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「魔法使いと記憶のない騎士」
第五十二話
闇の中にて
―静かなる戦い―

――闇。
――黒。
「まっくら……」
エレオノーラは闇たる黒以外何も見えない空間に向かって、誰に言うでもなくそう言葉をなげた。
まるでうつろなこだまが聞こえてくるようだ。
一人呟いた言葉に返答はきっとない、ここには一人ぼっちなのだと思いかけたところで、誰かの声がエレオノーラの耳に届いた。
「いや、真っ暗ではないな。エレオノーラ、わたしが見えるだろう?」
ふと、傍らに温もりを感じる。エレオノーラはそちらに目を向けた。闇の中から優しい輪郭が浮かび上がる。それは背が高い壮年の男だった。
「目が慣れたかね、エレオノーラ」
「はい、おじさま」
その男はもちろんタイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースだった。エレオノーラはほっとしてクラウディースを見上げる。よく見れば、クラウディースの書斎に“いた”ときから二人の立ち位置はそれほど変わっていなかった。
クラウディースは闇を見つめながら言った。
「完璧な闇などない。どんな闇だろうと幾分かの光は含まれているのだ。
――光の中に影が生じるということもまた、考えようによっては完璧な光などないということを示しているのかもしれない」
エレオノーラはその言葉に得心したように頷く――と同時に高らかな哄笑が響き渡った。
「なかなかに哲学的なお言葉ですね、真言主。しかし詩的と言うには程遠い」
少し離れた闇の中からぼんやりと何かが浮かび上がった。ふたつの金属の鈍い光だ。
やがて二人の目が慣れ、その正体を捉える――銀の仮面、金の髪。
闇の中に鈍い光沢のあるその二色だけが不気味に存在している。
錬金術師だった。
だがクラウディースはいたって普通に苦笑した。
「生憎、詩人でも唄歌いでもないものでね」
そしてそこで真顔になる。
「ところで君、わたしの部屋を取り巻く法則を捻じ曲げてくれたようだね――」
錬金術師の露出した唇の両端が持ち上がる。クラウディースは続けた。
「この世の“なにもの”も真理に従い、なるべきものとなり、なるべくした形をしている。
水も炎も大地も風も自身に相応しい質と形を、とるべくしてとっているのだ。
君はそれを捻じ曲げて、この部屋そのものを変えてしまったようだ。それがどういう意味だかわかるのか?」
錬金術師は嗤ったまま答えない。クラウディースはもとより返答を期待していなかったのか、それとも違うのか、ため息をついてまた続ける。
「真理とは“宇宙の背骨”、“なにものをも貫く不可侵の設計図にして法則”――その真理を侵犯した意味を君はわかっているのか」
「真理が何ほどのものだというのです」
錬金術師はやっと答えた。それは、笑ってはいるが憎しみを含んだ声だった。
「無理に捻じ曲げられたものはやがて崩壊する。元に戻したまえ、この空間は長くはない」
クラウディースは低い、命じる声で言った。錬金術師はヒステリックな笑い声をあげ、低い位置で両手を広げた。その途端、すぅっと錬金術師の色が薄れて闇にとけていく。
クラウディースはそれを睨みつけながら、エレオノーラに鋭く言った。
「わたしの傍へ」
エレオノーラがクラウディースに寄り添うようにすると、クラウディースは彼女の肩を抱き寄せた。エレオノーラはまるで子どものように不安げに真言主を見上げる。
クラウディースはおおらかな、安心させるような、父親らしい笑みを浮かべた。
「これから起こることに、驚いても哀しんでも構わないよ。ただ、エレオノーラ、心は強く持つように。引きずられては絶対にだめだ。怒りや哀しみの中にも己を持つように」
エレオノーラがこっくりと頷くと、クラウディースはあいているほうの手を口元まで持ち上げた。そして人差し指と中指を立てたまま他の指をたたんでしまう。天を指す二本の指を唇にわずか触れさせて、クラウディースは何事かを唱え始めた。
それはエレオノーラが聞いたことのない、音の羅列だった。
