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「魔法使いと記憶のない騎士」
第四十三話
湖畔での食事
―記憶のない男の戸惑い―

エンキは、自分たちの後ろにつかず離れず馬車がついてきていることに気づいた。
つくりの立派なものだが、一級品とはいいがたいものだった。屋根つきで、車輪が太い。
エンキはそっとサライをエレオノーラのフィーアに近づけた。
「何かつけてきてる」
言われてエレオノーラは肩越しに振り返り、ああと言った。
「心配しなくても大丈夫よ。あれには使用人の方たちが乗ってるの」
「……え?
……出かけるときの様子じゃ、俺たちだけかと思ったぞ。奥さんに忘れ物はないかと訊いてたし」
予想外の返答にエンキは変な声を出してさらに質問を重ねた。
「ピクニックも兼ねてるって言ってたでしょ?
たぶん、“忘れ物”は娯楽道具のことでしょうね。計画の具体的なところは奥さまがなさったみたいだから。不足がなかったか心配になったんじゃない?
後ろにいるのはお昼の係りの人じゃないかしら。色々準備があるでしょう、敷物を敷いたりお茶を入れたり、食器を準備したり」
「……、自分でやらないのか」
「貴族だもの」
さらりと言ったエレオノーラの言葉にエンキは一瞬めまいを覚えた。



