戻る Home 目次 次へ

「魔法使いと記憶のない騎士」
第四十九話
秘密裏に街へ
―ふたつの相談―

腕が肩より上に上がらない!
翌日、書斎の本棚の上から二番目に手を伸ばして、クラウディースはぐぅと彼にしては珍しくみっともない声を上げた。
そこへコンコンとノックの音がした。クラウディースはことさらゆっくりゆっくり足を動かし、ドアに向き直った。そして腰に手を当てながら言った。
「どうぞ!」
かちゃ、とドアが開いてひょっこりと顔を出したのはエレオノーラだった。
「エレオノーラ!どうしたのかね」
エレオノーラは廊下のほうをちらりと確かめてからさっと書斎へと入り、後ろ手にドアを閉めた。その様子になにか秘密めいたものを感じたクラウディースはおやと眉を寄せた。
だが彼女が秘密を打ち明ける前に、クラウディースはなんとも演技じみた声で言った。
「エレオノーラ、聞いてくれたまえよ。わたしは先ほどから衝撃的な体験をしているんだ!」
「衝撃的な体験ですか?」
エレオノーラは目を見開いた後、小首をかしげた。はて、いつも冷静な卿を驚かすこととは一体なんだろう。
クラウディースは真剣な顔で言った。
「五十肩、だ」
エレオノーラは真剣に身構えていたが、その言葉を聞いてますます首をかしげた。
「……えーと、おじ様、いまなんて?」
「五十肩だよ、エレオノーラ。肩より上に腕が上がらないんだ!こんなことははじめてだ!」
エレオノーラにはクラウディースがどこかはしゃいでるようにも見えていた。だが一応、“知識”あるものとして質問する。
「ええと、それは、骨が痛い感じですか?奥深いところから痛むというか……」
「いや、骨は全く痛くないなぁ。それに痛みも別に深くない」
それを聞いてエレオノーラはひとつ頷くと言った。
「それならどちらかというとただの筋肉痛かもしれません。昨日、急激に“運動”なさったでしょう、エンキと」
「筋肉痛!いやいやこれはそんな俗物的なものじゃないぞ」
と、クラウディースはとうとうと五十肩についての自論を展開しはじめた。エレオノーラはそれに面食らって、苦笑いしながら反論はひっこめた。
ただしあまり痛みが続くようなら医者に行くように、とは言った。
そして自論をひっこめた後、クラウディースはようやっと本題に入った。
「それでエレオノーラ、一体どうしたのかね」
「ええ、ひとつ、ちょっとご相談があるんです」
エレオノーラは少し迷いながら告げた。クラウディースは痛む腕を持ち上げて顎を撫でる。
「ふむ、相談とは。力になれる範囲だったらいくらでも聞こう」
エレオノーラはそれでも迷っているようだった。クラウディースは身振りで先を促した。
「ええと、卿はいつもどこで手袋を買われているんですか?」
「手袋?」
「ええ、昨日の、剣を扱うときに使えるような……」
クラウディースはああ、と声を上げた。
「それならば、わたしの行きつけの小物屋だが……ふむ、どうも、わたしに贈り物をしてくれるわけではなさそうだねぇ」
最後の部分はにやりと笑ってクラウディースは言った。エレオノーラはなんともいえない表情で指先を胸の前で合わせた。
「昨日はちょっと違いましたけど、エンキの得物って凄く大きくて手に負担がかかるんです。それで、何か……」
「なるほど」
クラウディースは言った。そして根本的な問題を訊く。
「それで、エンキ君を連れて行きたいのかね」
「いえ、あの、贈り物にしたいんです。私も以前、マントを貰ったので」
「なるほど」
クラウディースはエレオノーラのようにくすりと笑った。そしてまた、根本的な問題を訊いた。
「それでエンキ君の手の大きさはわかるのかね」
するとエレオノーラはとことことクラウディースの傍らに歩いてきた。そして、まるで父親の手を握るように彼の手を取る。
「やっぱり。エンキと卿は手が似てらっしゃいます。背の高さも近いし……」
「つまり、なんとなくしかわからんのだな」
