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「魔法使いと記憶のない騎士」
第五十話
贈り物
―喜ばしいものと招かれざる客―

エレオノーラが与えられた部屋にたどり着くと、おっかなびっくり隣室に続くドア――つまりエンキの部屋に続くドアが開いた。もちろん、ひょっこり顔を出したのはエンキである。そして彼はエレオノーラを見つけると言った。
「おかえり」
エレオノーラは微笑んだ。
「ただいま。――お土産、クッキーを買ってきたの。お茶を入れるから、食べない?」
「うん」
言われて、エンキは部屋に入ってきた。エレオノーラは頭に乗せたままだったボンネットを外そうと、顎の下で止めてあるリボンに手をかけた――が、上手く解けない。そうこうしているうちに、エンキが傍らに来た。
「とれないのか?」
そしてエレオノーラが答える前に身をかがめて、彼は顎に手を伸ばしてきた。エレオノーラは彼の邪魔にならないように手をどける。
するり、とリボンが解けた。
「ありがとう」
エレオノーラは頭の上からボンネットを取り去ると、くすりと笑った。エンキが首を傾げる。
「どうした?」
「ううん、さっきおじさまにも同じことしてもらったから」
「ふぅん……俺は二番煎じかぁ」
エンキがなんとなくそう言うと、エレオノーラは笑った。
「面白いこと言うのね――お茶、今入れるから座ってて」
エレオノーラは部屋に備え付けのティーセットを取り上げると、これまた備え付けのテーブルの上にそれを並べた。エンキはその間に、ソファに腰掛ける。
重いスカートが足にまとわりついて、着慣れていないエレオノーラは上手く足をさばけない。ふわりと広がるスカートは楽しいものだが、作業向きではないなとエレオノーラは思った。
エンキは物珍しげな視線を彼女に向けていた。
「そういう格好、面白いな」
「……褒め言葉にしては、それは不適当よ」
エレオノーラは苦笑してそう返す。するとその返答はエンキにとっては予想外だったのか、きょとんとした顔をした。そして慌てて言い足す。
「ああ、うん、似合ってるよ。うん」
「別に怒ってないわよ?」
くすくすと笑いながらエレオノーラは言った。エンキは頭をかいた。
エレオノーラはその間に部屋に常備してある水差しからポットに水を移し、くるりと指を回した。ポットがあたたまり、水がお湯になる。エレオノーラは魔法を使っていた。エンキはその様子に、初めて会った日のエレオノーラを思い出していた。
「なぁやっぱり、普通はそういう格好をしたいものなのか?」
「え?そうねぇ、一般的な女性はそうじゃないかしら」
「いや、そうじゃなくて」
エンキはそう言ってエレオノーラを指差した。エレオノーラは自分の指で自分を指し示して聞き返す。エンキはこっくり頷いた。
エレオノーラ指を顎に当てた。
「私は……、ここまで仰々しいのは苦手かな」
「苦手?」
「そう。私がいいのは、動きやすい格好よ。そりゃあ、綺麗な格好も好きだけど」
「動きやすい?」
「うん。そう――昔、母さんがしてたみたいな、普通の、野良仕事もそのままできるような」
言いながら、エレオノーラはポットからカップにお茶を注いだ。エンキはその様子を感慨深げに眺めている。
そして彼は話題を変えた。
「そうだ、卿とはどこに行ってきたんだ?」
エレオノーラは取り出し忘れていたクッキーを皿に並べながら答える。
「ないしょよ」
「ないしょか」
エンキは手を伸ばして大きめのクッキーを取り上げると、かじった。エレオノーラはそんな彼の前にカップとソーサーを置く。そして自分もカップを口元に運んだ。
ふと沈黙が訪れて――エレオノーラは、先ほどのクラウディースを思い出した。
複雑な表情をしていたのだろうか――エンキはそんな彼女に気づき、声をかけた。
「何かあったのか、卿と」
エレオノーラは首を振った。
「ううん、何もないの――何も」



それから数日後――
エレオノーラの部屋に小包がひとつ届けられた。簡素な包装がされているそれは、あきらかにエレオノーラが注文したあのグローブだった。
