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「魔法使いと記憶のない騎士」
第五十一話
格闘
―魔物あらわる―

女の、甲高い声だ。
エンキははっとして立ち上がり、ヴィプサーニアはぱっと彼の手を放した。エンキは大股に歩き、ドアを開けた。それと同時にこの屋敷の執事が飛び込んできた。
「ああ、奥さま、ご無事でしたか!」
息を切らした白髪の執事はヴィプサーニアの姿を見てほっとしたように息をついた。
ヴィプサーニアは凛とした声で問う。
「何事です、あれは誰の声ですか」
「係の者が旦那さまに休憩のお茶をお持ちしようとしたところ、部屋の入り口に妙なものが……」
「妙なもの?」
また誰かの声が響く。ヴィプサーニアは命じるものの顔になった。
「とにかく、皆を避難させなさい。危険の少ないところへ、早く」
「は、はい」
執事は身を翻して部屋を出て行こうとした。だが部屋を一歩出た所で彼は立ち止まってしまった。エンキはいぶかしんで部屋を出る。
「どうしたんです」
「あ、あれを……」
執事の指差す先には何もなかった。いや、しかし、よく見ればなめらかな美しい石張りの床がずぶりと盛り上がりはじめている。
「……?」
エンキはさらに一歩進み出た。石はまるで細工されるために熱を加えられた飴のように、ぐにゃりと起き上がってきている。
「ああ、“妙なもの”はああやって現れるのです!」
一歩後ずさってエンキに並んだ執事が言う。
エンキは少しだけ腰を落とし、それを見ていた。練り上げられた飴細工のように立ち上がった“元”石の床は、今度は違う変化を始めていた。
五つの突起が生じ始めていたのだ。
いや、五つの部分を残して後の部分がへこみ始めているのかもしれない。やがてそれは四つ足の獣のような姿になった。細長く伸び床に接する四ヶ所は脚で、残りの一つはそれらとは違い床から離れていく。そして最後にそれは逆三角形の顔のようなものになった。だが三角形の顔には目鼻や口がない。しかし次の瞬間、内部からぼこり、と音がして先端が盛り上がった。最後に膨らみははじけるように裂け、汚い音を発した。
――内側から口が出来上がったのだ。
汚い音は、それの叫び声だったのだ。汚らしい咆哮に気圧されて、執事がまた一歩後ずさった。
「“妙なもの”、か。……魔物だな」
魔物と言う言葉を聞いて、執事は身を硬くした。
口はできたものの、床から立ち上がった石色の魔物には目鼻がなかった。
だがその先端のぱっくり開いた顔を正確にエンキと執事の方に向けてきた。そして汚らしい叫び声を上げながら彼らに突進する。
石から生じたと思えぬ速さに、エンキは軽く執事を向こうに押しやってから自分も転がるように避けることしかできなかった。直後、二手に分かれてしまったことにエンキは気づいて舌打ちした。――執事はヴィプサーニアの部屋の近くに、エンキはその斜向かいの位置にいたのだ。
魔物もそれに気づいたのか、より弱い執事の方にまた体を向ける。執事は使命感に駆られたのか、ヴィプサーニアの部屋の前に立ちふさがった。
エンキはピュウッと口笛を吹いた。
「お前の相手はこっちだ!」
魔物はちらとエンキのほうに顔を向け――ぶるり、と一つ身震いした。するとどうだろう、顔と反対側の尻に当たる部分がぐにゃりと変化を始めたのだ。訝しむ間もなく、一瞬後にはエンキはまた姿勢を捻って咄嗟に何かから逃げていた。
見れば、ビシリといやな音がして先ほどまで立っていた床に亀裂が入っていた。
エンキを襲ったのは、鞭のようにしなる魔物の尾だった。目にも止まらぬ速さで魔物は自らの尻に尻尾を生やすと、それをそのままの速度で振るったのである。
――当たったらひとたまりもないな。
