| 時は少し戻り。「タイベリウスは、一度しか負けたことがないのよ」
 母親に報告した後、アウレーリアはマーカスとルキウスを呼びにまた談話室を出て行った。
 コルネーリアは母の車椅子を押し、エレオノーラと共にそこを出る。
 長い廊下を進みながら、ヴィプサーニアは少し昔話をした。
 「普段はどちらかというと、学問が得意な方だからそういう印象はないかもしれないけれど。
 剣を構えるととても素敵だったのよ。――もちろん今も素敵ですけれどね。彼が剣を取る、というと男の人だけではなく女の人もよく集まったの」
 「母さんはやきもちやかなかったの?」
 コルネーリアが後ろから覗き込むようにして訊くと、ヴィプサーニアは悪戯っぽく笑った。
 「結婚する少し前までは、あの方に興味はありませんでしたから。
 結婚してからは、素敵な殿方が私の夫だということはとても誇りですよ」
 「興味がなかった?」
 エレオノーラが思わず声を上げて訊くと、ヴィプサーニアは頷いた。
 「ええ、ありませんでしたよ。最初にあの方がわたしに興味を持ってくださったのです。
 わたしが対立する家の娘であるにも関わらず。
 それから、まぁ――色々あって、こうなってるの」
 ヴィプサーニアは言葉を濁すようにいったが、その声も表情も懐かしそうで楽しそうだった。
 屋敷を出て、広い庭を横切っていく。風が女たちの顔を撫でた。風はそのまま過ぎて行き、庭の整えられた緑たちをざわめかせて去って行った。
 修練場に近づいていくと、金属のぶつかる音が耳に届くようになった。エレオノーラは小走りに扉に近づくと、そっと用心して扉に手をかけ、開けた。
 金属がぶつかり合う激しい音が耳朶を打つ。目は不動の姿勢の執事を見つけた。
 その向こうで、激しい衝突音の出所になっているのはもちろんエンキとクラウディースの剣のうちあいだ。
 エレオノーラは目を見開いて、それを見つめる。そして雲を踏むような足取りで、修練場に入った。続くコルネーリアとヴィプサーニアの母子も打ち合いに目を奪われた。
 クラウディースは隙なく服を着こなし、型どおりの剣術を見せる。それはまるで、教本を見ているかのようだ。だが使い古された陳腐な印象はなく、洗練された美しい型だ。
 一方のエンキの剣は、まるで気まぐれに動く。剣術、というよりも剣舞と言ったほうがいいような型のない動きだ。気まぐれに身を返し、クラウディースの剣を返す。
 「――彼は戦の神と舞踏の女神のあいだの子だな」
 低い声に振り返ると、そこにはアウレーリアに連れられたマーカスがいた。クラウディース家の長兄はにっとエレオノーラに笑いかけると、そっと修練場に足を踏み入れた。
 その向こうにはもちろんアウレーリアと――ルキウスがいた。ルキウスはエレオノーラと視線がぶつかると、のろのろと視線をそらしていった。
 マーカスは続ける。
 「手の付けられない暴れ者だった半神の男。たおやかな人間の女に恋して、神の部分を捨て改心した――たしか、そんな話だったかな」
 「エンキは暴れ者じゃないわ」
 エレオノーラはルキウスを気にしながら反論した。
 するとそれを聞いたヴィプサーニアが低い位置で振り返って人差し指を唇に当てた。まるでおしゃべりな幼子にするようなその仕草に、エレオノーラとマーカスは肩をすくめて口をつぐんだ。
 その時、試合が動いた。エンキが不意に身を翻し剣を思い切り横からクラウディースへと打ち込んだのだ。だがクラウディースは易々とそれを剣を立てて防いだ。
 見守る人々は思わず身を硬くした。
 「回転をつけてわたしの首を斬り飛ばす予定だったかな」
 よく通るクラウディースの声が聞こえてきて、身を硬くした人々はぎょっとした。エンキは答えない。エレオノーラは少し不安になった。
 そして二人は剣を構えなおし、試合は振り出しへと戻った。
 先に動いたのはエンキだった。クラウディースは次々と打ち付けられる刃の薄い剣をレイピアで受けていく。しばしその攻防が続き――
 マーカスが顎に手を当てて言った。
 「動くぞ」
