戻る Home 目次 次へ

「魔法使いと記憶のない騎士」
第四十二話
馬を慣らして
―二の若君の憂鬱―

使用人たちが夜中だということで屋敷を静かに捜索した結果、侵入者は見つからずまたその件は子どもたちと客人には知らされなかった。
その数日後遠乗りの日が決まり、エレオノーラはルキウスに馬場に呼ばれた。
行ってみると、馬場ではエンキがサライに跨っていた。慣らしだろうか、ゆっくりとサライを歩かせている。
エレオノーラは声をかけようと思ったが、それよりも早くルキウスが厩舎の方から彼女に声をかけてきた。
「エレオノーラ!こっちだ!」
エレオノーラは結局、エンキとサライに声はかけずに厩舎へと入っていった。



「こいつだよ」
案内されたところには、こげ茶色で足先と鼻筋だけが白い馬がいた。真っ黒な瞳はつぶらで優しい。人懐っこいのか、エレオノーラが気になるのか、しきりに鼻面を伸ばしてくる。
エレオノーラは笑って白い鼻筋を撫でてやった。
「名前はなんていうの?」
「フィーア。一番大人しいやつなんだ」
「そう、フィーアっていうの」
名前を呼ばれると、こげ茶のフィーアは心なしか嬉しそうだった。
――サライとはだいぶ違うわね。
サライは“荒い”としか形容しようがないが、フィーアにはそんなところは微塵もない。貴族の馬としてはふさわしいだろう。
ルキウスは腕を組むと、フィーアを撫でているエレオノーラに聞いてきた。
「乗馬はどのくらいしてないんだ?」
「乗馬?……自分で手綱をとるのなら、ずっと。馬に“乗るだけ”ならあるけれど」
「乗るだけ?」
「ええ。エンキに手綱をもってもらってたの」
「……二人乗りか」
「……、そんなことしたのこの前だけよ。サライに負担がかかるじゃない。エンキは歩いていたの」
「……そうか」
微妙に嫌な空気が二人の間に流れ、フィーアは首をかしげるような動きをした。
ルキウスはふーっと息を吐き出して気を取り直した。
「じゃあ遠乗りの日まで慣らしておいた方がいいな」
「そうね」
「じゃあ、ほら、乗れ」
ルキウスはフィーアの背を指して言った。エレオノーラは頷いてすでにフィーアにつけてあった鐙に足をかけ、ひょいと背中に乗った。フィーアは大人しく、彼女が背の上で落ち着くのを待った。
そして手綱を握ると、ルキウスも手綱の轡近くを手に取った。
「馬場まで連れて行く」
「……うん」
エレオノーラは少し緊張した。



馬場につくと、ルキウスは手綱から手を話した。
「さすがに、歩かせることは出来るだろう?」
「うん……たぶん」
エレオノーラはフィーアの腹をそっと蹴った。すると、普通の合図より幾分弱い蹴りにもかかわらずこげ茶の馬はとことこと歩き出した。エレオノーラの気持ちを汲んでくれるらしい。エレオノーラはほっとした。
フィーアが進むほうに、サライに跨ったエンキがいた。サライは面白そうにこちらを見つめている。エンキの目は優しい。
フィーアはサライのすぐ近くで止まった。そして挨拶するように、フィーアとサライは鼻を付き合わせた。
「駆け足は出来るか?」
「うーん」
エンキの楽しげな問いにエレオノーラは少し悩んだ。
すると、エンキはどっとサライの腹を蹴った。それを合図にサライは歩き出し、手綱の引きに従って最後には駆け足になった。弾むような足取りで馬場を一周し、戻ってくる。
再びフィーアとエレオノーラの隣にサライを並べると、エンキは言った。
「やってみるといい。ルキウスさんの所まで戻ってみるんだ」
その言葉にエレオノーラは頷き、フィーアを方向転換させた。
そして、フィーアの腹を先ほどより少し早く蹴った。フィーアは歩き出す。速度はあがらない。手綱を緩めようかと思ったが、すこし、怖い。
そんなうちに、あっという間にもとの位置に戻ってきてしまった。
見れば、先ほどまで普通だったルキウスは馬場の柵に寄りかかり少々むっとしているようだった。
「ルキウス?」
「……そういやなんであいつここにいるんだ……」
「……?」
独り言のような低い声に、エレオノーラは首をかしげた。そして少々、嫌な予感もした。
「ルキウス、練習に付き合ってくれるのよね?」
呼び出された事実と先ほどまでの態度を考えるとルキウスの目的はそれなのだろうが、どうも様子が変わってきた。相変わらず、ルキウスは子どものようにむっとしている。
「……ルキウス?」
「……教師役は二人もいらない」
ルキウスは馬場の一角を睨みつけて言った。そこには黒い馬にのった背の高い影がある。
エンキはどこか泰然としてこちらを見つめている。
エレオノーラは二人を見比べた。
「……ルキウス」
エレオノーラは、幼馴染に何か言おうとした。だが彼は、さえぎるようにきつい言葉を放った。
「オレは戻る。あいつにつきあってもらえ」
エレオノーラは言葉を飲み込んだ。
ルキウスはくるりと踵を返して、馬場を出て行った。エレオノーラがなんともいえない気持ちでその後姿を見つめていると、エンキがサライを横付けしてきた。
「どうしたんだ」
エレオノーラはエンキを振り返った。エンキの黒い瞳は、どこか深さの知れない色をしていた。――ように思えただけかもしれない。
エレオノーラは首を振った。それがエンキへの返答代わりだったのか、それともなにかを振り切るための動作だったのかは彼女自身にもはっきりしない。
エンキはそれを見ると、おもむろにフィーアの手綱をとった。
「少し並走してみよう」
「――え?……ええ、よろしく」
エレオノーラが答えると、サライが歩き出した。サライに導かれるように、フィーアも歩き出す。エンキは片手でサライ、もう片方の手でフィーアを操る。
「手綱ばかりに集中しないで、そうだ、昔乗ったことがあるんだろう?前を見て!
馬を信じるんだ!乗っかってるだけじゃだめだぞ!」
馬の足が駆け足になると、エンキはフィーアの手綱を放した。そこからはエレオノーラ一人で操ることになる。
「速度を保って!」
併走しながらエンキが指示をする。エレオノーラは口を挟まず、耳だけ傾けた。
フィーアはもともと別の馬と走るのが苦でない性格なのか、サライを気にすることなくエレオノーラに従ってくれた。