砕けた床の破片に視線を当てながらエンキは思った。そして執事に声をかける。
「隙を見て部屋に入ってください。そして入られないようにドアを塞いで!」
執事は一つ頷くと、じりじりと後退していく。魔物は一瞬エンキと執事どちらを襲うかを迷ったようだったが、片付けやすいと思ったらしい執事に狙いを定めピシリと尾を打ってエンキを牽制した。
尾はまるで蛇のように頭とは別な動きをする。
振り回される尾にエンキは魔物に近づくことができない。
エンキを牽制する尾が一瞬動きを止め、魔物が執事に襲い掛かったのと、執事が一歩部屋に入ったのはほぼ同時だった。
エンキは舌打ちをして駆け出した――が、次の瞬間には何かが弾かれるような音がして魔物はエンキの後方に吹き飛ばされていった。
「!?」
部屋の入り口から百歩近く吹き飛ばされた魔物は床に叩きつけられ、濁音だらけの音を立てて悶え苦しんだ。エンキは思わず立ち止まり、部屋の入り口と倒れこんだ魔物を見比べた。
数秒後、立ち上がった魔物は立ち尽くすエンキを無視し怒りのままに再び部屋の入り口に向かった。それまで魔物が吹き飛んだ事実に驚いていた執事が気を取り直し、入らせまいとして身構える。
――だが再び魔物は吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。
じたばたと床の上で悔しげに暴れ声を上げる魔物に再びエンキと執事は動きを止めてしまった。
どうしたのです、という部屋の奥から問うヴィプサーニアの声に我に帰る。
「い、一体どうなって……」
「よくわからないが、奥方の部屋には入れないらしいな……。卿がなにか結界のようなものを張ってるんじゃないか?」
「そうでしょうか……他の部屋にこんな様子はなかったんですが」
「それじゃあできるだけ奥方の部屋に人を集めた方がいいかもしれないな。あちこちに出てるならここまで避難させた方がいい」
すると執事は振り返ってヴィプサーニアに何か声をかけた。
「奥さまに許可をいただきました。皆を集めてまいります。エンキさん、申し訳ないですがそれの注意を引いていただけますでしょうか。わたしはその隙に脱出して誰かに言付けて参ります」
だがエンキはわかったといわなかった。彼の視線の先で気を取り直したらしい魔物が立ち上がりかけている。
「いや、俺も一緒に行こう。どうもこいつの現れ方は神出鬼没気味だし、角を曲がったら鉢合わせなんてこともありそうだ」
魔物が汚らしい声をエンキにぶつけてきた。エンキは腰を落とし、身構える。
「だがそれにはまず、これをなんとかしないと」
部屋に入れず執事も襲えないと身をもって知った魔物はエンキを標的にしたのだ。鞭のようにしなる尾を振り回しながら、エンキに向かって咆哮する。
エンキはいつものように背中に手を回し――そしてはっとした。
――しまった。
動揺がわずかな隙になった。その隙を好機と見た魔物は頭を振りたてまっすぐにエンキに突進する。エンキは気づいて床の上を背中で転がって逃げる。
執事がエンキさん、と心配そうな声を出した。エンキはそちらを見てなんでもないというように笑ってみせる。
だが内心穏やかではなかった。
武器がないのだ。
彼の相棒たる青竜偃月刀は部屋においてある。ここは屋敷の中だ。そんな屋内で魔物が出現しようなどと先ほどのエンキに予想できるはずがなかったのだ。その事実を先ほどまでエンキは忘れ去っていたのである。
――どうする。
間合いを取りながら、エンキは忙しく頭を回転させた。打撃か取っ組み合いしかないのか?だがそれはあの長い鞭のような尾を相手にしては危険すぎる。あの尾にどんな能力があるかはわからないが、巻きつけられてしまったら完全に不利になる。
軸足をしっかりと踏みしめ、もう片方の足は一歩引く。よく見れば、先ほど魔物が立ち上がってきた床にはぼっこりと大きな穴が開いていた。