とうの昔に滅んだ国の言葉なのだろうか――エレオノーラの耳に意味を成さない言葉たちは、美しい音楽でもあった。
聞いたことがないはずなのに、懐かしく、耳に優しく、心強い。
――真理ナル言葉。
記憶の奥深く、エレオノーラが受け継いだ“知識”がその正体をささやいた。だが“知識”はそこで沈黙し、その意味を語ることはなかった。
と、そのときエレオノーラの向こう側から圧倒的な質量が風をはらんで向かってきた。クラウディースはエレオノーラの肩に回していた手を外すと、掌を真っ直ぐにそちらに向ける。
エレオノーラはそちらを見る――闇から響いてきたのは、バサバサという重い羽音。
真っ赤な一つ目の巨大な黒い鳥が真っ直ぐこちらに向かってきているのだ。先ほどの風はこの魔鳥が起こしたものだった。人など軽々と捕えてしまいそうなカギ爪を持った足をこちらに伸ばしている。エレオノーラはわずかに身を引いて、声を上げた。
「卿!」
だが、クラウディースは動じない。あえて正面を向いたまま、魔鳥には目もくれずにたった一言、言葉を紡ぐ。
「“もどれ”」
一言、だが確信に満ちた言葉だった。途端、まるでなにか進路を阻まれたように魔鳥が空中で停止した。だが時が止まったかのように停止したわけではなく、本当に何かに進路を阻まれたように魔鳥は翼をバタつかせ、もがき、声を上げる。まるで掲げられたクラウディースの空いている手が魔鳥の進路を阻んでいるかのようであった。
しばらくクラウディースに押さえつけられていた魔鳥はまるで逃げ出そうとするかのように大きく声を上げ、身をよじった。
クラウディースははじめてそこで魔鳥の方を見た。
「お前はいま、あるべき姿をしていない。“真理に従え――もどりたまえ”」
彼の言葉が終わった途端、ギャアッと魔鳥は苦痛の声を上げた。クラウディースはさらに命じる。
「お前のあるべきものとしての名を当てよう。お前は“法典”だ――“あるべきものは、あるべき時に。あるべきものは、あるべき姿に”――もどりたまえ」
魔鳥へと伸ばしたクラウディースの掌から波動が生じた。それが魔鳥に達すると、どうという衝撃音がした。
魔鳥は声を上げて落下する――だがその途中、魔長の体から光が生じた。一瞬辺りを満たす闇を押しやりそうなほどに大きくなった光はやがて小さくなっていき、地面へとたどり着く頃には片手でもてるほどの大きさになっていた。
やがてばさり、と落下音がした。
エレオノーラは驚いてその落下点を見やった――あれは魔物の落ちる音ではない。もっと軽い、もっと馴染み深いものが落ちた音だ。そう、それは紙の立てる音だ。
視線の先には、やはり魔物はなく分厚い本が落ちているだけだった。エレオノーラが事態を把握しない間に、クラウディースは少し歩いて、屈んでそれを拾い上げた。
「ふむ、やはりここはもとはわたしの部屋だな――見たまえ」
クラウディースはエレオノーラの元にもどってきて彼女に拾い上げた本を渡した。それはローランド皇国の現行の法を記した分厚い本だった。
「ローランド皇国法典の書……」
「わたしの仕事道具にして相棒にして、まぁ時には乗り越えるべき障害となるものだな、それは。たしか先ほどまで書斎の上に置いていたはずなのだが。
しかしわたしの敵ではない。わたしを攻撃するなど笑止千万」
からからと笑いながらクラウディースは言う。エレオノーラは分厚い法典を見下ろしながら言った。
「錬金術師は前に土や木を剣に変えていました――“作る”という作業なしに。
たぶん同じことをしているんだと思います。本を魔物にして、攻撃させた」
「なるほど」
そこでクラウディースはあたりを見回し、ふむと言った。
「どうやら彼はその“術”をこの部屋のすべてに行き渡らせたようだな。
さすがにこの術を破るのは骨が折れる――できないことはないが」
「どうしましょう」
エレオノーラが言うと、クラウディースは顎をつまんだ。そこへ、今度は先ほどとは逆方向から獣の雄たけびが聞こえてきた。クラウディースはエレオノーラを背中に庇い、一歩前へと出る。
闇から怒り狂った黒い雄牛が踊り出てきた。見たこともないほど巨大な雄牛は、危険な二本の角を振り立ててこちらに突進してくる!