クラウディースはからからと笑いながら言った。エレオノーラは「ちょっとだけ記憶力には自信があるんですが」とバツが悪そうに言う。
「まあ、記憶力がよくてもこれは実物がないとどうにもならんことの方が多いが」
クラウディースは痛む腕を上げて、ポンとエレオノーラの頭に手を置いた。
「わたしの行きつけは腕がいいのでな。似たようなものがあればなんとかなるだろう。
さて、出かけようか」
「出かける……のですか?」
やや展開の早さについていけないエレオノーラはそっとクラウディースを見上げた。クラウディースはにっこりする。
「そうとも。職人をここに呼ぶことも出来るが、“贈り物”ならそれは不都合だろう?」



そんなわけで、エレオノーラは外出着に着替えさせられるため部屋に戻らされた。
クラウディースはエレオノーラを部屋に戻すために書斎から出す直前、呼び鈴を鳴らして使用人を呼びつけていた。
「彼女を飾り付けてやってくれ。わたしとデートするのでね」
そう言うと、若い女の使用人は目を丸くした。だが彼女はすぐに主人が世界一の愛妻家だということを思い出してくすりと笑った。これは娘とのお出かけなのだとわかったのだろう。クラウディースはそんな使用人に片目をつぶって見せると、自分も着替えに行ってしまった。
エレオノーラは使用人につれられて、自分の部屋に戻った。使用人は部屋に着くと、まっすぐに衣装ダンスに向かった。扉を開くと、いつの間に届いていたのかヴィプサーニアが作らせた洋服たちがずらりと並んでいた。たぶん、それらが届いたときヴィプサーニアがここにしまわせたのだろう。
「どの洋服にいたしますか?おそろいで帽子もご用意しますね。きっと旦那さまはうんとめかしこんでいらっしゃいますよ」
「帽子もあるの、いつの間に!」
「ええ、奥さまの口癖は『帽子は紳士淑女の嗜み』、ですから」
使用人はにこにこと洋服の海をかき分ける。エレオノーラはなんだか大変なことになってるわ、と頭を抱えた。
それからしばらく二人で試すがめつして、エレオノーラはたっぷりと布を使ったふわりとしてすこし重いスカートをもつ淡い若草色のドレスと、そろいのボンネットをかぶった。腰にはアクセントに濃い緑のやわらかな帯を締め背中側で大きなリボン結びにした。そして小さな持ち手のない鞄を持たされる。
そしてすこし動きにくいと思いながら、使用人の満足そうな笑顔を横目に彼女は部屋を出た。
すると偶然にも隣の部屋のドアも開いた。出てきたのはもちろんエンキである。
エンキはエレオノーラの姿に無言で驚きの顔になった。エレオノーラは少しむっとする。
だがエンキはすぐに感心しているらしい顔つきになり、そして彼女を上から下へ下から上へと眺めながら尋ねた。
「どこか行くのか?」
「うん、卿と街まで」
「そうか……」
エンキは最後にエレオノーラの顔に視線を当てた。その目はどこか寂しそうで、エレオノーラは思わず笑いだしそうになった。たぶん彼が正真正銘の犬であったら、留守番を言いつけられた犬のようにしょんぼりと尻尾と耳を垂れさせていたことだろう。
「お土産買ってくるわ」
思わずエレオノーラがそう言うと、エンキはうん、と言った。すこし元気になったようである。



さて屋敷の玄関ホールでは、やはりめかしこんで帽子をかぶりステッキを小脇に抱えたクラウディースがエレオノーラを待っていた。そして階段を下りてくる彼女を見つけると、彼は目を細めた。
「そういうのもよく似合うじゃないか。明日からシンプルなものだけではなくて、そういうのも見せてくれるかね?」
「ええと、動きにくいので勘弁していただきたく……」
エレオノーラが正直にそういうとクラウディースはまたからからと笑った。どうも五十肩だか筋肉痛はもう忘れてしまったらしい。
そして彼はすいっと自分の肘を着飾った娘に差し出した。
「さて、動きにくいのであればエスコートさせていただけますかな、お嬢さん」