――足元にも気をつけなければ。
魔物はばっくり開いた口をエンキに向けて尾を振り回す。エンキは次の行動を決めかねていた。一行に攻勢に転じないエンキに魔物は畳み掛けることを選んだようだった。半ば二足歩行になる勢いで頭を振りたて、突進して来た。だがエンキはそれをあえて避けず、身を低くして魔物の牙をかわすとぐいっと魔物の顎の下に入り込んだ。そして勢いを殺さずに左の拳を振り上げ、魔物の顎の下に叩きつける。
魔物がぐげ、という声を出してひっくり返った。
「――……ッ」
エンキは思わず右手で左の拳を押さえた。魔物の肌は考えられない硬度を持っていた。だがそれは石造りの床から生じたことを考えれば当然かもしれない硬さだった。
「二度も三度も殴ったらこっちが怪我するな……」
尻尾のことも考えて、万事休すの状態だった。魔物はまた立ち上がり、エンキに怒りを含んだ威嚇の声をぶつけてきた。
魔物が一歩迫る。エンキは一歩下がる。また一歩進み、一歩下がる。
一定の距離をエンキはとり続ける。それは魔物のいらだちを大きくさせたらしい。魔物はまた咆哮すると、やおら後足で立ち上がった。
歩行という動作から解放された前足の形が変化する。大きな鍵爪が生え、魔物はそれを振りかざしてエンキに突進してきた。鈍色に光る凶器から器用に逃れ、エンキはまた距離をとる。魔物はエンキがもといた場所を行きすぎ慌てて立ち止まった後、数歩かけて方向を転換しエンキを探す。
――俺の方が小回りが利くな。
魔物の体は長い尾のために急に方向を変えることができないのだ。そのことに気づいたエンキに幾分余裕が出る。
――が、攻撃できるものがないとな。
魔物とエンキは一定の距離を置いて円を描くように回り始めた。ぐるる、と魔物が声を上げて頭を上げ下げする。円を半分ほど描いたところでだろうか、エンキは背後の壁のくぼみに花瓶が飾られていることに気づいた。色とりどりの見事な花を飾る美しい花瓶だ。一抱えもありそうな大物で、叩きつければ大きな痛手となりそうな一品だ。
――これを使えばいくらか……。
隙がつくれるかもしれない。その間にヴィプサーニアの部屋に一時逃げ込めば、火掻き棒くらいは手に入るだろう。もしかしたらクラウディースがなにか護身用の武器を隠しているかもしれない。
エンキはじりじりと後ずさった。一抹の不安が胸をよぎる。
――ない袖振れぬ、というやつか。仕方ない。
そして後ろ手に腕を伸ばすと、花瓶の縁に手をかけかけ――やはりふと迷う。そのわずかな動きで生じた隙を魔物は見逃しはしなかった。
一定の緊張を突き破って魔物がエンキに突進する――と同時にエンキも動いた。
「?!」
魔物の視界が色とりどりの何かによって遮られた。魔物は驚いて半身を引く――エンキはその隙に一抱えもある大きな白磁の花瓶を魔物の後頭部に叩き付けた。
魔物の体がぐらりと傾ぐ。エンキは間髪いれずに半身を魔物に向けたままヴィプサーニアの居室を目指した。
あの迷いの一瞬で、エンキは戦法を二段階に増やしていたのだ。まず一抱えもある花瓶に収まっていた花々を引き抜くと、突進してくるそれを魔物に投げつけた。放り出された花束(ブーケ)は空中でその大きさを広げ、小さな中空の花園となって魔物の視界を遮った。魔物はその花園に怯み、エンキは振り返らずに白磁の花瓶を引っつかむとわずか一歩で魔物との距離を詰めそしてそれを叩き付けたのだ――顎の下と共に、後頭部は多くの生き物にとって鍛えがたい急所なのだ。
その点を考えればエンキの判断は正しかったといえる。だが魔物は普通の生き物ではなかった。普通では考えられない速度でダメージから回復すると、逃げるエンキに踊りかかった。