なんとか駆け足が出来るようになったところでエンキは練習をやめた。
気づけば、エレオノーラはびっしょりと汗をかいていた。
二人は馬に跨ったまま厩舎に戻る。そして馬たちを寝床におさめる。
ひらりとサライの背を降りたエンキは、控えていた馬丁からタオルを二枚受け取り片方をエレオノーラに放った。
エレオノーラは受け取ったタオルでひとしきり汗を拭う。エンキのほうは拭うのもそこそこに、馬の寝床の仕切りに掛けてあった別のタオルを取り上げてそれでサライの体を拭きはじめた。汗をふき取らないと、馬も冷えてしまうのだ。
エレオノーラもその意味に気づいて、フィーアの体を拭こうと思ったが自分の汗を拭っている間に馬丁がそれをはじめてしまっていた。なんとなく馬のことまで気が回らなかった自分を恥ずかしく思いながら、エレオノーラは出来ることがないかと探した。
そして二頭の馬に水を汲んできてやることにした。エレオノーラが水を満たした木桶を持ってくると、二頭は体を拭かれながらも水を飲んだ。
それから手持ち無沙汰になったエレオノーラはエンキの仕事ぶりを見ていた。
彼はどこに何があるのかわかっている様子でテキパキと動いている。
「……ずいぶん慣れてるのね」
「ああ、ここのところずっとお邪魔してたからな。サライの様子が気になって」
「そっか」
「……先に戻っててもいいぞ?汗かいただろうし、風邪ひくぞ」
「ううん、平気」
そう言ってエレオノーラはサライの傍に立った。鼻面を撫でてやると、珍しく顔を摺り寄せてきた。
「さて、終わったぞ」
エンキはサライの体を拭き終わると、首筋をぽんぽんと優しくたたいてやった。
それから、先にフィーアの世話を終えていた馬丁に声をかける。
「あとはよろしくお願いします」
「わかりました。しかし、エンキさんも人が悪いですぜ」
「?なんでですか?」
エンキは馬丁の言葉に首をかしげた。馬丁はちらりとエレオノーラを見た。
「はぁ、なんでってねぇ。わざわざうちの坊ちゃんのお仕事盗らなくても。
いやいやいや、隅に置けない人ですなぁ。あっしは明日の坊ちゃんの機嫌が恐ろしいですよ」
馬丁はそういうとからからと笑った。
エレオノーラが驚いたように眉を上げてエンキを見上げると、エンキはあからさまに苦笑していた。その間に馬丁は自分の仕事に戻っていった。するとエンキの顔から笑みだけが消え、ばつの悪そうななんともいえない表情になった。――別な人が見ればその表情は苦虫を噛み潰したような、と表現されたかもしれない。
それはエレオノーラの見たことがない表情だった。
「……エンキ?」
「……、いやなんでも。早く戻って風呂に入ったほうがいいな」
「――うん」
エレオノーラは一瞬だけ、エンキのあの表情はなんだったんだろう、と考えた。



