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「魔法使いと記憶のない騎士」
第五十三話
誘惑の声
―懐かしい景色―

使用人頭がてきぱきと部下たちに命令を与え、年若い使用人たちは怪我をした庭師や警備の者たちに包帯や冷やした布切れをあてがっていく。
ランドマール伯爵夫人の部屋は屋敷の者全員を閉じ込めるには少々手狭だったが、続き間であるクラウディースのための副寝室へと繋がるドアも開け放すと二部屋で十分な空間が確保できた。使用人の中には、魔物よりも主人の寝室に居座ることに怯えているものもいた。
部屋の入り口では怪我をしなかったものたちが見張りに立っている。
しかしながら全員が魔物を避けてここに避難して以来、あたりに魔物は現れてはいなかった。つまり、ヴィプサーニアの部屋の周囲は屋敷の中でどこよりも安全な場所になっていたのだ。
ヴィプサーニアはベッドの上に身を起こし、使用人たちの様子を眺めている。泣き出した者がいれば慰め、使用人頭が判断に困る所は彼女が判断し、指示する――それが彼女の仕事だった。
ローランド皇国屈指の名家クラウディースの当主の妻は、ここにおいて夫がなくともその名に恥じぬ働きをしていた。
やがて、執事が最後の庭師と一番年下の女の使用人を連れてもどってきた。
「これで全員でございます」
「マーカスたちはどうしましたか」
「旦那さまとエレオノーラさまを探しに。おそらく書斎かと思われますが……。一番大きな魔物が立ちふさがっているのです」
「大丈夫かしら……」
コルネーリアが母の傍らで不安そうな声を出した。ヴィプサーニアはコルネーリアの頭を撫でる。
「エンキさんがいれば百人力かもしれませんよ。それに、お父様は強いですからね」
「問題はルキウス兄さんが足引っ張ってないかだけど」
アウレーリアが言うと、ぷ、とどこかで使用人が小さく笑うのが聞こえた。
ヴィプサーニアも笑いかけ――ふと、下腹部に触れた。なにか違和感がある。
その様子に気づいたのか、コルネーリアが母を覗き込む。ヴィプサーニアは笑って見せた。
そして、一人自分に言い聞かせる。
――余計な手間や心配は増やさせはしないわ。私はランドマール伯爵夫人よ。
つま先から始まった病が加速したことに、彼女だけが気づいていた。
伯爵夫人は背筋を伸ばし、凛とした声で言った。
「皆さん、お茶でも飲みましょう。とっておきの葉があるのです――大勢の方がきっと美味しいでしょう」
そして、備え付けのティーセットを優雅に指し示した。使用人たちの間から、嬉しげな声が上がった。
しかし、お湯はどうしたものだろう?ここには主人のために水は常備されていたが、それを沸かす道具がない――だがそれもすぐに解決した。
幸いにも誰かがなぜか持ってきていた――おそらく恐慌(パニック)の神の悪戯だろう――湯沸しの魔法具があったのだ。年若い使用人が恥ずかしげにそれを取り出すと、部屋はどっと笑いにつつまれた。
ランドマール伯爵夫人ヴィプサーニア=レイン・クラウディースは満足げにその様子を見渡し――腹部をそっと抑えた。



