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「魔法使いと記憶のない騎士」
第四十五話
穏やかな一日は過ぎて
―決着と戸惑い―

それからしばらく、二人は黙って清らかな流れを見つめていた。
川の流れる音と、風の音。風が木々を揺らす音と、馬の吐息。
それだけが聞こえていた。
ルキウスは川辺に座り込み、自分の大腿に肘をついて口元に手をやっていた。
じっと何かを考えているようだった。もしかしたらエレオノーラの言葉を咀嚼しているのかもしれない。
エレオノーラは立ったまま頭を空っぽにして、ただ目の前の流れを眺めていた。
ふと、ルキウスが大きなため息をついた。エレオノーラはそれで現実に引き戻された。ルキウスはエレオノーラを見上げながら、言う。
「――なぁ、こんな状況じゃなかったらお前、オレと結婚してくれたか?」
エレオノーラはルキウスを見つめ、きっぱりと言った。
「――いいえ、よ」
ルキウスは一言、そうか、と言った。
「やっぱり、あの……アイツなのか?」
「……アイツ?」
ルキウスはふいっと顔をそらしてエレオノーラを見ずに答える。
「お前の連れ」
「……エンキのこと?……彼がどうかしたの?」
エレオノーラの言葉にルキウスは根負けしたように彼女を見上げて声を荒げた。
「ちょっとは察しろよ!……連れを旦那にすんのかって聞いてんだ」
「ああ……」
エレオノーラは額を押さえて、目を瞑った。
「彼は、忘れてるだけで実は奥さんも子どももいるかもしれないし。
――だから、考えたことないわ。そういうことは」
「ふうん。
でもお前もあっちも、だいぶ気に入ってるみたいだけどね。お互いに」
ルキウスはどこかぶっきらぼうに言い捨てた。だが、次の言葉は打って変わって心配そうに続けた。
「“邪王の一族”は、本人の望む望まざるに関わらず、子どもつくって、育てて、伝えていかなきゃならないんだろ。
どーすんだ。そんなこと言ってたら婆さんになっても子どもなんてできないぞ」
エレオノーラはその言葉に眉を上げ、一瞬後クスリ、と笑った。
「ルキウス、子どもを生めるのは結婚した人だけだと思ってる?」
「え?」
「――……、子どもはね、結婚しなくても生まれるのよ」
どこか暗い声でエレオノーラは言う。
「素晴らしい資質を持った異性が邪王の一族になびかなかった事は何度もあるわ。
それでも一族は、その資質を逃さず手に入れてきたわ。――男女問わず」
「おい……?」
ルキウスはエレオノーラの言葉に青ざめて、立ち上がった。
「まさか……」
「貴族の倫理観と“邪王の一族”の倫理観はかならずしも一致するものじゃないわ。
万が一、と言う事態には起こり得るでしょうね」
ルキウスはエレオノーラの言葉に絶句していた。
ふとその顔を見て、エレオノーラは他の人ならどんな反応をしただろうと思った。
だがそれは口にも顔にも出さずに、エレオノーラはフィーアの背に飛び乗った。
「――だいぶ時間がたってしまったわね。
急ぎましょう!きっと皆待ってるわ」
「あ、ああ……」
結局ルキウスはエレオノーラに何も言うことができずに、自分の馬に跨るしかなかった。
エレオノーラは方位磁針を取り出して、場所を確認する。
「丘は、あっちね。どうする?一緒に行く?」
エレオノーラの言葉にルキウスは一瞬考え込むような顔をしてから、ゆっくりと首を振った。
「いや。……オレは後から行くよ。先に行っててくれ」
「……そうね。それじゃ」
エレオノーラはフィーアの腹を蹴って、森へと向かった。ルキウスはその背中を見送りかけて、思いついたように声を上げた。
「エレオノーラ!」
呼ばれたほうは馬を止め、ぐいっと上体を捻って振り返った。
「……あんまり、無茶はするなよ」