エレオノーラは楽しそうに微笑んでそっとおじ様の肘に手を添えた。



馬車に乗り込んで向かい合わせに座る。エレオノーラが落ち着いたのを見ると、クラウディースはステッキでドンと壁を突いて合図した。すると御者が意を汲み取って馬に鞭打つ声が聞こえてきた。椅子の下で馬車の車輪が回りだす。
「エンキ君はどうしてるかね?」
「暇みたいです。さっきばったり会ったんですけど、手持ち無沙汰みたいでした」
「ほう、さっきばったり?何か言ってたかね」
「いいえ、何も」
くすりと笑ってエレオノーラが言うと、クラウディースは窓の外に目を移しながら、つまらんなぁ、と一言言った。



やがて馬車は商業区に入っていく。そして馬が止まったのは、外見はこぢんまりとした古そうな店であった。建物と建物の間にまるで肩をすぼめる様にちょこんとあるその店は、これまた控えめな看板に気づかなければ通り過ぎてしまうだろう。
クラウディースは馬車から降りるエレオノーラを手伝ってから大股で店のドアに近づき、さっとドアを開けた。そしてエレオノーラに先に店に入るように促した。エレオノーラはすこし恐縮しながら、そっと店の中に入った。
店に展示されている商品は極少なかった。どうやら革製品の小物屋らしい。飾り窓につくりつけの台の上には美しい手をかたどった一対の石膏像があり、その片方には品のいい手袋がはめてある。そのすぐ近くには、無造作を装って眼鏡入れが置いてある。
店の中には棚の中に見本品として革の財布やらハンドバッグ、そして『本の革装丁致します』とのプレートがあった。
エレオノーラが物目ずらしさに店内を見回している間に、クラウディースは自分の帽子をとり帽子掛けに掛けていた。そしてエレオノーラに声をかける。エレオノーラが振り返ると、クラウディースはエレオノーラの顎の下に手を伸ばしてボンネットの紐をほどいた。
まるで本当の父親のようなしぐさに、エレオノーラはこそばゆい感じを覚えた。
そしてクラウディースがエレオノーラのボンネットも帽子賭けに掛けている間に、古く味のある木でできたカウンターの奥から、眼鏡をかけた禿頭(とくとう)の男が出てきた。
ベストを着て袖をきちんと捲り上げている男は、職人でありまたこの店の店主らしかった。
「おや、これはランドマール伯爵。お久しぶりでございます」
職人肌の人物らしく、彼の言葉は完全に愛想のいいものではなかった。だがクラウディースはにっこりする。
「今日はわたしの大事なお嬢さんが、秘密の買い物をしたいというのでね」
すると店主は優しげな笑みを浮かべた。
「秘密の買い物ですか。呼びつけくださればうかがいましたのに」
「いやいや、秘密の相手が屋敷内にいるのでね」
「屋敷内に?」
そこで店主ははじめてエレオノーラをしっかりと見た。
「おや、これは、にぎやかな娘さんではいらっしゃいませんね」
「友人の娘でね。“恋人”とうちに遊びに来ているのだよ」
エレオノーラは思わずゆるゆると首を振って店主に違う、と示した。だが店主はそれを照れととったらしい。
「どのような贈り物です?財布に眼鏡ケース……」
店主は採寸の必要のない品物の名前を告げていく。クラウディースはその間に懐から片眼鏡(モノクル)を取り出して左目にはめていた。
「いえ、あの……手袋というか、物を扱うときに手を傷めないようにグローブを贈りたいと思っているんです」
「グローブ……ですか」
店主は少なからず驚いたようだった。
「防寒用のものなら、サイズ採寸をしなくてもある程度大丈夫ですが……作業用のグローブですか……」
「だめでしょうか?」
「なんでも、わたしと似た手をしているそうだ。背もそう変わらんかな、エレオノーラ」
「ええ、エンキのほうが少し高いですけど」
職人である店主はふむ、と考え込んだ。
「掌と甲を覆うだけのものでしたら、そんなに難しくはないかもしれませんね。