エレオノーラが驚いて身を固くする間に、クラウディースは冷静に再び片手を掲げていた。すると雄牛もまるでその手に阻まれたかのように進めなくなる。足を踏ん張り、見えない壁を突き壊そうと角を突き出し、地面を蹴る。
クラウディースの手もそれに合わせて一瞬だけ押し返された。だが、彼はふっと口元で笑うとまた言葉を紡いだ。
「正体みえたり――お前は“人をくつろがせる物”だ。もどりたまえ、それはお前の得意なことではない。“もどりたまえ”」
するとこちらもやはり、魔鳥と同じように体が光り始めた。雄牛は苦しげに身もだえし声をあげたが、次第に光に包まれていく。そして、最後にドスンと音がして光が去った。
――みれば雄牛がいた場所にはエレオノーラがつい先ほどまで座っていた応接用の椅子が横倒しになっていた。エレオノーラは唇を引き結んだ。
「ふむ、あれは牛革だったからなぁ」
ことさらのんびりとしたクラウディースの声にエレオノーラは一瞬きょとんとした後、ふと覚えた緊張を忘れて噴き出した。
クラウディースも笑みを返す。そして再びあたりを見回しながら、彼は言った。
「まずは錬金術師どのに疲れてもらうしかあるまい。彼が無尽蔵の気力を持っていなければ、いずれこの部屋はもとにもどるだろうからな」
その言葉の終わりに、何かの咆哮が被る。クラウディースは肩をすくめた。
「私も少し気合を入れなければならんか。――まずは格好から入ろう」
すると彼は虚空に手を伸ばした。
「何をなさるんです?」
「ここは私の書斎だ。と、すると、あれがあるはずだ――彼に盗られていなければ」
エレオノーラは少し首を傾げてその手を見る。しばらく虚空をさ迷ったクラウディースの手が、ふいにぴくりと反応した。そして彼はそのまま、まるで闇のカーテンを引くようにくぃっと手首をひるがえした。
次の瞬間、衣擦れの音がして闇が形を成した。
クラウディースは動きのままそれを身に寄せて、肩に回す――彼の肩に掛けられたのはなにものにも染まらぬ黒の法衣だった。
「これがわたしの戦闘服だ」
法衣に袖を通しながら、にっこりと笑ってクラウディースは言った。
エレオノーラは驚いて問う。
「どうやってこの何も見えない空間からそれを探し出して、しかも手に取ったんですか?」
「彼はこの空間に“術”をもって“意志”を行き渡らせている――少し真似をしてみたんだが、思いのほか上手くいったよ」
エレオノーラは目を見開く。クラウディースは苦笑した。
「もちろん、普段はこんなことはできないよ――わたしは“宇宙の背骨”従うものだ。
彼が空間を歪めているからこそできることだよ」
「錬金術師の術に便乗したんですか!」
「端的に言うとそうなるかな」
エレオノーラは真理がクラウディースに復讐をしないか心配になった。だが、クラウディースは超然としている。
「エレオノーラ、真理は復讐などしない。人格を持たないから。あるべきものをあるべき姿へとただ戻すだけなのだ――然るべき時にね」
エレオノーラは考えが読まれたことにまた驚いたが、すぐに気を取り直した。
「……そういうものでしょうか」
「いつか理解できる日が来る」
納得しかねる顔のエレオノーラにクラウディースはただ笑う。それから虚空に鋭い視線を投げた。
「さあ一戦交えよう、錬金術師殿」
その言葉を合図にしたように、四方八方から異形となったものどもが“真言主”と“邪王の娘”に踊りかかった。



「くそっ、廊下が穴だらけだぜ兄貴」
廊下を駆けていたルキウスが足元の穴に気づいてあわてて立ち止まる。
その傍には石くれが小山になっていた。
「庭師の誰かが魔物を倒したらしいな」
マーカスが小山を見て言う。エンキは青竜偃月刀を片手に辺りを見回した。もちろん、両手にはエレオノーラからもらったグローブがはめてある。
「ここに気配はしないな、非難済みか移動したか……」
「だいたいの人間には伝え終わったと思います」
二人が話している間に、サーベルを腰に下げたルキウスが廊下の穴の縁に屈みこむ。
「修理費計算するのが恐ろしいよ、オレは」
「魔物が出ているのは廊下だけなのが唯一の救いだろう。家具に被害はないしな。
……エンキさんが魔物に叩き付けた花瓶以外」