その言葉にエレオノーラは複雑そうな笑みを見せた後、また背中を向けて馬を歩かせ始めた。ルキウスは今度こそその背中を見送ってから、馬を川沿いに歩かせ始めた。――エレオノーラの行った方に逆らうように、馬は川辺を少しだけ遡った。
川辺を行くうつむき加減のルキウスの顔には、きらきらとした川の照り返しが陰影を作っていた。



木漏れ日も少なくなった森を駆けていく。エレオノーラの思考はあいかわらず停止していた。
ぴしりと数度、小枝に頬を叩かれて現実に戻される。
エレオノーラはため息をついた。
――疲れた……。
大した運動はしていないだろう。だが疲れていた。
ルキウスに悪いことをした。と、思う。理由はないが、そう思う。
そしてまた思考が停止する。そのうちに、出口が近づいてきた。エレオノーラは無意識にフィーアを急がせた。
出口。フィーアは明るい世界に向けて足取り軽く飛び出した。
途端、馬は何かに驚いて悲鳴のようないななきを上げてのけぞった。
エレオノーラは慌てて足に力を入れ、手綱を強く握る。だが如何せんいきなりのことで、エレオノーラは耐えられず、落馬しそうになり目を瞑った。しかしそれも、すんでのところでフィーアが落ち着き事なきを得た。
そっと目を開ければ、サライに跨ったエンキがフィーアの手綱の轡近くを掴んでどうどうと声をかけていた。
「サライとぶつかりそうになったんだ。ちゃんと御さなきゃだめだろう」
ぽんぽんとフィーアの鼻面を叩いてエンキはエレオノーラに言った。エレオノーラはやや呆然として、エンキの顔を見つめる。その様子に、エンキは戸惑う。
「……、どうした?」
エレオノーラはゆるゆると首を振る。
「ごめんなさい、ぼうっとしてたみたい」
「……大丈夫か?」
「うん。……エンキこそどうしたの、なんだか情けない顔してるわよ?」
「へ?」
言われてエンキは手綱を放し、顔を撫でた。
たしかに第三者の目から見れば、彼はどこか途方にくれた犬のような顔をしているようにも見えた。
「そ、そうか?」
「うん。何かあったの?」
「いや、別に……」
「……それならいいけど……」
実はエンキはルキウスとエレオノーラの様子が気になって仕方なかったのだ。理由は不明だが、待つうちに段々と情けない気持ちになり、それが顔に出てしまっていたのだ。エンキは気合を入れなおし、表情を戻す。
そしてふと視線をめぐらせ、エレオノーラの髪に木の葉が絡んでいるのに気づいた。無言でそれに手を伸ばし、とってやる。エレオノーラは葉っぱが視界に入るまで突然触れてきたエンキに何事かという顔をしていたが、次の瞬間には納得した顔をしてにっこりと微笑んだ。
エンキの指先にとらえられた葉は次の瞬間には風に奪われて舞い上がった。
二人の視線が葉の行く先を追うと、自然と目が丘へとのぼりそこに三つの影を発見する。
それは間違いようもなくクラウディース家の長男と双子の娘だった。
エレオノーラはフィーアをそちらに向かわせる。エンキはサライをその後ろにつけた。
「遅くなっちゃったわね。ごめんなさい」
「いや……」
クラウディース家の三人は顔を見合わせ、複雑そうな顔をした。
その仕草からエレオノーラは、ああこの人たちは私とルキウスに何があったか気づいてるわ、と思った。
そのエレオノーラの思いを読み取ったのか、マーカスが口を開いた。
「気にしなくていいからな、ノーラ」
わざと、“なにを”を省いてそういうマーカスはやはり長子らしいとエレオノーラは思った。
「ありがとう。……ごめんなさい」
「あやまらなくていいのよ」
コルネーリアが言うと、アウレーリアが横でなんだかバツの悪そうな顔をした。
「……アウレーリア、どうしたの?」
「うん、あのね、わたしも……ごめんね」