革はまっさらな状態から、使ううちに癖がつくものです。まあ、卿の手から作れんことはないですわ。贈り物としたあとに、はめていただいて微調整もできますから」
「あ、はい」
エレオノーラは思わず背筋を伸ばした。
すると、店主はそれでは……と二人にカウンターに用意してあった椅子を勧めた。自分はカウンターの向こう側に座って道具を取り出す。
「卿より少し背が高い……体格も良い方なんでしょうな」
「はい」
「そして若い、と……」
「……店主」
クラウディースが低い声を出すと、店主はおやと顔を上げてべつにそんな意味では、と弁解をした。だがクラウディースは笑うだけだった。
「ここのところ、卿は手袋を新調なさってませんでしたね。採寸手帳を見てみますが、また測りなおしさせていただきますよ」
カウンターの引き出しから手帳を取り出しながら言った店主にクラウディースは手を差し出した。そして手帳を眺めながら、店主は採寸していく。エレオノーラは珍しそうにその様子を見守った。
一通り作業が終わると、店主はエレオノーラに目を合わせた。
「似ている、とおっしゃってましたがどれくらいでしょう。手の厚みとか……」
「ええと、大きさはそんなに変わらないと思います」
エレオノーラはそう言って、クラウディースの手を握った。
「厚みは……うーん」
「手綱も取るし、馬鹿でかい武器も操る青年なのでな。わたしよりも筋肉が発達してるかもしれん」
「はあ、なるほど……」
店主は新しいページを開くとそこにさらさらとメモをしていく。
「あの、掌にマメがいくつも出来てて硬くなっているところもあったんです。だから、手を保護した方がいいんじゃないかなぁと思いまして」
「なるほど……」
店主は手帳にメモを書き終えると、しばしそれをじっと見つめた後うんと頷いて立ち上がった。そしてカウンターの奥の大きなタンスの観音開きの扉を開けた。そこから取り出してきたのは、様々な色の革だった。それをエレオノーラとクラウディースの前に並べていく。
「大体の様子はわかりましたから、革を選びましょう。これは卿も得意ですよ」
自然そのままの茶色の革から、無難な黒、派手な赤、やや不思議な印象を受ける青など色とりどりの革にエレオノーラは驚いた。さらに彼女は、茶色は茶色でも一巻きごとに色が微妙に異なることに気づいた。
「色の他に、柔らかさも選べるんですよ。お気に召すものがなければ、時間はかかりますが取り寄せいたします」
「彼があの得物を振り回すことを考えると、あまり薄すぎてはいかんな。すると必然的に革も硬くなるか」
クラウディースは手近にあった革をとりあげて手触りを確かめている。エレオノーラはそれを見て、まるで真似をするように目の前にあったこげ茶の革をとった。
「私、こんなに種類があるなんて思いませんでした」
するとクラウディースは片眼鏡の下の目を細めた。
「それならじっくり選ぶといいさ。焦ることはない」
「はい。ですけど、財布とは相談しませんと」
エレオノーラが言うと、ああと店主が声を上げた。
「でしたら、料金表を先にお見せした方がいいかもしれませんね。ちょっと待っていてください、持ってきますから……」
そう言って店主は店の奥の棚に向かった。どうもいつもは固定客の相手をしているほうが多いのか、そういう物は奥にしまってしまったらしい。
それをしばし見つめてから、クラウディースがそっとエレオノーラの方に身を傾けてきた。
「わたしのあげたお小遣いはどうしたかね。足りないなら、出してあげることもできるが――」
まるで母親に欲しいものの購入を却下された子どもに助け舟を出す父親のようなひそひそ声で話しかけてきたクラウディースにエレオノーラは断固として頭を振った。
「エンキは前にマントを買ってくれたんです。それと、綺麗な宝妖の細工櫛。
だからわたしも、卿からいただいたお金に手をつけたくないんです。
――ただ、前にも言った通り旅の準備には使わせていただきましたけど」