エンキは今サライの様子を見に行っている。たぶん馬場を走らせているだろうから戻ってくるまでに間があるだろう。
エレオノーラはベッドの上に乗り、それを両手で後生大事に持って眺めていた。
しばらくして、隣の部屋のドアが開く音がした。エレオノーラはベッドを下りると、小包みを抱えて隣の部屋に通じるドアの前に立った。そしてノックのために腕を上げかけ――ふと気づいて胸の前に持ってきていた小包をそっと背中に回す。それから彼女はコン、コンとドアを叩いた。
少し間があってから、どうぞ、とエンキの声がした。
ドアを開けてエンキの部屋に入ると、エンキはタオルを片手に持っていた。
「――もしかして、お風呂入ろうと思ってた?」
「ああ、ちょっと汗かいたし、馬くさいし……やだろ?」
「別に気にならないけど――邪魔しちゃったわね」
出直すわ、と後ずさりかけたエレオノーラをエンキは呼び止めた。
「や、気にしないなら後で入るから」
「そう?」
エレオノーラは一歩もどる。そして、後ろに回した手を動かした。
「じゃあ、はい、これ」
そう言って、小包をエンキの前に差し出す。エンキは不思議そうにそれを見下ろす。
「いらないって言ってたから余計なお世話かもしれないけど、やっぱり気になったから」
エンキは不思議そうな顔をしたまま、それを無言で受け取った。そして、やっとエレオノーラの顔に目を当てて聞く。
「開けても?」
「どうぞ」
エレオノーラは空になった手をまた背後に回した。エンキは持っていたタオルをソファへと放ると、丁寧に包装を解き始めた。包装紙を折りたたみ右手の指で挟むように持ったあと、その手でやはり丁寧に箱を下から支えてからもう片方の手でですっと蓋を持ち上げた。
そこには、手の甲と掌だけを覆うこげ茶のグローブが入っていた。
エンキはああ、という顔をした。エレオノーラは少し不安になる。
「ええと、グローブ、だ」
「うん。感覚のことを気にしていたから手の甲を覆うだけのものにしたの」
エンキはその言葉にふっと笑みを見せた。
「そんなこと覚えててくれたのか」
「大事なことでしょう?」
エレオノーラは少し首をかしげて聞き返した。エンキは笑ったまま頷く。
「ああ、大事なことだ」
そう言ってエンキは丁寧にグローブを箱から取り出した。そして、すっと手に通してみせる。それから手首まできっちりと革の覆いを着け、手を開いたり閉じたり、そして指を組んだりする。エレオノーラはそれをじっと見つめていた。
「――うん、少し緩いかな……」
「そう……。たぶん少し余裕をもって作ってもらったんだと思うわ。直してくれるって言ってたから今度一緒に行きましょう?」
エンキは笑って頷いた。そして問う。
「ほんとに貰っても?」
「うん。いいの。でも迷惑じゃない?」
「これくらいなら大丈夫だ、と思う。それにしてもそんなに気になったか、俺の手」
「痛めなれてる、って感じはしたわね」
エンキはエレオノーラのその言葉にふぅんと言うとグローブをはめた手を眺めた。
そしてまた手を握ったり開いたりする。しばらくそうした後、エンキは静かに穏やかに言った。
「――ありがとう」



一時間ほど後、エレオノーラはこの屋敷の主の書斎のドアをノックしていた。
今度は声で返ってくるよりも早く、ドアが開いた。もちろん開けたのはタイベリウス・クラウディースだ。
「やぁエレオノーラ」
「おじさま、五十肩の具合はどうです?」
「聞いて驚きたまえよ、まったく痛くないんだ」
クラウディースは肩をぐるりと回して見せた。エレオノーラはその様子に内心やっぱり筋肉痛だったんだわ、と思ったが何も言わなかった。
「荷物が届いたろう?エンキ君はどうだったかね」
エレオノーラは肩をすくめた。
「なんだかよくわからなくて。気に入ってくれていたらいいんですけど」
するとクラウディースはからからと笑った。
「彼はあんまり感情表現が得意じゃないのかもしれんな。若い頃はそんなものさ」
「そうでしょうか?」
「わたしもそうだったらしいね――ルキウスが生まれたあたりから、変わったと妻は言うよ」
