| 翌日、エレオノーラは仕立ててもらった服を着て――淡いブルーの肩の露出しないふわりとしたスカートのワンピースだった――伯爵邸の図書室にいた。プフェアート・シュタートの図書館よりはもちろん狭いが、書棚は高く軽く人の背を超え天井に届くほどだ。入り口近くに設けられている閲覧席は、子どもたちの勉強机を兼ねることも多い。エレオノーラは規則正しい書棚の間を歩いていく。すると、口を軽くあけて書棚を見上げているエンキの傍らにたどり着いた。
 「――すごいな、これ個人所有なのか」
 「そうよ」
 朝のサライの世話を自分でした後、暇にかまけて惰眠をむさぼりかけていたエンキをここへ連れてきたのはもちろんエレオノーラだった。
 「さすがに法律関係の文献が多いわね。――毎年刷新されるものもきちんととってあるし」
 「馬の本だ」
 「マーカスかルキウスかしら」
 エレオノーラはエンキが手に取った『繁殖と良質の血統』という本のタイトルを見て少し眉根を寄せた。だがエンキは躊躇することなく革張りのその本を開き、文章に目を通している。しかもかなり興味深いのかなんなのか、彼は目を離すことなく文章を追っている。
 エレオノーラはため息をついて、隣の書棚に移動した。
 するとそこは小説が集められている場所だった。エレオノーラが一冊手に取ると、それはいつかだかに流行った濃厚な恋愛小説だった。
 ――おば様のご趣味かしら?
 ぱらぱらとめくっていくうちに、主人公の女性と相手役の男性が愛を告白しあう場面にぶち当たった。なんだか甘い甘い呼称で呼び合う恋人たちに彼女は三行でくらくらしはじめた。そして、そっと書棚に戻す。
 エレオノーラは十秒ほど額を押さえた後、膨大な数がある法律関係の文献の書棚へと再び向かった。
 古い本の香りに包まれる空間だった。見れば、奥まった方にはまだ製本という技術が確立していなかった頃に作られたと思しき巻物も保管されている。エレオノーラは好奇心からどれほど古い法律なのだろうと思い手にとってみたくなったが、ガラスのケースに保湿されているという厳重な保存の仕方を見て手に取るのは遠慮した。
 見上げれば、擦り切れて独特の風合いを醸し出す革張りの背表紙が歴史の重みを伴ってエレオノーラを見下ろしていた。
 ――民の守護。為政者の抑止力。議会の規律。
 エレオノーラはそれに敬意を表して胸に手をあて、瞼を閉じた。そしてこの屋敷の主が、それを厳正に扱うものの中でも最高位にいるものだということに思い至り頭が下がる。
 その時、ギイと図書室の扉が開く音がした。
 「エンキ様!エレオノーラ様!」
 続いて響いたのはこの屋敷の執事の声だった。慌てて書棚の迷路を抜けて入り口近くの閲覧所に戻ると、執事は恭しく頭を下げた。
 「エンキ様、今お時間はよろしいでしょうか?旦那様が修練場でお待ちです。
 それと、エレオノーラ様も、奥様が談話室でお待ちになられています」
 客人二人は顔を見合わせて首をかしげた。
 
 
 
 クラウディースはこの日早起きして、身を清め、久々に剣の修練用の上着とズボンとブーツを用意させた。そして手袋は、黒の革製を選んだ。彼は昨日、察しのいい父親が大体そうであるように次男が失恋と人生の一種の挫折感を味わったことを感じ取った。だが息子には特に言葉をかけなかった。その代わり、数度優しく肩をたたいてやった。彼の妻で、子どもたちの母親のヴィプサーニアはそんな二人を優しく眺めていた。
 次男坊は大して落ち込んでない振りをしながら、自室に引きこもっている。遠大な数学の計算でもしているのだろうか。エレオノーラとも食事の時間をずらして顔を合わせないようにしている。
 ――まあ落ち着くまで、何でもするといい。彼は考えが甘いところがあるが、失恋ごときで死を選ぶほど愚か者ではない。それに、それなりの楽天家だ。
 父は息子を理解し、信頼していた。
 だから、これは父による息子の弔い合戦ではないのだ。“もう一人の娘”のための父の決闘なのだ。
 ランドマール伯爵タイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースはそう胸の中で呟きながらレイピア――細身の剣を手に取った。