一行は首都郊外に広がる森を抜け、南西へと駒を進める。
辺りが森と言うより林になり、やがて並木道になると真っ直ぐな道の向こうになだやかな緑の稜線が見えてきた。少し青みがかったような稜線は絵画にもよく取り上げられる。
ごく僅かに、そしてゆるやかに傾斜する道の両側には生き生きとした植物たちが風に揺れている。
マーカスの犬たちは時折茂みに飛び込んでいき、休んでいたらしい鳥たちを驚かせて飛び立たせていた。大きな水鳥らしい鳥が飛び立ったときには犬たちはそろって追いかけていった。だがマーカスが犬笛をひとつ吹くと、彼らは忠実に戻ってきた。
空を見上げれば、雲は風の形をしていた。上空は風が強いらしい。
先頭のクラウディースが操る馬車が速度を上げないので、客人と子どもたちの馬はひづめをかっぽかっぽと鳴らして歩くだけだった。
馬車のすぐ後ろにマーカスとルキウスの男兄弟が続き、最後尾は――とりあえず使用人たちの馬車を除いて――エンキとエレオノーラだ。その間に、双子のアウレーリアとコルネーリアがいる。
前方を見れば、馬車に乗っているヴィプサーニアとマーカスが言葉を交わしているのがわかる。ルキウスは黙っているようだ。エンキとエレオノーラの間にも、先ほど以来特に会話はなかった。
エンキは風が幾分水を含んできたことに気づいた。だが空には相変わらず薄い雲があるだけで雨雲は見えない。天気雨かとも思ったが、その気配もない。
――たしか、湖水地帯がなんとかって。
出掛け際にクラウディースが言っていた言葉を思い出す。目的地に湖があるということだろう。では、もうそろそろ目的地なのだろうか。
「――エレオノーラ」
「うん?」
「エレオノーラはこの先に行ったことはあるのか?」
「ううん、ないわ」
「そうか……」
「でも話には何度か聞いたわ。絵画にも何度も出てくるし、いいところだって」
「少し奥まったところに、別荘を持っている人もいるわ」
エレオノーラの言葉に続けて第三の声がそう言った。会話に混ざってきたのは、速度を落として二人の間に入ってきたアウレーリアだった。
「湖の周り自体は国有地で物を作ったり切り取ったりすることは禁じられているけど、もう少し行ったところには私有地もあるの。そこには別荘が群れをなしてるの」
「国有地?」
「そう、国のもの。ちなみに皇帝陛下所有の土地もあるわ」
ふぅん、とエンキは気の入らない返事をした。その間に、アウレーリアはエレオノーラと別の会話を始めてしまっていた。なんとなく所在がなくなって、エンキはサライの腹を蹴ってその列を抜けた。すると自然、コルネーリアと並ぶこととなる。
コルネーリアは馬の上に器用に横座りをして、これまた器用に手綱を操っている。
「へぇ、上手いな。不安定じゃないのか?」
「慣れてますから」
コルネーリアはにっこりと笑って答える。無難な受け答えをされてしまっては、エンキは会話の伸ばし方を知らなかった。
黙ってサライを進めはじめたエンキにコルネーリアは会話の糸口を渡した。
「エンキさんって、あんまりおしゃべりなさらないんですね」
「……そうかな?」
「はい、少なくとも饒舌ではないと思います。無口でもないと思いますが」
「……そうか」
「うちは、父からして男もよくしゃべるのでちょっと疲れます」
「そ、そうか」
「でも父は昔、無口だったそうです。少なくともおしゃべりではなかったと。人ってよくわかりませんねぇ」
――少女らしいあまり意味を持たない話だな。
とエンキは思った。
コルネーリアは家の男たちを“おしゃべり”と評したが、エンキはクラウディース家の男たちが特におしゃべりだとは思えなかった。エンキがクラウディース家に来てそれほど日が経っていないせいだろうか、彼はクラウディース家の人々とそれほど多く言葉を交わしたわけではない。そのためにエンキとコルネーリアのクラウディース家の男たちへの評価が異なったのだろう。
――きっと家族とはよくしゃべるのだろう、とエンキは思い直す。
「でも」
コルネーリアが発した逆接の言葉にエンキは少女の顔を見た。
「ルキウス兄さんに関しては、よくしゃべりますけど無駄なことばっかり。
言葉が足りないんです。それでよく勘違いされるし」
「はあ」
ハキハキとしゃべる子だな、案外に――彼はそう思っただけだった。
エンキは生返事以外の返事がしようがなく、ただサライを歩ませた。そこへ、また馬が前から速度を落としておりてきた。長男のマーカスである。
「母がお話をしたいと」
エンキはひとつ頷くと、マーカスと位置を変わった。ヴィプサーニアに並ぶようにとサライを操る。馬車は、馬の背よりすこし低い位置にあった。
「なにか?」
エンキが声をかけると、夫人はにっこりと笑った。
「いえ、特にようはないんですけれど。――いい天気ですね」
そこでエンキは伯爵夫人が気を遣ってくれたのだということに気づいた。
「はい、まったく。風も適度で。
――マーカスさんの犬はよく躾けられていますね」
「すごいでしょう?あれは、マーカスが自分で躾をしたんですよ。
……ところで、エンキさんは」
「はい?」
「エレオノーラとこれからも一緒に?」
夫人は、目にどこか心配そうな色を乗せて聞いてきた。エンキは一瞬だけ間を置いたがよどみなく答えた。
「行くところもありませんから」
「……そう?」
夫人は、明るい顔に少しだけ複雑さを混ぜた。だがそれもすぐに消えて、またにっこりと笑う。
「エレオノーラは、……だから……てね」
「はい?」
だがその瞬間ざぁっと風が吹いてエンキはヴィプサーニアの言ったことが上手く聞き取れなかった。エンキが聞き返そうとすると、ふいに馬車が速度を上げた。エンキとヴィプサーニアは驚いて御者台のクラウディースを見た。すると、伯爵は振り返った。そしてにやりと笑う。
「もう少しで湖だ!さぁ一番乗りは誰かな?」
馬車の車輪が回転を早めた。それまで御者台に座っていたクラウディースは立ち上がると、鞭を振るった。座席のヴィブサーニアは片手で馬車の縁を掴んでもう片方の手で帽子を押さえ、叫んだ。
「あなた!あんまり無理なさらないでくださいまし!お若くないんですから!!」
だがそれも聞こえたかどうか。すぐに速度を上げたアウレーリアがやってきて、父を挑発する。馬車はさらにサライとエンキから遠ざかった。その馬車のあとを慌ててマーカスとルキウスの兄弟が追っていく。
エンキが驚いたままその光景を見つめていると、追いついてきたコルネーリアとエレオノーラが並んだ。
「……走りましょうか?」
「それなりにね」
三人は苦笑しながら、前を行く人々のために馬の腹を蹴った。