予想外の出来事にエンキは対処しきれず魔物に飛び掛られるままになった。ドスンという衝撃と共に背中から床に叩きつけられ、衝撃で息が詰まる。
次の瞬間、エンキの目の前には勝利の雄叫びを上げる魔物の口があった。エンキは反射的に腕を上げて顔を庇い、次に来るだろう牙の衝撃に備えた――が、魔物の口が実際に次に行ったのはぐげという苦しげな声を上げることだった。
エンキは恐る恐る腕を下げる――すると、魔物の口の奥から先ほどまでなかったものが突き出していた。
軍刀(サーベル)の切っ先が魔物の口内を貫いていたのだ。
切っ先はエンキの腕の少し手前で止まっている。エンキは理解できないままそれを見ていた。だが魔物が身動きをしなくなりくったりとエンキの体に落ちかかると、自然と切っ先は魔物の頭の中へ埋もれ消えていく。サーベルの切っ先は新たなる魔物の器官ではなかったのだ。
そして、何者かがエンキの体にのしかかった魔物の体を蹴り除けた。
「突き刺せる程度に硬くてよかったですよ。――大丈夫ですか、エンキさん」
ごろりと転がった魔物の体はさらさらと砂に変わった。その様子を横目に見ながらエンキは起き上がる。続けて立ち上がろうとすると、魔物を倒した人物が手を貸してくれた。
「助かりました、マーカスさん」
サーベルを携えていたのはクラウディース家の長男、マーカスだった。エンキが彼の手を借りて立ち上がり終わると彼はサーベルを振って血振りをした。だがその刃には血のようなものは一切ついていない。型の一部なのだろう、とエンキは思う。
「ずいぶん無茶なさいましたね、エンキさん、武器なしで一人で立ち向かうなんて」
「それ以外に思いつかなかったんで」
笑って言うマーカスにエンキは頭を掻いて言い訳した。それを見てマーカスは肩をすくめた後、母の部屋の入り口で事の成り行きを見守っていた執事に言う。
「屋敷の者全員に三人以上で行動するように命じてきた。それと一班に必ず警備のものか鎌か何かを持たせた者を入れるようにもした。あとはどうするのが得策だと思う?」
長男のしっかりした声を聞いたので安心したのだろうか、いくらか緊張を解いて執事は答えた。
「奥さまのこのお部屋には魔物は入れないようなのです。許可をいただきましたので、皆をなるべくここの近くに集めようと」
「そうか」
するとマーカスは一言エンキに失礼というと、母の部屋に入っていった。少しして、彼はまた戻ってくる。
「母のベッドからは事の成り行きは見えなかったようですが、心配していたので少し説明してきました。エンキさん、怪我はありませんか」
「幸いにもない。それより早く屋敷の人を集めに行った方がいい」
エンキは身を震わせて体の具合を確かめるとそう答えた。
「そういえば、ルキウスさんは?」
「コルネーリアとアウレーリアと一緒にこっちへくるように言いました。合流した後は父の書斎に行くことになってます。魔物が最初に出たのが書斎の前の廊下らしいので」
マーカスはサーベルを腰につるした鞘に戻しながら言った。そしてエンキははっと気づいたように言った。
「エレオノーラは、一緒ではないんですか?」
「残念ながら。父も見当たらないので、おそらく一緒だと思います」
それを聞くと、エンキはいきなり踵を返した。マーカスはその背中に冷静な声を投げつける。
「まずルキウスが来たら、屋敷の者に声をかけつつあなたの武器を取りに行きましょう。
丸腰で動くと危険なのはさっきの体験からもお分かりでしょう」
エンキはぴたりと立ち止まり、肩越しにマーカスを振り返った。マーカスはいたって冷静な顔をしていた。
「エレオノーラは大丈夫です。おそらく父と一緒ですから」
エンキは一理あるマーカスの言葉に当座は従うことにした。

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