クラウディースはエレオノーラに応接用の椅子をすすめた。エレオノーラは素直に腰掛ける。クラウディースは机の上に重ねた本を片付けている途中だったらしく、作業を続けたままで失礼、と言った。
「少し前から研究まがいのことをしててね。久々のまとまった休みだからここぞとばかりに書物とにらめっこしてたんだよ」
「もしかして、お邪魔でした?」
「いやいや。一、二時間や三、四日邪魔されただけで滞るものではないよ」
クラウディースは片付け終えると、エレオノーラの向かいのソファに腰を下ろした。
「むしろ、煮詰まった頭を休める良い時間だろう。――どうしたね?」
「実は荷物が届いたと報告しに来ただけなんです。――それと、お付き合いいただいてありがとうございました」
エレオノーラは座ったまま綺麗に腰を折った。それは当日、言えなかった礼の言葉だった。クラウディースは手を挙げてそれをうける。
「こちらこそ。最近は娘たちがあまり遊んでくれないのでね。久々に楽しかったよ」
「まぁ、そうなんですか?」
「幸いなことに思春期にはそれほど嫌われなかったが、やはり子どもは親離れしていくね」
「寂しいですか?」
エレオノーラが何気なく聞くと、クラウディースは少し笑いながら頷いた――もちろん、と言いながら。
「すこし、うらやましいです」
エレオノーラはぽつりと言った。クラウディースは首を傾げかけ――亡くなった友人夫婦を思い出した。
「ルーファウスは、子離れできたか怪しいなぁ。生きていたら今でも君にべったりかもしれんね」
「それは困ります」
優しげな“おじさま”の声音にエレオノーラはくすりと笑った。それから二人は、たわいもない昔話をどちらともなくはじめた。
エレオノーラの過ごした家――そしていつか帰りたいと思っている家――があるラボレムス山とそのふもとの村の話。クラウディース一家が遊びに来たときの珍騒動。エレオノーラの母が作ったお菓子の美味しさ、父の癖――本当にたわいもない昔話だった。
だがエレオノーラには久しぶりの回顧の時間だったのかもしれない。顔には満面とは言えないものの、懐かしげな笑みが浮かんでいる。過去が象徴するのは、哀しさだけではないのだ。クラウディースは目を細めてその様子を見守りながら、懐かしい友人の話に耳を傾け、話をした。
――しばらくしてエレオノーラがふと気づいて口をつぐみ時計を見れば、針は前に見たときよりも数刻先を指し示していた。
「ああ、長居をしてしまいました――」
エレオノーラは慌ててそう言って立ち上がる。クラウディースは話し足りないのか座ったまま残念そうな顔をした。
「研究のお邪魔ですから」
「そうか――気を使わせたな」
エレオノーラの苦笑を含んだ言葉にクラウディースはようやっとと言った感じで立ち上がり、エレオノーラに歩み寄った。
「ドアまで送ろう」
そう言ってクラウディースはエレオノーラを書斎の入り口までエスコートした。
だが、ドアの二、三歩手前でクラウディースは不意にピタリと立ち止まった。
つられて立ち止まったエレオノーラは不思議そうにクラウディースを見上げた。
「……卿?」
「エレオノーラ、わたしの手をしっかり握りなさい」
クラウディースは緊張した表情を浮かべながらすっとエレオノーラに手を差し出した。エレオノーラはまるで父と手を繋ぐ子どものようにその手を握った。その間にクラウディースは書斎に満遍なく視線を巡らせていた――そして、彼は部屋のある一点を睨むように凝視した。
床に、異様なほどに濃く黒い丸い影がひとつ落ちていた。
だがそこに丸い影を作り出すような物体は何一つない。エレオノーラが訝しんで眉を寄せたと同時に――ずぶ、と影が動いた。エレオノーラはすっと息を呑んだ。
――これは、まさか。
「ご名答です。“邪王の娘”」
影はやがて人型をとり、口を聞いた。
「エレオノーラ、わたしの近くへ」
ぐいっとエレオノーラはクラウディースに引き寄せられた。途端影が嗤い、色づきだした。
それは金の髪をもち、顔の上半分を銀の仮面で覆う男――錬金術師だった。
「君、わたしの屋敷に侵入するのは二度目だね――」
クラウディースが眉を寄せて問うと、錬金術師は美しい紳士の礼をした。
「お初にお目にかかります、当代一の“ちから”の持ち主であらせられる真言主殿」