湖に着くと、いつの間に先回りしたのやら使用人たちが食事の用意を終えていた。
エンキはその光景にやはり唖然とするしかなかった。つい先ほどまですぐ後ろに彼らの馬車がいたような気がしたのだが、どこに抜け道があったのだろう。エンキの視線を感じたのか、使用人の一人が振り返った。そしてにっこりと笑う。それはいかにも「職務上の秘密です」と言っているようだった。
「わたしが一番!」
そう元気よく宣言していたのはアウレーリアだった。マーカスとルキウスは肩で息をしている。そんな息子たちを、父は情けなさそうに見つめていた。
馬止め用の棒も用意されており、彼らはそこへ馬を繋いだ。ただエンキだけがサライを自由にしてやった。サライはエンキの周りを二、三度回るとくるりと踵を返して走って行った。湖が珍しいのか、サライは湖岸沿いに遠くへと行く。
「……いいのかね」
「呼べば戻ってきます」
クラウディースの質問にエンキがそれだけ答えると、少なからず伯爵は面食らったようだった。だがそれも一瞬のことで、クラウディースは得心したように笑った。
「タルタロス――東の民は馬と異体同心か、なるほどな」
――たしか、タルタロスと言うのは東ノ国の人たちの異称だったな――エンキはその言葉に苦笑でこたえた。どうも自分は、この家の人たちには東ノ国の人間であると断定されているらしい。
「さあお昼にしましょう!」
そう言って子どもたちと客人に手招きしたのは、使用人が用意した敷物の上に先に腰掛けていた夫人のヴィプサーニアだ。ピクニックらしく、子どもたちと客人は敷物の上にじかに座った。クラウディースは妻の隣に座るとそっと彼女の背中を自分の肩に預けさせた。
椅子の背もたれ役をかって出た夫をヴィプサーニアは優しく振り仰ぎにっこりと笑った。
屋敷にいるのと全く変わらず――違いといえばテーブルと椅子がないくらいか――、食事が用意され各々の前に出される。エンキは立ち回る使用人たちに少し、なんだかなぁ、と思った。
湖に目をやれば、よく澄んだ水が岸へと穏やかに打ち寄せている。わずかな水音しか感じない穏やかさは、心安らぐ風情を作り出している。背の高い水辺の草は波を作り出す風と共に体を揺らし、マーカスの犬たちは寄せる波で遊んでいた。
きらきらと輝く湖面の向こう側には、天へと真っ直ぐに伸びる木が生い茂る森が広がっている。そのさらに向こうには、往路で見た稜線がくっきりと形をあらわにして湖を見下ろしていた。どこか悠然とそこに在る山々は畏怖のようなものを人々の胸に抱かせる。
エンキはその山々を見上げながら、遠くを想った――
「――はい、エンキ」
だがその物思いも不意に断ち切られる。断ち切らせたのはエレオノーラだった。彼女は皿に乗ったサンドイッチを彼に差し出していた。
「あ、ありがとう」
物思いを断ち切られたことにやや面食らいながら、エンキはそれを受け取った。エレオノーラは不思議そうに少しだけ首を傾けた。



「ああ、ギターを持ってくればよかったなルキウス」
食事が進むうちに、クラウディースはぽつりと言った。名前を呼ばれた次男坊は口にしたパンを飲み込むと言った。
「なんでだ?」
「ここで弾けば一興だろう。わたしは音楽はてんでだめだが、お前はそうでもないからな」
「お前の唯一の特技だな」
マーカスが揶揄するように言うと、ルキウスはむっとしたようだった。
「失礼な。オレは計算も得意だ」
「え、得意なこと二つだけ?!」
アウレーリアがやはり揶揄するような声で言うと、ルキウスはぎょっとしたような顔をした後なにやら指折り数え始めた。そんな兄の様子を見て、コルネーリアはくすくす笑う。
「兄さんにはいっぱいいいところあるわ。――とっさに出てこないけれど」
「おいそれ褒めてないぞ!」
次男の叫びに、他の人々は声を上げて笑った。
その後車座になった一行がサンドイッチをすっかり平らげてしまうと、今度は使用人は美しい陶器のカップに紅茶を入れて各々の前に準備していった。屋敷に居るのと変わらない食後の一服の準備にエンキはまた面食らった。よく見れば、お茶と共にクッキーやスコーンも用意されていた。エンキがエレオノーラを見れば、彼女は悠然と茶の香りを楽しんでいるところだった。
「――野外で食べるにしては豪勢だよな。サンドイッチにしても具がすごかったし」
「そうね」
「皿もカップも高そうだ。こんなところに持ってきて割れたらどうするんだろう」
「これ、たぶん、ピクニックとか野外用じゃないかしら。だからそのくらい想定してるんじゃない?丈夫に作ってあるとか」
「……そんな差があるのか……」
エンキは貴族とやらの得体の知れなさに内心で若干怯えた。エレオノーラの方は慣れているのかなんなのか、平然としたものだった。