 長男がそう言った瞬間、クラウディースが動いた。畳み掛けるように攻め込み、エンキの剣を持っていた腕ごと払いのけ、最後にピタリとエンキの喉仏のあたりにレイピアの切っ先を当てたのだ。
 エレオノーラは思わず胸の前で手を握り合わせていた。
 隣でクラウディース家の子どもたちはどこか自慢そうな顔をしていた。
 だが奥方がわずか、顎を引いた。
 クラウディースとエンキ、そして立会人の三人はピタリと止まったまま動かない――
 やがて、クラウディースが痺れを切らしたように言った。
 「――参った、と言いたまえ」
 その時、エンキがあるかないかの笑みを浮かべたのをしっかりと見とめたのはエレオノーラだけだった。
 エンキは待っていたとばかりに払いのけられた腕を素早く持ち上げ、目にも留まらぬ速さで喉もとのレイピアを弾き飛ばすとそのままの速さで剣を返し――ピタリとクラウディースの首筋に剣をあてがった。
 あっと双子が声を上げたの時には、すっかり形勢が逆転していた。
 マーカスとルキウスはその光景に目を見開いてみていた。
 彼らにとって父は剣の師でもあったし、これまで父は彼らの前では負けたことがない動かざる壁だった。父が一度だけ負けたというのは彼らが生まれる少し前のことで、話には聞くが想像などできないことであったのだ。
 それが、いとも簡単に剣を流され動けないまま相手の手に命を任せる格好になっている。
 一体どうなっているのだ?
 どうして父は、剣を立ててあの攻撃を防がなかったのだ?
 クラウディースの剣さばきは常に正確で、猛烈な力で剣を払いのけられたとしても防げたはずだ。だが、これは一体?
 そんな彼らの足元でカランという何かが落ちた音と、そしてそれが転がる気配がした。
 マーカスとルキウスはそろそろと視線だけを落とした。見ればマーカスのつま先のすぐ先に銀色の棒が転がりの余韻を残す揺れに身を委ねながら落ちていた。
 はて、これは?
 そして二人は再び試合をしていた二人に視線を戻す。
 相変わらずエンキは剣をクラウディースの首筋にあてがったまま、クラウディースはあてがわれたまま動かない。だが二人は父が剣を立てて攻撃を防がなかった訳を悟った。
 クラウディースの黒い手袋に包まれた手に握られている美しいレイピアは、半ばから折られていたのだ。防ぎたくともその剣はなかったのだ。
 マーカスはゆっくりと屈み、足元に転がっている銀の棒を拾い上げた。それはレイピアの一部を構成していたものだった。彼は立ち上がって、ひょいと棒になってしまったレイピアを動かした。切っ先の鋭いそれの、叩き折られたところは金属独特の複雑な模様を持つ断面を彼に見せる。
 ルキウスはじっとエンキを見ていた。
 エンキは無表情に剣を突きつけている――
 
 
 
 クラウディースはじっとエンキの目を見つめ返していた。猛禽の目だ。
 ――さしずめわたしは昼飯のウサギだろうか。
 じわり、と体の奥底から汗が湧き上がってくる。
 剣は折られた。
 反撃は出来ない。すればそれは即、死ぬということだ。
 猛禽の目はじっと獲物の動きを伺っている。
 ――目をそらしてはいけない。
 クラウディースは目を逸らさなかった。けれどその代わりに手を開く――すると握られていた剣の残りがするりと手袋の革の上を滑っていき、落下し、地面にぶつかって重い音を立てた。
 鍔を中心にころりと半身を失った剣は転がってゆく。
 クラウディースはエンキと目を合わせたまま、手を挙げて丸腰になってことを示した。そして。
 「――参った」
 ただ一言そう言った。するとエンキは一瞬表情のない瞳でクラウディースを見つめたあと、瞼を下ろし猛禽の目を隠した。次に開かれたときには、その瞳はどこか優しげないつもの青年のものに戻っていた。
 すっとクラウディースの首筋から美しい弧を描いて剣が離れていく。エンキは切っ先を背中側に回すと、はじめの時と同じように――だが今度はクラウディースより早く――すっと腰を折った。
 クラウディースも一歩退き、剣のないまま騎士の礼をした。
 その間に立会人はエンキを手で示して勝者の名を告げた。
 そしてすっと両者は姿勢を戻し再び視線を絡ませる。やはりエンキの目にもう猛禽のもつ光は見出せない。