 そのレイピアは鞘と鍔に美しい銀細工が施してある。クラウディースはそれを愛でるように確かめるとしっかりと腰に佩いた。
 修練場に立つのは、本当に久しぶりだった。
 馬小屋と馬場の、広大な庭を挟んだ向かい側――もはや対岸と言ってもいいかもしれない――の林の奥に修練場はある。静けさが支配する、肉体と精神を鍛えるための施設だ。
 若い頃はよくここで友人やら師範やらと剣を交差させたものだが、子どもができるとその回数は少なくなり、仕事に追われ地位が上がるにつれ遠ざかった。
 ――なるほど確かに年寄りの冷や水かもしれない。
 鞘にさした剣の柄を握って、クラウディースはひとり苦笑した。
 そこへ執事に案内されてエンキがやってきた。
 クラウディースはすっと腰を折り、若者を迎え入れた。エンキも思わず深く一礼する。
 「君の得物は置いてきたのかな」
 「はい、執事の方にそのまま連れてこられて――エレオノーラに連れられて図書室にお邪魔していたもので」
 「そうか、いや、よかった。あれで叩かれたらさすがのわたしも死んでしまう」
 からからと笑いながら言ったクラウディースに、エンキはきょとんとした。
 「は?」
 「エンキ君、そこの壁を見たまえ」
 クラウディースは入り口から見て右手にある壁を皮手袋に包まれた手で示した。
 そこには大小さまざま、形もさまざまな剣が美しく飾り立ててあった。クラウディースが今腰に佩いているものとは装飾が違うレイピアから、幅広な刀身を持つ大きな剣、そして蛇の様にくねる刃を持つものまである。
 「……これ、ご自分で集められたんですか」
 多数の剣にやや唖然としながらエンキは尋ねる。
 「集まってきた、というかな。手入れは欠かしていない。どれも切れ味はいいはずだ」
 「はあ」
 いまいち要領を得ていない――というか察さないエンキにクラウディースは話を始めた。
 「エレオノーラの父上とは、若いときに出会ってね。興味深い人物だったよ。
 奥さま、つまり彼女の母上は、ふもとの村の働き者の娘さんでね。
 とても似合いの夫婦だったよ」
 「――?」
 「エレオノーラはとても可愛がられてね。一人娘だったから」
 エンキはその言葉を聞いて、ふっと笑った。
 「そうだろうと思ってました」
 クラウディースも若者に目を合わせて微笑んだ。しかし一瞬後、彼は真面目な顔をした。
 「……そのエレオノーラの父上の死の間際、わたしは手紙を貰ったんだ」
 「え?」
 「娘が心配だ。どうか一人前になるまで手元においてやってくれないか。
 ――そんな手紙だった。わたしは約束が守れなかった」
 エンキは黙ってクラウディースの話を聞いていた。
 「エレオノーラはよく生きていた。すばらしく賢い娘だ。誇りに思う。
 友人の娘だが、わたしと妻は彼女のことは本当に娘のように思っている」
 クラウディースはそこでエンキから視線を外し、遠くを見た。
 「だからわたしは、彼女を十年間も一人にしていた自分が情けない。
 約束を守れなかった自分を不甲斐ないとも思う」
 そして、壮年の男の視線はすっと若者に戻る。
 「いまさらだ、と友は笑うかもしれんが、いまからでも出来ることをしてやりたいと思うのだ、わたしは」
 「――……」
 エンキは真面目な顔をして話を聞いていた。そしてこの人はきっと家族からも使用人からも友人からも、きっと尊敬されているだろうなと思った。
 だが次の一言に、エンキは首を傾げる。
 「だから、君には協力してもらわねばならないのだ」
 「――はい?」
 クラウディースは打って変わってにっこりと笑った。
 「父親代わりとしてできること、その最大のことは娘に悪い虫がつかないように警戒する事だ。邪険にされてもそれはせねばならん。娘の幸せのためだからね。
 さて、エンキ君、そこの壁から好きな剣を取りたまえよ」
 「……いや、あの、話が読めないです」
 エンキはさすがに顔を引きつらせて言った。それにクラウディースはおや、という顔をする。
 「ほほう、つまり自分は悪い虫ではないと?