「え?」
「深く考えないで!謝りたかっただけだから」
「……?」
アウレーリアの言葉にエレオノーラは怪訝な顔をして首をかしげた。
その後、いくら待っても次男坊は丘へと現れなかった。事情を察しているらしい兄妹たちは、もう戻ろうかと客人二人に声をかけた。客人のうち、女の方がこくりと頷く。
それを見て、マーカスは馬の首を森のほうへめぐらせた。



先行する三騎の背中を眺めながら、エレオノーラはフィーアを歩かせる。その隣には静かにエンキに従うサライが並んで歩いている。
無言だった。
時折互いに物言いたげな目を相手の横顔に当てるが、その時期が絶妙にずれていて視線が絡むことはない。
前を行く三騎はその様子を背中で感じ取っていた。
そんな雰囲気で、一行が森の半ばまで進んだときだった。
ふらふらとさ迷い歩く栗毛の馬が木々の間から見えた。それはルキウスの馬で、もちろんのことだが背にはルキウス本人が騎乗していた。
「兄さん」
呼びかけて馬を走らせたのはクラウディース家の第三子にして長女のアウレーリアだった。
妹の声に、ルキウスはどこへ向けているかわからなかった顔をこちらへと向ける。はじめ冥府の川でも見つめているかのようだった瞳が妹たちと兄を見つけると、いつもの青年らしい瞳へと戻っていく。
「な、なんだよ。みんなして。人が行くまで待ってるもんだろう、普通は」
「やあよ、どんけつな人を待っていて夜空を眺めることになるなんて!」
わざとらしく一行を責めるような言葉を口にした兄を、上の妹はいつもの減らず口をもって迎えた。だが妹は、いつもとは違いその言葉に神妙な口調で別の言葉を付け加えた。
「兄さん、ごめんね」
その言葉に、ルキウスはまずきょとんとした顔をした。それから数瞬後、妹の言葉の真意に気づいてぎょっとする。
「な、なんで謝るんだよ、気持ちわるいなぁ。……、涙出てくるからやめてくれ」
ルキウスはぎょっとした気持ちを吐き出すと、それにつられて別な感情も思わず吐き出してしまっていた。そして、何を思ったか腕でごしごしと顔をこすった。
それから彼は、それを隠すようにくるりと馬を回して一行と同じ方を向き兄妹たちには背中を見せた。そんな弟の隣に馬を並べてマーカスはポンと彼の肩を叩いた。
「さて、また走るか」
マーカスは肩越しに振り返り言う。
「今度は来た道を真っ直ぐ戻る。また競争だ」
その言葉に双子の妹たちがにっこりと笑った。マーカスが馬の腹を蹴ると、遅れて双子の馬も走り出す。ルキウスはその背中を一瞬見つめ、それから自分の栗毛の馬の腹を勢いよく蹴った。主人の意図を理解して、栗毛の馬は走り出す。
……けれど走り出さない馬が二頭。
その片方の馬に騎乗している紫の瞳を持った女は、複雑な表情で一連の出来事を少し遠くから見ていた。もう一騎は黒い馬と黒い髪を持つ男。
エンキはエレオノーラの馬にサライを寄せると、複雑な顔をしている彼女の頭をぽんぽんと優しくたたいた。そこで久々に二人の視線がぶつかった。
エンキはおおらかな笑顔を彼女に向けてこう言った。
「さあ、いこう」



子どもたちが森へと消えていった後、再びランドマール伯爵タイベリウス・クラウディースは妻の元へと戻り自らの胸を彼女の背もたれにと提供したが、心地よい風と日差しの中いつの間にかこっくりこっくりと舟をこぎ始めていた。
その夫の姿にヴィプサーニアはくすりと笑い、控えていた使用人を手招きした。
「座椅子を持ってきてくれるかしら。旦那さまに“まくら”をしたいの」
使用人がかしこまりました、と言うと背中のクラウディースが逢瀬の途上であった瞼を無理に引き剥がして空いた手で目をこすった。
ヴィプサーニアはその様子にまたくすりと笑う。そして引き続き意識をはっきりさせるために顔中を撫で続けている夫に言った。