 クラウディースはふーっとひとつ息を吐いた。そして見ている人々が驚くようなやり方でその場にどさりと崩れ落ちた。
 子どもたちはもちろん飛び上がらんばかりに驚き、双子の姫のアウレーリアとコルネーリアは慌てて父親に駆け寄った。だが崩れ落ちたといっても倒れたわけではなく、クラウディースは右の膝を立てて座り込んだだけだ。先ほどまで剣を握っていた手を立てた膝の上にだらりと乗せ、ふと子どもたちのほうを見た。そして駆け寄ってくる娘に切れ切れの息の下で言った。
 「――いたのか、お前たち」
 「いたわよ!」
 アウレーリアが甲高い声を出し勢いよく父の隣にしゃがみこむ。コルネーリアはその反対側に回り込んでそっと屈む。
 「父さんどこか痛い?」
 するとクラウディースは双子から目を離し、どこともない遠くを見た。
 その様子に子どもたちはぎょっとした。
 「――だ」
 そしてクラウディースはぽつりと言った。双子は聞き取れなかったらしく、え、と声を上げる。
 「わたしは、としだ」
 再び繰り返された言葉に耳をそばだてていたアウレーリアがキンキン響く声で叫んだ。
 「そんなの知ってるわよぉ!!」
 コルネーリアは笑いながらやれやれと頭を振った。
 そこへ優しい拍手の音が響いた。見れば、車椅子の上で奥方のヴィプサーニアが手を叩いている。その顔はどこか楽しそうだった。拍手をおさめて彼女は言う。
 「せっかく、久しぶりにあなたのかっこいいところが見れると思いましたのに」
 様子を察したマーカスが銀の棒を握ったまま母の車椅子を押して父のもとへと向かっていく。
 タイベリウス・クラウディースはゆるゆると首を振った。
 「いつもかっこいいようにはしてるんだが……それでは不満かな、奥さん」
 「まあ、そうでしたの?」
 くすりと意地悪っぽく笑った妻に、クラウディースは今度はがっかりしたように首を振った。
 それからヴィプサーニアはやや呆然と成り行きを見守っていたエンキに声をかける。
 「お見事ですわ、エンキさん。この人は歳をとったとはいえ、一度しか負けたことのない人ですから」
 エンキは気を取り直したらしく、ふっと苦笑して言った。
 「それは先ほど、卿からも伺いました。その一度きりの一人とはだれなのですか?
 できれば、お伺いしたいのですか」
 すると夫妻は顔を見合わせた。子どもたちもその相手のことを知らないのか、知りたげに両親に顔を向ける。
 そしてその正体を告げたのはヴィプサーニアだった。
 「現皇帝陛下よ。と、言っても皇太子でいらしたころのことだけれど」
 「名誉のために付け足しておくが、かの方はわたしに一度も学問では勝ったことがないぞ」
 二人の言葉にエンキはへぇと思っただけだったが、子どもたちは少なからず驚いたのかぽかんと口を開けていた。
 
 
 
 こつ、こつ、と嫌にゆっくりした足音が響いて、一同はそちらを見た。見れば、エレオノーラと二人離れたところにいた――二人の間の距離も離れていたが――ルキウスが歩み寄ってきていた。タイベリウス・クラウディースはそれを見て思わず――わずかに、身をこわばらせて立とうとした。次男坊がエンキに視線を当てながら歩み寄ってきたからだ。
 だがルキウスは不意にエンキから視線を外し、父親を見下ろし頭をかいた。
 「――年寄りの冷や水だな、親父」
 「なにを、わたしはそこまで歳をとっておらんぞ」
 「さっき自分で歳だって言ったくせに」
 それから彼はまたエンキに視線を戻した。
 「あんた、強いんだな」
 突然話題を振られて、エンキは一瞬面食らったようだった。だがすぐにゆっくりと首を横に振る。
 ルキウスはそれをみてふーっと息をついた。
 「あんたは強いよ、そういうとこも含めてな」
 それは穏やかな声だった。エンキは少しだけ眉を上げた。その間に、ルキウスは再び父を見下ろした。クラウディースは息を整えつつある。
 「――なんだ」
 息子は黙って手を差し出した。父はしばし、不思議そうにその手を見つめていたがふと苦笑すると息子の手を取り、助け起こしてもらった。