クラウディースは顎を引き、手を繋いだまま背後にエレオノーラを隠した。エレオノーラはわずかに体をこわばらせ無意識に
――エンキ。
と呼んだ。
「草原の王にして騎士たる方はこの場には野暮です」
錬金術師はエレオノーラの心を読んだかのようにそう言うと、すっと穏やかな動作で手を広げた。すると彼を中心にして風が起こり――世界は闇に落ちた。



少し時は戻り、エレオノーラとクラウディースが昔話をしているのと同時刻頃。
エンキはこの屋敷の図書室から借りてきた『繁殖と良質の血統』という本を自室で読んでいるところだった。もちろん、馬の本である。
エンキの失くさなかった知識の中には馬に関連するものもあったらしい。
異国の馬に関する知識に、彼は感心したり憤慨したりしながら読書を楽しんでいた。
そこへ、コンコンとノックの音か響いた。
エンキが本から顔を上げると今度は声が聞こえてきた。
「エンキさん、いらっしゃいますか。マーカスです」
その言葉にエンキは丁寧に本を閉じてから立ち上がり、ドアへと向かった。はい、と声を出しながらドアを開けるとマーカスが立っていた。マーカスは少しだけ申し訳なさそうな顔をすると、部屋には入らずに用件を切り出した。
「もしお暇でしたら、母の話相手をしてやってくれませんか。母がお話したいと申してまして」
エンキは少し驚いたが、もちろん構いません、と答えた。
マーカスに先導されて、廊下を行く。マーカスはもともとは口数が少ないのか、特に会話はなかった。ヴィプサーニアの休む部屋の前にたどり着くと、マーカスはドアをノックしてエンキを連れてきたことを告げた。すると、部屋から柔らかな声音でどうぞ、と返答があった。マーカスはドアを開け、エンキに中に入るように促した。エンキが彼の横を通り過ぎるときに彼は「わたしはこれで失礼します」と言った。
エンキの背後でドアが閉じた。
「おばさんと二人っきりはお嫌かしら?」
くすくすと笑いながら口を開いたのはヴィプサーニアだった。エンキはびっくりしていいえ、と言った。
「そんな顔してました?」
「ちょっと、ね」
「緊張してるんです、申し訳ありません」
「こちらこそ、お呼びたてしてしまって」
ヴィプサーニアはベッドに身をおこしていた。背もたれ代わりに枕を体とベッドヘッドの間に立てかけている。あまり具合が良くないのだな――エンキは悟った。
そんなエンキにヴィプサーニアはベッド近くの椅子を勧めた。先ほどまでマーカスが座っていたのかもしれない。エンキはベッドとの近さに少し躊躇したが、やはり腰掛けることにした。
「先日はうちの主人に付き合っていただいてありがとうございました」
「いえ、俺も久々に楽しかったです。最近は体がなまっていて」
「まぁ、あれで?」
エンキがこっくりと頷くと、ヴィプサーニアは本当に驚いた顔をした。だが彼女はそれもすぐにおさめて、また穏やかな笑顔になる。
「――エンキさんは頼りになりますね」
「え?」
エンキが不思議そうに声を出すと、ヴィプサーニアは穏やかに言った。
「そういう雰囲気があるんです。もちろん武術も含めてですけど。
エレオノーラもそんなところを頼りにしているんだと思いますよ」
「エレオノーラが俺を?」
またエンキは不思議そうな声を出した。そして首を振る。
「頼りにしているのは俺のほうです。文字通り拾ってもらってからずっとです。
拾われなかったら今頃、のたれ死んでたかもしれませんし。置いていかれると思ったときは焦りました」
「置いていかれる?」
ヴィプサーニアがきょとんとした顔をしたのでエンキは苦笑しながら説明した。
「エレオノーラの知り合いがいる宝妖の都で、置いていかれそうになったんです。
俺は東ノ国の人間だから、そちらに向かった方がいいって。俺としてはいくら故国だといわれても、知りもしないところに行くのはちょっと気が引けたんです。――もう俺にはそこは知らないところでしかないんです。
だから少しでも知ってる彼女について来ました」
ヴィプサーニアはまるで母親が子どもの話を聞いているかのようにすこしだけ首を傾けていた。しかしエンキの話が終わると彼女はすっと姿勢を戻した。