するとそれを聞いたクラウディースはまるで子どもの成長を発見して嬉しいような、がっかりしたような、そんな表情を見せた。
「そうか――好きにしなさい」
「はい、好きにします」
エレオノーラは笑って、クラウディースに答えた。



エレオノーラが選んだのは、高くもなく安くもない少し厚手のこげ茶の革だった。
店主は一、二週間ほどお時間をいただいてからお届けします、という言葉と共に頭を下げて二人を店から送り出した。
そして馬車に乗り込む前に、クラウディースはエレオノーラをふと、まるで思いついたように振りかえった。
「そうだ、どこかでお茶でも飲もうか」
「はい」
エレオノーラが答えると、クラウディースは御者にいつものところへ、と言った。
二人が馬車に乗り込むと、御者はまた馬を走らせる。たどり着いたのは、裁判所に程近い喫茶店だった。品のある佇まいは先日行ったカフェとはまた異なる。政を行う地区にあるこの喫茶店は、どうも訪れる人々の雰囲気も異なるらしい。
クラウディースは重いドアを開けて中へとエレオノーラを誘った。
店内に人は多くいたが、しんと静まり返っている。客層も上流階級の男性が中心のようだった。ランドマール伯爵にして最高法務官のクラウディースが来る場所としては、まさにふさわしい。
エレオノーラは少々気後れした。
それに気づいて、クラウディースは苦笑した。
「すまんね、娘たちのようにかわいらしいカフェは知らんのだよ。だがここは、味はいいし聞き耳を立てる者もいない。店主も店員も信頼できる。だめかね」
それを聞いて、エレオノーラはクラウディースが何か大事な話をしたがっている事に気づいた。彼女はこっくりと深くひとつ頷いた。
クラウディースは控えめに口元だけで笑うと、すっと彼女をエスコートして奥まった席を選び、向かい合わせに座った。
そしてメニューを取り上げて、彼女に言う。
「エレオノーラ、何がいい?」
「ええと……お茶を」
「そうか。葉はどれがいい?」
「お任せします」
エレオノーラが言うと、クラウディースは軽く手を挙げて店員を呼んだ。店員はかしこまりましたと言って下がってゆく。
クラウディースは店員が完全に下がると、テーブルに肘をついて顔の前で手袋に包まれた手を組んだ。
「卿、私に何かお話があるんじゃないですか?」
「気づかれたか」
クラウディースは苦笑した。
「ふと、思い出してね。エレオノーラ、君の一族が代々受け継いでいる、アレだが」
「三つほどありますが……」
「いや、あれだよ。……指輪だ」
クラウディースが選び出したのは、青い石の指輪だった。
「“青癒の指輪”ですね」
「そう、それだ。あれは一体、どこまで使えるものなのだ?」
クラウディースにしてはそれは珍しく、的を得ない、謎めいたものだった。
エレオノーラはその意図をなんとなく感じ取りながらも、あえて彼に合わせてぼかした言葉を選んだ。
「あれは、大地母神と天空父神がこの世界を創りたもうたときに使った道具である“創具”のカケラです。半端な力を持つ故に、かつて“創具”だったモノたちは今では忌まわしき呪いの道具、“呪具”と呼ばれます……」
「使い手を選び、“使い手に自らを使わせる”こともある。
……そういう戒めの意味を込めた名だとは聞いているよ」
「そうです」
そして、エレオノーラはそっと左手を右手で握った。
ふたつの“呪具”はクラウディース邸に置いてきてある。もちろん、“青癒の指輪”で結界を張ってだ。
「青癒の指輪は呪具の中でも比較的……安全、というと語弊があるんですが、人間に友好的なんです。そしてもうひとつの呪具“紅邪刀”を押さえ込んでくれているんです
もちろん、主体となってあの刀を御さなければいけないのは我々“邪王の一族”で、指輪は協力してくれているだけなんですけども」
うん、とクラウディースは頷いてみせる。
「そう、協力してくれているだけ……。……あの指輪は、人を治したり、癒したりする力を持っています。……持っているように見える、としたほうがいいかもしれません」