 かもしれん。しかしな、悪くなくても力も何もないようでは困るのだ。
 悪い虫でないとしたら、ふさわしい男であるかどうか見極める。それも父親の仕事だ」
 つまるところ、自分は品定めされるのだ。
 エンキはそのことに気づき、慌てて弁解しようとした。
 ――自分は単なる彼女の道連れに過ぎない。たまたま助けてもらっただけなのだ。
 だが彼が口を開くより早く、クラウディースは腰に佩いたレイピアをさっと優雅に抜いて切っ先を突きつけてきた。
 「さあ、四の五の言わずに剣を取りたまえ!」
 
 
 
 「おば様、お呼びですか?」談話室に案内されたエレオノーラは、紅茶を口元に運んでいるヴィプサーニアを見つけてそう言った。するとこの屋敷を取り仕切る伯爵夫人はカップをソーサーに戻してエレオノーラに目をあて、にっこりと微笑んだ。
 「少しお話をしたいなと思ったのよ、エレオノーラ。さあ座って」
 エレオノーラは示されたソファに腰掛ける。見ればヴィプサーニアは車椅子に座っていた。
 そのためか、ふつう、この屋敷に敷き詰められているはずの毛足の長い絨毯がこの部屋の足元にないことにエレオノーラは気づいた。
 床から目を上げ、エレオノーラは言う。
 「アウレーリアとコルネーリアは?」
 「用事があって、街に出てるの。
 お茶は何がいいかしら」
 「おば様のものと一緒で」
 ヴィプサーニアはひとつ頷くと、手ずから彼女のためにお茶をいれ彼女へと手渡した。テーブルもヴィプサーニアが作業しやすいようにと、高さと形が整えられている。
 「――仕立てた服、着てくれたのね」
 彼女がカップとソーサーを受け取ると、ヴィプサーニアは言った。エレオノーラは答えるようにソファに広がるスカートをつまんで見せた。
 「エンキさんは、なんて?」
 「いえ、特に何も」
 エレオノーラが苦笑しながら言うと、ヴィプサーニアは大げさに憤慨して見せた。
 「まったく!男の人って例外なく気が利かないわ!」
 「でも卿……おじ様でしたら、気づいて素敵な一言を言ってくれそうですね」
 「それがそうでもないのよ?そりゃあ他のところの旦那様よりは気がつく人ですけど」
 女はわがままですからね、とヴィプサーニアが小声で付け加えたのを聞いてエレオノーラは笑った。ヴィプサーニアはそんなエレオノーラの笑顔を、慈しみ深い瞳で見守る。
 「ねぇエレオノーラ」
 「はい?」
 「エンキさんのこと、本当のところはどう思っているのかしら」
 ゆったりとした、どこまでも優しい声音だった。エレオノーラは少しだけ当惑して、そっとヴィプサーニアを伺った。
 そんなエレオノーラにヴィプサーニアは苦笑する。
 「なんとなく、なんとなくだけどね、賢いお嬢さん、おばさんにはあなたが何か戸惑っていると言うか心に枷をはめているような気がしたの。わたしの思い過ごしかもしれないけれど、ここ数日見ていてそう思ったの」
 「……」
 「エレオノーラ、家族をつくりたいとは思わないの?」
 「それは……いずれは。私は邪王の一族ですから、子どもを生まなければなりません」
 「旦那さまは、いらないのかしら」
 その一言にエレオノーラは昨日ルキウスに言った言葉を思い出した。
 ――子どもはね、結婚しなくても生まれるのよ。
 「――エンキには、記憶がありません。だけど、彼には故郷があるんです。
 私にもあったけれど、誰も待っていないし帰れもしません」
 質問には答えず、エレオノーラはそう言った。言外に察したらしいヴィプサーニアはすっと目を伏せた。そして、またまっすぐに若い娘を見る。
 「帰りたいのね、エレオノーラ」
 本当ならば、とヴィプサーニアは思う。
 エレオノーラが母をなくしたのは十二歳。父をなくしたのは十四歳。
 ――本当ならもう少し、両親が必要だったはず。
 親の変わりにもらえるはずの愛情も配慮も、放浪のうちに彼女は手に入れられなかった。
 ――与えることが出来なかった。
 それでも、どこか賢いところがある娘はなんとか生きてきたのだ。旅のうちで、甘えられる人はいただろうかとヴィプサーニアは思う。
 「――もっといい子だったら」
 ふと、エレオノーラは遠くを見て言う。
 「母さんは死ななかったんじゃないか。
 父さんの体は丈夫になったんじゃないか。
 もっともっといい子だったら、ラボレムスのあの曽祖父が建てた家に兵隊は来なくて、摂政も追いかけてこなくて今頃――
 ……そう思ったことは、たくさん、あります」
 目の前の娘は、幼い頃からよく気がつく子で母を手伝い父を慕った。素直な子で、飲み込みも早く、優しい平凡な娘だった。
 ヴィプサーニアは思い出して、そっとエレオノーラに近づきそっとその手を握った。
 「いいえ、あなたはわたしの子どもたちの中でいちばんのいい子だったわ」
 エレオノーラの瞳は暗く沈んでいたが、決して涙を浮かべたりはしていなかった。
 そしてヴィプサーニアが握る手も、握り返してくることはない。
 ヴィプサーニアはふと悟った。
 ――ああ、この子は“いい子”になりたいんだわ。ずっとずっと。
 いい子とは、自律して自立している子。甘えてはいけない。そんな思いを若い娘が抱いていることを感じ取る。
 それとも、とヴィプサーニアは思う。
 ――この十年は平凡な娘にあたりまえの甘えを許さないほど過酷だったの?わたしが想像できないくらいに?