「まぁ、そんなことがあったんですか。
ねぇエンキさん……あの子は甘えるのが下手なんです」
ヴィプサーニアはやはりどこまでも穏やかな表情をしていた。そしてエンキの顔に視線を当てながら――しかし目は少し遠くを見ていた――言葉をつむぐ。
「あの子のお父さまは夫の友人でした。とても頭の回転の速い、優しい方でしたがその代わりのように体が弱い方だったのです。
あの子のお母さまは、お父さまが出来ない重労働もこなす働き者でした。
――そんなご両親の元で育ったからなのか、エレオノーラは昔から甘えない子でした。とても大人びた子だったんです。とても」
そこでヴィプサーニアはちょっとだけ苦笑した。
「手のかからない子で、同じ親としてはちょっとだけ羨ましかったように思います。同い年のルキウスは今でもあのとおりですから。
――でも、裏を返せばあの子は甘え下手になってしまっていたのです」
エンキは唇を引き結んでその話を聞いていた。
「でも優しい子なんですよ、頭も回りますし。ただちょっと考えすぎのきらいがありますけど」
「はい、わかります」
エンキは色々なことを思い出しながら同意した。すると、ヴィプサーニアはよかった、と呟いてエンキのほうに手を伸ばしてきた。そして、エンキが折り目正しく膝の上に乗せていた右手を手にとり、両手で包み込んだ。エンキは驚いてヴィプサーニアの顔を見た。
「エンキさん、これはお願いなんですが、時々あの子を甘えさせてやってくれませんか」
ヴィプサーニアは真剣な表情で言う。
「私たちはあの子を本当の娘のように思っています。かわいいし、幸せになってほしい。
大地母神の御許に還られた彼女の本当のご両親も絶対にそう思われているはずです。
たまたま邪王の一族に生まれついたというだけで、どうしてあの子が過酷な運命に生きなければならないのです?ひとところに留まるのも許されないのです?
わたしは摂政が憎い。殺してやりたい。そうすればあの子の不安は取り除かれます。ひとところに留まり、暮らし、家庭を作り、人並みの幸せが得られるでしょう。
でもそんなことできるはずがない」
穏やかなヴィプサーニアの口から出た激しい言葉にエンキは少し驚いた。しかし彼はその言葉にエレオノーラは幸せな人だ、とも思った。
「ただでさえあの子は考えすぎで、甘えることを知りません……だから、時々でいいからあの子を甘えさせてやってくれませんか。少しでいいんです。ほんとうに」
エンキは少し目を閉じ、そしてヴィプサーニアの手を握り返した。
「俺でいいなら、お安い御用です――俺は世話になってばかりだから。
今日も、グローブを貰ったんです。俺の手のことを気にしてくれて。……俺で役に立つなら」
ヴィプサーニアはその言葉を聞いて、エンキの手を揺り動かした。
「立ちます、役に立ちますとも。ああ、ありがとうございます。
うちの子たちは平凡な子ですから、ただあの子だけが心配なんです」
「エレオノーラは大人ですから、大丈夫ですよ。とてもしっかりしてますし」
エンキはまるで老いた母親をなだめるような声を出した。ヴィプサーニアは首を振る。
「いいえ、大人でもしっかりしていても、だめなときはあるのです。――誰にでも」
そして彼女は真っ直ぐにエンキの目を見つめた。エンキの手を握る両の手には暖かな力が込められていた。
「エレオノーラをよろしくお願いします」
エンキは声を出すことがなぜか出来なかった。その代わりに、ゆっくり深く一つ頷く。
ヴィプサーニアは何度もエンキの手を握り締めて、揺り動かした。
――エレオノーラは本当に幸せだ。
エンキはあたたかい気持ちになりながら、握り締められている手を見ていた。おそらく彼女も心のどこかでそれをわかっているんだろうな、と漠然と思う。羨ましいという感情は不思議とわいてこなかったが、彼女を大切にしなければならないという心地よい責任の重さをエンキは感じていた。



そのとき、廊下から誰かの悲鳴が聞こえてきた。

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