「値段は聞きませんよ」
エンキが引きつった顔で言うと、マーカスとルキウスは顔を見合わせて肩をすくめた。
「弁償は今はともかく、父とエレオノーラを探さないと」
「やっぱ書斎かな」
「だろうな」
三人は顔を見合わせて頷いてから、屋敷の主であるランドマール伯爵タイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースの書斎へと急いだ。



椅子、石の胸像、ペン立て、ペーパーナイフ、チェスト、応接用のテーブル、机の抽斗数個、そして幾冊もの本。
まるでエレオノーラとクラウディースを中心とする円を描くように、それらの品々は彼らの周りに転がっていた。
いずれも錬金術師によって魔物へと姿を変えられ、そしてクラウディースに元に戻された物たちだ。
一度真言主に“もどる”ことを命じられると、品々たちは二度と変身することはできないらしい。
エレオノーラは唖然としてそれらを見回していた。
「……なんて数を操ってるの」
「やれやれ、こうも散らかしては片付けが大変だ。しばらく仕事にならんな」
かりかりと頭を掻きながらクラウディースは言う。緊張感のない台詞にエレオノーラはまた唖然とする。しかしクラウディースは気にした風もなく、辺りを見回す。
そして彼の視線がひた、と一点に集中した。
「また、くる」
エレオノーラはその言葉に思わず身構えた。ずん、と重い足音が聞こえてくる。
近づいてくるにつれ足音はどすん、というさらに重い音に変わる。
やがてそれは暗闇の中からぬぅっと姿を現した。
天まで頭が届こうか、という半裸の巨人が二人を見下ろしていた。禿頭の頭、顔には目が一つきりしかなかった。肉厚の掌と足。腕など人の胴体ほどあるのではないかという太さ――エレオノーラは思わず後ずさった。
クラウディースは顎を引き、表情を引き締める。
巨人がそんな二人を見下ろし、にたぁと笑った。口元が弓なりにゆがみ、一つきりの目がこれ以上ないほど細くなる。
そして前置きなく巨人は腕を振りかぶった。その後の動きを予測して二人は飛び退る――直後、二人がいた辺りに巨人の拳がめり込んでいった。どすん、とだけでは表現しきれない破壊音が轟いて、闇に落ちた地面から何かの破片が飛び散る。二人の踏む地面にも振動が伝わってきた。
「卿!」
エレオノーラは巨人を挟んで向こう側に行ってしまったクラウディースに声を投げた。その声に巨人は一瞬だけ一つしかない目を彼女に向けたが、すぐに反対に頭を向ける。そしてそちらを向いたまま、ぐいっと地面にめり込んだ拳を引き抜いた。
そしてずん、ずん、と足音をさせてクラウディースのほうに向き直る。エレオノーラから真言主の姿は隠されてしまった。
「卿!」
エレオノーラが今一度声をかけると、クラウディースは穏やかに声を張り上げた。
「心配しなくていい、同じことだから」
今度は巨人は手を組んで頭上に振り上げ、まるで斧のように振り下ろした。
クラウディースは法衣の裾をはためかせながら一歩引いた。再び巨人の手が地面にめり込み、砕けた地面の欠片が飛ぶ。
クラウディースは両手を顔の前で合わせ、ふたたび音楽のような言葉を語り始めた。巨人はその言葉を聞き、暴れるように頭を振り身をよじらせた。そして怒りくるって地面から手を引き抜くと、重いがそれなりに早い足取りでクラウディースに突進していく。クラウディースは巨人に体を向け言葉を唱え続けたまま足を動かして移動する。だが巨人が振り回される武器のように腕を横に振るったときにそれは途切れてしまった。逃げることに集中しなければならなくなったからだ。
「ああ、落ち着いて詠唱できんな」
エレオノーラはその間に指先を合わせて三角形を作りそこへ息を吹き入れた。
ボッと音を立てて炎が立ち上がる。
彼女はそれを右手の掌に宿すと、勢いをつけて振りかぶりそれを巨人の背中へと向けて放り投げた。
炎は巨人の背にたどり着くと、わずかにそこに生えていた体毛を伝って芸術的に背中の隅々にその大きさを広げた。巨人はあわてて立ち止まり、長い手を背中に回して炎を消した。
そして、巨人はぐるっと勢い良くエレオノーラを振り返った。その一つ目は怒りに血走っている。