「これは参ったな、この部屋はそれほど広くないはずなのだが……。エレオノーラをどこへやった?」
暗闇に一人残されたクラウディースは闇に問うた。もちろん、応えはない。
「探しに行ってもいいものか……」
無闇に動くのは危険に思われる。だが、エレオノーラを一人にしておくのも同じくらいに危険にクラウディースには思われた。しばし考えた後、クラウディースは歩きだした。
途中、彼は“歩くことが出来るヴィプサーニア”に出合ったり、懐かしいランドマールの本邸に行き着いたりしたが、どれも真理を知る“真言主”を惑わせるほど強い誘惑をすることが出来なかった。
ヴィプサーニアに良く似た“なにか”は、彼に恋人時代の二人の甘い呼び名のことについて尋ねられると答えに窮し襲い掛かってきた。しかし、その攻撃も真言主にとって何ほどのものでもなかった。
「彼女は昔、わたしの名前を知らなかったとき、初めての贈り物にちなんでわたしを“霞草の君”と呼んだのだよ――今でも時々、呼ぶがね」
彼を惑わそうとしたものが消えたとき、クラウディースはひとりごちた。
しばらく歩いた後、ふとクラウディースは足元を見た。見れば、先ほど彼が元に戻した物たちが散らばっている。目に付くのはさきほど大きな一つ目の魔物になって襲ってきた本棚だ。
――はて、さきほどここの傍から歩きだしたはずだが。
クラウディースは倒れた本棚を見下ろしながら首を傾げ、辺りを見回した。
「……一周して戻ってきたか、あるいは“歩いているつもり”であったか」
クラウディースはため息をついて、再び足元に散らばる物たちを見下ろした。そしてその中のひとつに目をつけ歩み寄る。彼が屈んで取り上げたそれは、先ほど魔鳥となって襲ってきた法典だった。
「わたしも真似をさせてもらうぞ、錬金術師殿」
クラウディースは一言そう言うと、また音楽のような“真理ナル言葉”を紡ぎ始めた。
紡いだ言葉は法典を取り囲み始める。辺りに言葉が満ちると、クラウディースはひょいとそれを放り上げた。重いはずの法典は彼の頭より高く投げ上げられ、暗い中空で太陽のような光を放った。暗闇を蹴散らす光に、クラウディースは目を細めもしない。
その代わりに彼は軽く拳を作った片手を腕ごと高々と掲げる。掌を下に向けて誇り高く挙げられた腕に、太陽が降りてくる。高度を下げるにつれ、小さな太陽は形を変えていった。
小さな太陽はクラウディースの腕に触れるほどに降りてくると、まるで翼のようにその光の一部を美しく広げ辺りを照らし出した。
やがてその光は収まってゆき、太陽は消え再び辺りが闇の支配下となる。
その時には、クラウディースの掲げられた腕には一羽の美しい大鷲がとまっていた。
クラウディースは満足げにその大鷲を撫でてやると、忠実な目をした猛禽にそっと命じた。
「エレオノーラを探してきておくれ、偉大なる言葉のうちで翼を持ったものよ」
大鷲は一声高く鳴くと、さっとクラウディースの腕から飛び立った。大鷲は高く高く飛んで行き、やがて闇に埋もれるように消えていった。
クラウディースはそれをしっかりと見届けると、さて、と言った。
「ここはわたしの部屋だから、研究まがいの続きもできるだろう。……まずは道具探しだからだが」
そうして彼は、ため息をついて散らかった品々を眺めた。