一週間ほどでエレオノーラは十年間放置されていた乗馬能力を再び見つけ出し、ほこりを払って磨きを掛けた。そしてフィーアとすっかり仲良くなった頃に遠乗りの日がやってきた。
エレオノーラはあつらえてもらった乗馬服をきちんと着て馬場へ向かった。
すると、そこにはすでにこの家の長兄マーカスとエンキがいた。マーカスの周りにはすらりとした体と足をもった犬が六頭跳ね回っている。
「似合うじゃないか」
二人は同時にエレオノーラに気づいたが、彼女を褒めたのはマーカスだけだった。
エレオノーラはぴったりした白いパンツとブーツに視線を落とす。
「ありがとう。ところでマーカス、その犬たちは?」
「いつも狩りに連れて行っている犬だよ。今日は狩りをしないが、思いっきり走らせてやろうと思ってね」
そう言ってマーカスは屈むと、一頭の頭を撫でた。エレオノーラはエンキのほうを向く。
「サライは大丈夫かしら、犬と一緒で」
「ここ何日かの間に慣らしておいたよ。といっても最初から気にしていないみたいだったけどな」
「あれはいい馬だな」
マーカスとエンキはそれなりに馬が合うのか、エレオノーラが間に入らなくても会話が続いている。
――ルキウスとエンキだと相性が悪いのに、兄弟って面白いわね。
アウレーリアとコルネーリアが双子なのにだいぶ性格が違うことも同時に思い浮かべて、エレオノーラは兄弟がいるということの面白さに思いを馳せた。
「エレオノーラっ!」
と、そんな物思いをしていたエレオノーラの背中に暖かなものが飛びついてきた。振り返ればそれはアウレーリアだった。コルネーリアもいる。
「今日は、きっと楽しいわよ!」
アウレーリアはにっこりと笑っていった。その笑顔はどこか意味深で、エレオノーラは何か引っかかるものを感じたが、それははっきりとしないので笑みを返すだけにしておいた。
「ええそうね、きっと」
コルネーリアのほうを見ると、彼女は困ったように首をかしげた。それもエレオノーラは引っかかったが、結局こちらもいわなかった。
「あら、コルネーリアあなたスカートなのね」
と、エレオノーラはコルネーリアが乗馬用のパンツではなくふわりとしたロングスカートをはいていることに気づいた。コルネーリアはこくりと頷く。
「わたしは婦人用の鞍の方があってるみたいだから」
「コルネーリアの横乗りは、ここら辺じゃ一番上手なのよ!」
アウレーリアはエレオノーラかせ離れると我が事のように胸を張った。それにマーカスは苦言を呈した。
「お前も見習いなさい」
「やぁよ、だって速度が出せないじゃない。同じ速度なら馬車に乗るわ」
マーカスは仕方のないやつだと首を振った。
そこへ遅れて、ルキウスがやってきた。一番に双子が振り返る。ルキウスは全員の視線を浴びてしまったからか、馬場の入り口で一端歩みを止めてしまった。その後彼はギクシャクした足取りで兄弟と客人の傍にやってきた。
「「おはよう兄さん」」
「おう」
「……なんか変だな、お前」
長兄に指摘されて弟は一瞬ギクリとした顔になったが、「……なんでもない」と低い声で答えた。それから彼はちらりとエレオノーラに視線を移した。
「?何?」
「いやなんでも」
そういうと、ルキウスはエレオノーラから視線をそらした。エレオノーラはその彼の態度になにか言い表しがたい気持ちになった。それからなんとなく、エンキを振り返った。
エンキは黙ってルキウスを観察しているようだった。そしてエレオノーラの視線に気づくと、軽く首を傾げて問いかけるように笑った。エレオノーラは仕草だけでなんでもない、と彼に伝える。
そこへ、二頭の馬に引かれたつくりの立派な折りたたみの幌付き馬車がやってきた。晴れて風も穏やかな今日、用のない幌は座席の背もたれの後ろで蛇腹の形を成しており、ビロードの施された座席が陽光を直接浴びていた。
外観には手の込んだ浮き彫りと金細工が施してある。簡単なつくりだが、貴族が乗るための馬車だった。
「……随分懐かしいものが出てきたな」
マーカスがぼそりと感想を言うと、コルネーリアが御者に聞いた。
「……それ、確かお父さまが昔わたしたちをピクニックに連れて行ってくれたとき使ったものよね。お父さまがご自分で手綱を取られて」
「はい、奥さまとこちらに乗られるようですよ」
「そうなの。……まさかと思うけれど、お父さまご自分でまた手綱を取られるの?」
コルネーリアの言葉はあたりだった。



玄関まで御者の手によって運ばれた馬車に妻を乗せると、クラウディースは自ら御者台に乗った。使用人たちはどこかはらはらしているようだった。ヴィプサーニアにしきりに忘れ物はないかと聞く使用人頭がいる。
子どもたちと客人は馬に跨ったまま一連の動きを見守っている。
エレオノーラとエンキは執事がマーカスに
「散々お止めしたんですけれども」
と言っているのを聞いた。マーカスはゆるゆると首を振って弟に話を振る。
「調子に乗って溝にでも嵌らなければいいが」
「その時は兄貴、とりあえず母さんを救出してくれよ。……馬車がひっくり返る前に」
「善処する……お前も手伝え」
客人二人は、物騒な会話だと顔を見合わせた。
だがその会話は父の耳には届かなかったらしい。
「さあ子どもたちよ、これから南西にある湖水地帯を目指すぞ!遅れずに着いてきたまえ!」
クラウディースは高らかに宣言すると、鞭を振るって馬を走らせた。座席のヴィプサーニアがつばの広い帽子を片手で押さえた。その横顔は苦笑している。
子どもたちと客人は各々馬の腹を蹴り、馬車の後を追った。

戻る  Home  目次  次へ