしゃる……」
錬金術師はヴィプサーニアのベッドから十分な距離をとると、低い位置で両腕を広げた。
そして握られていた呼び鈴がふわりと浮き上がり、ヴィプサーニアの前まで移動してきた。ヴィプサーニアはそれをそっと包み込むように手に取った。途端に呼び鈴から浮力が失われる。
「罠にかからなかった人間は、とてもとても少ないのです、奥様」
「まぁ、ではわたしは自分の直感に感謝しなければね」
ヴィプサーニアはどこかにこやかな口調で言った。実際、錬金術師の言動は彼女には理解できなかったし、意味も感じなかった。だが女の勘が「これはキケン」と告げていたのだ。
「敬意を表します、奥様。ですから、貴女には何もしないで帰りましょう」
錬金術師は再び紳士の礼をした。ヴィプサーニアは呼び鈴を胸元に引き寄せ、それを見守る。
「夜分遅くに失礼いたしました、死に向かう奥様」
錬金術師はそう言った。すると、彼の体が闇に包まれ始める。ヴィプサーニアは息を呑んだ。その一瞬後には、錬金術師は跡形もなく消えていた。
「――……」
ヴィプサーニアが呼び鈴を抱いたまま錬金術師が消えた空間を見つめていると、突然バタンと大きな音がして副寝室へとつながるドアが開いた。
驚いてヴィプサーニアが振り返ると、そこにはガウンを羽織った彼女の夫タイベリウス・クラウディースがいた。
「まぁ」
見れば、クラウディースはガウン姿には最も似合わないものを右手にたずたえていた。
一振りの抜き身の剣がクラウディースの手に収まっていたのである。
「無事か」
「ええ……それ、どうなさったんです?」
クラウディースは深く深くため息をついて、妻のベッドの傍らに来た。
「何かいなかったか。妙な気配がしていたんだぞ」
用心深くあたりを見回し、何か妙なものがいたらすぐに切りかかれるようにしている夫に妻はのんびりと答えた。
「ええ。なんだか不思議な人がいらっしゃったの、でもなんでもなかったわ」
「なんでもなかったのか、そうか、よかった。……、なんだと!」
妻ののんびり具合に理解が一瞬遅れたクラウディースであったが、理解すると剣を構えなおした。そして何もない空間ににらみをきかせる。ヴィプサーニアはゆるゆると首を振った。
「なんでもないといったじゃありませんか。それにもう帰られましたよ。
……人の話、聞いてます?」
「なんでもなかったといって、そうそう安心できたものじゃないぞ!
第一、ドアがしばらく開かなかったんだからな。妙な術がかけられていて、開けるのに手間取ったんだ」
「まあ、開かなかったんですの?」
夫は妻の質問に答えるよりも、あたりを調べることの方が優先だと思ったらしい。
目に入ったチェストの棚を開け、備え付けのソファやカウチの下を丹念に調べている。仕舞いにはカーテンを揺らしたりしている。
ヴィプサーニアはくすりと笑う。
「灯りをつけましょうか」
「いや、いい」
「では満足なさいました?」
ヴィプサーニアがそう聞くと、クラウディースは剣を下ろして妻のベッドまで歩み寄ってきた。そしてベッドに腰掛ける。
「異常ないな」
「それはようございました」
言いながら、ヴィプサーニアは夫の髪に手を伸ばす。いつも洒落者らしく整えられている髪は珍しく乱れていた。それを手櫛で整えてやると、夫はありがとうと言った。
「もう一度聞きますけど、開かなかったというのは?」
「……妙な術がかけられていてな。……まあ、開いたんだからもういいさ」
クラウディースはヴィプサーニアを覗き込んだ。
「不思議な人とは誰だったんだい?」
ごく当たり前の質問に、ヴィプサーニアは答えかねた。
「泥棒ではないと言ってたわ。錬金術師だと。銀の仮面をかぶっていたの」
「泥棒ではない?錬金術師?」
「ええ。本当はあなたに用があるようだったけれど……、よくわからない人だったわ」
妻の言葉を聞いて、この家の主人は立ち上がった。そして、寝室のドアを開ける。
向かい側には、様々なもしものために控えている使用人が休んでいる部屋があった。
主人がその部屋のドアに向かって声を投げると、慌てた様子で寝巻き姿の使用人が二人出てきた。クラウディースは二人に何か言いつける。使用人は頷くとすぐに準備のためにドアを閉めた。クラウディースも寝室のドアを閉める。
「あなた?」
「屋敷内を見回るように言った。まだ中にいるかもしれん」
「まあ、大騒ぎですわね……」
ヴィプサーニアがどこかずれた言葉を言うと、クラウディースは呆れたように返した。
「不法侵入だぞ。警戒するのはあたりまえだ」
言いながら、クラウディースは備えてあるカウチをひとつ引きずり始めた。これは元々この部屋にはなかったもので、子どもたちのうち誰かが母と長話をするために持ち込ませたものらしい。
クラウディースはそれを妻のベッドの横まで運ぶと、ふうと息をついた。重かったらしい。
それからおもむろに、自分が休んでいた副寝室へと一端消えた。数分後、彼は掛け布団と枕を左手に抱えて戻ってきた。
「……何をなさっているんです?」
「今日はこちらで休む」
そして枕をカウチに丁寧に置き、掛け布団をかぶせる。そして彼は、一度も手放していない抜き身の剣を握りなおした。
「……心配だからな」
その言葉にヴィプサーニアは微笑んだ。
「まぁ、でしたら何もカウチではなくわたしの隣で休まれればいいのに」
「熟睡しているうちに寝首をかかれては困るんでね。奥さんの隣は寝心地がいいんだよ」
クラウディースは苦笑しながら言った。するとヴィプサーニアはまぁ残念、とまた笑う。
夫がカウチに横になると、ヴィプサーニアはなんとか体を動かしてベッドの縁近くに横になった。そしてタイベリウス・クラウディースに体を向ける。
そんな妻に、夫は限りなく優しい顔を見せる。
「どうした?」
「手を握っていただけますか?」
ベッドはカウチの右側にあった。手を繋ぐとすれば右手になるのだが、クラウディースはそちらにはまだ剣を握っていた。ヴィプサーニアは言う。
「抜き身の剣と寝られるのもいいですけれど、怪我なさいますよ」
「それもそうだが」
「……今夜はもう大丈夫です」
「何?」
「後日、とおっしゃってたんですよ、その方。ですから今晩は休みましょう」
クラウディースは妻の言葉に、一瞬なんともいえない表情を見せたが最後には納得したらしく剣を床に置いた。そして、差し出された妻の手にしっかりと自分の手を絡ませる。
「……後日、か」
「ええ、後日です。……あなた」
「ん?」
「……気をつけてくださいね」
「……ああ」
「あなたには、ひ孫までみてもらいませんと」
「……、ああ」
妻の言葉にひそやかな声で答えると、クラウディースは天井を見上げた。そうしているうちに、ヴィプサーニアは規則正しい寝息を立て始めた。自然とゆるくなった妻の手の戒めを、クラウディース優しく握りなおして目を瞑った。

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