「う……ん」
風に流され、いつの間にか気を失ったエレオノーラは地面に倒れ伏していた。
――土のにおい。
――風のにおい。
彼女の感覚をはじめにくすぐったのは懐かしい“におい”だった。
――緑のにおい。
彼女は倒れ伏したまま、目を開けた。
視線の先に、地面に落ちる木漏れ日。
頬に触れる優しい冷たさの地面。
彼女は大地を掴んで立ち上がった。
「んしょっ……」
――ん?
立ち上がるとき、口からこぼれたのは予想外に幼い発音と幼い言葉だった。そして、立ち上がるにもいつもよりも多くの所作を必要とした。掌、ひじ、足首、すね、ひざ、足の裏、足の裏もう片方、足の指、指の付け根、指の腹、指先……全身を使って起き上がる。まるで器用な立ち上がり方を忘れてしまったかのように。初めて転んで起き上がるように。
だが、彼女は自分自身の身に起きた奇妙な変化よりも辺りの景色や空気が気になった。
――懐かしい、土のにおい、空気のにおい、緑のにおい!
エレオノーラはくるりと回って辺りを見回した。
――白い幹、黒い幹、茶色い幹。
――年取った木、若い木、中くらいの木。
――濃い葉、薄い葉、黄色い葉!
彼女はそれらに見覚えがあった。
「ラボレムスの山だわ……!」
そこは深い森だった。
そしてそれはエレオノーラには見覚えのある、懐かしい彼女の故郷ラボレムス山の森だった。
におい、空気、雰囲気。言い表しがたいが、たしかに彼女にはわかる。ここはラボレムスの山だった。
エレオノーラは手近な木に近寄って、その幹に手を当てた。
あたたかい木の感覚。これも懐かしい、ラボレムスの山のものだった。
――……あれ?
だが今度は彼女はそれよりも、幹についた己の手が気になった。
小さい。
指が短く、全体的にぷっくりとしている。そして何より、肌がつやつやしていて美しい。
エレオノーラは思わず幹から手を離して、目の前にそれを広げた。
確かにそれは、子どもの手であった。
次に彼女は先ほどまで手を付いていた木を見上げた。とても背が高い。大きい。
周りを見渡すと、そんな大木がたくさんあった。
――変ね……この山にそんなに大木はなかったはずよ。
エレオノーラは木々の天辺を見上げた。すると自然、次に空へと目が行く。
「高い……」
空が高かった。彼女は呆然としたように呟く。青い空が、信じられないほどに――同時に懐かしいほどに高かった。
それはここ何年も見ていない、そしてこの先ずっと見ることはないだろうという空の高さだった。
木々がつくる天井にあいた天窓――見える空はそんな構図だった。その空を、鳥が一羽横切る。あれはなんの鳥だろう、とエレオノーラの意識が逸れかけた時、ふと誰かの声が彼女の耳に届いた。
「エレオノーラ」
優しい男の声。同時にやはり、懐かしい声だった。エレオノーラは驚いて振り返る。だがその動作もどこか上手くいかない。体に上手く意志が行き渡っていない。いつもより多くの動作で彼女は振り返った。
そして、彼女は見上げる。
男が一人立っていた。
逆光で顔が良く見えない。
だが、彼女にはわかった。
「父さん……!」
男が笑う気配がした。そして彼は屈んで腕を広げる。エレオノーラは反射的に駆け出した。
足がもつれる。走りながら、彼女は頭のどこかで状況を悟った。
――私、子どものころの大きさになっているんだわ。これは夢かしら、それとも思い出……?
走りながら思わず両手を差し出すと、彼女の“父”はしっかりとそれを受け止めた。そして、彼女を抱き上げてくるりと回る。
相変わらず、彼女には“父”の顔は逆光で見えなかった。
「父さん!」
だがそれでも彼女にはわかる。これは“父さん”だ。
「エレオノーラ」
少しだけ低い、優しい声。懐かしい声だった。もう十年も聞いていない声だった。
“父”は彼女をしっかりと抱きしめた。エレオノーラは思わず“父”の肩口に顔をうずめる。
――父さんのにおい。父さんの暖かさ。
五感が知っている、たしかにそれは十年前に死んだ彼女の“父”と同じものを持っていた。
だかふと、彼女の頭の理性が疑問を投げかける。
――これは夢なのかしら?だとしたら、私はどこで眠っているのかしら……?
その時、不意に“父”が少しエレオノーラから体を離した。そして腕の中の“娘”を見下ろす。だがその顔は、なぜか“父”の頭の後ろから射してきた光によってまたしてもよく見えなかった。エレオノーラは目にささったかのような眩しさに思わず目を細める。
「探したんだぞ、エレオノーラ。母さんも心配している、さぁ帰ろう」
そう言って、彼は“娘”を地面に下ろした。エレオノーラは再び“父”の顔を見上げたが、やはりよく見えない。一番近くに来たときも、なぜか父の顔は彼女には見えなかった。首を傾げながらも、彼女は素直に答えた。
「うん」
そうして、“父”と手を繋ぐ。“父”はしっかりと彼女の手を握り返してきた。
――心地よい夢ならば、身を任せても構わないのかしら……。
彼女の理性は眠りたがっていた。そして、“大人”の彼女はどこかで眠ってしまった。



――遠くで何かが嗤う気配がした。

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