エレオノーラは片足を一歩引きつつも、両手を天に向けてそこへ再び息落とした。小さな炎の柱が立つ。
エレオノーラはそれをかざして巨人を牽制する。炎が空気を焼く音が響く。
巨人は腕を振り回してじりじりと迫り、エレオノーラは後ずさる。
そうしながら彼女はまた炎に息を吹きかけた。息は風となって炎を孕んで巨人を襲った。だが巨人は毛むくじゃらな腕でそれを打ち落としてしまう。
風は失速し、炎は落ちながらとける風花のように消えていった。
その間に、クラウディースは巨人の背中に向けて“弓を引き絞っていた”。
無論、この空間に弓も番える矢も存在しない。あるのは闇だけなのだ。
しかし片足を引き、地に両足を踏ん張り、左腕を前方へ右腕を後方へと力強く引くその姿勢は矢を番え弓を引き絞っているようにしか見えない。
そして口は、真言の音楽を紡ぎ続けていた。
やがて真言は霜となり露となり、彼の周りに集まり形を作り出す。形は彼の左手の中で黄金の強弓(こわゆみ)に、右手の中では純銀の嚆矢(がふらや)となった。
エレオノーラは相変わらず後ずさり、巨人は彼女に向けて腕を振り回し続けていた。
真言主はその巨人の背中にぴたり的を定めた。
嚆矢が美しく輝きだし、すっと放たれた。
流星のように輝く尾と笛の音を引き連れて、矢は意外なほど優雅に的に到着し、吸い込まれるかのように巨人の体内へと消えていった。
だが鏃の先が触れた途端、巨人はまるで焼き鏝を押し付けられたかのように飛び上がった。
エレオノーラはぱっと炎を収めてさらに後ずさった。
巨人はエレオノーラなど構いもせず、地団駄を踏み、暴れまわる。そのうちに大音量をさせて背中から倒れこみ、のた打ち回り、やがて四肢は力を失いだした。ぐったりとなり喘ぐような呼吸をし始めた巨人に、クラウディースは法衣の裾をさばいて近寄った。
傍らに来たクラウディースが黙って見下ろしていると、巨人はウウ、と哀れな声を出した。クラウディースは暖かな笑みを浮かべると、静かに言った。
「お前は“本棚”だ――もどりたまえ、真理に従うものよ」
すると倒れた巨人の体が銀色に輝きだし、その光が一瞬だけ闇を蹴散らした。
エレオノーラが眩しさに一瞬目をつぶり、また開けたときにはクラウディースの足元には大きな本棚が倒れているだけだった。――だが中に納められている本はめちゃくちゃになっている。
エレオノーラはそれを覗き込んだ後、目を見開いてクラウディースを見やった。
クラウディースは苦笑している。
「片付けるのがさらに大変になったな」
エレオノーラはその言葉に苦笑で返す。そこへ、気配が忍び寄った。
クラウディースは手を差し出し、エレオノーラを招きよせる。
数歩先の闇から、金と銀の色が浮かび上がった。錬金術師は紳士の礼をする。
「お見事です――真言主」
「そうか。ではここを元に戻してくれるのかな?」
クラウディースが胡乱げな声で言うと、錬金術師はにっこりと口元をゆがめた。
「元に戻すと思いますか?」
「それは言われると思っていた」
クラウディースが間髪いれずに答えると、錬金術師は笑みを深めた。
「手間が省けました――では次は趣向を変えましょう」
錬金術師はまた闇に溶けた。途端、強烈な風が吹きつけてきた。
冷たく、体の芯まで凍えてしまいそうな風だ。クラウディースの法衣の裾が音を立ててはためき、エレオノーラの柔らかな髪がいたぶられる。そして、彼女の靴の底が地面と擦れてずず、と音を立てた。エレオノーラは驚いて足元を見下ろした。
「エレオノーラ、手を!」
娘が風に流されはじめたことに気づいたクラウディースは手を伸ばした。エレオノーラも手を伸ばすが、そこで風が再び強くなった。飛ばされてきた一冊の本が彼女の手を打ち払う。その弾みで邪王の娘は体の均衡を崩し、風に寄りかかってしまった。
狂った冷たい風が捕らえた!とばかりに踊り狂った。
「おじさま!」
「エレオノーラ!」
見えない巨大な何かの手に捕らえられたかのごとく、エレオノーラは闇に引きずられていった。そして彼女は闇に飲み込まれ――クラウディースは静かな空間に取り残された。

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