「いいのよ、タイベリウス。楽になさって、さあ」
そこへ座椅子が運ばれてきてヴィプサーニアは夫の手を取った。クラウディースはその手に導かれるままに彼女の前に移動し、ごろりと横になる。使用人は夫人を手伝って座椅子に座らせた。
座椅子に腰を落ち着けると、夫人はぽんぽんと自分の膝を叩いて夫にここに頭を乗せるように、と催促した。
クラウディースは一瞬ふと考えたようだが、暖かくやわらかな“まくら”の誘惑には勝てなかったらしく中身の詰まった頭をやさしくそこへ乗せた。
感覚の喪われて久しい足だが、ふと温かな心地よい重みをヴィプサーニアは感じた気がして、彼女は夫の歳を感じさせる色をした髪に指を差し入れて撫でた。
「……若いときは」
「はい?」
「ランドマールの本邸の庭でよくこうしたな」
クラウディースは懐かしむような声で、目を瞑ったまま言った。ヴィプサーニアはそんな夫を見下ろしながらええ、と言った。
「法務官の仕事が忙しくて、最近本邸のほうはすっかりマーカスとルキウスに任せきりだったな。おかげでこういうのは久しぶりだ」
「というか、子どもたちに忙しくてどのみち“こういうの”はご無沙汰でしたでしょうけど」
ヴィプサーニアの笑みを含ませた言葉にクラウディースは片方の瞼を上げた。
「では子どもたちに一段落したところで、一緒に隠居でもどうだい、奥さま」
「……陛下や議会がそうそうあなたに永遠に近いお暇を出すとは思いませんけど」
ヴィプサーニアは形のいい顎に拳を当ててそう言った。クラウディースは笑う。
「それに、法務官を辞めたところで、陛下はあなたを私的な顧問官に欲しがるかもしれませんし」
「冗談を。これ以上かの方と深く関わるのはごめんだよ」
「まあ」
最大の名誉と思われる皇帝の招聘を「ごめんだ」と言った夫にヴィプサーニアは笑う。それを見てクラウディースは口元に笑みを浮かべたまま開けたほうの目を閉じた。
そうして、しばらく心地よい風に二人は吹かれていた。
やがて風が止み、湖が凪ぐとクラウディースはすっと両の瞼を上げた。普段は黒く見える瞳が日に透けて美しく深く暗い蒼に見え、ヴィプサーニアはふと愛しくなった。
「――……近々」
「はい?」
「久々に剣を取ろうかと思う」
「え?」
唐突な夫の言葉と計画にヴィプサーニアは目を丸くした。
「剣を?ここ十年くらいまともに修練なさってませんでしたけど……運動不足ですか?」
「いやまあそれもあるが……なんだか今日あたり、次男坊の想いに決着がつきそうな気がしてね。
そうしたら、わたしは友との約束を果たさねばならん」
「……ルキウスの決着がついてもつかなくても、どの道剣はとるおつもりでしょう?」
「……まあそうだが」
見抜かれてクラウディースは苦笑した。どうも妻は、彼の意図を理解したらしい。
「『娘を頼む』との言葉に、わたしは上手く答えられなかった。
せめてもの罪滅ぼしに、実の父親の変わりに“腕試し”だ」
「あんまりハメを外しますと、子どもたちに年寄りの冷や水と言われかねませんから気をつけてくださいませね」
「失礼な、わたしはそこまで歳じゃない」
「さあ、どうでしょう?」
妻がいたずらっぽく肩をすくめたのを見て、クラウディースはまた笑った。
そこへ、土を蹴る馬蹄の音がひびいてきた。
クラウディースはゆっくりと妻の膝から身を起こす。森のほうを見れば、子どもたちが馬を駆って戻ってくるところだった。
「さあ帰ってきたぞ」
クラウディースは妻と顔を見合わせて微笑んだ。それから栗毛の馬に乗っている、計算の得意な次男坊はどんな顔をしているだろう、と目を凝らした。

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