食事がすっかり終わった後、彼らは各々敷物の上で体を伸ばしながら他愛もない話をし腹を休ませた。
そよそよと風が流れ、水の香りを運んでくる。心地よい午後だった。
だが、それだけでは物足りなかったものもいたらしい。
「ねぇ、向こうの森のその向こうにたしか丘があったわよね」
アウレーリアが湖の向こうを指差しながら長兄に問うた。マーカスは指の先に視線を移し、頷く。
「ああ、たしかな。森も丘も大した大きさじゃないがな。まっすぐ馬を走らせればすぐにつくだろう」
「ね、競争しない?」
「競争?」
三女の申し出にその場の人々がみな首をかしげた。アウレーリアはにっこりと笑って自分の計画を説明する。
「あの森、兄さんが言うようにそんなに大きくないでしょう?
真っ直ぐ抜ければ丘があるし――丘って言っても土がたまたま盛り上がったようなところだけど――、エレオノーラとエンキさんにもわかりやすいと思うから皆で競争しましょうよ!」
その言葉に若者たちが顔を見合わせているとクラウディースがああ、と声を上げた。
そして使用人に声をかける。使用人は主人の言葉に頷いて自分が乗ってきた馬車へと戻った。数分後、彼は手の中に大事そうになにかを抱えて戻ってきた。クラウディースはそれを受け取ると、子どもたちと客人にそれを手渡した。
「それならこれをもっていくといい。――方位磁針だ」
各々の手の中にすっぽりと納まる、丸い時計のようなもの――それは方位磁針だった。
だが、それだけではないことにエレオノーラは気づいた。
「魔法の力が与えられていますね」
「そう、ただの方位磁針じゃない。魔法具の一種だな。みんなそれを森のほうに向けて“丘”と言う言葉を念じてごらん――」
クラウディースが森を指差して言ったので、子どもたちと客人は方位磁針を持ってそっと“丘”と念じる。すると、方位磁針の針が不意に動き出し、森のほうを指し光り始めた。
「それでいい。それは、持ち主が念じた“街”とか“丘”という言葉を感じ取って、その場所から一番近くのその“言葉”をもつ場所を探し出して指し示すものなんだ
人の名前を念じれば、その人の居場所を指し示すという話もあるがやったことはないな」
「へぇ、面白いですね」
エレオノーラが言うと、クラウディースは笑いながら付け足した。
「賢い娘さん、仕組みとかは質問しないでくれたまえよ。私は魔法は門外漢なのでね」
エレオノーラはそれに笑いながらはいと言った。



マーカスとルキウスは父がその方位磁針をなぜ用意していたか不思議がったが――大方使用人たちがはぐれてしまったら使おうと思って持ってきていたのを主人が知っていたのだろう――、ともかく穏やかな昼過ぎは終わり競争の午後が訪れた。
まずエンキが遠くへと行ったサライを高い音の指笛で呼んだ。
数分後、サライは嬉しそうな軽い足取りで戻ってきてエンキの周りをくるくると回った。
その様子を見たクラウディース家の面々は感嘆の声を上げた。
そして彼がサライに跨ると、他の人々も――クラウディース家の子供たちとエレオノーラも自分の馬に跨った。そして一列に並ぶ。
タイベリウスとヴィプサーニア、そして使用人はここで休んでいるとのことだった。
馬が一列に並ぶと、クラウディースは立ち上がり審判よろしくそれぞれを検分した。ヴィプサーニアはそれを面白そうに眺めている。
クラウディースは馬の列の脇にどけると、すっと手を上げた。
「狭いとはいえ森は危険だ。迷ったと思ったら方位磁針を頼りなさい、そのために預けたのだからね。
――さて、準備はいいかね」
「もっちろん!」
代表して答えたのはアウレーリアだった。父はにっこりと笑って「用意」と言った。
それぞれの手綱が絞られる。
ひゅっとクラウディースの腕が勢いよく振り下ろされた。それを合図に、それぞれの馬は腹を蹴られ走り出した。
六つの風が森を目指して過ぎ去った後、クラウディースは楽しそうに一人ごちた。
「――やれやれ、開始の号令を忘れたというのに」
それから妻と目を合わせて、どちらからともなくにっこりと笑いあった。

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