 「――ありがとう」
 「うん、オレも」
 「わたしはお前に感謝されるようなことはしていないぞ?」
 クラウディースはどこか意地の悪い顔で息子に言った。息子はちょっと眉を寄せたが、わからないならべつにいい、とぶっきらぼうにぼそりと言っただけだった。
 そんな息子に対抗するように父もぼそりと口の中で――弔い合戦ではなかったんだけどな、と言った。
 それからルキウスはもといた方を振り返った。そして少しだけ横に視線をそらす。そらした先にはエレオノーラがいた。エレオノーラは少し低い位置で手を組んでいた。そしてルキウスと視線がぶつかると少しだけ身じろぎした。
 ルキウスは今度は視線をそらさない。エレオノーラは身じろぎした後は少しも動かずに、その視線をしっかりと受けている。
 「――この前さ」
 「うん」
 ルキウスはかりかりと頭をかきながら言った。
 「言い忘れてたけどさ」
 「――うん」
 「気に、すんなよ。オレは大丈夫だ」
 エレオノーラは一瞬だけ驚いたような表情をした後、やわらかななんともいえない笑みを目元に浮かべてうん、と言った。そして。
 「――……ありがとう」
 ルキウスは短く「おう」と言った。それから彼は再び家族に向き直った。兄と妹たちはどことなく複雑そうな顔をしていたが、両親の顔はどこまでも優しい。
 そして、母は言った。
 「さて、戻ってお茶でも飲みましょうか。エンキさんもあなたも疲れたでしょう?
 わたしも喉が渇きましたから」
 すると長男のマーカスがそうですね、と言い母の車椅子を修練場の扉に向けてゆっくりと動かし始めた。先に戻って用意させます、と立会人だった執事がさっと動いてマーカスよりも先に出て行く。
 他の子どもたちも後に続く。タイベリウス・クラウディースは少しエレオノーラとエンキを見比べると、
 「後でゆっくり来なさい。お茶が冷めない程度にね」
 と言った。それから分断されたレイピアのひとつを拾い上げて、ふむと見事な細工の鍔を残念そうに見下ろしてから、妻と子どもたちの後を追った。
 静かな修練場にエレオノーラとエンキだけが残される。外で木々のざわめく音がした。風が吹いたのだろう。
 エンキは二、三度剣を振るってからエレオノーラの方に背を向けてそれが飾っていった壁に向かった。そしてもとあった所に剣を収める。それからエレオノーラを振り返った。
 「――いい人たちだな」
 「うん」
 エレオノーラはどこか誇らしそうに、恥ずかしそうに頷いた。
 「すこし、心配したのよ」
 「俺を?」
 「たぶん――おじ様強いから」
 エンキは笑いながらゆるゆると首を振った。エレオノーラはゆっくりと彼のそばに歩み寄り、立ち止まった。
 「エンキ、手を出して」
 「手?……どうかしたのか?」
 エンキは素直に両手を差し出す。エレオノーラは右手をとり、彼の指の付け根にそっと指先をあてて撫でた。
 「――やっぱり」
 「?」
 エレオノーラ彼の掌をつついた。そのつつき方がくすぐったかったのかエンキは慌てて手を引いた。そして背中に回して手を隠す。エレオノーラはその様子を見て笑った。
 「よっぽっど強い打ち合いをしたんでしょ、肌の色が変わってるわ――ほら」
 エレオノーラは彼の腕を引っ張ってまた体の前に手を出させた。見れば、掌は白と赤のまだら模様になっている。
 「それに、ここのマメ、気になるわ」
 「そうか?別に痛くないし、破れたりしないから大丈夫だぞ」
 そこは以前、いつだかカフェに行った日にエレオノーラが見つけたマメだった。たぶん、記憶を失くすずっと以前から剣を扱ったり、手綱を握っていたのだろう。くせになって、硬くなっているところもある。
 エレオノーラはまたそこを撫でた。エンキの手がびくりと反応して逃げたがる。
 だがエレオノーラは手首を優しく捕まえて逃がさなかった。
 「――やっぱり、いると思うわ」
 「――……何が?」
 「ないしょ」
 エレオノーラはにっこり笑ったがまだ手を放してくれない。エンキは黙って手を見下ろした。そしてカフェに行った日の夜にも自分の手を試すがめつされたことを思い出した。