「と、言うと?」
問われて、エレオノーラは言葉を捜した。
「人や動物、植物には生まれつき“なおるチカラ”が備わっています。
怪我をしたときの治癒力だったり、精神的な落ち込みから立ち直る力だったり……そういうモノが備わっています。“青癒の指輪”はその力を手助けしているんです」
「手助け?」
「はい。もちろん、アレ自体も一種の癒す力を持ってます。だからこそ“青癒の指輪”と呼ばれています。
でも、どちらかと言うと、アレはその力を使っているというよりも人や動物が本来持つ“治癒力”を最大限に引き出すのを手助けしているに過ぎないんです。手助けして、治癒期間を短くしたり、痛みを軽減する……そういうことをしているに過ぎないんです」
「……なるほど」
クラウディースは顔をうつむかせ、組んだ手に額を押し付けた。
エレオノーラはその姿をじっと見つめ、そして悟った。
――この世で最も聡い人間……真言主。
だが彼とて人間なのだ。
すっとクラウディースが顔を上げた。その瞳はひどく深い色をしており、その表情はなんともいえない、複雑なものだった。
「その、君の説明でなにかわかった気がしたが……あえて、聞かせてもらうよ。
――あの指輪は、死に至る病を治す手助けもしてくれるのかね」
エレオノーラは、クラウディースの瞳の向こうに優しいおばさまの姿を見た。
そして、ゆっくりと目をつぶり首を振る――横に。
「病を治せる治癒力がその人になければ――病や怪我がその人の治癒力を上回る力を持っていれば――、手助けは、できません」
エレオノーラが目を開けると、クラウディースは目を閉じていた。
彼は小さく、そうか、そうか、と二度言った。エレオノーラは膝の上においていた手をぎゅっと握り締めた。
クラウディースの奥方、ヴィプサーニアの身を侵しているのは治療法のない奇病だった。
死に至る病――結局、何であれ、それを治す方法などないのだ。
真理を知るクラウディースとて人間。奇跡を願わないことはない。藁をも掴む思いを抱かないこともない。たとえ星といえど滅び、すべては死に至るものであり、始まりのあるものには終わりがあることを知る真言主といえど――人間なのだ。
「――ごめんなさい」
エレオノーラはぽつりと言った。クラウディースは目をつぶったまますっと片手を上げて彼女を赦した――謝る必要も、赦す理由もどこにもないのに。



――そのあと、二人は無言で運ばれてきたお茶を体へと流し込み、帰るために馬車に乗った。
帰り道、クラウディースは黙って景色を眺めていた。もしかしたら、眺めているように見えただけで彼は何も見ていなかったのかもしれない。そして、ふと――外の人の気配が絶えたとき彼はやっと口を開いた。だがその声はまるで独り言のようだった。
「ヴァリフォン大公のところに――」
「……はい」
「彼女の病を研究している医者がいるらしいんだ」
「……はい」
「その話を聞いたときからずっと考えていたことがある――
行くべきか、行かざるべきか。
わたしは、皇帝の友人だ。皇帝と大公は対立している。皇帝の友人といえども最高法務官たるもの、中立でいなければいけない。大公に対してもそうだ。
――行かざるか。行くべきか。二つに一つだ――
だが、決められない。わたしには決められない。
大公の医者のところへ、赴いたところで事態は好転するのか?そんなところへ行かず、ただあのランドマールの緑豊かな本邸に引き篭もり、しずかに時を過ごしたほうがいいのか?
何が最善で、なにが最悪となるのか?
――なにもかもがわからない。そして悩んでいる間にも――」
エレオノーラは黙っていた。クラウディースは額を撫でた。
「……すまんな、楽しい買い物のはずだったのに」
「――いいえ」
エレオノーラは(かぶり)を振った。



――馬車はやがて、帰り着いた。

戻る  Home  目次  次へ