 一人だった、十年の旅。そこへ不意に、道連れが出来た。しかもそれは男で、頼りがいがあり、誠実で優しい。気持ちが傾かない女などいないだろう。
 エレオノーラは怯えているのだ。甘えてしまう自分に。
 そしてエレオノーラは賢いので、道連れがいつかいなくなるかもしれない、ということを考えてしまう。
 ――彼には故郷がある。待っている人もいるだろう。その待っている人が、もし……だったら。
 ヴィプサーニアは、いつだったかアウレーリアから“ふたり”の話を聞いていた。にぎやかな娘がまどるっこしいと評した若者二人の話から、彼女は色々なものを読み取っていたのだ。
 ――エレオノーラ自身は考えないようにすることで、この問題を避けている。だから、思考が停止している部分があるわ。
 賢いのも問題があるわ、とヴィプサーニアは哀しく思った。
 しかしヴィプサーニアはそれを口にしなかった。……言葉にならなかったのだ。
 ただぎゅっと、娘の手を握る。
 「あなたはいい子よ。絶対に。だからそんなに心配しなくてもいいのよ」
 言えたのはそれだけだ。だがエレオノーラは笑って――少し寂しそうな顔だった――やっと手を握り返してくれた。
 「……ありがとうございます」
 そんなエレオノーラにヴィプサーニアは、もしこの子が“邪王の娘”でなかったら運命は両親を攫って一人ぼっちにしたり、過酷な放浪を強いたりしなかったのではないかと思った。
 そんなヴィプサーニアの思いには気づかず、エレオノーラはふと苦笑した。
 「話が、それてしまいました。すみません」
 「いいえ、いいのよ。――それに、さほどずれていないわ。わたしにはわかったから」
 「え……?」
 「いいのよ。ありがとう、……それからごめんなさいね、エレオノーラ」
 ヴィプサーニアはそう言って、娘の手をぎゅっと握った。エレオノーラは戸惑った顔をして首をかしげた。
 ヴィプサーニアはそんなエレオノーラに優しく笑いかける。そして勇気付けるようにエレオノーラの手を握る手を揺り動かした。
 「だいじょうぶよ、エレオノーラ。だいじょうぶなのよ、ノーラ」
 上手く言葉にはならない。けれど愛情を込めてヴィプサーニアはそう言った。
 「――人生はとてもとても難しいけれど、一方でとてもとても簡単に動くの。
 だからそんなに肩肘張らなくても、だいじょうぶなのよノーラ」
 エレオノーラはその言葉に急に顔を伏せた。
 ――泣いてもいいのよ。
 ヴィプサーニアがそう言おうとした時だった。
 突然談話室の扉がガンと開いて双子が飛び込んできた。
 ヴィプサーニアとエレオノーラは心底びっくりして思わずそちらを見た。
 「まあはしたない!それにあなたたち、随分帰りが早かったのね、今日は」
 母親がぷりぷりと怒った口調で言うと、アウレーリアがまくし立てた。
 「目ぼしい品物がさっぱりなくて、ささっと引き上げてきたの!戦略的撤退ってやつよ、お母さん」
 「まあ、なんだかよくわからない単語をまた覚えて。おおかたルキウスの読んでいる変な本でしょう」
 「そんなことより、大変なの」
 そこへさっぱり大変じゃなさそうな口調で言葉を挟んだのはコルネーリアだ。
 「父さんとエンキさんが決闘してるの」
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