 しばらくの間のあと、エレオノーラはそっとエンキの右手を持ち上げた。そして両手で彼の手を支え、そっと自分の頬にあてがった。
 エンキはびっくりしたが、手を引っ込めない分別は残っていた。
 「……エンキの手、好きよ」
 エレオノーラはそっとエンキのごつごつした手に頬ずりした。エンキはわずか――本当に少しだけ指先にそっと力を込めてエレオノーラのなめらかで柔らかな肌を確かめた。
 「――……おじさまも、おばさまも、マーカスも、コルネーリアとアウレーリアも、ルキウスも。それから、あなたも。
 優しくて。私は――」
 エレオノーラはすっと目を閉じた。
 「どのくらい感謝すればいいか、わからないの。どうやって伝えたらいいかも――」
 エレオノーラの目がまた開いてエンキを見上げた。ふとその紫の瞳が揺れているようでエンキは驚いた。だがすぐに、彼はあのおおらかな笑みを見せる。
 「それでいいよ、わかるから」
 エレオノーラの瞳に戸惑ったような色が浮かぶ。エンキは彼女の頬と手の間で掌を返し、そっと手の甲で彼女の頬を撫でた。
 「俺も卿も奥方も、みんなそんなに鈍感じゃないよ。
 わかるから、大丈夫だ」
 するとエレオノーラは微笑んでわずかに頷いた。ふとエンキは手の甲が濡れた気がしたが、あえて確かめなかった――。
 
 
 
 庭を行くクラウディース家の人々。その家長であるタイベリウスは息子のマーカスから妻の車椅子を押す権利を奪うと、子どもたちに少し先へ行くようにと促した。
 子どもたちと距離が生じたのを確認すると、彼はそっと屈んで妻の耳に唇を寄せた。だが彼が口を開くよりも先に、妻が口を開いた。
 「何か言いたいことがおありね?エンキさんは十分お強かったけれど、まだご不満なのかしら。諦めなさいな、しつこい父親は嫌われますよ」
 だが、タイベリウス・クラウディースはヴィプサーニアが予想していたより深刻な声を出した。
 「強さには不満はない。だが、だが――」
 クラウディースはより一層声を潜めた。
 「目が、どうしても」
 「目?」
 ヴィプサーニアは思わず振り返った。
 「あれは、人を殺したことがある目だよ。
 ――どうすれば人が死ぬかよく知ってる目だ。正確に、どこをどうすれば肉体から魂が離れてゆくかを知っている人間の目だ。
 ――わたしは何人か、そういう目をもった人間を見てきた。彼は、それだ」
 ヴィプサーニアは目を見開いて夫の顔を見た。夫は何を思い出しているのか、眉根を寄せ厳しい顔つきをしている。
 彼女はそれを見てすぐにとても真面目な顔になった。
 「それが、どうしたというのです」
 クラウディースは面食らったようだった。
 「君、何を言って――」
 「人殺しはたしかにとてもとても悪いことです。――けれど、あなた、過去は変えられませんよ。彼がそれで捕まって、死を賜ることになっても、エレオノーラの想いはきっと変わりませんよ。
 それでいいじゃありませんか。そこから先はあの子たちの問題です。エレオノーラは、それを考えていける力をきちんと持ってます。
 それにわたしは、エンキさんがもしそうだとしても、快楽のために人を殺したわけじゃないと思います。
 ――その問題はもう、わたしたちが手出ししたり、手助けなどといってでしゃばれることじゃないのですよ、真言主さま」
 クラウディースは妻の顔をしばし見つめ、そしてすっと背を伸ばした。
 「君の言葉は無責任にも聞こえるが――そうだな。
 “すべては真理に沿うて、真理のままに”というわけだ――」
 「真言のことはよくわかりませんけど、“すべては大地母神と天空父神の御心のままに”」
 クラウディースはどこか哀しげに苦笑した。
 「そうだな、そうだ――」
 ヴィプサーニアは前を行く子どもたちに目を移し、彼らを見つめながらそっと付け加えた。
 「――あなたが見たものがそのまま真実だとしたら……。
 もしかしたら、エンキさんが記憶を失くしたのはそういうことなのかもしれません……」
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